妖精王
シャイードが意識を取り戻したとき、アルマの端正な顔がいきなり間近にあった。
「おわっ!」
慌てて彼から離れようと後退り、……支えの右手がベッドの端を捉え損ねた。上半身が逆さまになだれ落ちる。
両腕が左右に広がり、床に張りついた。起き上がろうにも目眩がして、力が入らない。
「何をやっておるのだ、全く」
ベッドを回り込んできたアルマが、逆さまに見下ろしている。
「うるせー! お前こそ、いきなり心臓に悪いだろうが!!」
「汝の意識が戻りそうだったから、見ていただけだ」
言葉通り、心臓が早鐘を打っている。異形の魔導書に対する恐怖は、まだ少しも和らいでいないようだ。
アルマは制約上、自分に従うと分かっている。
だが野生の獣が炎を恐れるように、人間が暗闇を恐れるように、こればかりは本能的なものでどうしようもない。
異形の瞳に、全ての存在を喰らい、無に還すごとき深淵を感じるのだ。
シャイードはアルマが伸ばしてきた片手をしぶしぶ取り、ベッドの上に身体を持ち上げて貰う。貧血で頭がくらくらした。
ここはシャイードが今朝まで使っていた部屋だ。着ていた衣服は脱がされ、生成りの貫頭衣を着せられている。慌てて胸元に手をやり、ペンダントを握り込んで安堵した。
今、部屋にはアルマとシャイードの二人だけである。
いや、フォスがいた。
フォスはシャイードの足元の辺りで、ベッドにちょこんと乗っている。
なんだか元気がない。
「フォス」
シャイードが片手を伸ばすと、フォスは迷ったように揺れた後、遠慮がちにその手の上に乗った。シャイードはフォスを撫でる。鳥の羽毛の一番柔らかいところだけを集めたような、ふわふわしておぼろげな、淡い感触が返った。
そこで気づいたが手首には、未だに手枷がある。
芯に鈍い痛みの残る頭で、シャイードはぼんやりと思い出してきた。
「俺……、そうだ。アルマ、裁判はどうなった?」
アルマは再びベッドを回り込み、元の場所に戻ってきた。
ベッドサイドに置かれた低い椅子に腰を掛ける。両手を組み、じっとシャイードを見つめた。その表情からは、答えが全く汲み取れない。
「どうなったと思う?」
「いいから勿体ぶらずに教えろ」
「判決は明日に延期された。汝が重傷を負ったからな」
「ハッ。こんなの、怪我の内に入らねーよ!」
シャイードが片手をひらりと振って強がる。
「だろうな」
アルマが手を伸ばし、一番重傷の左脇腹をぐいぐいと押した。
「ここまで運んできたときには、もうあらかた傷口は塞がっておった。知ってはおったが、ドラゴンの再生能力は強力だ」
ぐいぐい。ぐりぐりぐり。
「イデッ……イダダダダ!! 確認はいいが、少しは容赦しろ……! 完治したわけじゃねぇぞ!」
アルマは漸く手を離す。
槍状の触手によって穴を開けられた場所には包帯が巻かれていた。が、どれも出血自体は既に止まっている。
「妖精界は魔力が濃厚だからな。怪我の治りが早くて助かる。てか、お前が運んでくれたのか?」
シャイードは意外そうな顔をした。アルマは無表情で頷く。
「その貧相な腕で?」
「汝は小さくて軽いからな」
「はー!? 今、なんつったこのやろう! イテテ……、これ傷口開いたんじゃねぇか! アルマ!?」
さっきのぐりぐり、なんか力一杯だった気がする。
シャイードが涙目になると、アルマは何となく嬉しそうに見えた。いや、表情は先ほどから全く変わっていないから、やはり気のせいだろう。
「存外、元気そうだ」
「……うっせー」
シャイードは視線を逸らし、舌打ちした。頬がほんのり赤い。
フォスはふわふわと漂い、シャイードの右肩の上に場所を移す。そこにも怪我がある。心配そうに明滅していた。
シャイードは眉尻を下げる。
「フォス、お前は気にしなくて良いよ。……悪いのは全部コイツ」
魔導書を親指で示して述べた後、シャイードは視線を落としてため息をついた。
左手の人差し指で小さな円を描くように、フォスをつつく。
「違うな……俺だ。イ・ブラセルでのこと、……悪かった。お前、それでも俺についてきてくれたんだな、フォス。全部知りながら」
フォスは何も話せなかったが、シャイードの指にふわふわと絡みついた。シャイードはその様子に、心を慰められる。
(アルマにも何かを言うべきだろうか)
視線を落とし、シャイードは考える。頬に視線を感じるが、今更ながらに醜態をさらしたことが思い出され、まともに彼の顔が見られない。
(いーや、やっぱ駄目だ。弁護はともかく、こいつがビヨンドを呼び寄せたから怪我をしたんじゃねーか! 礼なんか、言ってやるか)
シャイードは口をへの字に結び、鼻を鳴らす。
扉の開く音がした。
「よーせーおーー! オイラだよ。ご飯持ってきたよー!」
入って来たのはロロディだ。いつものように、料理が載ったカートを押している。
シャイードはそちらへと視線を巡らせた。
「よう、ロロ。待ってたぜ。怪我をした後は、腹が減って仕方ないんだ」
その後、シャイードは首を伸ばし、ロロディの背後を伺う。
「……? 妖精王も一緒なんじゃないのか?」
扉はひとりでに閉まり、誰かが続く気配もない。
返事がないので振り返ると、ロロディが奇妙な顔をして見つめていた。シャイードはアルマに視線を動かす。魔導書はすまし顔だ。
何か妙な感じだ。いつもなら、疑問を放置する奴じゃない。つまり何ら疑問などなかったと言うことだ。
(ロロが”妖精王”と言ったように思ったが、聞き違いだったか?)
「シャイード、何言ってるの?」
ロロディは皿をカートから降ろし、テーブルに並べながらちらちらとシャイードを伺っている。
「何って……、ロロが妖精王って言ったように聞こえたから、一緒に来たのかと思ったんだが」
「やだなぁ。だから、今はシャイードがその妖精王じゃないか」
フォーンの少年が、あまりにも当然の口調で言うものだから、シャイードは納得して首を縦に振りかけ……、止まった。
「え? ……は!? 俺が妖精王ってどういう……」
助けを求めるように、アルマを見る。
「……冗談?」
アルマは黙って首を振り、部屋の隅を指さした。棚の上に、シャイードの装備が置かれている。ボディバッグと二振りの剣と、そして場違いな流転の王笏までもが。
「なんでここに王笏が……?」
やれやれ、とアルマが棒読みで口にし、息をついた。
「汝は先代の妖精王に『王笏を寄越せ』と言った。先代の妖精王は了承して、汝に王笏を渡した。これによって、王権はつつがなく移譲されたのだ」
シャイードは耳を疑う。ロロディがそばまで来て、固まっているシャイードの金の瞳を覗き込んだ。
「オイラ、前にそう言ったよね? 王笏を持つ者が、妖精王なんだって。何が不思議? シャイード」
「待ってくれ! 何か誤解がある。俺は、王笏をただ、ちょっと借りるつもりで」
シャイードは混乱しつつ王笏とロロディの顔の間で視線を往復させた。
アルマが主に向けて指を突きつける。
「汝、間違っておるぞ。返すつもりなら、『貸せ』と言えば良かったのだ。だが、汝は確かに『寄越せ』と言っていた」
「なんか聞き覚えのあるフレーズだな、おいぃ!?」
シャイードは悲鳴を上げ、治癒したばかりの脇腹の傷が開いた。