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ある冬の2人の話

作者: L'Arc-en-Ciep

夜21時。いつものように残業をこなし、会社を出る。

この業界は残業が多い。もう慣れっこだ。

今日は部長の機嫌が良かったみたいで早く上がれた。

「いつもより早めに帰れるな。」

生暖かい独り言は白く形になって少し留まって消えた。


「今日はツイてるな、僕。」


僕は 物欲 というものが少ない。とても少ない。

趣味なんてないし、オシャレはおろか、外出すらも珍しい。

毎日仕事をこなしては、家に帰る。寝る。また仕事。そんな繰り返し。

はたして僕は 人生 とやらを楽しめているのだろうか。

彼女もいないし、友達とも、気づけばLINEすらしなくなった。

先月にはボーナスも入ったのに。金は貯まっていく一方だ。


「俺は10万円分物買って経済を回す」


どこかのお偉いさんはそう言った。

たしかにそうだ。社会で稼いだ金を社会に使って経済を回す。そうして国は、人間社会は発展していくんだ。


「たまには背伸びしてみるか。」

そう思い、帰り道、いつも横目にしていた洒落たレストランに入った。


カランカラン。

小気味いい音色が店内に響き渡った。

音に気付き、奥から女性店員が出てくる。

「いらっしゃいむせ…」


(噛んだ。今確実に噛んだよな。

鈍感で有名な僕ですら気付くぐらいガッツリ「むせ」って言ったよな。新人さんなのかな。)

色々考えつつ、店員に着いていき、席に着いた。

「メニューがお決まりになりましたらそちらのベルを鳴らしてお呼びくださいむせ…」

笑顔の彼女はそういうとそそくさと裏に戻っていった。


メニューには美味しそうな料理が目白押しだった。

だけど今はそんな事、どうだって良かった。

「いらっしゃいむせ…」

噛んだあの子の事が頭から離れない。

噛んだことが可笑しかったから?

いや違う。

噛むことは誰にだってあるし、別に面白いなんて思わなかった。

そう、頭から離れない理由なんて最初から、思い浮かんだものはひとつしか無かった。

僕はあの子に一目惚れしたんだ。実際可愛かったし。ムラムラしてきたし。

あんな可愛い子が近くにいたんだ。


「今日はツイてるな、僕。」


チリンッ。

僕は無意識にベルを鳴らしていた。


「ご注文をお伺い致しむす…」

また同じ店員がまた同じ笑顔で駆けて来た。狙い通りだった。

頭で考えるより先に、声帯が独りでに震えた。


「連絡先、教えてください。」





**************************





「この幸せな時間が、永遠に続けばいいのになぁ。」

ドラマでしか聞いた事のないようなクサい言葉は冬の寒風に連れ去られていった。


第1志望の大学を合格して、イケメンな彼氏も出来て、優しい両親に恵まれた私は今、幸せの絶頂にいた。


はずだった。

あの日が来るまでは。




母は毎日、学校に車で迎えにきてくれていた。

そして母はその日も、いつものように、私を乗せるために学校に向かっていたらしかった。

午後5時。

警察から電話があった。




駆けつけた時にはもう遅かった。

赤信号を無視した大型トラックとぶつかって。その運転手は逃亡中でまだ見つかっていない。母は即死だったそうだ。

さらにその出来事に父は病み、仕事が手につかなくなり、そのまま自殺した。

突然すぎた両親の死を受け入れられない私は勉強も手につかずに成績は落ち、精神は不安定になって彼氏に当たってばかり、いつしか彼氏とは連絡もつかなくなった。


ドラマでしか見た事のないような絶望が、まさか私に降り掛かるなんて思ってもいなかった。

行く宛てのない私はとりあえず祖母に引き取られた。

が、祖母の年金で生活していくのは申し訳なく思い、レストランでバイトを始めた。


「高級レストランのくせに低賃金だな。」


こんなに性格がねじ曲がってしまったのはあの日からかな。

いや、元々そうだったのかもな。

必要のないことばかりを頭に浮かべながら毎日バイトをこなす。

いつしか大学に出席することもなくなっていた。





今日もいつものように接客をこなす。


カランカラン。

ドアを開ける音がした。

立っているだけで給料が発生するのに、この音が鳴るとバイトをしなきゃいけない。嫌いな音だ。


そこにはこれまでに見たことないぐらい、

20年しか生きてないのに「これまで」なんて使うと怒られるかもしれないが、本当に、冗談抜きに

これまでに見たことないぐらい顎の長い中年男性がそこには立っていた。

「いらっしゃいむせ…」

笑いを堪えるのに必死で噛んでしまった。

後を引く笑いと闘いつつ、男性を席に案内した。


「メニューがお決まりになりましたらそちらのベルを鳴らしてお呼びくださいむせ…」


堪えきれなくなる前に急いで裏に戻った。


考えてみれば、あの日。最悪な日々の始まりになったあの日から、ろくに笑えてなかった。

そんなにすぐに立ち直れると思っていなかった絶望は、あの長い顎で打ち砕かれた。


「私を、こんな私を、笑顔に出来るのなんてあの人しかいないのかもしれない。」


チリンッ。

私は音の鳴る方へ走った。

またあの人が。

またあの人の顎が見たくて。


「ご注文をお伺いいたしむす…」

何回でも笑えるその顎に耐えていた私に、思ってもみない言葉が飛んできた。


「連絡先、教えてください。」


何この男。会ってまだ数分なのに何この男。


最初はそう思ったけど、あの日から初めて、私に笑顔を取り戻してくれたのはあの人。

あの人なら、あの顎なら幸せにしてくれるかもしれない。


「ぜ、ぜひ!!」


頭で考えるより先に、声帯が独りでに震えた。








**************************






あの日。

背伸びして顎伸びしてレストランに寄ったあの日。

あの日から僕達は恋人。

思い切ってみるもんだ。人生捨てたもんじゃない。

あの日から僕は毎日が充実だ。



いつだっけな。

仕事中に事故起こして会社のトラック凹ませて。部長に死ぬほど怒られたことあったな。あの軽の、中の人大丈夫だったのかな。

まぁ、僕にはもう関係ないか。警察にも世間にも、バレてないみたいだし。


はぁ。。。



「やっぱりツイてるな、僕。」




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