2 坂東の香
東海道を進み、尾張から駿河に入ると、何となくではあるが、坂東の香を肌に感じるようになった。懐かしい富士の姿が心を癒す。相模、武蔵を経て、故郷である下総国・豊田郡(現・茨城県下妻市)に向かう。
もちろん、この旅は小次郎に取って楽しい旅ではない。伯父達との私領を巡っての面倒な話し合いが待っている。だが、五感が齎す快感が、小次郎の心に影響を及ぼし、小次郎はむしろ爽やかささえ感じている。都と言う牢獄から解き放たれた解放感なのだろうか。
『或いは三郎の思い違いかも知れない。話せば分かり合えることだ。身内なのだから。伯父の国香は貞盛の父だし、もう一人の伯父・良兼も君香の父ではないか。きっと、何かの誤解が有るのだ』
三郎からの文を読んだ時は頭に血が上ったが、冷静に考えれば、伯父達がそんな悪辣なことをするとは思えなくなって来た。
山並みに囲まれ、閉じ込められたような都の景色に比べ、何処までも続く坂東の大地。故郷の風が、筑波の山が、流れる中小の川や広がる田畑が、小次郎の心を和ませて行く。
豊田郡に入って間も無く、砂煙を上げて走って来る一頭の馬が見えた。近寄って来て手綱を引き絞って馬を止めたのは、まだ、あどけなさの残る若者だった。
「小次郎兄上では御座いませんか?」
上気した顔で若者はそう尋ねた。
「如何にも小次郎だが、…… 兄と呼ぶからには…… 五郎か?」
「はい。遠くから凛々しい乗馬姿を見た時、直ぐに小次郎兄上に違いないと思い、駆けて参りました」
都では『いつまで経っても田舎臭さが抜けない』と評されていた小次郎に、五郎は憧れの気持ちを顕にしてそう言った。
「そうか! ……あの赤子がのう」
五郎が生まれて間も無く小次郎が上洛した為、初対面のようなものなのだ。もう十三に成るはずだ。
「兄上は思っていた通りの方でした。三郎兄上と母上に、直ぐに報せます」
そう言うなり、五郎は馬の腹を蹴って駆け去って行った。
母。三郎と四郎。そして、報せに戻った五郎、それに郎等逹が出迎えていた。
馬から飛び降りた小次郎は、母の側へ歩み寄った。そして深く頭を下げ、
「母上、色々と申し訳御座いませんでした。全て、この小次郎の心得違い、至らぬところから出たことによりご心配をお掛けしております」
と言った。
「長旅ご苦労なこと、疲れているであろう。まずは舘に入り休むが良い。さ、さ」
母の表情には、嬉しさと安堵の気持ちが表れている。
旅装を解き、母の居室に改めて挨拶に行くと、三郎将頼が控えていた。
「小次郎。三郎からの文を読んで戻ってくれたのですね」
と母が口を切った。
「はい。しかし、合点が行かぬところも御座います。年若い三郎を相手にしてくれぬと言うのは有り得ることかもしれませんが、そもそも、父上の遺領を横領していると言うことは、本当のことなのでしょうか? 俄には信じ難い事です。伯父上逹は、母上に何と説明しているのでしょうか?」
「説明も何も、殿の葬儀以来、顔も出しておりません」
母はそう答えた。
「童の頃の印象でしか御座いませんが、そのような方々とも思えませんでした」
幼い頃、父に連れられて伯父達を訪ねた時の印象を小次郎は母に伝えた。
「兄弟とは言え、添う女子に寄っても殿方は変わるものです。石田の国香殿、水守の良正殿の室は、前・常陸大掾殿の娘御。それに加えて、上総介殿まで、先妻を亡くした後、前・常陸大掾殿の娘御を舘に入れ、正室に据えておる。
或いは、前・常陸大掾殿の何らかの思惑が働いているのかも知れません」
兄弟が死んだ後は、その遺族よりも妻の実家の方に気が向いているのだろうと言うのが母の見方である。
「幼い頃、父上に着いて、良く石田にも武射にも行った覚えがあります。伯父上方とは仲が良いものと思っておりましたが」
小次郎は、なおも伯父達の心変わりを信じたくない気持ちでいた。
「仲が良くて訪ねていたのか、此度のように交渉事が有って行かれたのか、殿は、そういったことは余り話さないお方だったので分かりません。それに、あの方々がこの舘に来たことは余り有りません。
遠方なので余り行くことは有りませんでしたが、むしろ、武蔵の村岡五郎(平良文)殿との方が、良く文のやり取りをされていたようです」
「三郎、伯父上方とはどこまで話せたのか?」
小次郎が、そう将頼に質す。
「それが、何のかんのと理由を付けて、まだ、会っても貰えません」
将頼は面ぽく無さそうに下を向いた。
「所領からの上りは?」
と肝心な事を質す。
「米一粒たりとも届いたためしはありません。横領しているとしか思えない。文に書いた通りです」
小次郎は腕組みをして目を閉じた。故郷へ帰った安心感から、事を楽観的に考え過ぎていたようだ。
「三郎、石田の伯父上のところへ郎等を走らせてくれ。この将門の使いと知っても、尚あしらうようなら、返事が無くとも乗り込んでくれるわ」
「分かった直ぐに手配する」
そう言うと、将頼は下がって行った。三郎が出て行くと、小次郎は改めて母の前で両の拳を突き頭を下げた。
「この将門が至らぬばかりに、母上にはご心配、ご苦労をお掛けしました。しかし、戻った以上、必ず決着を付けお心を安んじるよう全力を尽くします。今暫くお待ち下さい」
「小次郎、心強く思います。しかし、どうか無理だけはせぬよう」
「畏まりました」
石田に使いに行った郎等が戻って来た。
「伯父上の返事、如何か」
「はっ。申し訳御座いません。何でも、急ぎ行かねばならぬところが有って、暫く留守にするとか」
郎等は申し訳無さそうに、そう報告した。
「吾も舐められたものだな。何時から留守にすると言っておった?」
「いえ。特に何時からとも」
「そうか。母上、策を練りたいので、下がらせて頂きます」
そう言って小次郎は母に向かって頭を下げる。
「左様ですか」
と母が応じる。
母の居室から出ると、小次郎はそのまま外に出た。慌てて小次郎を追って出て来た三郎が、
「どちらへ?」
と尋ねる。
「決まっておろう。石田じゃ」
「しかし ……」
と将頼は戸惑いを見せる。
「あしらわれて指を加えて居れば侮られる。今直ぐに行けば、石田の伯父上は必ず居る。我等を見くびって居るのよ。こうなったら強談判だ」
「麿も参ります」
と将頼も語気強く応じる。
「死ぬ覚悟は出来て居るか?」
いきなりそう言われて、三郎は驚いた。
「そんな大袈裟な。……伯父上とて、まさかそこまではやりますまい」
三郎はそう言って笑った。
「ならば、着いて来てはならん」
小次郎は静かにそう言う。
「大袈裟では御座いませんか?」
将頼は重ねてそう聞いた。
「三郎。教えておく。交渉事とはな、命懸けの覚悟が無くては出来ぬものだ。もし伯父上の郎等達が、喉元に刃を突き付けて来たらどうする? 始めからその覚悟が無く、驚いた時点で負けじゃ。交渉など出来ぬ。相手に腹の内を見透かされてしまっては、交渉など続けられる訳が無い。それほどの大事にはならぬと思っている時点で、既に負けたも同然なのだ」
「喉元に刃を突き付けられても平然としていろと?」
「その覚悟が無ければ着いて来るな」
これが本来の小次郎である。都に在った時には、我慢に我慢を重ねていた。
『都などで死んでたまるか。麿の死に場所は坂東にしか無い』
そう思う事で耐えられた。
「分かりました、覚悟致します」
そう言って、三郎は目を逸らさず小次郎の目を見た。