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1 重い帰郷

 淡海あふみ(現在の琵琶湖)に放り込まれた海の魚のように、毎日が息苦しい。いらかを連ねる町並みも立派な邸宅も小次郎には空虚な景色としか映らない。荘厳そうごんな寺院も豪奢な貴族の舘も、薄汚い心根こころねから生み出された欺瞞の結晶にしか見えない。

 都もそこに住む者達も好きになれない。


 もう、都に来てどれほどの月日が流れたのだろうか。それすらも分からなくなるほど、小次郎の心は追い詰められている。

『坂東に帰りたい』

 思うはそればかりだ。だが、どのつら下げて帰れるのか? 十五の歳に上洛し、当代随一の実力者・左大臣・藤原忠平ふじわらのただひら従者ずさとなってから既に十年を超えている。

 普通であれば、とっくに官位・官職を得られて良いはずの年月を無為に過ごしてしまった。


 つい最近、盗賊を斬り捨てた功により、ようやく滝口武者たきぐちのむさとなることが出来たが、令外官りょうげのかんである為、いまだ官位は得られていない。

 滝口武者は、清涼殿せいりょうでんの庭を警備する任務で、兵仗へいじょう弓箭きゅうせん(弓矢)を帯びて内裏だいりはべる為、つわものに取っては名誉な職とされている。

 しかし、既に、上洛後長い年月を無為に費やしてしまっている。手柄を立てた時、小次郎は検非違使けびいしの職を望んだ。同じ令外の官とは言え、検非違使けびいしであれば手柄を立てる機会はいくらでも有るが、滝口武者では、事変でも起きない限りそんな機会は無い。としも既に二十七となっている小次郎にはあせりが有った。

 腕には自信が有る。出世の為には検非違使と成る方が遥かに近道と思えた。だが、小次郎の願いは届かず、滝口武者たきぐちのむさを命じられたのだ。

 同じく京に従兄弟いとこ貞盛さだもりは、忠平の次男・師輔もろすけ従者ずさとなっていたが、あるじが忠平より格下であるにも関わらず、既に左馬允さまのじょうの官職を得ていた。

 元々、小次郎と貞盛は仲が良い。だから、貞盛が官職を得た時も素直に喜べた。嫉妬しっとでは無く、おのれを情けなく思う気持ちが有った。それは、嘘では無い。

『太郎、目出度い。良くやったな。麿も頑張らねば』

 素直にそう言えた。


 貞盛が上洛したのは、小次郎よりかなり遅い。だが貞盛は、人当たりの良さ、装束の着こなし、気遣いなど、都で生活する為に必要なすべの多くの要素を、元々持っていたか直ぐに身に付けた。

 有りていに言えば、貞盛は都で生きる為に必要なものを身に備えており、小次郎の持つ勇猛さは坂東の地にってこそ称賛の対象となり得るが、都での生活では、何の役にも立たないものだった。

 弁の立つ者であれば、武勇を誇ったりして、話題を盛り上げることも出来るだろうが、そんなことの出来る小次郎でも無い。周りの者達から見た小次郎は、いつまでっても田舎臭さが抜けない、面白味の無い男でしか無いのだ。

 他人ひとの顔色を伺うなどは、小次郎の最も苦手とするところだ。己らしく生きたい。それが、小次郎の想いなのだが、都とは、そんな生き方を許してくれるような場所では無かった。


 わらべの頃、弓、乗馬、相撲すまい、何をやっても小次郎に勝てなかった貞盛には、小次郎をうやまう気持ちが有る。都でもがき苦しんでいる小次郎を見ていると、その理由がはっきりと分かるだけに、色々と助言してやりたい気持ちになったし、初めのうちはそうもした。

 だが、貞盛の言うことを理解はしても、実際に小次郎が変わることは無かった。

「太郎、済まぬ。やはり麿には出来ぬ」

 貞盛の助言に対して、小次郎はいつも苦しそうにそう答えた。

「そうだろうな。出世などしなくとも、なれは凄い男だと吾は思うておる。都で生きることが、なれには向いておらんのだ。いっそ、坂東に帰ったらどうだ。位階など無くとも、坂東でならなれは輝ける」

 小次郎を変える事は出来ないし、小次郎に取っても都は生きやすい場所では無いと思い、最後に貞盛はそう言った。

「負け犬のまま帰ることは出来ん」

 小次郎は、苦しげにそう答える。

「そうか。ならば、家司けいしや奥の女房共に気に入られることだ。それが根本的な解決策と分かってはいるが、小次郎にそれを求めるのは無理だろうとも、貞盛は思っている。

御前ごぜん(忠平)の耳に入るのはその者達を通してのなれの評判でしか無い。その者達が例え虫の好かぬ者であったとしても、世辞せじを使え。物を贈れ。不快な表情ひとつ見せてはならん。人と思うな。大事な道具と思え。どうだ。出来るのか?」

 無理と思いながらもそう言ってみる。小次郎は黙っていた。

「『下らん』と、今思ったであろう。それが、なれの真っ直ぐさであると同時に、都で生きがたい理由だ。悪いことは言わぬ。坂東へ帰った方がなれの為に良い」

『無冠のまま、どのつら下げて坂東に戻ることが出来よう』

 貞盛に言われても、小次郎はその観念から抜け出すことが出来なかった。その屈辱感が小次郎に、有り得ぬ選択をさせてしまうことになる。


 鎮守府将軍として赴任ふにん中に、陸奥むつで父・良将よしもち逝去せいきょした。そのしらせを受けて一刻も早く飛んで帰りたいところであったし、本来、何を置いてもそうするのが、小次郎の性格である。だが、この時の小次郎は、いまだ無位無冠のままだった。おのれの中で葛藤し、帰れぬ旨(したた)めたふみを送ってしまった。

やまい』だの『お勤め繁多のため』だのと、普通の者であれば必ず書くであろう言い訳も一切無い。ただ、『帰れぬ』とだけ伝える素っ気ないふみである。


 長年都にりながら、いまだ満足な出世が出来ないおのれに対する恥ずかしさ。必ず比較されるであろう貞盛さだもりの出世を考えると、本当は、ぐにでも飛んで帰りたいはずの坂東へ向けて足を踏み出す覚悟が、どうしても出来なかった。母のなげきを思うと、ふみを出してから数日は、まともに眠ることさえ出来なかった。

 帰らなければ帰らないで、『親不孝者』とのそしりは免れないとは思うが、出世出来ぬことの恥ずかしさが、それにまさった。何故なぜなら、坂東にった頃の小次郎は、馬も弓も、更には相撲すまいを取っても太刀打たちうちをしても、他のわらべ退けを取ったことは無く、大人達にさえ一目いちもく置かれる存在であったのだ。

 そういった小次郎の誇りは、都に来てずたずたに引き裂かれることになった。つわものとして本来こうあるべきということわりが、京では全く通用しないのだ。

 例え侮辱されても、都で安易に太刀たちを抜くことは許されない。弁の立たない将門に取って残されるのは、屈辱に耐えるという選択肢のみだった。

 公家くげ達の白塗りの気持ちの悪い顔に慣れるまでに、数ヶ月を要した。あるじ・忠平に初めて目通りした時、貴人には直接話し掛けられないことを、実感として知った。聞こえているのに、家司けいしが同じ言葉を繰り返した後、きざはしの上から始めて返事をするという、滑稽な約束事も受け入れざるを得ないのだが、滑稽と思う気持ちを消し去ることが出来ない。

 下には威張るが、上の者にはへらへらと世辞を使う者が多い。見ていると、そんな者達の方が早く出世して行く。

『この男は信用出来る』

と思った数少ない同僚の内の多くの者は、出世をあきらめて田舎に帰ってしまうか、小次郎と同じように無位無冠のまま、むくわれぬ都での日々を過ごしている。素の自分をさらけ出すような単純な人間は都では生きにくいのだ。

『何かが間違っている』

と思いはするのだが、その正体を掴む為考えを巡らす迄には至らない。そんなことを、ぐずぐずと考えるのはめめ々しいことだと、小次郎は思っている。もっと要領良く生きなければと思いはするのだが、矢張出来ることでは無い。

 皇孫としての誇りが、ともすればめげてしまいそうな小次郎の心を辛うじて支えている。だが、世を見渡せば、五世の皇孫など、実は、掃いて捨てるほど居るのだ。


 父のが明けると、

滝口武者たきぐちのむさでも、忠勤を認められれば出世の糸口はつかめるかも知れない』

と思い直し、勤め始めた小次郎のもとに、ある日、弟の三郎将頼(まさより)からふみが届いた。

『父の遺領の多くが伯父達に横領されている。掛け合って返して貰おうとしたが、自分では全く取り合って貰えない。このままだと、やがて暮らしも立ち行かなくなるのではないかと心配している。

 兄上にも事情はあろうが、何とか立ち戻って、伯父達に掛け合って貰えないものだろうか』

と言うものだった。怒りと共に、

『父の葬儀に立ち帰り、伯父達ときっちり話をして置けば、こんなことにはならなかったはず』

おのれを責めた。


 折角せっかく手に入れたばかりの滝口武者たきぐちのむさの職ではある。早々に休みを取ることははばかられるが、最早もはや、何かにこだわっている場合ではない。休むよりも職を辞すことを決意した。

 早速に届けを出し小次郎は坂東に向けて旅立った。

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