遺書
ある日、ある山奥、あるひっそりと建っている小屋で、ある老人の遺体が発見された。
検屍官である私は、遺体発見の連絡を受け、検屍をするべく、その小屋へ赴いた。
真昼の日差しが、山道を歩いている私を責め苛む。汗はだらだらで、脱水症状にならないように、こまめに水分補給をしながら歩みを進めていた。
一時間弱歩いて、ようやく小屋につく。
その小屋は、いかにも寂れた山奥にある小屋です、といったような木造で、私は不思議な寂寥感を感じた。
玄関のドアを開けると、様々な本が乗った机と、まるで読書に疲れて眠っているかのような老人の遺体が目に飛び込んできた。顔つきや体つきから察するに、その老人は男性のようだった。
外から音がする。それは、木々が擦れたり、鳥やセミの鳴き声だったり、風の吹く音だったりした。それらを総合して、「森の音」と表現するのはどうだろうと、私はぼんやりと、そんなことを思った。
仕事中にぼんやりしてはいけない、とそう思い直し、遺体に目を向ける。
遺体は比較的綺麗な状態で保存されており、私は少しばかりほっとした。ぐちゃぐちゃになった腐乱死体は、いくら見ても慣れるものではない。
遺体に近づき、瞳孔の具合や、死後硬直の進み具合を調べる。仕事を一通り済ませた私は、のちに遺体を回収する遺体回収班のために、報告書に遺体の状況、死因(自然死と思われる)を記入する。
よし、帰ろう。そう思った時だった。私は老人の遺体の近くに、数枚の白い紙があるのを発見した。
手に取る。一枚目の紙の上部には、達筆な文字で「遺書」と書かれており、この遺体の持ち主が生前に書いた遺書だと推察された。
老人が死ぬ前後の状況が分かるかもしれないと私は考えた。
ふと外に意識を向けると、いつの間にか「森の音」がやんでいるのを感じた。それはまるで、この世界が、息を潜めて、この遺書を私が読むのに注目しているかのようだった。
私は、誰かに見られているような緊張感と居心地の悪さを感じながら、遺書を読み始めた...
遺書
これまでの人生九十と余年、生と死の瀬戸際に立って先が長くないことを知り、ワシはいま、柄にもなく遺書なんて書こうと、ペンを持っている。
書こうとはしているのだが、書き出しからして思い浮かばないし、そもそもこんな老いぼれの死に際の文書を読みたいと思う輩がいるかどうかもわからない。困った。
ワシが読む色々な小説の登場人物たちは、見事な遺書を書く。それは暗号になっていたり、両親や親友への感謝が綴られていたり、この世に未練がないことを記してあったりする。だが、いざ自分が遺書を書く番になってみると、家族や友人は死に絶え、暗号になどする意味もなく、この世への未練はタラタラだ。やはり、遺書というものは何月何日の約何時に自分が死ぬ、という確信がある者か、死んだあとでないと上手く書くことはできないのだろう。
ましてやワシは、二人分の遺書を書かなくてはいかん。難易度も倍増だ。心底面倒臭い。
しかし、そいつの記憶を持っているのは今、この世界でワシ一人だけだ。書かないというわけにもいかないだろう。
待てよ、別に二人分の遺書だからと言って分ける必要はないぞ。一つの遺書に、二人分の思いを綴ればいいのか。
よし、なんだか遺書が書ける気がしてきたぞ。書き出しはどうしようか。_______まずは私とそいつの出会いの瞬間から、書いてみるとしよう。
そうそう、この遺書の中で、そいつの記憶をワシしか持っていない理由と、この世界の秘密が明かされるが、普通にそれを明かしてしまってはつまらない。よって、謎解き形式にして出来るだけ伏せるから、ぜひこの謎を解いてみてくれたまえ。楽しんでくれると嬉しい。
ワシがそいつと出会ったのはかれこれ九十と余年も前のことになるだろうか。そう、ワシがそいつと出会ったのは生まれた瞬間だ。嘘つけ、と思うかもしれないが、その時のことは今でも鮮烈に覚えておる。灰色の空が広がっている下で、母の産道を通って初めて外の世界に出た時のことだ。ワシの目の前には世界の景色が広がっていた。別に、世界中のあらゆる景色を見通したというわけではない。これからワシが生きていく世界の空気を全身の肌で浴びて、これから待ち受けている人生の予感を胸に、確かにこの世に生を受けた、ということだ。
産婆に抱かれ、
産み落とされてから数時間すると、ワシの目もこの世に慣れてきたのだろうか、目の前にある景色が薄っすらと見えてきた。真っ白い布団、灰色の天井、嬉しそうな両親...ワシはこの瞬間、生ある限りこの世界と、その景色を愛そう、とそう思った。
それからというもの、ワシはすくすくと育った。目に映る世界の全てが大好きだった。灰色の空、真っ黒の夜、黒く佇む海、山、白々と燃え盛る炎、ワシが関わってきた全ての生命あるものたち...本当に、私はこれらの風景たちを愛していた。少々気恥ずかしく、また、大げさな表現になってしまうが、まさに、それらの風景はワシにとって恋人のようなものだったのだ。
その後も、ワシは世界を愛し続け、大学へと進んだ。
大学で専攻していたのは、人類の目についての研究だった。この世界の風景を、驚愕の精度で脳へと映し出す仕組みや、その謎の解明に、ワシは躍起になっていた。
そんな研究に没頭し、大学を卒業してもなお、研究員として大学での研究に勤しんでいた時だ。ワシと恋人を引き剥がすような、そんな事件が起きた。
ある日のことだった。ワシがいつも通り研究室のベッドで目を覚ました瞬間だ。ワシは、ある強烈な違和感を覚えた。何が何だか分からず、同じように混乱している研究仲間たちと、ラジオのニュースを待った。
数分間の後、ラジオから質の悪い音声でニュースが流れ始めた。
どうやら、世界中である感染症が流行している、とのことだった。その感染症にかかった者は、目にとある作用が働いてしまう、というものらしかった。
...
...
...
ここまで書けばもう謎が解けた者も多いだろう。
まだ解けてない人はもう少し考えてみるがいい。
少し休憩を入れよう。
...
...
...
よろしい、ここからは解答編だ。
少し話を逸らす。
いやなに、本筋に関わる話だから嫌な顔をしないでくれ。
さて、突然だが、君たちはモノクロ写真というものを見たことがあるだろうか?そう、昔を映した、黒と白の濃さで世界を表現しているあの写真だ。今では、カメラの性能が足りなかったからモノクロだった、とかそういうことになっている。だが、それは大きな誤りだ。
写真は真実を映し出すものだ。それはモノクロ写真も決して例外ではない。あの写真たちは、真実をありのまま、映し出している。
________そう、かつて世界はモノクロだった。黒と白の軸しかない世界で、ワシらは生きていた。
それでは何故、今はこんなにも様々な色がこの世に存在しているのか。
それは先述の感染症のせいだ。あの感染症は、我々の目に"色を授ける"という作用をもたらした。
あの感染症のせいで、ワシは、愛していた世界と、その風景に別れを告げなければならなかった。
美しく横たわっていた海や、頭上に際限なく広がっていた空は、忌々しい青色になり、悠々と聳え立っていた山々は憎らしい緑色になり、雄々しく燃え盛っていた炎は下品で、けばけばしい赤色になっていた。
その時のワシの苦しみと言ったら、君たちには少しも分からないだろう。ワシが愛していた恋人は、以前と全く同じ形で目の前にあるのに、致命的にその有様を変えてしまったのだ。
感染症が流行ってから数ヶ月、世界は大混乱に陥った。そこで、各国政府はどうにか事態の収拾を図ろうとしたらしい。過去のモノクロ世界の記憶を人々から消し去って、元々色のついた世界だったという記憶を新たに植えつける感染症を流行らせるという計画を立てた。
ワシはその感染症のビールスを作る研究チームに選ばれた。
その研究中、ワシは何度も葛藤に苦しまされた。世界中の人々から、あの美しかった世界の記憶を奪ってもいいのか、あの美しかった世界の存在を、なかったことにしてもいいのか。
一通り苦しんだのち、ワシは一つの決意をした。
それは、ワシ自身に、記憶を奪うビールスに免疫をつけるワクチンを打って、命尽きるその時まで、あの美しかった世界を記憶し続ける、というものだった。それが、ワシが愛した、もう二度と手に入らない恋人への餞だと、信じていた。
その決心をしてから、ワシはワクチンを独力で作り上げ、研究チームはビールスを作りあげた。そして、研究チームがビールスを世界中にばら撒いて世界の記憶がなくなっていくその日、ワシは自分の腕に注射器を刺して、ワクチンを注入した__________
これが、かつての世界の記憶をワシしか持っていない理由だ。
この事件が起きたのがワシが三十代の時だから、約六十年、ワシは一人孤独に、かつての世界を夢に見ていたということになる。
目を瞑れば、かつての美しい風景たちが、まるで肉眼に映しているかのように浮かんでくる。しかしそれらは、目の前にあるのに、もう二度と手が届かないほど遠い、甘く、切ない思い出の残滓に過ぎないものだ。それもワシが死んでしまえば、永久に失われてしまうのだろう。
そう、つまりこの遺書は、かつての世界を記憶している唯一の人間であるワシと、辛うじてワシの頭の中で生きているかつての美しい世界、二人分の想いを乗せた遺書だ。
最後に一つ。
この世界を生きる者たちに伝えたいことがある。
ワシは、かつての世界を愛し、今の世界を憎んだ。自殺を考えたことも一度や二度ではきかない。そのくらい憎んでいた。
それでも寿命が近づいている今になってみて考えると、沸々と、今の世界に対して、少しばかりの寂しさも感じ、これまた少しばかりの後悔をしている自分に気づくことがある。
なんて勿体無いことをしたのだろう、と。
そんな、今、まさに死にゆかんとしているワシから、今、まさに人生を謳歌しているだろう者たちへ。
これはある種、生命ある者たちへの祝福であると共に、ワシからの呪いの言葉でもある。
生命ある者たちよ!
愛せ!
世界を、愛せ!
生命が尽きる、その時まで!
何故なら
美しい青色の空が
雄大に広がる紺碧の海が
悠々たる万緑の山々が
雄々しく燃え盛る紅蓮の炎が
今も昔も変わらない、生命ある者たちの息吹が
今も確かに、確かにこの世界に存在するじゃないか!
何度でも言おう!
憎しみを持つな!
愛せ!
この世界を、愛せ!
...
...
...
...
ふぅ。長々と文章を書いていたからか、ペンを持つこの手が震えてきた。目も霞む。そろそろ休憩にしよう。ワシは目を瞑り、想いを馳せる。この遺書を読んだ者は、何を感じるのだろうか。老いぼれの戯言と思うのだろうか、それとも...
まぁいい、どうせワシには関係のないことだ。
...なんだか眠くなってきた。かつての恋人と再会する夢でも見ながら、ゆっくり眠りについて休もうか。
それでは、このへんでペンを置くとしよう。
さらばだ。
私から、世界へ。
ありったけの愛を込めて。
20××年 ++月 ○○日
この世界の住人より
遺書を読み終え、私はしばらく動くことができなかった。
余りにも突飛な内容で、頭から信じ込むことはできない。しかし、真に迫る文章から、もしかしたら...と思わないこともなかった。
読み始めた頃には真上からギラギラと照っていた太陽は、いつの間にか西の空に沈み、小屋にオレンジ色の光を差し込ませていた。
外からまた、森の音が聞こえてくる。
世界が、遺書を読み終えた私から興味を失ったかのようだった。
私は死んでいる老人の顔を見た。
その表情は、人生に疲れ果てた老人ような表情でもあったし、初恋を追いかけ続ける少年のような表情でもあった。
私は、ふと我に帰ると、遺書を手に小屋から出た。目の前には深い緑色をたたえた木々が広がっていた。
私は、私の目から見える範囲の木々たちから、一番大きく、豊かな緑色をしている大木を選び、その根元に遺書を埋めた。
何故そんなことをしたのかは分からない。ただ、そうするべきだと、強く感じた。
私は、目を瞑ってかつてモノクロだったという世界に想いを馳せる。たった今遺書を埋めたこの木も、かつては黒と白の度合いだけの葉をつけ、白黒の大地に、白黒の根を下ろしていたのだろうか。
もう一度目を開けて、もう一度目の前の大木を見た。やはり、力強い幹はくすんだ茶色であったし、無数についている葉は、鮮やかな緑色だった。
____帰ろう。
私の仕事は終わった。明日にでも死体回収班があの遺体を回収するだろう。回収された遺体は、その日のうちに火葬に付される。そして真っ白い骨と灰だけになった彼は、この世界の秘密と共に埋葬される。
それがなんだか、彼に相応しい気がした。
私は目の前の大木に背を向けると、行きも通った山道を下り始めた。
頭上には、紅く、美しい夕焼けの空が広がっている。
それを見て、私は、
____中々どうして、この世界も悪くないじゃないか。
と、確かに、そう思った。