08
黒い建物から大体百メートルほど離れたところでだろうか、
「――無事に済んだようだな」
と、背後から声が届いた。
振り返ると、そこにいたのはラウだった。
無事に済んだ、という言葉には物凄く引っかかるものがあったけど、噛みついたところでどこ吹く風なのは想像に容易い。不毛なやりとりをする必要もないだろう。
ミーアもそう思った、のかどうかは知らないが、
「こちらは条件を果たしました。今度はそちらの番です」
と、冷めた眼差しで話を切り出した。
「わかっている。ついて来い」
言って、ラウはすたすたと歩きだす。
長身の彼の歩幅は広く、その速度はかなり速い。
足取りに微かな苛立ちを感じられたが、理由については見当がつかなかった。
まあ、気にしたところで仕方がない。大人しく、彼の歩調に合わせながら迷路のような下地区を進んでいく。
……どうやら、中地区の方に向かっているようだ。
ということは……と、淡い期待が過ぎったが、その感情の揺れでも聞こえたのか、ラウは言った。
「中地区に余所者が住める場所はもうない。これから紹介するのはこの街で一番安全な所だ」
「つまり、上地区と言うことですか?」
苛立ちを滲ませて、ミーアが問う。
もちろん、それはこちらが求めている条件じゃない。或いは、そこらの中地区よりも安い物件というのなら話は別だが……。
「すぐにつく」
ため息交じりにラウは答えた。
二分ほど無言の時間が続く。当然、徒歩二分で抜けられるほど下地区は狭くない。
「ここだ」
彼が足を止めた先にあったのは、紫色の建物だった。
黒い建物同様に、周りよりも二回りくらい背が高い。そして同じように、やたらと浮いてもいた。
それは建物の高さが原因というわけではなく、やはりその色にあるんだろう。周囲の殆どがくすんだ灰色か土色の中で、不自然なほどに澄んだその色は、いっそ異様ですらあった。
「……たしか、この街において紫色は上から二番目でしたか。汚れた色の中に、これはあまりに露骨ですね」
呆れるようにミーアが言う。
なるほど、色格という言葉があるこの世界において、色は印象や雰囲気だけではなく、明確に立場や格を示すファクターなのだ。
当然、ここに住んでいる人達もそれをよく判っているんだろう。だからこその安全、ということのようだ。
「納得はいったか?」
「……ええ、ひとまずは」
「ならいい。……上と下、どちらがいい?」
ラウの視線がミーアからこちらに流れる。
上と下というのは、たぶん階層の事だろう。
「中に違いは?」
「特にない。一部を除いて、部屋は全て同じつくりをしている」
それなら、重要になってくるのは隣人と避難経路の二つくらいだろうか。前者は……ラウに聞いても答えが返ってくるとは思えないが、後者は多分上の方がいい気がする。
たとえば建物が燃えたとか、崩壊したなどという事態になった時でも、この世界の人間なら窓から別の建物に飛び移るという選択肢も普通にあるからだ。逆に下の場合は、建物に潰されるという危険性が残る。
「ミーアは希望とかある?」
「いえ、私はどちらでも構いません」
本当にどっちでも良さそうだ。
なら、と俺は自分の判断を押し通す事にした。