07
「なにが子供のお使いですか……」
道標の光が動きを止め霧散したところで、ミーアが苦々しげにつぶやいた。
そこでようやく、これがどういう意図をもっていたのかを察するあたり、今日の自分はかなり鈍いみたいだ。こういう面倒と縁がなかったわけでもないっていうのに、本当、迂闊が過ぎるというか、なんというか……。
「……ごめん。これはちょっと早まったかもしれない」
今、俺たちの視界の先にあるのは、墨で塗られたかのような黒塗りの建築物だった。
まるで葉の落ちた冬の木のような外観をしている。上層から外に広がりを見せているのだ。それが許されているのは、ここが下地区の中でもずば抜けて高いからだろう。それこそ威圧感を覚えるほどに。……まあ、それ自体はどうでもよくて、問題はその中にいる複数の気配にあった。
まだまだ魔力への理解に乏しい俺だってすぐにわかるくらいの、強烈な感触。貴族の所有する地下で出会ったドールマンさんと同じくらいか、それ以上の凄味を感じる。
そんな気配が複数、ここには存在しているのだ。
当然、彼等には関連性があるんだろう。つまり、ここは一つの勢力の拠点だと考えられる。
そこにリッセの使いとして赴くという事は、自分たちがリッセたちの勢力に属している事を示すに他ならない。
要は、所有権の主張に使われたという事だ。
「……引き返しましょうか?」
少しバツが悪そうな表情でミーアが提案してくれた。
ただ、それをすれば今度はリッセの顰蹙を買う事になるだろう。正直、そちらも怖い。
はたして、どっちがマシなのか……
「……いや、行こう」
少し考えて、リッセの思惑に嵌ってやる事にした。
下手に自分たちに色がついてよく判らないところから危害を受ける可能性よりも、情報を武器にしている相手を敵にする方がやはり危険だという結論に落ち着いたのだ。
「そうですか。わかりました。……それで、あの、私はどのように振る舞ったほうがよいでしょうか?」
「え? どのようにって……」
「あ、ええと、先日の件はそれなりに大事でしたので、戦う術を何一つ持たない無力な小娘という認識を与える事はもう難しいでしょうが、現状でも多少の油断を誘うことは出来ると思いますので、そうした方がいいのかなと。……実際問題、今の私は弱いわけですし、使える武器は多い方がいいと思いますし」
もどかしそうに、どこか恥じるようにミーアは言う。
それは確かに有効な手段なのかもしれない――というか、俺もリッセも見事に騙されていたわけだから色々と有用なのは体験済みなんだけど、その表情はけしてそれを望んでいるようには見えなかった。
或いは、それでも必要だと彼女が感じている事なのかもしれないけど……そんな難しい判断を求められても、荒事の素人でしかない俺の答えなんて決まっている。
「必要ないよ。少なくともこの場では」
結局、そういったものが必要になった時点でこちらの落ち度なのだ。立ち回りを間違えた先で小細工をしたところで、それは焼け石に水にしかならない。
そういうものだって、自分の判断に正当性を補充しながら、俺は少しだけ和らいだ彼女の頬を横目に、黒い建物に向かって歩みを再開させる。
「……」
緊張と共に両開きの入口の扉を開くと、左手に階段があり、中央にはエレベーターと思わしき扉があった。
その扉に背中を預けて、一人の男が佇んでいる。
二メートルはありそうな大男だ。腕の筋肉なんかはレニの脚よりもずっと太いし、かなりの怪力である事が想像出来た。
「……誰だぁ?」
こちらを見据えて、大男は濁った上に間延びした声をもらす。
独り言じみたそれに少し反応が遅れるが「貴族飼いが髑髏の女に贈りものがある」と言うと、彼は扉から離れた。
「六十階、だ」
「ありがとう」
一応話は通っていたらしいことに安堵を覚えつつ、俺たちは譲られた扉を開ける。
やっぱりエレベーターのようだけど、使い方は日本のものとはずいぶんと違っていた。
レバーだ。階を示す数字の脇に、レバーがある。それを上下させる事によって指定の階層に行けるようだが、安全性や乗り心地は殆ど考慮していないのか、一階上がるごとに、ガゴンガゴンと凄い音を放ち揺れながら、エレベーターは上昇していった。
気を抜くとバランスを崩してしまいそうだったので、とりあえず設置されていた手すりに摑まる。
上昇の速度もかなり速く、胃が持ち上がる感触を何度も味わう事になって、それが気持ち悪くもあったが、途中で止まることも墜ちることもなく目的の階に到着してくれたようなので、大きな問題にはならなかった。
扉を自力で開けて六十階に降りる。ちなみに余談だが、この建物は八十階まであり、六十階から上に行くにはエレベーターを乗り換える必要があるみたいだった。
つまりは六十階までが幹に当たる部分で、それ以上は枝に当たる部分ということになる。ユニークだと思うけど、なかなか不便そうな構造だ。
そんな事を思いながら、入口に比べてややひらけた通路を見渡していると、左手にあったドアから一人の女性が出てきた。
両眼を真っ黒な包帯で覆った金髪の女性だ。更に特徴的な事に、彼女が身に纏っている黒い服はいわゆる拘束衣というやつで、両腕が腰の位置で縛られていた。
「リッセさまの使いですね。どうぞ、こちらに」
抑揚のない声が、女性の口から零れる。
そこに理性が感じられたのは幸いだったが、歪な存在である事に変わりはない。
警戒を強めながら招きに応じる。
そうして案内されたのは、ラウンジのような一室だった。
学校の教室くらいの広さはあるだろうか。上等なソファーに光沢のあるテーブル。壁には絵画が飾られていて、天井の照明はシャンデリアを思わせるほどに豪奢だ。
通路などもそうだったけど、癖のある外観と違って内装は基本的に程良くシックに纏まっていて、居心地の悪さはあまり感じなかった。
「こいつらは誰だい?」
奥のソファーに腰かけていた少年が口を開く。
アイドルと言っても十二分に通じそうな中性的な容貌の、十五、六歳くらいの少年。
「リッセのお友達なんじゃないか? たしか、今日用があるとかないとか言ってた筈だし」
答えたのはその左側の席に腰かけていた、見知った顔だった。
金髪にへらへらとした笑顔。そのくせ、まったく笑っていない眼。いつぞや、スリの足をへし折っていた彼である。
ということは、今俺たちが対峙している相手は、リッセたちと休戦状態にある勢力のようだ。
「あの貴族飼いの?」
「っていうか、先日の功労者だろう? ゴミ以下の騎士共に代わって腐臭漂う問題を解決したっていうさ」
「あぁ、そういえば、新聞でそんな記事を見た気はするね」
どうでも良さそうなトーンで少年が呟く。
「二人とも、お客様を相手に好き勝手な事をいうのはどうかと思うわ」
感情の窺えない淡々とした口調で窘めてから、拘束衣の女性がこちらに顔を向けた。
「私はテトラ、こっちはゼベ。で、そこの屑は……たしか、アダラとか言う名前だったかしら?」
「クズって、もう少し言い方があるだろうに」
金髪の彼――アダラさんがおかしそうに肩を竦める。
「貴方は私のお菓子を食べたもの。一度死ねばいいと思う」
「こらこら、お客様を前にどうでもいい内輪話をするのはよくないんじゃないか? まして死ねだなんて、物騒な言葉は使ってはいけない。委縮させてしまうだろう?」
「……」
挑発的なアダラさんの物言いに、場の空気が冷え込んでいく。
比喩ではなく、本当に周囲の気温が下がりだしたのだ。
「揉めるなら外でやってくれないかな? 話は僕が聞くからさ」
うんざりとした調子で言ってから席を立ち、ゼベさんがこちらを真っ直ぐに見据えてくる。
「生憎と、ヴァネッサさんは今留守にしていてね。待つ意味はないよ。だから、さっさと用件を済ませてくれないかな? 僕もあまり暇ではないのでね」
わかりやすいほどの、非歓迎ムードだ。
「約束を取り付けてるのに留守とか、嗤えるよなぁ」
と、アダラさんも楽しげに続ける。
ただ、その言葉は俺たちにというよりは、ゼベさんの方に向けられているようで――
「……つまらない見栄。最初に拘ったのは誰だったかしら?」
ため息交じりに、テトラさんがぼやいた。
「そりゃあ、どこかの天才坊やだろう?」
ちらりと、アダラさんの視線がゼベさんに流れる。
「あぁ、そうだったわ。どこかのお馬鹿さんだった」
テトラさんの顔も、真っ直ぐに彼に向けられた。
なるほど、どうやら彼は非常にわかりやすい人物のようだ。そして俺たちは非常にメンドクサイ上に、正直かなりどうでもいい、どっちの組織の方が立場が上なのかとかいう面子争いにも使われていたらしい。
「……二人とも、さっさと消えないと殺すよ?」
それを裏付けるように、彼は羞恥に顔を赤らめながら魔力を昂ぶらせて凄んで見せていたが、この二人は全く動じない。
「消える前に済む用件だろう? なあ?」
アダラさんの視線がこちらに流れてくる。
「……ええ、そうですね」
小さく肯定し、俺は封筒をゼベさんに手渡した。
「勝手に読むなよ?」
と、アダラさんが茶々を入れる。
どうやら、なにかしらの贈り物だけではなく手紙の類も入っているようだ。(まあ、封筒なんだから当然と言えば当然なんだろうけど)
「僕があの人の信頼に背くような真似をするわけないだろう? 君と一緒にしないでくれ。それに、読まずとも大体どういう内容なのかはわかる。時期が時期だしね」
最期の言葉に妙な含みを持たせて、ゼベさんは封筒を懐に仕舞い、再びソファーに腰を下ろした。
そして、もはやこちらには興味なしといった具合に、ソファーの前のテーブルに置かれていた雑誌に手を伸ばす。
アダラさんも同様に雑誌に手を伸ばして完全にこちらへの興味を失ったみたいだった。
「どうやら、用件は早々に済んでしまったみたいね。残念だわ。少し、お話をしたかったのだけど…………そうね、お客様ですものね。外まで、私が案内するわ」
終始、感情の篭っていない淡々とした口調だったので、その言葉にどれくらいの本心が込められているのかは不明だったが、厚意を断る理由もない。
テトラさんの先導の元、俺たちは部屋を後にする。
「……ところで、イル・レコンノルンにはもう会った?」
エレベーターの前に差し掛かったところで、テトラさんが口を開いた。
「いえ。どなたですか?」
「リッセさまに求婚している子、よ」
「――え?」
思わぬ言葉に、ついつい間の抜けた声が漏れる。
「それは事実ですか?」
眉を顰めて、ミーアが確認を求めた。
「ここでは結構有名な話。確認はすぐに取れるわ」
「物好きもいるものですね」と、そこで不意に表情を曇らせてから、ミーアは躊躇いがちに訪ねる。「……貴族ですか?」
「ええ、このトルフィネで最も優秀な貴族の一人」
と、テトラさんは答えた。
「そうですか……」
やや沈痛なミーアの呟きをかき消すように、エレベーターが到着する音が響く。
その話題はそこで途切れ、エレベーターの騒音も相まって特に会話をすることもなく、俺たちは黒い建物を後にした。