幕間4
見た目通りに軽い姉の身体を抱え、音もなくある場所に向かう最中、ラウは少しだけ昔の事を思い出していた。
きっと、あの親子を見ていた所為だろう。
思い出したくもない、くだらない過去。どうしようもなく愚かだった子供時代。
盲目的に、貴族に成れると信じていた。貴族以上の価値なんて存在しないと思っていた。清々しいくらいに洗脳されていたわけだ。
そしてその認識の元、双子だというのに不出来な姉を軽蔑した。たいした力もなく、特別な魔法を持っているわけでもない凡百な存在だと誤認していた。
ラウだけではない。周りの人間すべてが節穴だったのだ。あまりに狭い価値基準の中で生きていた。
それが壊されたのは、自分自身の価値を失った時。あのクズ共が媚びへつらっていた一人の貴族が、ラウの能力を不要だと口にした瞬間だった。
別段、魔法が使えなくなったわけでもないし、性能が落ちたわけでもない。ただ、それ以上の代わりになれそうな者が現れたという、それだけの理由で否定される側に落とされたのだ。
そこで初めて、自分が愛されているわけではなかった事にも気付かされた。
奴等が愛していたのは街にとって必要な才能であり、評価されている人間であり、つまるところ自分たちを貴族に戻してくれそうな都合のいいなにかだけだったのだ。
結果、最も身近な相手に、人間の表と裏というものをまざまざと見せつけられることになった。
何一つ免疫のなかった子供を襲った悪意である。ただただ翻弄されて、絶望して、自身の無力さを噛みしめる事しかできなかった。
そんな、取るに足らない子供を、だけどこの小さな姉は救ったのだ。
奴等にお金が必要になったからと別の貴族の奴隷として売られそうになった時、彼女は自らの牙を披露した。貴族の従者を三人ほど殺して、そのまま一人で逃げればよかったのに、どうしてかラウまで連れて逃げる事を選んだ。
ラウが不要とされるまでの長い間、残酷なほどに扱いの差を見せつけられてきた彼女がだ。
正直、理解出来なかった。自分なら恨まずにはいられないと、妬まずにはいられないと、その境遇を見て思っていたからだ。
まったくもって傲慢な話である。
理由なんてものは、それこそ明白で……
『なんで、あたしが自分より劣ってる奴に嫉妬なんてする必要があんのよ? あんた、あのクズどもが凄いって言ったもの全部が凄くなるとでも思ってんの? 取るに足らないクズ共の評価なんて、それこそクズでしかないでしょう?』
痣だらけの身体で、数日前に刻まれた火傷のあとが痛ましい顔で、前歯が殆どない口で、それでも彼女は一片も自身を恥じる事のない揺るぎない眼差しをもって、ラウに言ってのけたのだ。
そして、弱者そのもののように奪われるだけの未来を享受していた彼の腕を掴んで、立ちあがらせた。
『あんたも、くだらない奴の言葉一つで泣いてないで、自分の価値くらい自分で決めさないよ。誰かに認めてもらえなければ生きる事も出来ないって、赤ちゃんかなにかなわけ? ほんと、つまんない奴』
(……今になって思えば、あれほど哀しい虚勢もなかったな)
当時の彼女は本当に独りきりで、自分を見限ってしまったらもう本当に何もない事を理解していたのだ。だからこそ、全てに否定され蔑まれようと、呪詛のように己には価値があると言い聞かせて、自分の魔法を磨き続けてきた。
それは、まさに狂気といっても過言ではないのだろう。
だが、生まれ持ったある種の素養にして、致命的な欠陥ともいえるその特性が、ただの子供なら為す術なく墜ちるだけだった人生を切り開いて見せたのである。
眩暈がしそうなくらいに、鮮やかな返り血と共に。
「……着いたぞ」
「――っ、ふざけんな、他に所にしろ! 降ろせ!」
じたばたとリッセは抵抗を見せるが、非力な奴がなにをしたところで大した効果はない。
ラウは特に気にすることもなく、リッセを抱きかかえたまま、器用にその診療所のドアを開けた。
鍵が掛かっていない事は、なんとなくわかっていた。
「……これはまた、ずいぶんと酷い有様だな」
奥から出てきたマーカスが、一瞬息を呑んだあとにぎこちなく笑う。
それだけでなんというか、同じような心境にあった事が想像出来て、ラウは似たような苦笑を返した。
「治療を頼みたい。出来るか?」
「診察台に寝かせてくれ」
「了解した」
と、頷いたところで、顔面にリッセの拳がとんでくる。
もちろんまったく痛くはないが、さすがに目障りだ。
「別に、気絶させてもいいんだが?」
「……」
こちらが本気だというのは、よく理解しているだろう。渋々といった様子でリッセは押し黙り、そっぽを向いた。
「それだけ元気なら、血液量を心配する必要はなさそうだな」
安堵を滲ませて、マーカスが呟く。
腕や足だけでなく、たとえ胴体が千切れようが絶命していなければ問題なく治療できる彼の魔法は、一見すると万能に見えるのかもしれないが、それには対象の血液が必要だった。その血液を元に、欠けた部分を復元しているからだ。
それゆえに、彼にとって怖いのは出血多量であり、復元をした所為で血を失いすぎて死ぬというのが最も起きうる悲劇なのである。
「……変なところ触ったら、切り落とす」
診察室に入り、台の上に乗せたところで、目蓋を閉じたリッセが冷たい声で言った。
「色気のない小娘にいわれても、困る台詞だな」
その辛辣をどこか嬉しそうに受け止めながら、マーカスは傷口に手を当てる。
相変わらずの手並みというべきか、僅か数秒で触れていた箇所にあった傷は消え失せた。ただ、その分かなりの魔力を使ったようで、少し顔色が悪くなっている。
別にそこまで急ぐような容態でもなかったとは思うが、きっと怪我をしているリッセを見ているのが辛かったんだろう。……まあ、それはラウも同じではあるのだが。
「終わったぞ。違和感とかはないか?」
「別に」
「そうか……」
そこで、しばしの静寂が過ぎった。
両者の関係に生じた軋轢を感じさせる、居心地の悪い間。
「……ねぇ、何で余計なこと漏らしたわけ? あたしに殺されたいの?」
その決定的な原因を口にしながら、目をあけたリッセが懐のナイフを強く握りしめた。
それなりに本気のトーンだ。彼女を知るものなら、息を呑まずにはいられないだろう。
だが、マーカスはそこに驚きも焦りも抱かず、静かに答えた。
「私は、駄目な大人だからな。こういう手しか使えなかった。許せないというのなら、好きにしてくれて構わない。どうせ独り身の老いぼれだ。未練も特にはないしな」
「……くだらない」
ナイフから手を離して、リッセは再び眼を閉じる。
「そうだな」
と、マーカスは寂しそうに笑って数秒ほど押し黙ってから、躊躇いがちに口を開いた。
「くだらないついでに、一つ訊いてもいいか? ……一体、なにがあったんだ?」
「もう済んだ事よ」
「判っているさ。だから、訊いているんだ」
正しくは、訊くことが出来ている、だろうか。
当事者になる事を避けた人間特有の卑屈さという奴だ。ラウもまた同じような立場ということもあり、耳に痛い言葉でもあった。
そんな心情を知ってか知らずか、リッセは「ほんと、くだらないわね」ともう一度呟いてから、
「手紙が来たのよ。あたしたちが此処で上手くやってるって、どこかから嗅ぎつけたみたいでね。だから、あたしもお返しに調べてみたの。……嗤える歴史だったわ。この十年であいつらが何してたと思う? 壊れた核を更に擦り減らして五人の奇形児拵えて、そのうちの四人を奴隷に売り払って、残った一人を脳味噌スカスカの人形に仕立てて、また子供を生んで、救いようのない事を繰り返して……で、それを面白がった貴族に飼われて、なんとか生きてきたみたい。まあ、そのおかげかどうかは知らないけど、どうも勘違いしてるみたいで、もうじき貴族に成れる、だから役立たずにも機会をやる、上手くいけば今の子供の代わりにしてもいい、だって」
くすくす、とリッセは可笑しそうに嗤う。
「意味不明でしょう? 内容もそうだけど、それであたしが喜ぶって本気で思ってるあたりとか……ほんと、初めてだったわ。こいつらは殺さないといけないって、使命感なんてものを覚えたのは。心底吐き気がした。こんなものまで押し付けてくるのかって、気が狂いそうだった。あの街の奴等、皆殺しにしてやろうかって思うくらい」
淡々とリッセは語るが、そこにどれだけの憎しみが込められているのか、判るものは少ないだろう。
特に、使命感という言葉に滲んだものは血縁という名の呪いでもあって、ラウは罪悪感と後悔で身震いを覚えるほどで――
「……どう? 想像通りだった? それとも想像以下だったかしら? ……まあ、なんだっていいけどね」
よろよろと上体を起こして、リッセは床に両足をつける。
そして、シュノフがある方向に冷たい視線を向けて、
「あと数時間で、あの腐った街にヘキサフレアスの花が咲くわ。あいつらの頭に植えてやった種が芽吹く。きっと、ここの新聞にも載ることでしょうね。少なくとも五十人以上の貴族が死ぬわけだし。そうなれば都市機能は壊滅かしら? もしかしたら、皆殺しにしてやった方が優しかったかもしれないわね」
「……」
衝撃的な言葉だったのか、マーカスが息を呑む。
それを見て、リッセはどこか優艶な微笑を浮かべ、
「他人でよかったでしょう?」
と、突き放すように言った。
これ以上踏み込んでくるな、と牽制をしたわけだ。……けれど、それをするには相手が悪い。
「本当に、その通りだったのならな。だが実際、死ぬのは一人だけ。くだらないちょっかいをかけてきた、その糞以下の貴族だけだ。影響はでるだろうが、致命傷には程遠い。……違うか?」
真っ直ぐにリッセの眼を見て、マーカスは言った。
図星である。
そもそも、そんな選択を平気で取れる女だったなら、リリカの件に固執するような事もなかっただろうし、親への幻想を捨てきれなかった当時のラウの感情を考慮して両親を殺さずに街から出るなんて事もなかっただろうし、マーカスだって心配するような感情すら持たなかっただろう。
リッセはたしかに残忍で冷酷で悪趣味な奴だが、けして身内や無関係な人間を不幸にする事を是とするような外道ではない。悪人ではあるが、犯してはならないルールというか、潔癖的ともいえる主義だって持っているのだ。それこそ、それを違えてしまう事が、なによりも自身を傷つける程に強く。
だからこそ、ラウにしてもマーカスにしても慎重になってしまうのである。臆病になってしまう。彼女が実はとても繊細な人間である事を知っているから。なにより、彼女が大切だから。だから、不甲斐なかろうがなんだろうが、彼女にとって最良の結末を望んで行動するのだ。
「……さあね。それこそ、新聞でも読んで確かめれば?」
「そうだな、そうさせてもらおう」
少し思考に没頭している間に、どうやら雪解けとなったようだ。
久しぶりに、一緒に暮らしていた頃を思わせる距離感がそこにはあった。
(……本当に、奴には大きな借りが出来たな)
リッセが気に入っていて、だけど関係性を決めかねていて、その中で敵対する事になったレニという女。
今回の件で、彼女との付き合い方は決まったといってもいいだろうし、まともな交流も増える事だろう。そういう勝ち方を、あの女はしたのだ。
狙ってやったのか偶然かは知らないが、これ以上ない結果だ。おかげで大きな借りが出来た。
出来ればそれは早々に返したいところだが……
(……まあ、焦るような事もないか)
なにせ目立つ存在だ。この先も、必ずトラブルに巻き込まれていくだろう。過度な力をもつということは、そういう事なのだから。
次回は二、三日後に投稿予定です。よろしければまた読んでやってください。




