08
跳躍により上昇していた身体が重力に捕まろうとしたところで、暗闇が解けた。
リッセの魔法の範囲外に出たのだ。
ちらりと振り返った先には、全てを呑み込む闇が泰然としている。耳を澄ませば、その異常に怯えた反応をみせている数人の息遣いなんかも聞き取れたが、ミーアの邪魔になるような音量でもないだろう。
事前にしていた打ちあわせ通りの展開になった。なら、あとは彼女が上手くやれるのを信じるだけで、こちらはこちらのするべき事をしなければならない。
「舌、噛まないようにね」
右脇に抱えたリリカに告げながら、俺は落下を始めた身体をどこに着地させるか考える。
どこかの家の屋根は……この高さからの衝撃で底が抜けそうなので、やっぱり地面がベターだろうか。なんにしても、広い場所の方がいいだろう。
後ろから追っ手が来ている。オーウェさんだ。この状態での逃げ切りは難しい。なら、ここも想定通り、俺が彼を引き受けている間に、リリカにはロクサヌの元に向かってもらう事になりそうだ。
「お父さんの位置は判る?」
着地と同時に、訪ねる。
「はい」
頷き、リリカは一目散に駆けだした。
それを見送ることなく、俺は追撃者に視線を向ける。
こちらと同じように、一足をもってリッセの魔法の範囲外に移動した老人。その身体能力は、もしかするとレニに匹敵するのかもしれないけど、今の状況において、それは少しだけ望ましいものでもあった。
見た目通りの老体だったなら、力加減なんかにも気を遣う必要があったからだ。
まあ、そもそもそんな人間がレニを追いかけて来れる筈もないので、その場合は戦いを想定する必要すらなかったわけだけど。
「……防いでくださいね」
聞こえているかどうかは知らないが一応忠告をしつつ、俺は右手に魔法を顕していく。
オーウェさんはまだ上空だ。その身体は放物線を描いて落ちてきている。そしてここはまだ上地区、周囲に足場になりそうな高い遮蔽物もない。
互いの距離はおそらく五十メートル程度。十分、レニ・ソルクラウの魔法の射程内だ。
大上段に構えた右手に長大な棒を具現化して、俺はそれを袈裟懸けに振り下ろす。羽でも生えてなければ、空中での回避は不可能な筈。
その真っ当な読み通り、オーウェさんはこちらの攻撃を剣で受け止め、肩から地面に落ちた。
ただ、それほどダメージはなさそうだ。慌てる様子もなく即座に身体を起こして、何事もなく立ち上がり、
「これは綺麗に決められてしまいましたな。ですが、あまり効果的ではない。力を抜き過ぎです。渾身の一撃であったのなら、腕か足を潰せたでしょうに。老人を労わるのは好ましい事ですが、私相手に、その手の気遣いは不要かと」
ぽんぽんと服についた埃を払いながら、困ったように微笑んだ。
「というより、あまり優しくされると困ってしまう。そんな事をされても、こちらは手加減出来ないのです。そういう契約なので」
「……別に、手心を加えたわけではないですよ。殺す事が目的ではないというだけです」
だからこそ剣よりは殺傷力が低いであろう打撃武器にした。
それ以外で、彼を気遣ったつもりは微塵もない。まあ、勝手に誤解してくれる分には特に困りもしないが。
「……なるほど、たしかに私も貴女を殺せとは命じられていませんな。では、トドメは刺さないという事で、先程の気遣いへの返礼としましょう」
落ち着き払った声で言い、オーウェさんは剣の切っ先をこちらの喉元に向けてくる。
リリカを追うという事はしないようだ。もちろん、させるつもりもないけど、少しだけ気は楽になる。
俺は手にしていた得物を一度消して、相手の武器よりやや長い程度のリーチの鉄パイプのようなものを具現化した。
殴る得物と考えて真っ先にそれが浮かんだのは、もしかすると昔友人に貸してもらった不良マンガの影響があるのかもしれない。
なんにしても、何を使おうがこちらは素人だ。扱いやすい武器なら大差はないだろう。
拵えた鈍器を強く握りしめ、俺はゆったりとした歩みでこちらに近づいてくるオーウェさんの動向を注視する。
以前は不意打ちでやられたのだから、二度も同じ失態を犯すわけにはいかない。些細な動作も見逃さないようにしないと――
「――では、参りましょうか」
オーウェさんから、表情が消えた。
肌を刺す魔力と共に、滑るようにその身体が動く。まるで距離というものをカットしたかのような、瞬き一つの接近。
それを認識すると同時に、こちらの感覚も完全に臨戦態勢に切り替わる。時間が異様なほどに間延びし、全ての感度が研ぎ澄まされた世界。
その中でも、オーウェさんの速度に鈍さを感じる事はない。
「――っ!」
横一閃の斬撃をかろうじて受け止めながら、俺は前蹴りを放つ。
だが、届かない。
続けて一歩踏み込み、得物を横薙ぎに払うがそれも紙一重で回避された。
眼が良いのか、距離感が良いのか、いずれにしても、今のやり取りだけで当てる事が困難だというのは、はっきりしたわけだ。
まあ、攻撃はついでのようなものなので、俺にとって大事なのはどこまで凌げるかだけなのだが……どうやら、それも難しいのかもしれない。
「いやはや、硬い。まるで鎧のような肉体だ。大した魔力の凝縮度です。どうやら貴女は魔物に近い存在のようですな」
「……」
前蹴りを放った右足のアキレス健のあたりから、血が垂れていた。
切られたのだ。しかも、いつ切られたのか判らなかった。右手の剣によるものではないと思うけど、だとしたら魔法を喰らったのか、あるいは左手に暗器でも仕込んでいるのか……幸い、重大な損傷とはならなかったみたいだが、やっぱり人が相手というのは恐ろしい。
魔物ももちろん恐ろしいけど、得体が知れないのは人間の方だ。
こういう相手の対処は、近づかせないこと、だろうか。
以前と違って、今の自分にはそれが出来る。
出来るが、長物はその分小回りが利かない。懐に入られたらより一層不利になることも考慮するべきだ。それに、武器の切り替えはそれなりに隙ができる。それが致命傷にならないとも限らない。
一体、どうするべきか……?
数秒の葛藤があったが、相手の手の内が少しでも見えるまでは距離を取るほうが確実だろうと、俺は武器のリーチを三倍程度の長さに変更して、今度は自分から仕掛けることにした。
相手の間合いの外からチクチクと攻め立てるように、先端が当たる距離で武器を振るう。けして前のめりにはならない、いわゆる腕の力だけでの攻撃だ。当然威力は出ないが、その分自分の攻撃で体勢が崩れるような事もない。
積極的なのか消極的なのか自分でも怪しいと思うスタンスだけど、多少は有効に機能していたんだろう。オーウェさんはこちらの間合いを嫌がるように大きくバックステップをした。
そこから、睨み合うだけの膠着状態が十秒ほど続く。
別にこれを続けてもいいが、せっかくだし試すだけは試すか、と俺は口を開いた。
「ここに今リッセがいないので話しますけど、私達は別にリリカを貴族にしたいわけじゃない。むしろその逆を望んで行動しています。その場合でも、貴方は私達の敵になりますか?」
「それを明確に証明する手段はありますか? 彼等がこの街を去るか、死ぬ以外で。なにより、契約とは遵守されるべきものです。少なくとも、リッセ・ベルノーウがそのつもりである以上、どのような事情があろうと、私のする事は変わらない」
「彼女が死ねば、ルハは悲しみますよ?」
「それは遅かれ早かれでしょう。彼等のような人種が人生をまっとうする事など、出来はしないのですから。でしたら、私の目が届くところで傷付いてもらった方が良い」
にこやかに微笑んで、オーウェさんは答えた。
一見すると恐ろしい考えだが、どうしてだろう、そこには捨鉢にも似たニュアンスがあって、
「貴方は、なにを焦っているんですか?」
と、俺は自分でもどうしてかはわからないけど、そんな事を訊いていた。
するとオーウェさんは一瞬だけ目を見開いてから、
「見てのとおりですよ。私は老いぼれですからね。いつまでもあの方の傍にいられるわけではないのです。ですから、生きている間にあの方には学んでもらわなければならない。最低限、どのようなものと付き合えば不幸になるのかくらいは」
……なんだろう、少しだけルハに同情したくなった。
要するに彼女は信用されていないのだ。ただ大事にされているだけで、何一つ本心を明かされていない。歪な身内関係だ。懐かしさすら覚えるくらいに。
「本当に、過保護なんですね」
嫌悪を込めて、俺は言う。
「それが生きがいですから」
いっそ誇らしげに呟いて、オーウェさんは僅かに弛緩していた空気を捨てた。
「……さて、交渉が恙なく決裂したところで、再開するとしましょうか。貴女一人に、あまり時間も掛けていられませんしね」
手にしている得物に、魔力が流れ込んでいくのを感じる。
危険な気配。俺は腰を落とし身構えて――
「――がっ!?」
凄まじい衝撃が、左肩を始点に全身を貫いた。
直前に上体を左に傾けたのは、完全にレニ・ソルクラウの本能によるものだろう。それがなければ、多分脳天に直撃していた。
じゅうぅぅ、と肉の焼けるような音と共に、身体中から煙があがる。
痛みに襲われると同時に響いた轟音に、鼓膜も少し馬鹿になっていた。
……落雷だ。
不幸な偶然であるはずもない。つまり、それが彼の魔法なんだろう。
「やはり頑丈ですな。これは、殺さずに無力化するのは少し難しいかもしれません」
「……」
頭がぼんやりしている。こんなのを喰らってまだ意識がある方がおかしいのだから、この状態はむしろ上出来といってもいいのかもしれないけど、それでも案山子になるのは不味い。
痺れる身体に鞭打ってなんとか後方に跳び退くが、そんなものは無意味とばかりに二度目の落雷が全身を打った。
視界が明滅する。いくらレニがずば抜けた能力をもっていたとしても、さすがに雷を避けるなんて事は不可能ということだろう。
だったら頭上をなにかで覆ってしまえば――いや、ダメだ、そこまで大きな規模のものはすぐに用意出来ない。鎧などの複雑な構造のものも同様だ。傘みたいなシンプルなデザインのもので直撃だけは凌ぐという手もあるが、それはそれでどの程度機能するか疑わしい。
どうする? どうする?
焦りが全身に渦巻く。痛みが思考を掻き乱す。
だが、こういう時ほど頭を使わないといけないのだ。冷静にならないといけない。
とにかく、今優先するべき事はこの脅威から逃れる事だ。
もちろん闇雲ではいけない。今、相手が一番取って欲しくない選択を考える。
まあ、妙案なんてものは咄嗟に出てくるものでもないが、一つだけはっきりしているのはこの場所が不味いという事だ。
下地区まで行くのは距離からして現実的ではないけど、似たように建物が乱立しているところ――空が狭いと感じる場所に避難すれば、多少はやりにくさを与える事も出来るだろう。
おそらくだけど、落雷自体の精度はそこまで高くない。
高ければ、奇襲が決まった直後に彼自身の追撃があってもよかった筈だからだ。それがなかったという事は、自分に当たる恐れがあったからだと考えられる。
それくらいしか根拠がないのが不安で仕方がないが、とりあえず数発我慢しながら場所を変えるというのは決定した。
問題は、どうやってそこまで誘導するかだが……上手い方法が見当たらないのなら、現状杜撰な両対応を取るのが一番マシだろう。
標的がリリカに変えられたとしても間に合う場所、つまりは彼女がいる方に向かって、俺は駆けだした。
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




