07
なんとか、状況把握が間に合った。
細剣を通して右手に伝わる手応えに、ミーアは小さく安堵の息を零す。
距離を取ってくれたのもありがたい。刺した直後、それでも構わず突っ込んで来られていたら、多分流れはまだリッセの方にあっただろう。こちらの状態はそれだけ危うかったのだ。
ただ、その問題も今片付いた。
(……よし)
修復中の右足の親指に神経が繋がる。他の指は後回しだ。
次に治すべきは左手。こちらも出血だけ止めればいいので、すぐに解決する。
これで、懸念材料はあらかた処理したわけだが、哀しいかな有利なのは依然リッセの方だった。
まず性能面で勝てているところがない。さらに、周囲に張り巡らされている彼女の魔力が、こちらの神経をいやらしいほどにすり減らしてくれていたし、なにより彼女はいつでも逃げ出せる状態にあるのだ。
こちらの狙いは足止めだが、向こうの狙いはリリカでありロクサヌだ。本来ならミーアの足を潰した時点で離脱をしていれば、この勝負は終わっていた。
それをしなかったのは、こちらに気に入らないところがあるからなのだろうが、それは目的を軽んじる愚かな行為だ。
本当に、どこまでも感情任せ。
自分の法だけで生きている人種というのは、それだけで吐き気がする。殺していいのであれば、殺してやりたいくらいに。
けれど、もちろんそんな事はしない。自分たちの立場を悪くするだけだし、レニに嫌われるかもしれないし、殺したってなにもいい事がないのだから、する必要性がない。
(私は、こんな女とは違う)
胸にこびりついている不要な感情を雪ぐようにそう言い聞かせながら、ミーアは彼女が逃げてしまわないようにと挑発の言葉を考える。
仮に逃げるのだとしたら、ここが最後のタイミングになりそうだったからだ。けして先程の意趣返しではない。そんな幼稚な理由じゃない。
「……貴女は、もう私には勝てません。貴女はその機会を自ら逃した。まあ、不意をつくしか取り柄のない卑劣な人間には、それすら判らないのかもしれませんが」
「攻守交代なんだろう? か弱い女の言葉だ。それくらいなら守ってやってもいいって思っただけよ。で、来ないの? せっかく待ってやってるのに。それとも実際はもう動くことも厳しかったか?」
「それは貴女の願望でしょう? すぐに現実を見せてあげますよ」
呆れるような言葉を放ち、ミーアは迷いなくリッセに向かって踏み込んだ。
「……じゃあ、あたしも見せてやるよ。あんたが地べたに這いつくばる姿を、その時の無様な面を、あんた自身の目にね」
こちらの細剣の一撃を真正面で受け止めながら、リッセは感情のない乾いた声でそう言って、空いていた右手を振り抜き、やけに大きな風切り音を響かせる。
得物に無駄な空気抵抗が生じている証拠だ。素人なら手首が固定されていないと指摘するところだが、リッセのナイフの扱いはそこまで酷いものではなかった。傷が影響しているにしても露骨すぎる。つまり、わざと攻撃の精度や速度を落としてまでこの音を立てている。その意図は当然、聴覚への妨害だろう。
彼女は先程の一撃が偶然のものではなく、必然によって齎された結果だと認識しているのだ。
だとするなら、この優位性はそれほど長く保てない。
看破される前に終わらせたいところではあるが、さすがにそれは高望みだろう。足の一本でも潰し、別の優位性を手にするのが最も現実的な選択で――
(――本当にそれでいいの?)
不意に、胸の内に不安が溢れた。少し前のリッセの発言が、棘のように刺さっていたのだ。
レニではオーウェには勝てないという台詞。
英雄レニ・ソルクラウを知る者からすれば、それは薬物に溺れていても出てこないような妄言だ。たった一人で帝国の首都を半壊させたあの強さは、もはや神の領域に届いているといっても過言ではなかったのだから。
だが、今の彼女は違う。
今の彼女にそこまでの絶対性はない。むしろ、付け入る隙の多さに心配を覚えるくらいで、帝国での裏切りと敗北によって騎士としての決定的ななにかが壊れてしまったのか、或いはミーアが核を失ったように、レニもまたあの戦いの為になにかを捧げたのか……詳しい理由は判らないけれど、とにかく脆い状態にあった。
(……大丈夫、ですよね?)
そう信じるしかない自分が死ぬほど許せないけれど、結局それでも信じるしかない。
なにより今は戦闘中だ。余計な思考をしながら戦っていては、最低限すら守れないだろう。
(いけませんね、集中しないと)
言い聞かせながら、脊髄反射に任せていた回避を中断しカウンターを差し込む。
タイミングはかなり良かったが、リッセの反応もいい。
それに、また一段と足音が小さくなっていた。相手の正確な姿勢(どこに重心を置こうとしているのかなど)を計るのにその音はかなり重要な情報源だったので、このあたりをシビアにされるのはなかなか辛い。
(いっそ、精度を落として攪乱する? ……いえ、それは不用意か)
それに、小細工をするよりも今のうちにより多くの手傷を与える事の方が効果的だろう。
厳しく攻めて、出来るだけ早く最低限を確保する。
そのためにも、とミーアは敵の眼球目掛けて電光石火の刺突を放った。
今の自分にとっての限界そのものだ。これ以上の速度も正確さも、用意はできない。
もし、これを簡単に凌がれたら――そんな杞憂を抱く間もなく、リッセの姿勢が大きく崩れたのがわかった。
咄嗟に上体を逸らして回避したようだが、これは好機だ。
このまま前に出されている右の太腿を串刺しにせんと、ミーアは間髪入れず二段目突きに移行するが、横からの衝撃に軌道を逸らされ、肉を浅く裂く程度で済まされてしまった。
ナイフによる防御が間に合ったのだ。
顔を狙ったところからの急降下だったのだが、どうやら本命が読まれていたらしい。
ただ、防いだのは右手のナイフだ。空振りとはわけが違う。否応にもその衝撃で肩の傷口は広がった事だろう。……まあ、広がったのはこちらも同じだが、苦悶の声を漏らしたのはリッセだけだった。
(痛みへの耐性はそれほど高くない、か。悪くない情報ですね)
おかげでこちらの好機はまだ続いていると、ミーアは更に一歩踏み込む。
が、そこで嫌な感触に出くわした。石かなにかだろうか、レニがもっている懐中時計くらいの大きさの何か。それを踏んづけたのだ。
予期せぬ出来事に、こちらも姿勢が崩れる。
「――っく!」
莫迦、邪魔しないでください、と思わず叫びたくなるくらいの最悪だったが、嘆くだけで終われるものかと、ミーアは咄嗟に細剣を投擲し、更に右肩に刺さっていたナイフを抜くと同時に、細剣の真後ろに隠れさせるように放った。
これなら向こうの体勢が整う前に攻撃が届く。綺麗な回避は出来ない。必ず防ぐはずだ。その硬直を利用しようと、脇腹に刺さっていたナイフも引き抜きながら地を蹴った。
半分ほど祈りも交じっていた予測だったが、しっかりと武器を弾く音が二つ届く。
そこに、こちらの身体も間に合った。
ここが勝負どころだ。なんとしてでも痛手を負わせる。そうしなければ詰みだ。
(今の躓きは不運じゃなかった。踏むように誘導されていた)
結果、周囲の把握が完璧ではないことが露見した。
そう、足元は全く視えていないのだ。両目の潰れたミーアが今補足できているものは、あくまでリッセの右の鎖骨付近と左足の位置だけなのである。それ以外は、その位置情報を元に当たりをつけているだけで、経験測による埋め合わせでしかなかった。
とんでもない欠点だ。この先、確実に足元の不備が突かれることだろう。もっとも、その前にこちらの手の内そのものがバレるかもしれないが――
(――正面衝突には弱い? まあ、魔法の特性を考えれば必然ですが)
どうやら、それらの決定打を喰らう前に、こちらの刃の方が届いてくれたようだ。
頬を抉り、舌を半ばほど切り落とした刃物の痛みを噛み殺しつつ、ミーアはリッセの右手首を骨まで切り裂いた感触を手に入れた。
と、同時にナイフを手放し、自由にした右手で相手の左手首を掴む。
これで敵の両手を封じた。ついでに、意表もつけたようだ。
一瞬の戸惑い。すなわち重大な隙。
ミーアは軽やかにリッセの顎目掛けて右膝を突き上げて、それを躱そうと彼女が首を大きく傾けたところで、落下を始めていたナイフの柄を、再生したての右の素足の裏に添えて、それを一気に踏みつけた。
血飛沫をあげる音が、刃の先にあったリッセの太腿の根元から発生する。
手応えありだ。片足の機能は間違いなく潰せた。
「ぐぅ、ああぐぁうああああああ!」
絶叫というよりは、咆哮めいたリッセの声。
それに呼応するように彼女の体内から魔力が溢れだす。負担度外視の放出だ。
もう一つおまけに、こめかみに肘を入れようとしていた身体が、その波によって突き放される。
こちらの間合いに、これ以上いるのは不味いと判断しての無茶か……
(……いや、どうやら気付かれたようですね)
リッセの位置が、捕捉できなくなった。
叫び声の所為で移動の足音も聞こえなかった。というより、その為に叫んだのだろう。前方にはいると思うが、距離も定かではない。
ただ、至近ではないだろうとリッセが落としていた右手のナイフを拾いながら、ミーアは警戒を強める。
すると、ぽたぽた、と背後から雫の滴る音がした。
まさか、いつの間にかそこまで移動していた? いや、それはあり得ない。片足はろくに使えないはずなのだ。これは罠、振り返ってはいけない。
(……叫びに混じって、なにかが空を切る音がしていた。あれは多分、腕を振り上げた音)
そうして大量に溢れ出ていた自身の血を、空高くにばら撒いたのだ。
一秒弱程度、全方位からその音が聞こえるようにするために。或いは、この場を自身の領域に変えるために。
いずれにしても、先程の魔力放出と、血の小雨で完全にこの場はリッセの魔力一色になってしまっていた。これでは、自分の魔力すら嗅ぎ取れない。
せっかく眼球から垂れ流していた血を使って、勘付かれないように彼女に付けた目印だったのだが、それもここまでのようだ。
左手に突き刺されたナイフで反撃をした時に、しっかり血液を浴びせる事ができていれば、まだ感じ取れたのかもしれないが……いや、あれは外れてくれて正解だったか。直接的な暴力に見せていたし一度きりしか仕掛ける予定はなかったとはいえ、あれが当たっていたらもっと早く看破されていたかもしれない。
そんな事を思ってしまうくらいに、リッセは出血を利用する行為に慣れているようだった。
(……おそらく、この音が止む前に仕掛けてくる)
平常時ならすぐでも、臨戦態勢時の一秒は長い。
下手に動いたら負けだ。とはいえ、向こうの方が速い以上、向こうより無駄なく先に動く必要もある。
その難関を乗り越えるべく、ミーアは全神経を音だけに集中させて、
(――え?)
突然、周囲を覆っていたリッセの魔力が霧散した。
付けていた目印が再び顔を出す。左側面、一歩あれば触れられるような距離。今すぐ反応しないと間に合わない。――違う。これも罠だ。目印の血をつけたのは服。服は簡単に脱げるし切り離せる。
条件反射で動かなった事実を奇蹟のような感じながら、ミーアは息を止め、手にしたナイフを強く握りしめて――そこで、背後と正面から大量の血が地面に落ちる音を聞いた。
ほぼ同時。どちらがリッセの立てた音なのかはまったくもって不明で、でも多分どちらかは彼女の位置を示すもので――
(……あぁ、怖いな)
久しぶりに、戦いの中で当たり前の感情を思い出しながら、ミーアは正面に向かってナイフを振り抜いた。
最後の最後で後ろから仕掛けてくるような性質でもないだろうという、ある種の信頼をもって。
そして、決着がついた。
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




