06
リッセ・ベルノーウの魔法は、大雑把に分類すれば光の行使に該当する。
ただし、高出力なものではないので、それ自体が相手に直接的な危害を与える事は難しい。せいぜい失明を狙える程度のものだ。
それ故に、魔法の価値の一つに暴力というものが含まれていたシュノフにおいて、彼女は出来損ないと蔑まれてきたわけだが、その制御に関しては他の追随を許さない領域にあった。
魔力の散布然り、視覚の支配然り、それらはただ同じ系統の魔法を持っていれば誰でも出来るような芸当ではないのだ。
特に、他人の視覚を支配するというのは、前提としてその人物が見ている世界を完璧に理解していなければならない事もあり、極めて難度が高かった。
周囲にある全ての光の動きや特性を把握した上で初めて、リアリティのある幻影というものは用意できるのだ。
ただし、当然それには非常に大きな労力を伴う。
要は、多人数を相手にする時は向いていない。さすがに、それらの処理を無理なくこなせるほどの演算能力はリッセにも備わってはいなかった。
だからこそ、今回は暗闇と金色を用意した。
お手軽な視覚干渉だ。魔力は少々多めに使うが、細かいところに神経を注がなくていいのは本当に楽で、しかも効果の程も初見相手には絶大だった。
完全な闇というものは、夜の暗さとは比べ物にならない。それを知るものは盲目の人間だけだ。
そして人は本質的に未知を恐れる。適応するまでは、否応なく全ての反応が鈍る。
金色はその状況においての、意識の拠り所のようなものだ。それを前にすれば、誰もが魅入られたかのようにそこに焦点を向ける。あてもなく全方位を警戒するよりもなお、脆弱な姿勢に陥ってしまう。
(……強いっていっても、こんなものよね)
無防備極まりないレニ・ソルクラウを冷めた目で見据えながら、すでに側面に回り込んでいたリッセは、足の健でも切り落とすかと攻撃する箇所を決定して――
「レニさま!」
恐れや迷いのない、その声を聞いた。
直後、鋭い斬撃がリッセの髪を数本ほど切り落とす。
回避していなければ、こめかみ辺りを裂かれていただろうか。
(――こいつ)
ミーア・ルノーウェルだ。
眼を閉じている。把握が少し遅れたが、こちらの魔法が機能すると同時に取っていた行動だ。つまり、その時点でこいつは視覚に頼ることを捨てたのである。
いくらなんでも早過ぎる。数秒後とかなら、納得も出来るが……
(……あぁ、そう、先読みされてたってわけね)
多人数を相手にするのなら、こういう方法の方が取りやすいだろうと判断したのだろう。
まったく、面倒な手間をかけさせてくれる。
それなら追加でミーア一人の視覚を弄るだけだ。目を閉じた程度で、光は遮断できない。
魔力の膜を張って防ぐにも彼女は弱すぎるし、そもそも強かろうがなんだろうが、浸食させる事は難しくない。それが可能な事も、リッセの魔法の強みの一つだった。
(先に、こいつを始末した方がよさそうね)
まだろくな対処も出来ていないレニの状態を確認しつつ、リッセは標的の視界に眩暈と吐き気必至の極彩色を、高速で回転させて映しだす。
が、その嫌がらせはまたも即座に無効化された。
なんの躊躇もなく、ミーアは自分の両眼を左の親指の爪でかっ裂いたのだ。そして、近くにいたリリカをレニの方に突き飛ばして、
「彼女をお願いします」
「――わかった」
僅かな逡巡のみで、レニもまた武器を消し去り、リリカを抱えて後方に高く大きく跳躍した。
まあ、こちらの手が読めていたのなら、当然それが来た際の打ちあわせくらいはしているだろうし、迅速であるのは当然だ。
(……あの飛距離なら、すぐに範囲外に出るわね)
地上を駆けてくれてくれたのなら、その前に魔法を仕掛ける余地もあったのだが、上空となればそうもいかない。
地上は家などがあるので魔力を定着させやすいが、上地区の上空はそういったものがないので、リッセの魔力も殆ど染みついていないためだ。
地盤が出来ていない場所では、即座に魔法は機能させられない。
血でも用いれば話は別だが……いや、どのみち、室内のような魔力が充満しやすい場所でなければ、それも難しかったか。
(……まあ、別に問題もなさそうだけど)
こちらが命じるまでもなく、オーウェが二人を追い駆けていた。
よほど、リリカという存在が邪魔なんだろう。主が屋敷のベッドで昏睡している間に、全部片付けておきたいのだ。
(教育熱心だこと)
その姿勢が少し気に入らないが、ルハはどうしようもなく愚かな娘なわけだから、多少は弁えるという事を覚えた方が良いというのは、たしかな事でもあった。
もっとも、今回の件でそれを教訓に出来るかどうかは、知らないし興味もなかったが。
(……それにしても、こいつ、本当にやってくれるわね)
ぽたぽた、ぽたぽた、と両の目尻から溢れ出て頬を伝い地面に落ちていく血の量からして、眼球は完膚なきまでに潰れているだろう。魔力を込めて壊したわけではないから、治癒自体は簡単なんだろうが、それにしても思い切りがいい。
ただ手馴れているというのでもなく、なんだろう、殺し合いというものを恐ろしいほどに割り切っているような、修羅場を常としていた者の貫録がそこにはあった。
(……上等だよ)
少し、愉しくなってきた。
憎悪とはちょっと違う、この昂揚感。
最初に会った時から気に入らなかったのだ。まあ、お互い様だろうが、だからこそ、ここで格付けをするのも悪くない。
「レニ・ソルクラウじゃ、オーウェ・リグシュタインには勝てないわよ? あいつは、この都市でも十本の指に入る特化戦力だしね」
ゆっくりとミーアを中心に左回りに動きながら、リッセは軽い口調で言う。
「だから、早々に貴女を始末して追いかけろと?」
「親切な助言でしょう?」
「そうですね。くだらない挑発ですが、降りる理由はなさそうだ」
どこまでも硬質な、怖い声。
背筋が粟立つほどの殺気が迸る。
それに乗るようにして、ミーアは軽やかに地を蹴った。
無駄というものが一切ない接近。洗練されきった動作というものは、否応なく認識を遅らせる。
「――っ!」
甲高い金属音。
鞭みたいにしならせた細剣が、ナイフに弾かれる。左手に伝わる微かな痺れ。その程度の衝撃。
(……やっぱり、技術以外は大したことない)
速さにしてもそうだ。体感的には相当だが、数字的に見れば糞の価値もないこの都市の上級騎士程度のものでしかないだろう。
下手に焦らなければ問題なくこちらの反応は間に合う。
それに視覚が使い物にならない弊害も、今のでははっきりと確認できた。
狙ったのはおそらく目だったろうに、細剣は頬骨の辺りには裂こうとしていたのだ。力も速度もない技術だけの奴の、肝心要のその技術にも問題が生じている。
つまり、向こうにはもうなんのアドヴァンテージもない。
それが当然でなければならない状況で、その事実を確認していることが、すでに敵の脅威度を物語ってはいたが……かといって、ここで慎重な手を取る気は、これっぽっちもなかった。
経験で上回る相手に、長期戦は失策だ。
リスクを冒してでも、明確な優位が生きているうちに片付ける。
「ねぇ、あんたの首をあいつの目の前に転がしたら、どんな顔をするのかしらね。ちゃんと悲しんでくれると思う?」
「半殺しという話だった筈ですが? どうやら記憶力にも難があるようですね。貴女」
つまらなそうに、ミーアは言葉を返すが、
「二人共とは言ってないだろう? それに、あんたもその方が都合いいんじゃないの? あたしを殺せる正当な口実が手に入るわけだしね」
その言葉で、一瞬だけ動揺を見せた。
……わかりやすい女だ。今後の事を考えれば、リッセ・ベルノーウを殺すのは不味いというのは理解しているし、なによりレニがそのつもりだからそれを守らなければと強く思っているが、本音としてはここで自分を殺してたまらないのだろう。
「私は、貴女のようなケダモノとは違います」
あげく、そんな自分の気持ちを恥じている。
硬く尖った声には、その心情が滑稽なほどに晒されていた。
「あんたってさ、本当つまんない女よね。誰かに寄りかからないと生きていけない奴。本当、くだらない歯車そのものだ。……あぁ、そうね、殺すならレニの方が良いわ。その時あんたがどんな顔をするのかは、間違いなく見物だろうしね」
「……出来もしない事をぺらぺらと。本当に不愉快な人ですね。貴女は」
細剣を握るミーアの手に力が込められていく。
あの手の武器を強く握る必要がある場面は、攻撃の瞬間くらいだ。じゃないとスナップを利かせるの難しくなり、速い攻撃を出せなくなる。
(挑発は効くみたいだな)
守りに徹されると面倒という判断からの行いだが、これは上手くいったようだ。
やや後ろに引いていた構えが前のめりに変わったのを捉えながら、リッセは楽しげに笑ってみせる。
「気に入らないなら黙らせればいい。人は死ねば黙る。簡単な話だろう? まあ、あんたには無理な事なんでしょうけどね」
「――」
ぎぃ、と歯が軋む音と共に、ミーアが地を蹴った。
力が入り過ぎている露骨な接近だ。右手の振り抜きも案の定遅い。
まあ、とはいっても元々の完成度に比べてなので十分一流の域にある動きではあるのだが、ただの一流では足りないのが、この女のお粗末な身体能力だった。
故に、これは決定打だ。
(思っていたよりは簡単に済みそうね)
最小限の動作で攻撃を躱しながら、リッセは右脇腹目掛けてナイフを投げつける。
カウンターで放った一撃なので、躱すことなど出来ない。――が、間一髪で致命傷は防がれた。風を裂く音でも聞き取ったんだろう、ギリギリのタイミングで左手を差し込んできたのだ。
「――そこっ!」
あげく、根元まで刺さったナイフをあろうことか握りしめて、ミーアは刃の突きだされた手の甲の部分をこちらに向けて突きだしてきた。
痛みがないわけでもないだろうに、よくやるものだ。
半ばあきれながらそれを回避し、リッセは右の太腿目掛けて更にナイフを投げる。
投擲に使用できるのは、これであと二本。それで確実に動きを潰してから、密着して仕留める。それが現状のプランだったが……今度は綺麗に回避された。
どうやら不必要な力は抜けたらしい。それなりに早い復帰だ。
(まあ、成果は十分か)
今の無茶で、左腕全体に痙攣が起きはじめていた。精緻かつ機敏に動かすのはもう無理だろう。
なら、そこを重点的に攻めたてていくだけだが、さすがにそれは避けたいのか、ミーアは右肩がこちらの正面に来るように半身になって、細剣を高い位置に構えた。
ちょうど直線に突きだせば額を射抜く、そんな感じだ。でも、あまり堂には入っていない。重心は後ろにかなり逃げているし、これは守備重視なんだろう。
怪我をする前だったら、それがベストな選択だったろうに。
「苦手な事はするもんじゃないわよ? ボロが出やすいからさ」
嘲るように笑いながらリッセは深く踏み込み、速度重視でナイフを振り抜く。
受け流しは上手い。けど、こちらは両手だ。右が防がれたら、即座に左を翻す。ナイフが届く距離なら、手数で負ける事はない。
そしてどれだけ上手かろうが、片腕で対処できる数は限られている。
「――っ、く!」
さすがにこの距離は不味いと判断してかミーアは大きく距離をとったが、雑な跳び退きは自身の行動を制限する愚行だ。両足が地面についていない時間が長いということは、それだけ身体を自由に動かせない時間が増えるという事でもある。
だからこそ、基本的には細かなステップをつかって、相手の状態を見てから大きく逃げるというのがセオリーなのだが……まあ、それが出来るような状態なら、そもそもこんな事にはなっていないだろう。
(今の隙に一本使ってもよかったわね。――いや、その必要もなかったか)
ちらりと敵の足元に視線を向けて、再び距離を稼ごうと僅かに膝が曲がったところを確認すると同時に、リッセはその右足を踏みつけた。
グシャッ、と足の甲の骨が砕ける音が伝わる。
特注の靴のおかげだろうか。本当に簡単に潰れてくれた。
(これで片足も半壊。ほぼ勝負あり、かしらね?)
とはいえ、まだ確信を持つには至らない。
潰した直後、こいつはまた自分の身体を厭わずに足首を細剣で切り落として、無理矢理距離を取ることに成功させたからだ。
相変わらず早い反応。そこが気に入らない。
(……それにしても、ずいぶんと頑なだな)
もしかすると、距離を取る事に別の目的があるのかもしれない。
ミーア・ルノーウェルの魔法が治癒に関係するものなのは確定しているが、使える魔法がそれ一つとは限らないからだ。
貴族であるのなら核を二つ以上所有している事は珍しくもないわけだし、離れる事で勝機を得られる切り札を持っている可能性は捨て切れない。
(まあ、どっちにしても時間を与えるつもりはないけどね)
リッセはすぐに追撃の一歩を踏み出して、ミーアの喉元目掛けてナイフを振り払い、それが防がれると同時に右の脇腹目掛けて、回し蹴りを叩き込んだ。
ヒビが入った程度の感触。
(こっちは、魔力の密度を集中させて耐えたか)
それに上手く威力を逃がされた。インパクトの瞬間にバックステップを取られたのだ。
そうして、またもや距離が出来る。
莫迦の一つ覚えみたいで、さすがにイラついてきたが……どうやら、逃げるのはこれで終わりらしい。
こちらの追撃に合わせるように、ミーアは重心を前に戻していた。
迎え撃つ構えだ。まだ片足も治っていないのに、やることでもないと思うが、なにかしらの準備が整ったのか? 周囲の魔力や、彼女自身の体内にある魔力に大きな変化がない以上、それもなさそうだが……。
(ハッタリならこれで終わり)
仮にそうじゃなくても、ここで終わらせる。
リッセはナイフ二本を投擲しつつ、最後の予備を両手に補充して、そのナイフと並行する速度をもってミーアに迫った。
ほぼ同時に届く四の刃だ。仮に視覚が機能していたとしても、容易く凌げるものではない。
事実、二本のナイフは深々とミーアの脇腹と右肩を朱に染めてくれた。
だが――
「……攻守、交代ですよ」
握りしめていた両手の刃は驚くほど流麗に捌かれ、返しの一突きがリッセの右肩を貫いていた。
灼熱のような痛みよりも、その驚くべき精度に戦慄が走り、思わずこちらから距離を取る。
ミーアは追ってこない。代わりに、欠けた足の治療を優先的に行いながら、左手に突き刺さっていたナイフの柄を歯で掴んで引き抜いて……からんと、彼女の口から落ちたナイフが、不気味なほどに乾いた音を立てた。
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




