03
多くの事柄において、タイミングというものは重要だ。
昼食を終えた相手を昼食に誘っても断られるのが自然なように、些細な提案一つをとってもそれが成立する時と成立しない時というのがある。
特に心情の揺らぎによって結果が大きく変わる類というのは、そのタイミングに細心の注意を払うべきだ。
だからこそ、俺はリリカにいつその提案をするべきか、ずっと計っていた。
彼女が自らの意志で父親を説得し、貴族に成る事を放棄させる道を取ってもらうために。……まあ、それが今であることが本当に正解なのかどうかは、それこそ結果のみが教えてくれるものなんだろうけど。
「……あの、話ってなんですか?」
想定していた以上に焦燥の色が見えるリリカに、正当性では誤魔化しきれない罪悪感を覚えつつ俺は言う。
「このままだと、ロクサヌさんは破滅する」
リッセの残虐は一日、二日で終わるものではなかった。
シュノフの方でも容赦なくやっている(或いはやっていた)のか、本社の従業員がいなくなっただの、どこかの倉庫がまた燃えただの、散々な情報が届けられていたし、この街での事業に到ってはそういった悲報が毎日のように続いていた。
そして当然のように、リリカの姿をした者の悪趣味さも増していっていて、傍から見れば見るほどにロクサヌという人間の卑小さや、自分本位な面が強調されて映し出されていた。外面なんてものはもはや使いようがないくらいだ。時折、余分に拾ってしまっていたルハやオーウェさんの反応もショックを受けたものだったり軽蔑的なものだったりして、彼の世界は着実に破綻しようとしていた。
この調子が続けば、最終的には自殺という決着になりそうだが。
「でも、リリカならそれを防げるかもしれない」
真っ直ぐに彼女の目を見て、俺は言った。
返ってくる言葉はない。微かな戸惑いと、ある種の諦観がその表情には滲んでいる。
「ねぇ、リリカはまだ貴族に成りたいって思っている? 貴族の事を知った上で、そう思えている?」
「……お父さんは最後までその気ですよ。現に、今も降りる気ないみたいだし」
自嘲気味に彼女は嗤った。
「あれは偽者だよ。君じゃない」
「お父さんにとっては本物です。だって、気付いていないんだから!」
それはこちらの胸が痛むくらいに悔しそうで、哀しそうで……でも、だからといって今更ここで踏み込むことに躊躇するわけにもいかない。
「…………私は、母の事が誰よりも好きだった」
遠い昔を思い出しながら、俺は言った。
「母も私の事を愛してくれていた。疑う余地もなく、世界中のなによりも。……でも、そんな私でも、時々母を母だって気付けない時があった。凄く化粧映えする人でね。あげくその幅も広くて、しょっちゅう別人みたいになっていたから」
大抵の女は化粧で出来ているなんて、よくテレビの女優とかを見た時に冷めた表情で言ってたっけ。
そんな事を思い出しながら、リリカの反応をみて、俺は言葉を続ける。
「姿っていうのは、それくらい認識を占有する要素なんだと思う」
「けど――」
「今のあの場所に正常さはないよ。ロクサヌさんは追いつめられているし、リリカだってそうなってもおかしくない状況なんだから、誰も普段通りではいられない。当然、普段判っていたりするものが判らなくなる事だって十分あり得る」
実際問題、余裕がないっていうのはそういう事だ。
「ただ、たとえそんな状態でも、リリカが会って話をすれば、すぐにどっちが本物なのかは判ると思うけどね」
「どうして、そんな事が言えるんですか?」
適当な事を言うなといわんばかりに苛立ちを滲ませ、リリカは俺を見据えてくる。
それを真っ直ぐに受け止めて、俺は答えた。
「偽者に出来る事は限られているから。彼女には追いつめる言葉しかない。それは相手の事なんて知らなくても、誰にだって簡単に用意出来るものだ。でも、心を救える言葉は、その人をちゃんと理解している人じゃないと用意は出来ない」
多少、綺麗事かなと自分で思わなくもないけど、嘘を並べたつもりはなかった。
ロクサヌはお世辞にもいい父親とはいえないのかもしれないけど、それでもまだ父親ではあるというのが、彼の動向を見て俺が感じた事だったからだ。
だからこそ、もう一歩踏み込めると判断する。
「リリカは、お父さんの事が好き?」
「……はい」
「お父さんは、リリカの事が好きだと思う?」
「………判りません。でも、好きでいてくれたら、いいなって」
か細い声でリリカはそう答え、
「昔はこんな事、考えた事もなかったのにな……」
と、乾いた笑みを浮かべた。
それから視線を落として、太腿の当たりに添えていた両の拳を握りしめて、
「お母さんが死んでから、お父さん変わっちゃって。貴族に成らないと幸せは約束されないんだって、仕事にばっかり夢中になって、偉くなる事ばっかり考えるようになって……貴族なんて、お母さんを殺した奴等なのに」
じわりじわりと潤んでいった瞳から、涙が伝う。
「……昔のお父さんに戻って欲しい。別に貧乏でもいい。一緒にご飯食べて、時々洗濯手伝ってもらったりして、そんな風に普通に暮らせるなら、それだけでいいのに……お父さんが死ぬの、嫌だよっ……!」
彼女はその場にしゃがみ込んで、泣きじゃくった。
きっと、ずっと我慢していたんだろう。色々なストレスを、聞き分けのいい子供として呑み込んでいたんだろう。
そういうのは、吐きだせるところで全部吐き出してしまった方が良い。
嗚咽が止むまでの間、俺は静かに待つことにした。……まあ、この場に一緒にいたミーアが、ベッドの隅に居心地悪そうに腰を下ろしたまま、さっきからずっとあたふたしていて、どうしたら泣き止んでくれるのか悩んでいる感じだったので、それは「なにもしなくても大丈夫だよ」って手で制しておいたけど。
「……私たちに、ロクサヌさんを説得する事は出来ない。彼は他人の言葉になんて聞く耳を持たないだろう。でも、今のリリカの気持ちは絶対に届く」
リリカが涙を拭い鼻水を啜って、顔をあげたところで、俺は彼女に手を差しだした。
「……どうして、そう思うんですか?」
先程とは、微妙にニュアンスの違う問いかけ。
それに、俺は少しだけ自信多めを装って答えた。
「君がお父さん想いの良い子だから。そんな子を好きじゃない親なんていない。……これは説得力、あるでしょう?」
「……そう、ですね」
小さく笑って、彼女は俺の手を掴んで立ち上がる。
その目はまだ不安に揺れているようではあったけど、それ以上の決意が光となって宿っているように感じられた。
「状況は私たちが作る。誰にも邪魔はさせない。……リリカ、戦える? お父さんと」
「それ以外、ないんですもんね。お父さんが諦めないと、お父さんが死んじゃう。どっちにしたって、私がしなきゃならない事は一つなんだ」
自分に言い聞かせるようにそう呟いてから、彼女は言った。
「お願いします。私をお父さんの所に連れていってください」
「わかった。……あぁ、でもその前に、一つ耳に入れておいて欲しい事があるんだ。多分、凄く大事な情報になると思う」
と、そこで俺はミーアに視線を流した
「悪いけど、少し席を外してもらえるかな。彼女だけに知っておいてもらいたい話なんだ」
「わかりました。では、私は情報の更新をしておきますね」
「ありがとう。……ごめんね」
「いえ。情報とは常に全て共有していなければならないというものでもありませんから」
そういう扱いというか対応になれているのか、ミーアは特に不審を抱いた様子もなく涼しげな表情でそう言って、部屋を出て行った。
そうして二人になったところで、俺はその情報と、それが必要になるかもしれない状況などを彼女に伝え、それに対する彼女の質問に答えていく。
それがおおよそ一段落ついたところで、部屋の扉が開いた。
焦っているのが判る、慌ただしい音。
視線を向けると、そこにはうっすらと汗をかいたミーアの姿があって。
「なにかあったの?」
「三次審査の期日が急遽早まったようです。どうやら、かなりの大物が圧力を掛けたようですね」
十中八九、それはイル・レコンノルンだろう。
まだ顔も知らない相手だが……。
「いつなの?」
「本日の十七時です」
俺は懐から懐中時計を取り出して、時刻を確認する。
あと二時間。
「今日で良かった、というべきかな」
覚悟というものも時間で鈍る。
そういう意味では、リリカが決断した今日以上に行動を起こすにふさわしい日はないだろう。どういう意図でそんな事をしてきたのかは知らないが、こちらにとっては好都合だ。
「……行こう」
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




