02
「……この辺りでいいか」
ララノイアの家から大体三百メートルほど離れた距離で、俺は足を止めた。ここからなら、屋敷内部の音まで拾う事が出来る。
まあ、色々な雑音も入ってくるし、特定の音だけを聞こうとするとそれはそれで神経を使うので、あんまりやりたくはない盗聴だけど、わざわざ視認できる範囲にまで近づくよりは安全だろう。
ということで、知らない貴族の屋敷の塀に背中を預けながら、目を閉じて耳を澄ます。
娘がいなくなった翌日だ。普通に考えればロクサヌの心境は穏やかではいられない筈だが……
『しかし、本当に無事でよかった。お前になにかあったら、私はどうしていいかわからなかったんだぞ?』
その彼の声が聞こえてくる。
話しかけている相手は誰だろう? 会話の内容から推測すれば一人しかいないが、仮に俺が外に出てすぐにリリカが連れ戻されるような事態になっていたとしても、今ララノイアの家に彼女がいるなんて事は考えにくい。時間的に無理がある。
つまりは偽者。
偽者がララノイアの家にいる。
その事実に気付いた瞬間、リッセの狙いがはっきりと理解出来た。
『大丈夫だ。声なんてすぐに出せるようになる』
腫物に触れるような、優しいロクサヌの声が届いてくる。
喋れば別人だとバレるから失語症を騙っているようだ。酷い目にあって、それでもなんとか自力で逃げ出して、家まで戻ってきたという流れが昨日あったんだろう。
『どうした? なにか言いたい事でもあるのか?』
……文章で伝えているのか、数秒ほどの沈黙が過ぎる。
『い、いや、それは難しい。このあと予定があるんだ。大事な予定だ。わかるだろう? お前が貴族になれるかどうかを決める一因になるかもしれないものなんだ』
と、ロクサヌが困ったような声をもらした。
不安だから傍に居て欲しいとか、そういう内容を綴ったみたいだ。もちろん、それが叶わない事を判った上での要求だろう。
なら、次に偽者が求めるものは決まっている。
『――っ、ふ、ふざけるなよ! 薄汚い賊共がっ! 逃げるな! ここで死ねっ!』
窓が割れる音が響き、続けてロクサヌの怒号が轟いた。
『何をぼけっとしている! さっさと来い! 支払った分の仕事くらいはしろ! この無能がっ! ……あぁ、大丈夫だ。大した怪我じゃない。すぐに治る。すぐに治るさ』
今の攻撃で、リリカが怪我をしたように見せられたようだ。滞在していたらしい医者を乱暴に呼びつけて、ずいぶんと動揺している様子だった。
問題は、その動揺がどこから来ているものなのかだが……
『は? な、なにを急に……今更、そんなこと出来る筈がないだろう? 大丈夫だ、貴族にさえなれれば全て片付く。奴等のふざけた蛮行もこれで終わりだ』
切羽詰まったロクサヌの声。
どうやら、偽者は間髪入れずに仕掛けたようだ。
『だから、お前は黙って私の言う事を聞いていればいい。そうすればなにも問題はない。全てはお前のためなんだ。お前の幸せのためなんだよ。わかるだろう?』
……果たして、このやりとりを見て、彼の言葉を鵜呑みに出来る人間がどれくらいるだろうか?
そして、仮にその光景をリリカ本人が見ていたとしたら、彼に対してどんな感情を抱いたのか。
まったくもって、気が重い。
伝えると約束した以上、それは俺が口にしないといけないのだ。
どこまでも酷い理由の誘拐。本当、リッセはエグい事をしてくれるものだけど……でもそこには、わずかな救いも内包されているような気がした。
少なくとも、この方法ならリリカまで破滅する事はなさそうだったからだ。
むしろ、絶対に殺す対象であるロクサヌを、殺す前に見限らせるというのは彼女の苦痛を緩和する慈悲ともいえるだろう。
マーカスさんは見境なく徹底的にやると危惧していたみたいだけど、どうやらそのあたりは外れてくれたようだ。おかげで、こっちにとっての最悪の手段は取らなくてもよくなった。
わざわざリッセがそれをやってくれるのだから、こちらは本当に最良だけを目指せばいい。そこへの糸口も多少は見えた。
俺は目をあけて、ララノイアに傾倒させていた聴覚を日常に支障ないレベルに戻し――
「楽しい盗み聞きは終わりか?」
右手の方から、突然声がした。
完全に意識の外にあったこともあって、身体が硬直する。
「あ、アダラさん……?」
恐る恐る視線を向けると、そこにはへらへらとした笑みを浮かべた彼がいた。
「そんな強張るようなことでもないだろう。会いに行くって報せは出していたと思うがな?」
報せというのはあの雨の事か。
なんとも一方通行な話だけど、ある程度想定はしていたし腹を立てるような事でもない。
「なにぶん、いつなのかが判らなかったものですから」苦笑気味にそう返しつつ、俺は訪ねた。「……それで、どういったご用件でしょうか?」
「ちょっとした悪い報せって奴さ」
そう言う彼の表情は、相変わらず人を食ったような笑みで満たされていて、
「俺たちの立場は現状ヘキサフレアスと同じで、新しく貴族が増えるのを望んでいない。だから、今の俺達は仲良しだ。肩を組んで歩いてもいいくらいには……って、あの嬢ちゃんはチビだから浮いてしまうな。それじゃあ嫌がらせか。はは」
絶対、リッセがそれを気にしているのを判っていて言っているんだろう。
「あぁ、これは告げ口しないでくれよ。殺すなって命令されているんでね。ただ我慢するっていうのは、苦手なんだ。気が狂いそうになるからな。それはそうと……あー、なんだったか? そうそう、今俺たちは仲良しって話だが、ここにきてそんな仲良しな俺たちに水を差すような輩が出てきてな。それがどうでもいい奴ならバラして終わりなんだが、そう簡単な相手でもない」
最後の物騒な言葉には、それに見合った冷たい表情が添えられていた。
「……つまり、前提が崩れかけているということですか? リリカが貴族に成れる可能性が出てきてしまった」
「話が早く済むのはいい事だな。あぁ、まさにその通りで、あのくそったれの求婚者の所為で、お嬢ちゃんの素敵な時間が終わるかもしれない。そうなれば、あの商人の娘は始末した方が楽になる。それはヘキサフレアスにとっても同じことだろう。皆無だったからこそ放置されていたわけだからな」
……たしかに、それは悪い報せだった。
まあ、こちらがする事に変更はないが、それに必要な交渉がかなり難しくなったのと、イル・レコンノルンという障害まで出てきたのだ。
「深刻な表情してるところ悪いが、面倒な種はもう一つあってな。それに合わせてゼベの坊やがまた勝手に何か始めたみたいなんだよ。そのあたりも注意した方がいいだろう。あるいは上手く利用するのもありだな。まあ、どっちにしても目障りなら殺して構わないぞ? いや、むしろ殺せ。成功したら、一本酒でも奢ってやってもいい」
やけに愉しそうに、アダラさんは言う。
本気なのか冗談なのか区別がつかないのが厄介だったが……。
「それは約束できませんけど……そうですね、あまり気は使わない事にします」
と、俺は当たり障りのない言葉を返しておくことにした。
「まあ、それでもいいさ。じゃあ、せいぜい最悪の結末にならないように気張ってくれよ? うちの頭も、子供を殺すのは嫌みたいなんでな。まあ、所詮好みの話だから、それで組織が動くこともないわけだが」
どうやら、それがここに来た理由だったようだ。
意外なのかそうでもないのか、俺はまだヴァネッサという人物を把握してはいないけど……
「もっと自分勝手に使えばいいっていうのになぁ。てめぇが作ったものなんだからさ。本当、つまんねぇ話だよ。はは」
そう愚痴るアダラさんの表情はどこか嬉しそうでもあって、個人的な頼みを彼にする程度にはリリカという少女の事を気遣える人なんだというのは、なんとなく感じ取れた。
まあ、だからといって積極的に関わりたい相手でもないが。
「……あぁ、そうだ。最後に一つ、上品そうなお嬢さんにいい事を教えておこう。ゼベの奴の弱点だ。敵になったら狙うといい。きっと、泡を吹くほど効くだろうからな」
自分の股間を右手で軽く二度ほど叩きながら言って、アダラさんは愉快そうな笑みを最後に残し、こちらに背を向けた。
……いや、そこ男全般の急所だから。
というか、想像して寒気を覚えるあたり、こんな体になってもまだちゃんと男ではいられているのか、なんて極めて複雑な感慨を抱きつつ、とりあえずその手段だけは最後の最後までとっておこうと心に決めて、俺もまたその場をあとにした。
次回は三日後に投稿予定です。よろしければ、また読んでやってください。




