04
熱いシャワーが、レニ・ソルクラウの肌を少しだけ赤くする。
心地のよい刺激。それにしばし身を委ねて、雨に混じっていた匂いが落ちるのを待ってから、俺は石鹸とシャンプーを使って念入りに身体を洗い風呂を済ませ、長袖のシャツに緩めのズボンを身につけた。
それから冷蔵庫から水を取り出し、ソファーに腰かけて喉を潤したところで「……ふぅ」と一息つき、その場に横になる。
眼を瞑ると、雨音が良く聞こえた。
ミーアは大丈夫だろうか? まあ、彼女の事だからそつなく凌いで、俺みたいに濡れ鼠になるような事もなく帰って来るとは思うけど――
「ただいま戻りました」
玄関の扉が開く音とともに、今しがた脳裏に浮かべた彼女の、やや疲れたような声が届けられた。
俺は上体を起こし最低限迎える準備を済ませて、この部屋のドアが開かれるのを待つが、なかなか入ってこない。
それに少し嫌な感じがしたので立ち上がり自分からドアを開けると、そこにはずぶ濡れのミーアの姿があった。
右手には傘をもっているのに、どうして彼女はそんな有様なのか。
「……すみませんが、タオルをお願いしてもよろしいですか? このままだと廊下を濡らしてしまうので」
「あぁ、うん。――あ、いや、別にそのままでいいよ。私もずぶ濡れで帰って来たから、床もう濡れてるし」
そういえばまだ拭いてなかった事を思い出しつつ(一歩一歩を大きくとって出来るだけ被害を減らそうと試みたために、そこそこ間隔がある)俺は言った。
「……傘は、間に合わなかったのですか?」
玄関口に立てかけてあった目新しい傘にちらりと視線を流して、ミーアが言う。
「それは、こっちの台詞でもあると思うけど?」
「そうですね。傘は雨が降りそうだったので事前に購入できていたのですが、少しさして帰るのが怖かったので」
「怖かった?」
「手と視界に支障が出ますから。その場合、私では奇襲の対処は難しいですし……本当、嫌な雨でした。ここまで巧妙に、それも特定の気配だけを隠蔽するような魔法を使ってくる相手がいるというのは厄介な話です。幸い、狙いは私ではなかったようなので、杞憂もいいところではありましたが」
やや神妙な面持ちで答えながらミーアは傘を立てかけ、ジャケットを脱いだ。
ブラウスが姿を見せる。ついでに雨に濡れた影響で、水色の下着もくっきりと浮かびあがっていた。
フラエリアさんと共に行った服屋で、彼女が間違えて俺に渡した下着だ。
その事実に気付いてしまい、途端に落ち着かない気分に陥る。なんというか、その際に手にしたいくつかの情報が頭をよぎった所為だ。ちょっと心臓がどきどきしているし、嫌な汗も滲みだす。
こういう無防備は、俺がレニだから仕方がないんだろうけど、不意打ち気味に喰らうとなんというか、やっぱり凄く困るのだ。
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもない」
視線をそこから出来るだけ自然に外し、俺は小さく深呼吸をして自分のこの妙な気持ちを落ち着かせた。
「そうですか。では、浴室の方を使わせていただきますね」
「うん、ごゆっくり。あぁ、でも、その前にタオルを一つ貰えるかな?」
「…………ありがとうございます」
はにかむようにミーアは微笑み、浴室からタオルをもって来た。
それを受け取り、彼女が浴室に再び消えたのを確認してから、俺は床を拭き始める。それと並行して、今のミーアの話をかみ砕くことにした。
この雨は、おそらくヴァネッサさんの関係筋がやった事なんだろうけど、その目的が一体なんなのは今のところ不明だ。まあ、でもこちらにわざわざ教えてくれたということは、直接的に関係している事でもないんだろう。そうでなければ情報を漏洩するとも思えない。
いずれにしても、今のところ俺たちは水面下で起きているなにかとはそれほど深く関わっていないという事だ。あくまで、今のところはだけど。
「……よし」
そうこう考えている間に、拭き掃除が完了した。
濡れている箇所だけでなく、どうせならと汚れている部分などにも着手していたこともあって、いつのまにかシャワーの音も途切れている。
程なくして、ゆったりとした部屋着に着替えたミーアが浴室から出てきた。
その彼女に水の入った彼女用のカップをさしだしつつ、俺は訪ねる。
「そういえば、収穫はあったの?」
「あ、ありがとうございます。……ええと、そうですね。少し不快な事も込みで、いくつか有益な情報を得られたと思います」
「不快って、もしかして反故にされた物件の類とか?」
「レニさまも調べていたのですか?」
軽く驚いたようにミーアは目を丸くした。
「いや、そういうわけじゃないけど、ちょっとそこに寄る事になって、今住んでる人達と顔を会わせる機会があったんだ」
そう言いながら、俺はソファーに腰を下ろした。
一人分の余白を挟んで、ミーアも隣に腰を下ろす。
「……どのような人物でしたか?」
「あまり好意的には見れない相手かな。少なくとも片方はだけど」
「そのあたりは、情報通りのようですね」
短く吐息を零してから、ミーアは水を一口飲んだ。
俺もなんとなく先程の水の残りを飲み乾してから、訪ねる。
「悪名高いって感じ?」
「商人の世界ではそのようです。ロクサヌ・エインスフィート。シュノフを拠点にしている従業員三百人を抱えるエインスフィート社の社長で、余所の都市にまで商売を広げているようですが、そちらの方で色々と問題を起こしていて、立ち入りを禁止されている都市まであるみたいですね。まあ、もとより売り逃げのつもりで仕掛けた戦略の結果なのでしょうが」
「シュノフでは、その件は問題にならなかったの?」
「余所の事にはまったくと言っていいほど興味がない都市のようですから。それに、結果的に税金を多く納めてくれる相手になるわけですし、本国であるルーゼ・ダルメリアの圧力でもない限りは、知らぬ存ぜぬを徹すのでしょうね」
「そんなところのお金持ちが、今度は貴族っていう価値を求めてここに来たわけか」
「はい。それもルーゼからの推薦状まで持って。もっとも、このトルフィネにそれがどの程度の効果を持つかは不明ですが」
「トルフィネもルーゼの傘下なんじゃないの?」
「それはそうなのですが、そこに至った経緯が異なります。他の多くの都市は戦争で敗れて軍門に下りましたが、ここだけは合併に近い形で取り込まれましたので、発言力が余所の都市とは違うみたいなんです。まあ、それ抜きに貴族の力が強いというのが大きいのでしょうが」
「そっか、なるほどね」
「はい。それで、ええと、話を戻しますが、そういう背景があるので余所者が貴族になる事に反発する勢力は多いようです。ですから仮に依頼を引き受ける場合は、相手は十中八九貴族になると考えられます。そしてその貴族たちですが――」
ミーアはつらつらと、その可能性が高い候補の情報を話し始める。
そこにはかなり細かいものも含まれていて、正直全部を頭に詰め込むことは出来なかったけど、結構な数の貴族が敵になりえるというのはよくよく理解出来た。
しかも、大物の部類もいるようだ。
その筆頭にイル・レコンノルンという名前があった。たしか、リッセに求婚しているとかいう貴族だったはずだけど、大物の割に情報がやけに少ない。
いや、大物だからこそ情報を上手く規制しているのかもしれないけど、仮に揉めた場合はかなり厄介そうな相手だな……という感想を抱いたところで、ミーアの表情が突然険しくなった。
「どうかした?」
「……信じられない」
独白めいた言葉と共に、彼女は立ち上がる。
そこで、俺も近付いてきている気配に気づいた。
今の時刻は十八時十分。俺のいた世界の感覚で言えば、だいたい夜の十時とかそこらである。
そんな時間になるまで長話をしてしまっていたのもちょっとした驚きではあったけど、まあ、それはともかく、ここは下地区なのだ。昼間でさえ危険な気配に溢れている一帯。夜になれば本当に物騒という言葉以外出てこないくらいの場所なのである。
そんなところに何故か一人でやってくるか弱い貴族とか、もう正気の沙汰とは思えなかった。
ルハである。この感じは、間違いなく彼女だ。
駆け足で近付いてきている。大体あと百メートルほどの距離。迷いのなさから見て、此処を目的にしているようだけど、オーウェさんは一体どうしたのか――なんてことを考える間もなく、ミーアは玄関に向かって足早に歩きだしていた。
その音で判る。これは相当に怒っている。
まあ、正直ちょっと意外な感情ではあったけど……いや、そうでもないのか。
なんにしても、このままここで待っているのは精神衛生的によろしくない。ということで、俺もミーアの後を追いかけて玄関を出た。
向こう見ずもいいところな、お嬢様を迎えに行くために。
次回は二、三日後に投稿予定です。よろしければまた読んでやってください。




