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-そう、あれは小雨がこの町に降った日の事。
リンナという鬼の封印を解き…そして千年世に初めて神降ろしの儀を施した日でもある。
ひき逃げされ死亡したと思われる女子高生が此処、千乃樹町の国道で発見された。
しかし彼女の死体には不可解な点が二つほどあった。
抜き取られた多量の血、そして奪われた心臓。
凶器は不明。手がかりはその傷跡が彼女の死後-獣の持つ爪のようなものでこじ開けるように裂かれていた事-だ。
…これでは手がかりにはならない。
ナイフ、ナタ、カマ、ありとあらゆる凶器と傷跡を照らし合わせても一致せず、検視官は頭を悩ますばかりときた。其処で僕の前に現れたのが成子君…桂木成子警部補。この町の交番を統べる女王と呼ばれている。
彼女が僕の目の前に現れた時、直ぐに何が起こったか察知した。何故直ぐに理解できたか、その理由は彼女の手に、いつも下げている米袋がなかったからだ。
***
「千年世、千年世、起きなさーい!」
返事がない。
温めた味噌汁の匂いが香る朝。
水桜は階段の一段目に片足をあげ、二階に存在する千年世の部屋に向かって叫ぶ。…まだ眠っているな、こういう時は奥の手だ。
とは言っても毎日のように使っている手だから奥の手とは呼べないか。
「ちーちゃあん、ちーちゃあーん!起きなさーい!学校遅れるよー!」
間髪入れず二階から物音がする。その後バタバタと響いてくる足音…せわしなく動いている。
起きたか。
「兄貴っ!いい加減キモい呼び方しないでよ!」
現れた千年世は紺色のセーラー服姿。裾はめくれ上がり、赤いリボンはヨレヨレ、慌てて着替えたのが直ぐに解る。あさっての方向にピンと伸びる千年世のアホ毛を見て、くすりと水桜は笑った。
「だってえ」ムッとして二階からこちらを見下ろす千年世に向け「こうでもしないと起きないんだもん。千年世…いや、ちーちゃんは」とからかうように水桜は言う。
千年世は力強く、まるで階段を踏み潰すかのように一歩一歩降りてくる。その表情は絵に描いたようなハネっ返り娘…まさに反抗期のそれだ。
「キモい、っての兄貴!もうそう呼ばないでよ、いい加減!」
「いい加減、ってのはこっちの科白。ちゃんと起きてこなければ、何度でも呼ぶよ。おかしいなあ、千年世の目覚まし時計より僕の声の方が役に立っている」
「うるっさいなあ、アラームで事足りてるわよ!」
「その割にはだいぶ設定した時間、過ぎてるようだけど?」
水桜は居間の時計を指差す。針は7時20分を指している。千年世の目覚まし時計は三十分前に、起きない主人に向かって献身的に音を立てていた。
「明日からアラームで起きる!絶対絶対絶対!」
「今三回言ったね、絶対って。もう何回聞いたかなあ、百回…いや千回かな?」
「…ぐぬう…時間ないの、もうガッコ行くから!」
半ば水桜を突き飛ばすようにして、またまた大きく音を立てながら玄関へ向かう千年世。水桜はふう、とため息を吐き、靴紐を縛っている千年世の後ろ姿に声をかける。
「朝ごはん今日も食べないの?僕の作るお味噌汁ほど美味しいものはないのに。まだ少しは時間あるでしょ?」
「自画自賛、ご苦労さま。ハルと約束してるの、一緒に登校するって」
「ハルちゃんと約束?その割に寝坊するんだねえ、困った子だ」
バレバレの嘘を直ぐに指摘し大げさに肩をすくめてみせる水桜に、向かうのは千年世の鋭い眼光。
今にも反抗期の牙を剥かんとする千年世を止めたのは「ワン!」という犬の鳴き声。穂積家の飼い犬、シロ丸だ。
元気よく尻尾を振り千年世の頬を舐めまわすシロ丸の頭を撫でながら「行ってらっしゃい、って言ってくれてるの?お前はいい子だね。よしよし!」と言う千年世の表情は先ほどとは一変して柔らかいものになっている。
其処に水を差すように「シロ丸くらいいい子になってくれたらなあ、お兄さんは大変助かるんだけどなあ、よよよ…」と囁くような声。
「兄貴…聞こえてるわよ。さてシロ丸、おバカな兄貴と一緒に居るのは大変だろうけど、帰って来たらいっぱい遊んであげるからね。ガッコ、行ってくるね!」
「千年世」水桜はしゃがみ込みニンマリ顔で己を指差すと、「お兄ちゃんにも行ってきます、のご挨拶は?」とリクエストする。千年世は抱きかかえたシロ丸を水桜の足元に座らせると、リクエストに応える事なく背を向けた。
刹那、振り向いた千年世は、思い切り下まぶたを引き下げ舌を出し、水桜に痛恨の『あかんべえ』を喰らわせ庭に出た。そして助走をつけ、学校へ向けて走りだす。
その後ろ姿を眺めながら、水桜は大きく息を吐く。
-僕にも勿論反抗期はあっただろうが…年頃の娘を育てるのはこんなにも大変なものだったのか。三十を手前にして身にしみる現実。
反抗期を迎える事で大人の階段を登り出すとは言うものの、世話をするこっちはもう気が気じゃないよ。
ねえ父さん母さん、僕にその『役目』が務まるのかな…。
水桜は宙を仰ぎ、シロ丸の頭を撫でる。その額に存在する三つの斑点が、鈍い光を宿した事を水桜は見逃さなかった。
「わふ!」
シロ丸は無邪気に駆け回り、肩を落とす水桜の前で行儀よくお座りをした。
***
桂木成子警部補は、『千樹宮』へ続く階段の元に自家用車である赤いスポーツカー『スカイライン』を停め、車から降りた。
黒髪をお団子にして纏めて、赤いスカートスーツにピンヒールを履き、黒のコートを羽織るその出立ちは『デキる女』の雰囲気を醸し出している。
否。
29歳という若さで既に『警部補』という階級なのだから、所謂キャリア組だ。『デキる女』どころの話ではない。鋭く光る眼は、木々が生い茂る森の中に注がれる日の光を見つめている。
コートのポケットからマルボロを一本取り出し口に含んだその時、千樹宮の方から元気よく階段を下りる靴音が聞こえ、成子は慌ててマルボロを車中に放り投げる。「あれ?成ちゃん?」
目の前には水桜の妹、千年世が息を上げ立っている。
二重の大きな瞳に低くはあるが筋の通った形のいい鼻、ふくよかな唇は化粧っ気がないのに関わらず赤く、健康そのもの。相変わらず似ていない兄妹だな、と千年世を見るたびに成子は思うのだった。
「久しぶり!成子ちゃん。今日もカッコよくバシッ、と、キマってますなあ」
「ふふ、ありがとう。千年世、悪いアソビは覚えていないだろうな?」
「今日の尋問開始?やだなあ、あたしは日々真面目に学校生活送ってますよん」
「いい事だ。漫画描きも順調かい?」
「ま、漫画?…そんなのあたし、もう描いてないもん」
嘘が下手な娘だ。
鼻を掻き目を泳がせる千年世の顔は真っ赤に染まっている。
小さい頃からこの子はわたしと水桜によく自作の漫画を描いて見せてくれたものだ-と刹那成子は思い出に浸った。
「どれ」成子は千年世の真ん中分けショートボブの髪に触れ「こりゃまた見事な寝癖だね。千年世、また寝坊したの?あんまりお兄さんを困らせないように」と言い、ポンポンと優しく千年世の頭を叩く。
「やだ!寝癖!?しまったあ…昨日お風呂入ってそのまま寝ちゃったからなあ…ドライヤーかけておけば良かったあ」
「それよりも、早起きして髪のセット、ね」
「はあーい。以後!気をつけまっす!」
そう言ってビシッと敬礼ポーズをする千年世。
全く…水桜と違って憎めない子だね、この子は。成子は微笑を浮かべる。
「成ちゃん、また遊びに来てよね!ガッコ、行って来る。今度成ちゃん風メイクの勉強させて!」
「十年早いわよ!」と走り去って行く千年世の後ろ姿に言い、しばらく見守ったあと、成子は視線を境内へと向ける。
さ、て。行きますか。あいつに会うのは気が向かないけど…。
「約束だものね、果たさせてもらうわ」
成子は先ほど車中に放り投げたマルボロのケースを手に取る。口に咥えたマルボロに火を点けケースをコートのポケットに入れながら、『千樹宮』へと歩を進めた。