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帰らない男

作者: 管蘭

赤信号の前で動かないテールランプと右往左往するヘッドライト、残業という言葉を連想するビルの灯り、夜を感じるオレンジ色の街灯。

それらはすりガラスを通じて霞んでいた。

パソコンの隅に表示されている時計では22時を越えていたが、俺はまだ家へは帰らない。一人、この静かな職場で俺は何かをしている風を装ってパソコンを前にキーボードを打っている。何をしている訳でもない、発注の仕事はもう既に終わっているし、家内が居づらい環境というわけでもない。

5分前の俺ならいつもの通りパソコンをシャットダウンしたあと妻に遅くなったと電話で謝り、息子の話や夕飯のことを聞きながら帰路につくと思っていたはずだ。

―― 妻に合いたい。


「クソ...。」消え入るような小さな声で悪態が出てしまう。目線をディスプレイの隅にやる。が、まだ1分も経っていない。

今、帰るのは危険だ。せめて15分、ここでこうやって仕事をしているふりを続けるんだ。自分に言い聞かせてもなかなか時間が進まない。時計を見る回数が多くなっている気がする。あいつにバレないか?いや、視線までは把握されていないだろう。あいつは扉の向こうだ。しかしたった一枚の扉しか俺とあいつを隔てるものはない。ほんの数メートル...そこにあいつは今も...

俺は、息を深く吸い込んだ。

わざとらしくこめかみを指でつねる。ふと、目の前のディスプレイには奇妙な表が出来上がっていることに気付く。俺が打ち続けた意味の無い文字が意味の無い配列を組んでいた。

慌てるのはしょうがない。だが、落ち着かなくてはならない。


ほんの数分前、俺は取引先に資料を提供するよう催促メールを送信した。ひと段落ついたし、今日はそれで帰ろうと思った。

飲み切ったマグカップを手に取り、給湯スペースへ向かった。途中、出口の扉を横切ったとき、扉の向こうからバギっという異音がした。最初は建物が軋んだ音かと思ったがあれは違うと今なら言える。

なんとなく俺は立ち止まらずに歩き続け振り返りもしなかったが、耳だけは完全に背後の扉に注目していた。給湯スペースでマグカップを洗おうとしたが、両手を使いたくなかったので水を濯ぐだけで済ませることにした。明日洗えばいい。水が水道管から出る音、水がマグカップに当たり跳ね返る音がうっとおしくて仕方がなかった。

マグカップを食器ラックに少し大げさにおいた後、席の方へと向かうことにした。扉は透明なガラス扉だが、エコだなんだと廊下の電気は消えているからこちらから扉の向こうは見えづらい。

席の方へ、ゆっくりと歩き続けた。扉が視界に入ってきたが、角度的に光がガラスに反射してしまいまだ扉の向こうが見えかった。目の前を通ろうとするときも、目線は常に机の方へ向けていた。が、俺はあいつを確認してしまった。扉の向こうにじっと隠れるように、色白い何かが屈んでいた。視界の隅で確認したためはっきりとは認識できなかったが、あれは人間だ。壁に隠れているつもりで、こっちを見つめていたに違いない。俺は目も合わせず扉を通り過ぎ、何も気づいてないフリをして席についた。あいつに背を向けて。


このまま出るのは危険だ。窓から見える空はすっかり暗くなっていた。


誰かは見当もつかないが、一体誰がこんな時間に会社のオフィスを覗くんだ?強盗?幽霊?まさか。ヤバい奴ってことだけは分かる。

しかしながら扉の向こうからは1度異音を聞いてからは何も物音はしていない。それは逆に、あいつはまだそこにいるということになる。

警察に電話することを考えたが、あいつがまだ俺を見つめていたらと思うとその勇気は出なかった。仕事のふりをして電話をかけたとしても、もし受話器を手に取ると同時に奴が入ってきたら間に合うだろうか?あいつは凶器を持っているかもしれないんだ。

この数分間の間にメールで妻に助けを呼ぶことも考えたし、上司に連絡することも考えた。

しかしどうしても、あいつは人間ではなくただの俺の思い違いだったら?という疑問がその行動を止めていた。ちんけなプライドが邪魔をしている。俺は笑い者にはなりたくない。だが恐怖感のせいで確認しに扉へ行くこともできないし振り返る勇気すら俺は失っている。やり過ごすしかない。このまま、何事もなかったことにするんだ。あいつがいなくなるまで待ちさえすれば、あいつが強盗だろうが変態だろうが俺には何も関係ない。

ああ。情けない...そして俺は臆病だ、ちくしょう。妻は、俺が情けない男だと知っている。それでも妻は俺と結婚してくれた。妻に合いたい...

そうだ...スマホから会社に電話をかけよう。バレない様にそっとだ。俺が電話に出なきゃ相手が不審に思う。あいつはそれを警戒して俺を襲うことはしないだろう。俺が電話で誰かと話している時、あいつにとっては逃げるチャンスでもある。電話してるうちに逃げるがいい、俺が逃げるチャンスを作ってやる。

俺は少し背もたれによしかかると、肘置きに左肘をのせ、仕事に息詰まったかのように顎を触る。右手をそーっと胸元に入れる。内ポケットには俺のスマホが入っている。よし。俺はスマホを取り出すと電話帳を急いでかき回し会社へ電話をかける。俺もスマホに慣れたものだ。


トュルルルルッ!トュルルルルッ!


自分で掛けておいて着信音の音の大きさに驚いた。それほど夜は静まり返っていたのだ。

俺はゆっくりと受話器を手に取る。扉の方からは何も気配も感じない。

「はい、○○株式会社です。」

依然、気配はないが、俺は続ける。

「あっ、こんな夜遅くに...。はい...。はい...。」

スマホも音声をキャッチしているせいで、受話器から遅れて俺の声が聞こえる。

しかし声を出すことで勇気が出たのか、自分が馬鹿らしく感じてきたのか、俺はゆっくりと振り返ることに決めた。あいつを確認してやる。

「そうなんです...。はい...。はい...。」

足を組み、体勢を崩しながら振り返り、自然と扉に目をやる。

「はい......。」

扉の向こうは真っ暗だったが、あいつの姿は見えない。

「...。それでは...。よろしくお願い致します。」

俺は受話器を静かに戻しつつも、ずっと扉の方を見つめる。再びオフィスは静寂となり、空調の音しか聞こえなくなった。

もう既にいないのかもしれない。そう思うようになった。

俺は席を立つと壁を背にしながらゆっくりと扉に向かった。気分はハリウッド映画に出てくる警察官だ。

右手のスマホをしっかりと握りしめ、取っ手が届く位置までやってきた。最初に見たときの位置からあいつが動いていなければ、壁を挟んでほんの数センチといったところに俺は立っていた。

段々と怒りが沸いてくる。いや、興奮しているだけなのかもしれない。

勢いよく扉を開けてやろう。もしあいつがいたら怒鳴りつけてスマホを投げつけるんだ。

一呼吸置いたあと、俺は扉を力いっぱい開けて顔を廊下へ突きだし確認する!

「ひぇっ!!」

白い物が視界に入り思わず声が出る。

しかし俺はスマホを握りしめたままその場で固まってしまう。

なんだ、人間ではなかった。

そこにあったのは、ただの白いプリンター。古くなって壊れた奴だ。

そういえば上司が帰り際に後輩と、明日回収してもらうからと廊下へ出していたのをすぐに思い出した。

ずっとここにあったんだ。俺が残業している間ずっと。

拍子抜けしてしまい、俺はしばらくプリンターを見つめていた。こんなこと上司には言えないよな、とんだ笑い者になってしまう。

「え!プリンターが怖くて動けなかったってか!バァーカでぃ!」

自分が上司にいじられる想像しながらニヤつく。きっと上司ならもう一言付け加える。

「よし、今年のハロウィンは俺、プリンターになろうかな」

その時、バシッっと今度はオフィス内の方から音がした。慌てて振り向いたが、すぐに軋みの音だと判断する。さっきの音もプリンターが軋んだ音だ。馬鹿馬鹿しい。自分の情けなさにはため息が出るか、気分は悪くなかった。


俺は妻にこのことをどう面白おかしく話そうかと考えながら帰り支度をする。

パソコンを閉じようとすると、意味の無い表を保存するかどうか聞いてきたが「いいえ」を押してシャットダウンした。

電気を消され暗くなったオフィスを後にしてエレベーターを降りていく。ちょうど、意味ない表の写真でも撮っておけばよかったと思ったが馬鹿馬鹿しくなりどうでもいいと思った。



オフィスを出るとすっかり暗くなっている。道路は街灯によってオレンジに色づけられ、赤信号の手前にはテールランプが光っていた。


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