第1話 近くて遠いお隣さん
寝室の東側に開いている大きな窓から差しこむ光でシラーは目を覚ました。
シラーは家を購入した当日に室内を軽く掃除し、生活するうえで必要な家具や道具を“描いて”いる途中で眠気を覚えて、その場で寝てしまったのだ。
シラーは軽く伸びをして体を起こす。
「はぁ……すっかり眠ってしまいましたね……そもそも、あの男が素直にこの家を売らないのが悪いんですよ。まぁそのおかげで思ったよりも安く家を買いたたくことが出来ましたが……」
二階の東側の部屋。
そこでシラーはにやにやと満足げな笑みを浮かべる。
そもそも、彼女が家を買おうとした理由。それは自分のアトリエを持ちたかったから、そして当の昔に飛び出した家のほかにちゃんと腰を落ち着けられる家が欲しかったからというこの二点である。
それを知り合いの仲介人に相談したところ、例の男を少しこらしめてくれれば家の代金をすべて負担してくれると持ちかけてきたのだ。
もちろん、代金はカタログ通りの金額でいただくつもりだ。
半額に値切った分の差額は手数料としてありがたくシラーの懐に入る予定だ。
この物件が悪いというわけではないが、家を確保するためだけに家の各所に存在する魔法陣のカケラを呼び覚まし、わざわざ目に見える形で起動させたのだ。
幸か不幸かあの男は知らなかったようだが、住宅保護の魔法が正常に作動していればホコリすら積もらないのだ。まったく発動していなかったとは言わないが、長年誰も住んでいなかったことによりその効力は確実に落ちているのだろう。シラーがやったのは、住宅保護に関するメインの魔法陣を安定させるために家の各所に設置されていた補助の魔法陣を刺激し、最後にメインの魔法陣が具現化するレベルの振動を柱を通じて家中に与えるというモノだ。
この家に強力な魔法がかけられているというのは家の前に立った時点でわかったし、それが住宅保護の魔法だというのもなんとなくながら検討がついていた。
だからこそ、シラーはあの手で行ったのだ。もちろん、相手にそういった知識がちゃんとあるのだとか、そういうあまりよろしくない商法で相場よりも高めに家を売りつけているだとかしていなければ、シラーの行動は百八十度変わっていただろう。
おそらく、相手もそれをわかっていてシラーに頼んだはずだ。もちろん、注文にない値切りまでしてちゃっかりと差額でもうけようというあたりまで計算のうちに入れて話をしているはずだ。
おそらく、彼は差額のことについては何も言わずに笑顔でカタログ通りの金額を渡してくれるはずだ。
シラーはそこで思考をいったん中断し、キャンバスの前に座る。
いずれにしても自分の家ができたのだ。
とある事情により、家を追い出されたシラーにとっては何年ぶりかの自宅という存在である。
せっかくだから、家に置く家具ぐらいはすべて自分で描こうというわけだ。
とりあえず、昨日描きかけのまま放置してしまったベッドを完成させようと筆を手に取ったその時、ドンドンと誰かが扉をたたく音がした。
さっそく、知り合いが家の代金を持ってきてくれたのだろうか?
シラーは返事をしながら階下にある玄関に降りていく。
下に降りていくと、出てくるのを待ちわびているのか何度か扉をノックしている音が聞こえてくる。
「はいはい。今行きますよ」
誰しも自分のように暇ではないのだから、この後に急ぎの用でもあるのかもしれない。
そんなことを考えながら扉を開けると、そこには誰もいなかった。否、正確に言えば扉の向こうにいた人物がシラーの視線に入ることはなかった。
シラーは小柄で背が低いために大体の相手は自分が見上げる形になる。
そのため、玄関扉を開ける瞬間に上を向いていたのがまずかったのかもしれない。
シラーは気づかぬ間に小さな侵入者が家の中に入るのを許してしまったのだ。
しかし、彼女はそんなことに気づくはずもなく、首をかしげながら扉を閉じてしまった。
「おーこれはこれは! 噂以上のぼろ屋敷!」
そんな子供の声が聞こえてきたのは、扉が完全に閉まるのとほぼ同時だった。
「しまった!」
自分の家を訪れた訪問者が子供であるとその時に気づいても遅い、扉があいた隙に侵入した子供は元気よく奥の方へと駆け込んでいく。
「待ちなさい! 人の家に入るときは“お邪魔します”でしょうが!」
少し論点がずれている気もしなくはないが、シラーは子供の背中を追いかける。
「こら! あいさつはちゃんとしなさいって習わなかったのですか?」
「何? 全然聞こえないもんねー!」
「あなた! 絶対聞こえてるでしょう! 待ってください!」
家具はおろか荷物もほとんどおいていないため、狭い家の中とは言っても子供はシラーの手をすり抜けて走り回る。
「待ってくださいって言っているでしょう!」
「えーやーだー! そうだ! このまま追いかけっこしようか! 私に追いついてみて!」
シラーが追いかけるということが逆効果になっているらしい。
しかし、それに気づけないシラーは必死になって子供の背中を追いかける。
二人が走るたびにホコリが飛び、それが部屋中に舞い落ちる。
「こら! いいから一回止まってください!」
「止まったらゲームにならないでしょ! ほら、悔しいなら早く捕まえてよ!」
こどもは元気に駆け回り、旅をしているとはいえあまり体力がある方ではないシラーは徐々にばてていく。
これに関していえば、普段、移動の際に描いた絵の具現化に頼りすぎていたのが一番の要因と言っても過言ではない。
ともかく、シラーは目の前の子どもを捕まえようと必死に家の中を駆け回る。
ついに子供は二階へと足を踏み入れ、最後に一階に降りてきたところでようやく捕まった。
「はぁはぁ……やっと捕まえましたよ」
「あははははっ楽しかった!」
「私は楽しくありません!」
シラーは肩で息をしながら今度こそ逃がすまいと子供をがっしりと捕まえる。
「それで? そもそも、あなたは誰ですか?」
「えっ? 私? 私はねアリアっていうの!」
「で? そのアリアさんが何でうちに来たんですか?」
「あぁ忘れてた。そう忘れてた! 私ね! 新しいお隣さんに渡してほしいものがあるってお母さんに頼まれたの! お使いのあとは遊んでもいいって言っていたから、この後も一緒に遊んでくれる?」
アリアと名乗った子供は恐ろしくなるほどのマイペースで話を展開する。子供なんてそんなものだと言ってしまえばそれまでかもしれないが、こればかりはついていけないとシラーは大きくため息をついた。
「そうですか。とりあえず、そのお使いの詳細とやらを……」
「はい! これお母さんから!」
シラーがすべて言い切るより前に少女はシラーに木の実を渡した。
南国独特の硬い皮に覆われたその果実は、確か穴をあけて中身をジュースとして飲むのだと聞いたことがある。
シラーはさっそく、それを実行しようと近くにあったキャンバスに鋭いナイフと、中身をするためのストローの絵を描いて具現化させる。
「すごーい!」
これ自体はよかったのだが、この場にアリアがいるということを完全に失念していた。
シラーが恐る恐る振り向いてみると、アリアがこれ以上にないほど目を輝かせてこちらを見つめていた。
いや、絵を具現化させる能力程度なら問題ない。ただし、問題は出したものだ。
「えっと……これは……」
「なんで絵に描いたものが出てくるの? それにその棒は何?」
「えっと……あの……」
ついついその場の気分で描いてしまったが、これはかなりまずい。
「これはですね。大陸のごく限られた地域でのみ流通しているストローというモノです。まぁこのあたりでは珍しいかもしれません。ただ、あまり話さないでもらえると助かります」
文化交流と言えば聞こえがいいかもしれないが、残念ながらこの世界ではあまりそう言ったものは喜ばれない。
自身の生まれ落ちた土地の文化を大切にし、それを改良して過ごす。
それはあくまで大陸だけの話なのか、はたまたこの世界全体の話なのかは分からないが、これはかなり効力を発揮したようだ。
「わかった」
アリアはちゃんと納得してくれたようで笑顔でうなづいてくれた。
「それで? それはどうやって使うの? それを教えて! 絶対に話さないから!」
「えっと……そう来ましたか……」
どうやら、アリアは好奇心旺盛のようだ。
相変わらず目を輝かせながらストローとキャンバスを見つめている。
「……分かりましたよ……教えますから、私の絵を具現化と私が出したものについては一切何も話さないようにしてくださいね」
「うん! わかった!」
なんだか不安だが、ミスをしたのは自分だ。
子供一人ぐらいなら大丈夫だろう。それこそ、話しそうになったらあの手この手で阻止すればいい。
シラーはそう考えながらアリアの前にストローを出す。
「これは片方を液体、片方を自分の口にくわえて飲み物を飲む道具よ」
シラーは簡単に概要を説明して、実際に使って見せる。
そして、もう一本描いてそれを彼女に渡す。
「実際に使ってみて」
「いいの?」
「えぇ。その代わり、私の絵を具現化のことも秘密にしてね」
「うん!」
さっきも言っておいたが念には念をだ。
シラーは必死にヤシの実のジュースを飲むアリアの頭をなでながら微笑んだ。
「それでそれで? えっと……」
アリアが少し迷った様子を見せて初めて、シラーは自身が名乗っていなかったことを思い出した。
「私はシラーよ。シラー・メア。よろしく」
「うん! それでシラーお姉ちゃんはどんなものでも絵に描いて出すことができるの?」
「えぇまぁそうよ」
「そうなんだ! また来るね!」
アリアは一瞬、納得したようなひょじょうを見せると、すぐに笑顔に戻って飛び出していく。
ストローはちゃんと机の上に置いてあり、残りのヤシの実もちゃんと机の上に置いてあった。
今更ながらこのヤシの実をどこにおいてあんな追いかけっこをしていたのだろうかという疑問に至るが、それに関してはまたあとで聞けばいいだろう。
シラーは机の上のストローとヤシの実を回収すると、二階へと戻る。
そして、もう一つ重要なことに気づいた。
「あれ? 一階にキャンバスなんて置いていましたっけ?」
少なくとも自分はそれを置いた記憶はない。
もしかしたら、気づいていなかっただけで前の住民の忘れ物だろうか?
シラーは少し考えてみたが答えは出そうになかったので思考を放棄して家具を描く作業を再開する。
「うーん。もう少し角を丸くした方がいいかしら……」
すっかりと夢中になってテーブルを描いているころには最初に覚えた些細な疑問などすっかりと忘れていて、自分の思い通りの家を描くということに夢中になっていた。
「ははっやっぱり、こうでなくては楽しくありません!」
一人で黙々と自分の望む絵を描く。
これまでの旅でもそうしてきたし、この家を拠点に世界を旅する時もそうしていくつもりだ。
その方が気楽だし、誰かに気を使う必要はない。
だから、誰かと一緒に行動してその誰かの為に絵を描いていたことなど、これまでの十年といくらかの人生で一度しかない。
そう。たった一度だけだ。念のために付け足しておくが、先ほどのアリアに対しての対応はあの場を切り抜けるために仕方なくやっていたためノーカウントだ。
シラーは人前では決して見せないような心の底からの笑みを浮かべてキャンバスに向かう。
「よし……ここをこうしてと……」
シラーは少しずつ絵を訂正しながら徐々にテーブルを自分の思い通りの形へと変えていく。
「そうね……やっぱり、ちょっとした収納はあった方がいいかしら……」
そうつぶやきながら、テーブルの下部に小物入れのような大きさの引き出しを追加する。
その後もシラーは次から次へと家具を描いていき、夕方になるころにはがらんとした家の中にたくさんの家具が置かれていた。
シラーは二階の寝室としている東側の部屋でベッドに腰掛けて紅茶を口に含む。
「……はぁやっぱり、一日で全部やるとなるとさすがに疲れますね……いや、其れだけが原因じゃないかもしれませんけれど……」
この時、シラーの頭の中をよぎったのはアリアの姿だ。
あんなふうに思いきり走り回ったのはいつぐらいぶりだろうか?
旅の道中でちょっとしたピンチに陥っても結局は絵の具現化で乗り切ってきたのであまり本気で走った経験というのはない。
だからこそ、シラーは体力がないのだし、なかなかアリアを捕まえることができなかったのだ。
さすがにこれではまずいので少しは鍛えた方がいいだろうか?
シラーはそんなことを考えながら窓の外に視線を移す。
周辺に他の民家がない関係であたりは真っ暗で夜空に浮かぶ星と月だけがとても明るく感じた。
それを見て、シラーの中にこれまでにない疑問が浮かんだ。
結局、アリアはどこから来たのだろうか? ということだ。
引っ越してきた隣人にあいさつをしに来たという訪問理由をそのまま受け止めれば、この近くに住んでいる住民ということになるのかもしれないが、冷静になって考えてみれば、この周辺のどこに隣家があるというのだろうか?
少なくとも、この窓から見えるか所に家はない。
あるのは平原とはるか向こうにある町だけで昼間でもこれに加えて火山や森が見える程度だろう。
彼女が住んでいるとすれば、森の中か町とこの岬の間に広がる平原のどこかということになる。
現実的なのは森の中で住んでいる可能性だろうか? ただし、森も町ほどではないにしろ遠い場所にあるのでいずれにしても彼女がかなりの距離を移動してシラーの家を訪ねてきたということは確かだろう。
場所さえわかれば、こちらもあいさつに伺った方がいいのかと考えていたが、それだけの距離がある可能性を考慮すると、そこまでする必要はないに等しく感じてしまう。
「……まさしく、近くて遠いお隣さんっていうところかな……」
そっとつぶやいてから、クスリと笑みを浮かべる。
まったく、なにを考えているのだろうか? 今日、家具を描き切ったばかりだが、家の代金さえ受け取ればすぐにでも旅に出る予定なので明日からはその準備に入る。
準備と言っても絵を描く道具の整理と行先の決定ぐらいであとは何もしない。
食料の確保はその都度絵を描けばいいわけだし、シラーはいつも行先だけを決めて間をどうするかなど深く考えたことはなかったのでそこも考慮する必要はない。
河を渡る必要があれば橋を描き、海を越える必要があれば船を描く。野宿をするのなら自分が安全に過ごせるように簡単な小屋を描けばいい。
幸い自分で描いたものは自分の意志で消すこともできるので多少勝手なことをやったところですぐに元に戻るし、敵に襲われたときにもこれは応用できる。
さて、帰る家もできたことだしどこへ行こうか……
シラーは窓越しに見える星空を眺めながら静かに寝ころがって眠りについた。