岬の家
「げほっこれはホコリがひどいですね……」
栗色の髪の毛を腰ほどまで伸ばし、青い海のような瞳を持った少女は岬に建つ家の扉を開けるなり、何度か咳き込んだ。
部屋の中には長年誰も入っていないらしく、残されたボロボロの家具にはかなりの量のホコリが積もっている。
その惨状を見つめる少女の背後から中年の男性が現れて、少女に声をかけた。
「だから言いましたでしょ? ここは長年人が住んでいないからあまりきれいじゃないって……それに私、ここのホコリを吸うといつもひどい咳が出るんですよ。さすがにこの物件と同じ破格のお値段では無理ですけれど他の物件でも……」
「いえ、かまいません」
一番安い物件を紹介してほしいと言われてここまで案内してきたその男は、少女にほかの選択肢を検討するように促そうとしたのだが、その言葉をさえぎり少女は笑顔を浮かべる。
「ここに決めました」
「はっ?」
たった一言。聞き間違えるはずもない。
しかし、男はそれでも自分の耳を疑った。
それに対して少女は不快感を表すことなく、ポンと手を叩く。
「あー確かに家の中を見ないで決めるのは非常識ですかね。それじゃさっそく……」
少女は右腕で口と鼻を塞ぐようにして、家の中に足を踏み入れる。
彼女が一歩、また一歩と歩く度にホコリが舞い、また別の場所へと積もっていく。
玄関をくぐると、さっそく短い廊下が出迎えてくれる。
突き当たりにはひとつ扉がかって、その途中には二つの扉と階段がある。
玄関のわきには戸棚が置いてあるが、そこは空っぽだ。
しかし、少女はそこに左手を突っ込んでトントンと天板を叩く。
「あっあの……」
その奇妙な行動に男は思わず声をかけるが、少女はそれについては何も言わずに家の奥へと足を踏み入れる。
男は困惑しながらも口と鼻をふさいで少女のあとを追いかけた。
短い廊下をを通って一番突き当りまで行き、扉を開くと再び大量のホコリが部屋を舞った。
勢いよく吹き飛んだそれらは雪のようにハラハラと床へと舞い落ちるのだが、少女は気にする様子もなく室内へと入っていく。
「結構開放的な部屋ですね。あの窓なんて一面海が見えるじゃないですか……机は部屋の中央。イスは海が見えるような形で起きたいですね」
その部屋の南側は大きなガラス窓になっていて、そこからは南国の美しい海を臨むことができる。
そもそも、この家は岬に立っているので島がある北側以外はどこ方向に窓を開けても海が見えるのだが、このあたりではあまり見かけない大きなガラス窓が惜しむことなく使ってあたりがなかなかすごいところである。
少女がガラスに両手を付けて風景を眺めている横に男がやってきて説明する。
「えぇ。建てた人がゴホッかなり……ゲホゲホッ……海が好きだった、ゴホッ……みたいで……」
「なるほど……それでこのような場所に家を建てたと……」
「はい……ただ、それも……ゴホッ……何十年も前の出来事でして……ゴホッゴホッ」
男は必死に説明しようとするが、目の前を舞い散る大量のホコリにせきが止まらない。
「やっぱり、ゴホッもっといい家をご紹介しますから……ゲホッ町に戻りましょう?」
男が声をかけるが、少女は窓のすぐそばにある柱を戸棚の天板にしたのと同様に二度軽くたたいて、今度は台所に目を向ける。
「おや、居間に併設の台所とは珍しいですね。これは手軽に料理が楽しめそうです」
台所は一段低いところにあって、廊下や居間が木張りであったのに対してここは床が石でできている。見たところ排気の設備もしっかりしているようで掃除さえすればすぐに使えそうな状態だ。
少女はぐるりと台所を見回した後、今度は台所の壁を二度叩く。
「さて、次は二階を見てみましょうか」
「えっゴホッ。まだ見るんですか?」
「ですから、私はこの家が買いたいんです。でも、中を全く確認せずに決定というのはいささか失礼な気がするので中の確認をしているだけではありませんか。だったら、徹底的にみるべきだと私は思うんですよ」
そう言いながら彼女はリビングを出て二階へと向かう。
階段は一段一段上がるたびにギシギシと悲鳴を上げるが、穴が開いたり崩れたりする様子はない。
少女は階段の感触を確かめるように一歩一歩ゆっくりと上がっていき、階段のちょうど真ん中あたりで二度右側の壁をたたく。
「ところでさっきから何をしているんですか?」
少女の行動に疑問を覚えた男が声をかけるが、少女は何も答えずに二階へと上がる。
「うーん……あと三か所ぐらいはあると思うんだけど……」
「はい?」
「こちらの話ですよ。さっそく二階に上がりましょう」
少女は意味深な笑みを浮かべて二階へと上がっていく。
男はこれ以上何を聞いても無駄だと判断して彼女におとなしくついていくことにした。
二階は階段から続く廊下を挟んで西と東にそれぞれ一つずつ部屋があり、廊下の奥にはボロボロの風景画がかけられている。
彼女はその絵の前に立ち、ジッとそれを見つめた。
「これは一階の窓から見た風景でしょうか?」
「えぇ……ゲホッゴホッ……そのようですね」
「これはいい絵ですね。私、実は絵描きをしているんですけれどね。ですから、こういう周りが静かな物件を求めていたんですよ。これはぜひとも住みたいという気持ちますます強くなってきましたね」
「はぁ……」
もはや男は説得をあきらめた。
もちろん、売り出してから全く売れる気配のないこの家が売れるのなら万々歳だ。しかし、このようなホコリだらけのボロ屋を若い少女に売るのはどうかと自身の中で何かが問いかけてくるのだ。
少女は男のそんな心情など知る由もなく、絵画の下部の壁を二度叩いて東側の部屋に入っていく。
そこは東向きにリビングほどでないにしろ大きな窓の空いた部屋だ。
ここには前の住民が残していったと思われる道具がいくつか置いてあったが、そのどれもが例外なくたっぷりとほこりをかぶっている。
少女はそんな部屋の状況など気に留める様子もなく中へ足を踏み入れる。
「こちらは東向きに大きな窓……いい朝日が浴びられそうですね。寝室にでもしましょうか……そうですね。ベッドは窓のそばが最適でしょうかね」
少女はそう言いながら部屋の壁をペタペタと触る。
やがて、少女は東向きにあいた窓のすぐ横に来た。すると、彼女はこれまでと同様に二度壁をたたく。
「うん……あと一か所で間違いなさそうね」
「あの……ゴホッゲホッ何のことでしょうか?」
「……まぁいずれ……そうですね。あと一か所を見つけることができればわかりますよ。それでもわからなかったら真性のバカだとしか言いようがありませんけれど……」
少女の言葉に男はむっと眉をひそめた。
しかし、少女はそのようなことには気にも留めず、今度は西側の部屋に入っていく。
男はこのまま帰ってしまおうかとも考えたが、それでは肝心の契約書にペンを入れてもらえないし、もっといい物件へ誘導……もとい、おすすめすることもできない。
男は怒りたいところをぐっと抑えて少女の後についていく。
商人にとって大切なことは耐え忍ぶこと。ついこの前、店主に言われたばかりだ。
男は心を落ち着かせようと深呼吸をして……勢いよく咳き込んだ。
そうするころには少女は西側の部屋に入っていて、東側の部屋でしていたのと同様に壁を触っている。
ホコリがたっぷりと積もっている部屋の中で男は何度も咳き込む。
しかし、少女はそんなことお構いなしにホコリを舞い散らせながら部屋中を移動する。
そして、少女が一周しようかという時、彼女は立ち止まりそこにあった柱をトントンと二度叩いた。
「……これで全部みたいですね」
少女がそういうと、男は思わず首をかしげてしまった。
彼女はこれで何も理解できなければ真性のバカだとまで言い切ったが、普通に考えてこの行動を見せられただけで少女の行動の意図を読み取ることは難しいと思われた。
確か最初に彼女が店に来た時に大陸の出身だと言っていたことから大陸の文化の関係のことを言っているのだろうか? 男の記憶が正しければ、大陸の東部にある国では“風水”なるまじないがあり、それは家の構造や物の配置で運勢が決まるものと考えられている。というのを聞いたことがある。
彼女はすでにモノをどのように配置するか、そして何気なく置かれた絵に注目していたから風水という観点でこの家を見ている可能性がある。
悔しいことに生まれてからこれまでグロッケ王国の外に出たことのない男は大陸文化に詳しくはない。とすれば、これを盾に“真性のバカ”などと呼ばれることは避けられるのではないだろうか?
別に家さえ売りつけられればなんと呼ばれても構わないのだが、それが原因で他の人から買うなどと言われていしまってはわざわざ時間をかけてこんなところまで来た意味がなくなってしまう。
「どうかしました? もしかして、理解できていませんか? 結構、わかりやすいように動いていたつもりなんですけれど」
「いえ……えっと、残念ながら大陸文化には詳しくなくてですね……えっと、風水というやつですか?」
男が尋ねると、少女はキョトンとした表情を浮かべた。
おそらく、自分が生まれた場所の文化はどこでも通じるなんて言う勘違いでもしていたのだろう。しかし、ここで暮らす以上はこちらの文化にはそのようなことはないと学習させるいい機会だろう。これで買わないといったところでほかのところへ行っても同じことを繰り返すだけだろうから、自分には関係ない。
そんなことを考えている男の前で少女は口元を抑えて震え始める。
もしかして、泣き出してしまうのではないだろうか? そう思ったその瞬間である。
「クスッごめんなさい。我慢できない! よくそんなんで家を売る商売なんてしようと思いましたね! あははははっ! いけない。笑いすぎておなかが痛い!」
目の前の少女は少し笑い声をあげたかと思うと文字通り腹を抱えて笑い始めたのだ。
大陸文化がこの王国に伝わっていないのがそんなにおかしいのだろうか? さすがにこのような態度を見せられては男はいら立ちを隠せなくなってしまった。
「おい」
「おっと、これはこれは大変失礼しました……はぁはぁ……いやーあんまりにもおかしいものですから……」
ひとしきり笑い終わった少女は呼吸を整えて男を見据える。
「何がおかしい? ここは大陸じゃないんだ。文化が違う。それを笑いというのは……」
「クスッちょっと……また笑わせようとしているんですか? 何度もそういう冗談には引っかかりませんよ? あれ? もしかして、本当に何もわかっていないんですか? これはこれは……本格的に真性のバカかもしれませんね」
彼女はそう言いながら先ほど叩いていたのとは別の柱に手を添える。
それは部屋の中心を貫き、屋根を支える一番大切な柱だと聞いているモノだ。
少女はそれを思い切りドンッと強くたたいた。
その瞬間に家が大きく揺れ始める。
「なっ何だ? 地震か?」
男は部屋から逃げ出そうとするが、扉が勢いよく閉じてしまい二人を部屋の中に閉じ込める。
「おい! どうなってやがるんだ!」
男が少女に掴みかかるが、少女は余裕の笑みを浮かべたままだ。
「おやおや、これでも気づかないとは……本当にただのバカだったようですね……安心してくださいよ。崩れたりしないんで」
「なっなにを!」
男は咳をするのも忘れて声を張り上げる。
ミシミシという音もなり始めいよいよ家が崩れようかというその時、突然その揺れは収まった。
しかし、息をつく間もなく今度は天井が青白い光を帯び始めた。
「なんなんだ! お前いったい何をした!」
「ほらほら、お客さんに対しての態度じゃなくなってますよ……まったく、そんな短気でよく商売ができますね……」
「なんだと! 俺をバカにしているのか!」
「えぇバカにしていますよ。だったら、上をごらんなさいな。この家の“本当の価値”を垣間見ることができますよ」
「上だと?」
少女に促されるようにして男は光源であると思われる天井を見る。
そして、天井の様子を視界に収めた男は言葉を失った。
「……なんだ、これ……」
天井には縦横無尽に青白い光が走り、見たこともないような奇妙な文字がいくつも書かれている。
それらの線を丁寧にたどっていくと、まるで精巧な魔法陣の一部を見ているような気がしてくる。
「これはグロッケ王国に古くから伝わる住宅保護に関する魔法ですね。最近は家自体が丈夫ですからあまり使わないようですが、古民家ではよく見かけると聞いています。まぁ私自身、大陸出身なので実物を見るのは初めてですけれど……そんなことよりも妙ですね? グロッケで家を売っているのにそんなことも知らないんですか? これは真性のバカですね」
「いっいや、そんな古代の魔法など知るはずが……」
「おや、私がこの話を聞いたのはグロッケ王国出身のあなたの同業者ですがね。あぁもしかして、あなたこの家を見せたうえで普通の家を少し高く売りつけようなんて言う魂胆で商売しているんですか?」
図星だ。まるで心でも読まれたかのような少女の言葉に男は言葉を詰まらせてしまう。
「おや、適当に言ったつもりですけれど……真実だったんですか? まぁそうなりますと、あの少々わざとらしい咳も納得いってしまうのですが……」
「なっ」
「おやおや、わざとではないと?」
「当然に決まっている! さっきから何を言っているんだ!」
とにかく、少女の言葉を肯定することだけはしてはならない。
ここでそんなことをすれば、自分の立場が悪くなることは火を見るよりも明らかだからだ。
「さっさと認めた方が楽ですよ?」
「……何を言うわざと咳をするわけがあるか。それに私はこのようなボロ屋ではなく……」
「おや? 咳をするの忘れてますよ? さっき、家が振動して大量のホコリが舞ったはずなのにおかしいですね? そもそも、そんな風に咳が出るのがわかっていたのなら、どうして布を持ってこなかったんですか? これはあなたがこの家に踏み入れされる気がなかったと解釈されてもおかしくありませんよ」
「うっ」
男は一歩、後ろに下がり壁にぶつかる。彼の額には玉の汗が噴き出ている。
少女はそんな男の様子を見て、にやりとした笑みを浮かべた。
「おやおやおや、どうされたんですか? あぁもしかして、この後にほかの家がいいとかいうとそれなりの家なのに相場よりも高いなんてことがあったりするんですか? それなら私にだって出来そうな簡単な商売ですね」
「貴様ぁ!」
「おやおや、商人がそんな言葉づかいをしていいのですか? まぁあなたが本気で私のことを考えて商売してくれているならそんな態度をとるなんてことはないでしょうが……そこのところどうなんでしょうかね?」
人の悪そうな笑みを浮かべる少女についに堪忍袋の緒が切れてしまった男が殴り掛かる。
しかし、その拳は少女には届かない。
どこから取り出したのか、男の拳は少女が持つ筆によって行く手を阻まれていた。
「はぁまったく……乱暴ですね。いくら安い物件を探していたからと言って見境なくそういう店を渡り歩いたのは失敗でしょうか……」
筆一本で拳を受け止められるという事実に驚いた男が後ろへ下がるのと同時に少女は筆を空中に走らせる。
「私、乱暴な方は嫌いなんですよ。まぁこの家を半額で譲って下さるのなら考えますけれどね……」
彼女が何かを描くのに合わせて、ボンッという音とともにキャンバスが出現する。
そして、彼女はそのキャンバスにさらに絵を描いていく。
「そうしていただけないとなると、私としても考えがあってですね……あぁ言い忘れましたが、この筆はちょっとした特製品でして、これで描くと絵が具現化するんですよ。すごいでしょう?」
彼女はそう言いながら筆を動かし続ける。
「しかも、これインクを付けなくても思い通りの色で絵が描ける特注品なんですよ。まぁもっとも、自分が売る家の調査すらまともにやらないあなたには縁のない話かもしれませんが……」
「やっやめろ……」
男の声を無視して少女は鼻歌を歌いながら筆を進める。
「やめてくれ! わかった! この家を半額で売ろう! いや、売らせてください!」
男のその言葉で少女の手がぴたりと止まった。
そして、年頃の少女らしいかわいらしい笑みを浮かべた。ただし、左手には筆は握られたままだ。
「ありがとうございます。それじゃさっそく契約書の方なんですけれど、“シラー・メア”で書いておいてもらってもいいですか?」
「いえ、その……契約書は自分で署名してもらわないと……」
「……すいません。私、絵は描けるし文字もなんとか読めるんですけれど、書くことはできなくて……代わりに書いておいていただけます? その状態で持ってきてくれれば確認しますので……」
「はっはい……」
男はその場に力なく崩れたかと思うと、逃げるようにして部屋から出ていく。
「……まぁもっとも、私の能力を一番制御しやすいのがこれっていうだけで絵を具現化させるだけならどんな道具を使ってもできるんですけれどね……」
シラー・メアと名乗った少女のそんな声は必死に逃げる男の耳には届かない。
顔を真っ青にした男が“シラー・メア”の名前が書かれた契約書を持ってきたのは約一時間後のことであった。