第36章~第40章
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「じゃあどうなったんだよ?」
「パンドラがバアサンになったって、エピメテウスに対して、何の罰にもならないでしょう?……彼女が箱を開けた瞬間、中に封じ込められていた災いが、一気に人間界に流れ出たんです。戦争、疫病、嫉妬、憎悪……ありとあらゆる災いが、その箱には封じ込められていた。平和だった人間界は、パンドラが箱を開けてしまった瞬間、めちゃくちゃに壊れてしまったんです」
「なるほど、陰険な方法だな」
「ええ……」
「で、君の胸ポケに、その箱の鍵が入ってるんだ?」
「と、前田さんは言ってました」
そう言いながら、ひょいと廊下に出る。もう二階だ。後を追いかけて、貴史も廊下に出た。
「一体何なんだろうな?」
「さあ?」
「開ける気だな?」
「もちろん」
「止めといた方がいいと思うんだけどなぁ……」
頭をかきながら、貴史は停止した。哲也は部屋に顔だけ突っ込み、中にいる人間と退室交渉を始めた。
「一枚でどうですか?」と哲也。
「二枚」と祐輔。
「いや、三枚」
誰か別の人間の声が混じる。
「横沢、お前二枚取る気だろう」
祐輔の声が聞こえてくる。
「ばれたか」
「二枚。一枚一枚。文句ないだろ……というわけで、二枚なら手を打つ」
祐輔の言葉に、哲也は、仕方がない、と言うようにため息を吐いた。
「あーもう、解りましたよ……でも、代わりに射撃の的にされて下さいよ!」
「おう。されてやるともさ。んじゃあ、後はごゆっくり~」
部屋から、見た目からして物騒なものをぶら下げて、まず祐輔が、それから横沢と呼ばれた男が出てくる。小柄だが、動きは敏捷そうだ。本部では見かけない顔である。支部連絡員だろうか?
二人はすぐ隣の部屋のドアを開けて、何か一言二言話をしてから、ずかずかとその中へ入っていった。
「全くもう……どうぞ。散らかりまくってますけど」
ドアを開けて、貴史にはいるよう促した。
「いいよ。俺もゼンソ時代はこんなんだったし。今も片づけしてない方だし」
「そうですか」
哲也は相槌を打ちながら、ぐちゃぐちゃになった布団を部屋の隅に蹴り、積み上げられた本の山を、壁の方へと押しやった。何かの専門書から、古本屋で購入したと思しき文庫本。さりげなくエロ本が紛れ込んでいるように見えるのは、目の錯覚と言うことにしておこう。
「ところで、さっきの一枚とか二枚って、何の話だったんだ?」
「ああ。退室料の写真です」
「何の?」
「本部一の黒髪美女」
貴史はまるで目眩に襲われたように、額に手を当てた。
「命いくつあっても足りねぇぞ」
「だから内緒にしてて下さいね……さて、始めますか」
組み立て式の座卓を引っ張り出して、哲也はファイルを拡げた。その向かいに、貴史も腰を下ろす。
「何だか、いつもと比べて情報が荒いと思いませんか?」
読み始めていくらもしないうちに、哲也が貴史に声をかけた。
「ん? トクソに当てられるヤマってのは、たいていこんな程度の情報しかないよ。ゼンソは訓練の意味もあるから、結構細かいところまで、予め情報を集めといてくれるけど、連絡員や諜報員は、目立ったらいけないからね。また他のヤマで情報収拾出来るように、主要な情報だけで手を引くんだ。後は、自分で調べ上げなきゃならない」
「面倒くさい……」
「でも、自分の手で集めた情報である分、信頼が置ける」
貴史は哲也の目を見ながら、ニヤッと笑った。
「他人に頼っちゃダメだよ? 言っておくけど、前線で退っ引きならない事態になっちゃったら、もう自分以外のことなんか構ってられないんだから」
「前田さんに聞きましたー」
肘をつきながら、ファイルのページをめくる。ページを繰るうちに、三年前の日の事が思い出されて、自分でも異常に思えるほど、憎しみが湧いてきた。
その一方で、冷静に分析している自分もいた。前田に指名される道理だと。
貴史はさっきから、全く表情が動いていない。のんきそのものだ。ひょいとファイルを畳み、あくびをして言った。
「ずいぶん厳しいね……ま、向こうに行けば、もう少し隙も見つかるだろう」
その表情に、哲也は、ずっと感じていた疑問を、思わず口に出していた。
「どんな顔をして、標的を殺してます?」
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ゆっくりと、貴史の視線と哲也の視線が重なる。貴史のジェット・ブラックの瞳孔は、底なしの闇への入口に見えた。
「やっぱり、俺は殺し屋には見えない?」
ニヤリと口元を吊り上げる。普段の人の良さそうな笑顔からは、想像もつかないほど、ぞっとするような笑みだった。ただ、どこか寂しげだった。
「……普段は」
それだけ返すのがやっとだった。貴史の顔から、もう笑みは消えていた。
「ふーん……」
「だって、すごくいい人に見えますから……」
「そりゃね。いい人になりたいから」
どこか焦点の定まらない目で、彼は答えた。哲也は、視線を逸らせられなくなっていた。
「じゃあどうして、殺し屋なんかになったんですか?」
そう問うと、貴史は何がおかしいのか、押し殺した声で笑い出した。そしてこう続けた。
「俺の過去を知りたいんだ?」
「いえ……別にそんなわけじゃ……」
慌てて手を振る哲也の方に、貴史はずいと身を乗り出した。
「別に言ってもいいんだよ? もっとも、聞いたら呆れ果てるだろうけどね」
「そんなことしません」
「指切り出来る?」
思いがけないことを言われて、哲也は一瞬面食らったが、すぐに右の小指を立てて、貴史の方に差し出した。「指切りげんまん」をすると、貴史はニッと一瞬だけ、子どものような笑みを浮かべた。
「俺はね、元は警察官だったんだよ」
開いた口のふさがらないらしい哲也を、面白そうに眺めながら、貴史は言葉を続けた。だが目はやはり、悲しそうに見えた。
警察官になったのは、困っている人を助けたいと思ってたからだ……いや、それは今でも変わらないはずだけどね。でも警察はむしろ、強者のためにあるような気がしたんだ。そりゃ弱者を助けもするけれど……でも、何か違和感があった。これは本当に、俺のやりたかったことなんだろうか、って。
その違和感が、一体何に起因するのかが判ったのは、八年前。この組織のメンバーと知り合って……器用な男でね、組織のその字も出さないで、俺をここの思想に同調させてしまった……まぁそれは置いとこう。
そいつと話をしていくうちに、気がついたんだよ。俺は『ただ単に弱者を助けたい』んじゃなく、『弱者を虐げる強者を罰したい』んだって……
もちろん、警察には罰する権利はないよ。犯罪者をぶち込んだり、死刑台に送りたいってんなら、判事か検事になるのが妥当だろ……でも俺は司法試験を突破出来るほどの頭は持ってないし、コツコツ地道にやっていけるという自信もなかった……司法試験に通らずに検事になるには、軽く十年かかるからね。
俺は、今すぐにでも動きたいと思っている自分に気づいた。
そして、聞こえたのさ。血まみれの天使の囁きが。
<自分の正義に従え>
そう。自分が生きるべき道はこれだと思った。世界には同情の余地のない犯罪者がいる。そんな連中を殺したって、感謝されこそすれ、非難されるわけがない。そしてそれが、自分のやりたかったことだ、って。
警官を辞めた俺は、その男の伝手で組織に入った。出身が出身だけに、射撃の腕にも自信があったんで、入った年から任務に就いたよ。当時の依頼の件数は、今よりも少なかったから、新人が任務に回されるのは、珍しいことだったらしいね。
最初の二年間は、不謹慎な言い方かもしれないけど、楽しかった。自分が正義のヒーローになったみたいにね。実際、そんな気分で標的を殺してたんだと思う……血で自分を汚していたのに、正しいことをしているんだと思って喜んでいたんだから。バカだったよ。
転機が訪れたのは、五年前の最初の任務……冬だったな……覚醒剤の密輸を仕切ってた男の暗殺の件だった。
暗殺そのものは上手くいったよ。でも、その時俺が手にかけたのは、標的だけじゃなかったんだ……タイミングが悪かったとか、言い訳はいくらでも作れるだろうけどね……俺は、標的と、そいつの連れ合い……籍は入れてなかったらしいけどな……それから、その娘を殺したんだ。
当たり前の話だけど、殺すつもりはなかったよ……でも、そんなのは単なる言い訳に過ぎない……顔を見られたんで、母親の方は、もう殆ど反射的に撃ち殺してた。で、残った娘……たった四歳の女の子だったけどね……その子を見下ろした時、殺すべきか生かすべきか、はっきり言って躊躇した。
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結局、俺は引き金を引いたよ。生かしておいたって、ひどい心的外傷に悩まされることになるだろうし、いくら証言能力がないったって、あの子の脳には俺の顔が焼きついたに違いないんだから……まだ言い訳してるな……
今でも時々夢でうなされるよ。
東南アジア系の母親に似て、ちょっと色の濃い、綺麗な黒髪の女の子だった……目は大きくて、深い黒だった。人混みの中でも目につくくらい、かわいい顔で……あのまま成長していれば、きっと美人になっただろう。
ちょっと大きくなったその子が、銃を構えて、俺の胸に突きつけるんだ。
ちょうど、俺があの子や、あの子の両親にやったようにね……
その事件があって、ようやっと俺は目が覚めたんだ。言う人に言わせれば遅いらしいけどな。とにかく、俺は気がついたんだ。俺の正義ってのも、結局はまがい物に過ぎないんだ、って。
右も左も判らないような子どもを殺す正義が、どこの世界に存在するのさ?
その時初めて、俺は強烈な罪悪感に囚われた……皮肉なことに人を殺し続けてきたことへの罪悪感じゃなくて、自分がまがい物の正義により頼んでいたってことへの罪悪感だったんだけどな……たぶん、自分は正義なのだと思いこみたかったんだと思う。
今はね……割り切っているよ。ある意味で。
確かに、抑圧されても、泣き寝入りをするしかない人たちがいるんだ。それは紛れもない事実さ。反撃の術を持たない弱者に、それを与えてやるのがこの組織なんだ。苦しみや悲しみに埋もれていくしかなかった人間の、この組織は最後の砦なんだ。今はそう考えている。
人間には正義なんて存在しない。誰にも何も言えない、完全な正義を語れるのは神だけさ。この組織の正義は異論を許す。だから偽物だ。でも偽物でも、それに縋るしかない人間がいる。
結局、人間が悲しい存在である限り、この組織は存続していくんだろう。
長年この組織に関わっている人間なら、殆どみんな、ここの正義が偽物であると知っている。でもそれでも抜けようとしないのは何故だと思う?
みんなかつては弱者だったからなんじゃないかな、と俺は思ってる。
反撃したい。叫びたい。でも、できない。その苦しさを知っているから、たとえ偽物だと解っていても、この組織の正義に生きられるんだと思う。
でも、正義を演じることが虚しくなった人間は、組織を裏切る。
たぶん江波も、偽物の正義を演じ続けることに、空虚さを感じたから、組織を裏切ったんじゃないのかな?
だから「アドヴァーセリ」なんてコードネームを使ってるんだろう。
でも、俺はこうも思うよ。
人間は正義にはなれないけど、悪にもなれないんじゃないかな、って。
俺が殺したあの男も、娘であるあの子には優しかった。
ひょっとすると、正義と悪が曖昧だから、人間は悲しいのかもしれないな。
はっきり定義できないことだから、どうしようもないのかもしれないけど。
語り終えて、貴史はふーっと長い息を吐いた。ずっとため込んできたものを吐き出したような、そんな感じがした。
哲也は、話の中で、一つ奇妙な引っかかりがあることに気がついた。
「永居さんが殺したっていう女の子……紗希さんに似ていません?」
そう問うと、貴史はふっと、どこか虚ろな笑みを浮かべた。
「そう、似てる。たしかに、紗希とあの子を重ね合わせているところはある。だから俺は、紗希になら殺されてもいい、って思うのかもしれない。そして俺は、あの子への謝罪のつもりで、紗希に尽くそうとしているのかもしれない。自分の事ながら、イマイチよく掴めんがね……」
そう言って、貴史は焦点の定まらない目で、クスクス笑い続けた。
「で、今はどんな表情で、人を殺しているんですか?」
「……無表情かな? たぶん……罪悪感とか、そういうのをはねつけるために、任務を実行する自分を、普段の自分から切り離しちまうんだ。そうすると痛みを感じにくくなる……その分、人間らしさも消えるけどね」
任務を実行する自分と、普段の自分を切り離す……
『人間の時計』を止め、『熾天使の時計』を動かす……?
「永居さん、やっぱり殺し屋ですよ……ちゃんと『時計』が動いてる」
「『熾天使の時計』がか?」
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哲也はびっくりして、貴史の顔を見た。何故前田の『熾天使の時計』という表現を知っているのだろう?
そんな哲也の心中を、察してか察せずか、貴史は軽く手を振った。
「有名な表現だよ。この組織ではね」
「そうだったんですか?前田さんのオリジナルだとばっかり思ってました」
そう知ったところで、哲也の中の前田に対するイメージは、また前と同じ、ただの冷血な殺し屋に戻ってしまったりはしない。
この何日かで、彼は前田の素顔、あるいはそれに近い表情を見ることができた。自らを残骸であると言って、寂しげに笑っていた。多分彼も、貴史の言う『悲しい人間』の一人なのだろう。幻影の天使。
人間は正義になれない。
だから、人間は天使にはなれない。
まがい物の正義。幻影の天使。
それを承知で生きるのは、苦しいことだろうか?
貴史がぼそりと言った。ふっと哲也の意識が引き戻される。
「ウチの組織のシンボルは、天秤と剣を持った熾天使だろ? 浅川さんに聞いたんだけど、本当はそんな天使はいないらしい……剣を持った天使はいるけど、分銅を持った天使もいるけど、天秤を持った天使ってのはいない……どういう意味か解るか?」
哲也は黙って首を振った。
「天秤ってのはな、欧米では公平さの象徴なんだ。天使はただ神の声に従って行動するだけだ……だから、公平かどうかの判断基準なんていらない。ただ命令に従うだけでいい。でもこの組織は『神』に従えず、自分で作り出した基準に従う天使の集合だ……だから、堕天使の集団と言ってもいいかもしれない。事実、この世界の『絶対正義』である『法』に照らせば、俺たちは間違いなく犯罪者と定義されるだろうさ。少々、情状酌量の余地はあるだろうがね。ま、俺は良くて無期だろうが……話がずれたな」
一度唾を飲み込んでから、貴史はまた口を開いた。
「その堕天使の言い分が『人間は正義になれない』だ。そして、自分の奉じる正義がまがい物だと理解した場合に、正義を演じる自分を守るために……言い換えるなら合理化か……そうするために生まれたのが『熾天使の時計』だ……こんな凝った表現、誰が一番最初に持ち込んだのかは知らないけどね……前田さんよりは前の人だと思うな……っても、俺が組織に入った時には、もうあの人トクソだったんだけど……同い年くらいに見えたから、ホントびっくりしたなぁ……」
貴史の目が懐かしそうに遠くを見つめた。
哲也は、訊いていいのかどうかためらいながらも、疑問をまた口に出した。
「永居さん、今年でいくつに……」
「二十八。『今年度』の誕生日は過ぎたよ……早生まれなんでね」
あーあ、もうオジサンだ、と呟きながら、貴史は笑って肩をすくめた。
この組織の一年は、十月に始まって九月に終わる。
「組織に入ったのが二十……今の君より一つ上」
「入った時は十八でしたけどね……でも、変じゃありません?」
たしか、前田は三十くらいだと聞いた記憶がある。
普通、組織に入るのは、若くても十八歳。二十代になってから……下手をすると三十代、四十代になってから、組織の構成員になる人間もいるのだ。
もし前田が十八で組織に入ったのだとしたら、貴史との年齢差は二のはずだから、貴史が組織に入った時、前田は二十二歳になる。
前線狙撃手(もしくは一般狙撃手とも呼ばれるが)は、短くても三年の経験を積んでからでないと昇進出来ない。最前線で三年の経験を積んだ後、支部連絡員を最低一年務める。そう考えると、二十二の時に特別狙撃手まで昇進しているなんて、あり得ない話になる。
中には、支部連絡員を飛ばして昇進するケースもないではないらしいから、仮に彼が、支部を飛ばして一気に本部連絡員に昇進したと考えよう。そうすれば二十二歳でも特別狙撃手になれる。しかし、その年に二十三歳になってしまうわけだ……やはり、どうも腑に落ちない。
何が変なのかと尋ねられて、哲也は正直に、頭の中で行った年齢の計算の結果を告げた。前田は十八歳より前に、すでに組織に入っていたのではないか、という、自分の推測も。
貴史は、当たり、と言いながら、ニヤッと笑って、右の手の平の小指だけを折って、哲也の目の前に示した。外見からは、ちょっと意外なほど器用な指の動きに感心はしたが、哲也には、それがどういう意味なのかは解らなかった。
考え込むように眉間に皺を寄せた哲也を見て、貴史は答えを告げた。
「十五」
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その数字が一体何のことなのか、哲也は理解出来なかった。その数字と、貴史の指の形との関係も。
哲也がまだ理解出来ていないことを感じて、貴史は手を元に戻し、ふーっと長いため息を吐いた。哲也にはそれが、妙にもったいぶった動きに思われた。
「どういう意味ですか?」
「十五歳だよ。あの人が組織に入ったトシ」
ほんの一瞬だけだったが、哲也の時間が停止した。
「十五って……十五から狙撃手やってたんですか!?」
ようやっと我に返ると、意識もしないうちにこんな言葉が飛び出していた。
貴史は、顔色一つ変えることなく、うん、と肯いた。
「んで、さっきの俺の指の形だけどな……この際憶えておけ……
右手の親指を『1』にする。だから、親指を一本立てたら『1』って言っている、ってことだ。
んで、次。人差し指を『2』にする。人差し指一本が立ったら、『2』って言っているわけ。
次『3』だけど、さっき親指を『1』にしただろ?人差し指の『2』に、親指の『1』を足して『3』にするんだ……つまり、人差し指と親指が立ったら『3』ってことだ。
同じように、今度は中指を『4』にして、親指の『1』を足したら『5』、人差し指の『2』を足したら『6』、それにまた親指の『1』を足すと『7』……『7』になると、一度上げた指は、もう全部上げてしまったことになる。
だから、また先に移って、今度は薬指を『8』にする……あとは同じだ」
説明しながら、貴史は器用に、指を立てたり曲げたりした。
「五本全部の指が立ったら、『16』『8』『4』『2』『1』を足すことになるから『31』だ。まぁ『8』ぐらいまで憶えてれば、差し支えはないか。俺、時々これで行動の指示を出したりするからね……」
そこまで言ってから、貴史はやっと、薬指と親指を立てる『9』をやろうとして、薬指が立たずに悪戦苦闘している哲也に気がついた。
「おいおい……」
思わず吹き出すと、哲也はむくれながら、貴史を見上げた。
「だって立たないんですもん」
「要は、どれが真っ直ぐでどれが曲がってるのかさえわかれば良いんだから、そんな場合は、第二関節から曲げれば良いんだよ」
「あ、できた……」
真っ直ぐに伸びた薬指を見て、哲也はうれしそうに笑った。貴哉の顔もつられて綻ぶ。
哲也は、指を順番に曲げ伸ばししながら、数を数え始めた。
「えーと、親指が1で、人差し指が2で、中指が3で……」
「違う。中指は4」
「あ、そうだった……中指が4で、薬指が8で、小指が16……ですよね?」
「そう」
「順番に2を掛けていってません?」
そう言ってみると、今度は貴史がうれしそうに笑った。
「ああ。2進数だからな……ほら、コンピューターの信号。あれだよ。あれと一緒。0と1で数字を表すんだ。だから、親指が1の位で、人差し指が2の位になって……あとは4、8、16……とね。
ほら、俺たちが普段使ってる10進数は、一つの位に十入ったら、上の位に上がるだろ?1の位なら10の位に。10の位なら100の位に。
10の手前の数が9だ。だから10進数の場合、一つの位に放り込める最大の数は9になる。同じ理屈で、2進数の位に放り込める最大数は1……」
そう言いながら、貴史はファイルをひっくり返して、裏の白紙に、位取りと記数法の説明を書いた。
「10ずつ掛けてるんですね……あ、だから2進数だと、2ずつ掛けるんだ」
身を乗り出して覗き込んでいた哲也が、新たな発見に目を輝かせた。
「そう。それと一緒」
ニッと笑って、貴史は目を上げた。哲也と視線がかち合う。向こうも、照れくさそうに笑い返してきた。
「何だか数学の授業を受けてるみたいです」
哲也はすとんとまた向かい側に腰を下ろした。
「俺も数学教師になった気分」
貴史はシャープペンシルを机に置いて、クスクスと笑った。
「でも、話を戻しますけど、どうして前田さん、十五歳でこの組織に入れたんでしょうね? ……いや、それは置いておくとしても、よく正気を保てたと思いません? そんな年齢からこんな血みどろの生活してて」
哲也の言葉に、貴史はどこか遠い目をした。
この頃から、どう足掻いても前田さんがキーパーソンになる予感がしてきたのでした。