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第31章~第35章

          31


《ES21永居貴史。南棟二階、第一小会議場まで出頭のこと》

《S56戸川哲也。南棟二階、第一小会議室まで出頭のこと》


 哲也の携帯が鳴った。部屋に残っていた祐輔からメールだ。

<お呼び出し。S2Fの一小に>

 何も付け加えずに、文面をそのまま送り返した。とりあえずこれで、メールに目を通したことは通じるはずだ。

 目を上げると、貴史が包帯を隠すためか、やや季節外れに思える上着の長い袖に、腕を通しているところだった。

「紗希さん、どうしますか?」

「このまま寝かせておくよ……どのみちこの格好で、外へは出せないだろ」

 そう言って、貴史は血のしみだらけの寝具を引っ張り、紗希の白衣をそっと脱がせた。それから、また、布団をかぶせる。

「出来れば別のに替えてやりたいけどな……俺の部屋にはスペアがない。夜勤の時のに持ってっちまったから」

 そう言って笑う顔は、いつも通りだった。

「じゃ、行くか……」

 部屋の鍵を取り上げ、貴史は哲也に声をかけた。

 その姿が、一瞬、三年前に殺された兄に、重なって見えた。

「遅いって説教喰らわされるだろうな」

 歩きながら、貴史はくすくす笑った。どこか懐かしくもあり、それでいて空恐ろしさを感じる表情だった。

「失礼します」

 一度頭を下げてから、部屋の中に足を踏み入れる。貴史の想像通り、やはり机の向こうに座る河西の顔は不機嫌だった。

「遅い!」

「申し訳ありません」

 優等生の返事をして、二人は河西の向かいの椅子に腰を下ろした。

「さて、と……説教をぶち上げたいのは山々だが、今回はそうは行きそうにないので、手短に切り上げる。ツメは君らがやれ。実行の手口に関しては、本部は一切口を挟まない……ただし、絶対に殺せ」

 金縛りにされそうなほど厳しい目が、二人を……哲也を捉えた。

「議長は、君ら二人を捨て駒にする気はないらしいがね……」

 二人には、河西の腹の内が読めた。

 たとえ自分たちの命を捨てても、江波を殺せと、彼は言いたいのだ。

 二人の思考の動きを知ってか知らずか、河西はかなり厚めのファイルを取り出して寄越した。二冊ある。

「情報科からの資料だ……まぁいらない情報もあるだろうが、君らがどこから切り崩すのか判らないのでね。とりあえず、全部打ち出してもらった。不要なページは焚き付けにでも使ってくれ」

 大真面目な顔で言うので、思わず二人は吹き出した。河西の口元もニヤリと吊り上がる。

「計画書は、こっちで作るか?」

「いえ、向こうで作ります……実際に立ってみないと判らないこともありますから……」

 貴史が、最初の数ページに、パラパラと目を通しながら答えた。

「しかし、お前たちは江波に顔を知られているぞ?」

「変装は得意ですよ。まぁ背を縮めるのは難しいと思いますけど。問題はそのくらいですよ……二人で一緒に行動したら、かなり目立つでしょうね」

「じゃ、偵察はバラバラでやりますか?」

 答えようとした貴史を、河西が遮った。

「相談は別の場所でやってくれ。出発日時はいつも通り君らの自由。後、その資料は例のごとくマル秘。特に今回のは相手が相手だからな。頭に叩き込み次第焼却すること。以上」

「諒解」

「では、もう行ってよろしい」

 立ち上がり、礼をして退室した。

 階段の手前で停止して、さてどうするか、と首を捻る。

 貴史の部屋には紗希が寝ているので、向こうで相談するのはしんどいものがある。しかし哲也の部屋は相部屋で、情報の筒抜けも良いところ。

「どこかいい場所ないかなぁ?」

 腕を組む貴史の姿はいたってのんきだ。今朝方腕を切られた人間とも思えない。その横で、二人分のファイルを抱えながら、哲也は半ば呆れていた。考える時邪魔だから、と、さきほど持たされたのである。

「図書室も筒抜けですしね……やっぱり紗希さん帰ってからとか……」

「それよりお前の同室者追い出せば……」

 貴史には紗希を起こす気はないらしい。

「永居さんが追い出してくださいよ?」

 一番新米の自分には、ちょっと言い出しづらい。

 そう思いながら貴史を見ると、目がいたずらっぽく輝いていた。ポンと手を打つ様子には、違和感は微塵もない。

「ちょっと待て、もっといい場所を思いついた……」

「どこですか?」

 考えがまとまったのなら持って下さい、とばかりに、哲也はファイルを持った腕を貴史の方に伸ばした。軽く受け取りながら、貴史はニヤリと笑った。

「前田さんの部屋」

 哲也の頭が、一瞬真っ白になった。




          32


 レ・ファ・ミ・ド・レー・ラー・ソ・ファ・ミ・レ・ド

 レ・ファ・ミ・ド・レー・ラー・ソ・ファ・ミ・ド・レ

 レ・ファ・ミ・ド・レー・ラー・ソ・ファ・ミ・レ・ド

 レ・ファ・ミ・ド・レー・ラー・ソ・ファ・ミ・ド・レ

 ファ・ミ・レー・ド

 レ・ミ・ファ・ソ・レー・ドー

 レ・ファ・ミ・ド・レ


 医務室に、金城を除く、屋上のメンバーが集まっていた。

 麗美が両手のひらで顔を覆った。その肩を、達紀が優しく抱いた。

「せっかく……生き延びたのに……」

 麗美のその声は、普段の勝ち気な物言いからは、想像もつかない声だった。

「本当に、この曲を歌っていたのですか?」

 尾崎が念を押す。前田は悲しげに、首を縦に振った。

「ああ……残念ながら、ほぼ確実だろう。浅川の音感は極めて正確だ。私は彼を信じているし、それに第一、紗希が歌っていたのでなければ、何故彼がこのメロディーを知ることが出来る?」

 誰もが沈痛な面持ちだった。麗美は既に泣いていた。尾崎も必死で涙を堪えているが、もう抑えられないほどになっている。

「紗希の記憶が戻るのは時間の問題だ。永居の与えた血のせいで、昔の感覚が戻りやすい状態になってしまったのは間違いあるまい」

「博士がいれば……」

 達紀の言葉を、前田は遮った。

「たとえいても、完全に発狂した人間を、正気に戻せはしないだろう……」

「じゃあ、殺すんですか?あなたが」

 尾崎の問いに、前田は、さぁ、と答えただけだった。

「美夏は、どうなるんですか?」

 麗美が問うた。

「とりあえず、様子を見る……何故手首を切ったのか、それが突き止められるまでは、今の紗希のような状態にならない限り、生かしておくつもりだ」

「議長には腹立たしい話でしょうね」

 達紀が、どこか虚ろな目で笑った。

 にこりともせずに、前田は言葉を続けた。

「上層部もな……こうなる可能性を知っていながら、本部に二人を送り込んだのだから、当然私は罰されるだろう……だが、罰を受けるのは私だけでいい。君たちのことは黙っておく」

「でも……」

「幸恵」

 反論しかけた尾崎を制するように、前田は彼女の名を呼んだ。

「博士の関与については口を割る。そうでなければ、あの二人が、今までそれなりに『まとも』に生きてこられたことの説明がつかないからな。だが君たちの事は伏せておいた方が、むしろいいと思う……そもそも、私の一存で始まった事だ。私とともに罰される必要など無い。博士に罰が下ることは、まずありえない……だから、私一人で片はつけられる」

「嘘ばっかり」

 尾崎が小さな声で呟いた。前田の視線が険しくなる。

「それは思い上がりよ」

「何故?」

「罰を受けるのはあなた一人で十分かもしれない……でも、傷を負うのは、私たちも、戸川君も、永居君も、みんなよ。あの二人を知っている全員。苦しむのはみんな。形だけ片をつけても意味はないのよ?」

 前田の表情は動かなかった。尾崎は微かな苛立ちを覚えた。

「解ってるの? あの子たちを殺した時、あなたは戸川君と永居君に対して、何を言うことができるというの?」

 前田の表情はそれでもやはり動かなかった。静かに、彼は言った。

「『二人とも死なせる』と、言った」

 瞬間、尾崎は叫んだ。

「エゴイスト!」

 前田は無表情のままだった。しかし、その闇色の目は、悲しげだった。

「所詮、私は誰も生かせない……むしろ、みんな殺してしまう。私は死神だ」

「そんな言葉に逃げないで!」

 どうしようもない叫びのために、尾崎の頬は紅潮していた。

「あなたは自分の意志で、あの二人の運命に介入したんでしょう? なら最後まで、あの二人を生きさせようとは思わないんですか? 誰もが無理だと言うに違いない事を、あえて行ったあなたが、一番最初に二人を見放してどうするんですか!」

 能面のようだった前田の表情に、驚きが広がっていく。いや、単なる驚きの表情ではない、もっと、複雑な感情の入り混じった表情だった。

 堰を切ったように、尾崎の言葉は溢れ続ける。

「人を助けるのは簡単なことではないと、私は言ったでしょう? あなたがあの子たちを助けたのは、単なる自己満足のためですか? そんな動機で、一体何人の運命を狂わせる気です? 殺す他の道を考えることを、あなたは放擲しているんです!」

「だからといって、私に何が出来る? 人を殺すことしか知らない私に!」

 抑えつけたような叫びが返された。

「そんな台詞は、あの子たちを生かしたいという思いが希薄だから出てくるんです! 考える前に逃げているから! 生かすことを知らないのなら、今覚えればいいんです!」




          33


 尾崎の言葉に打ちのめされたように、前田は目を伏せた。医務室の中に、先程とは打って変わって、不気味なほどの沈黙が降りた。ただ、話し終えた尾崎の荒い息遣いだけが、妙に響いている。

「尾崎さん……あの」

 乱れた呼吸を整えている尾崎に、達紀は遠慮がちに話しかけた。

「生かすと言ってもどうするんですか? 美夏はともかく、記憶の戻った紗希は今以上に危険になります。彼女に刷り込まれたプログラムは、いずれ本当に、貴史を殺してしまうと思いますけど……それでも、生かし続けられると?」

 尾崎は眉間に皺を寄せ、いつも考え事をする時にしているポーズを取った。左手の平で右肘を支え、右手で拳を作り、その人差し指のあたりの上に、顎を載せる。

「そうね……まずは永居君を受け入れられるように……今の所は、もう一度、博士の協力を願うしかないわね……まず紗希を博士の所へ行かせて、再度治療を行ってもらいましょう」

「誰が連れて行くんですか?」

「麗美。あなたに頼むわ」

 指名された麗美の顔は、え? 私? と言っていた。

 尾崎は穏やかに笑って、そう、あなた。と言う風に肯いた。

「女が連れて行く方が安全だしね……許可の方はどうにかとりつけるわ」

「はい」

「じゃあ、お願いするわね」

「僕には仕事はありますか?」

 達紀が身を乗り出した。尾崎はちょっと困ったような顔をした。

「そうね……難しいんだけど……」

 そう前置いてから、彼女は声を低めて言った。

「湯浅さんのファイルから、『あいつら』の情報を盗んでこられるかしら?」

 達紀が、信じられない、という顔を上げた。

「それは……厳しいですね……デジタル化されている分なら、どうにかなると思いますけれど……アナログのデータは……でも、やれるだけやってみます」

「お願いするわ」

「それを、どうする気だ?」

 ずっと黙っていた前田が、尾崎に尋ねた。

「あの二人を殺す必要がない、と上層部を納得させるために使います」

「情報の出所を尋ねられたらどうする?」

「博士だと言えば、詮索されることはないでしょうよ。特権階級ですもの……とりあえず、今思いつく手立てはこれだけね……なるべく早く、西村さんを捕まえて、外出の許可を取り付けるわ……診断書は私が下ろすから、病気の検査ってことにしましょう」

「はい」

「んじゃ、向こうが納得するような病名考えないとねぇ……何がいいかしら」

 そんなことを言いながら、尾崎は分厚い横文字の本に手を伸ばした。

「あ、もう行っていいわよ……適当にやってるから」

「はい。よろしくお願いします」

 そう言って、まず達紀が出ていった。後に続いて出ていこうとした麗美を、尾崎は思いついて呼び止めた。

「顔、洗っていった方がいいわよ? 跡が残ってるから」

「あ、はい」

 顔を洗ってから、麗美は出ていった。

 前田は動かない。

 尾崎も何も言おうとしない。

「そうね……」

 ようやっと聞こえたのは独り言。

 尾崎は、偽診断書に使えそうな病気を見つけたのか、机の引き出しから付箋を取り出して、そのページに貼り付けた。それから、ぐっと伸びをして、前田の方を、ようやっと振り向いた。

「本当に、あなたは変わらないんだから。いつまでも子どものままで」

 前田はそれには答えようとせず、ただこう言った。

「湯をくれないか? 足が痛む」

 尾崎はため息を吐きながら、立ち上がった。洗面器にポットの湯を注ぎ、水を入れて温度を調節する。指を入れて温度を確かめてから、タオルを二枚添えて、彼の足下に置いた。

 前田が、傷痕の浮いた足を、湯に浸したタオルで拭うのを眺めながら、尾崎は何度繰り返したか解らない問いを、また口にした。

「まだ、手術を受ける気にはなれない?」

 答えは解っているのに。

 前田は目を上げようともせずに、答えた。

「今は、まだ」

 尾崎は首を振り、哀れむような目で、彼を眺めた。




          34


「そうやって、いつまで昔に縋っている気ですか?」

 前田は答えようとはしない。ただ、何故か大切なものに触れるように、足の傷痕を指でなぞった。

「今も昔も、逃げ上手なのは変わりませんね。どんな事態になっても、あなただけは、逃げ道を見つけ出してきた……でも、いつまでも逃げ切れるとは限らないんですよ?」

 尾崎は腕を組んで、薬品や包帯、ガーゼの箱のならんだ戸棚に背を預けた。

「それは、判っている」

 ぽつりと、返事が聞こえた。

「じゃあ何故、まだ逃げているんです?」

「江波が生きているからだ」

 人肌ほどの温度になった湯から足を抜いて、乾いている方のタオルで水気を拭き取る。

「だからこそ、さっさと手術を受けるべきなんです」

 そう言う尾崎の目を、前田はただじっと見つめた。

 置き去りにされた子どものような目だった。

 尾崎はまた首を振った。一度、やりきれなさそうに目を瞑る。

「本当に、あなたは自己中心的なんだから……」

「さっきも聞いた」

「あの二人のことだけじゃありませんよ。人に自分の過去を清算してもらおうだなんて考えているんですからね。本当なら、あなたが蹴りをつけるべき問題だったのに!」

 洗面器を取り上げ、冷めた湯をばしゃっと流しに落とす。タオルを手際よく絞り、「使用済み」とシールが貼られたカゴの中に投げ込んだ。

「この足で、どうやって動けと?」

 皮肉っぽく、微かに、彼は笑った。

「さっさと手術を受けてリハビリをしていれば……」

「間に合わなかったさ。それに、それなりには動けるようになったとしても、昔と同じに動けるとは思えない……それじゃ、意味がないんだ」

 ぼんやりとそういう前田に、尾崎は派手なため息を吐いた。

「本当に、頭が良いのか悪いのか、皆目分からない人ですね」

「私はバカだよ」

 自らを嘲るような声で、彼は答えた。

「自分で言ってりゃ世話はありませんよ」

 尾崎の皮肉を無視して、前田は言葉を続けた。

「そうでなければ、戸川に博士の居場所を教えたりするものか」

 途端、尾崎の動きが凍りついた。

「黒川たちの出発は遅らせないとな……」

 尾崎の思考回路が正常に動き出す。さっきの調子は一瞬で戻ってきた。

「全く。あなたという人は! 猫みたいに気まぐれなんだから! 私たちに相談もなしに、いつもいつもとんでもないことをやらかして!」

 説教のスコールに、前田はうんざりしたような表情を見せた。

「考えてからやったんだよ……不公平だと思ったから」

「何がですか?」

 刺のある声に、彼は顔の右側をしかめた。

「金城さんの言葉が本当になればいいと思ったんだよ……なら、戸川と永居には、美夏と紗希の過去を知る権利があると思った」

「ええ。あるでしょうとも。でも、『時計』の動いていない戸川君に、今美夏の過去を教えて、正常に任務に就けると思うんですか?」

「就けると思うが?」

「ある意味で、とてもおめでたい予測ですね」

「彼は私に似ているからな」

「ほら。全く……戸川君は戸川君ですよ……第一あの子は、正式にこの世界に入って一年目なんですよ?あなたの十九歳の時とは違いすぎます」

「判っているよ」

「でも、解ってはいないんでしょう?」

 そう突かれて、前田はぷいとそっぽを向いた。

「部屋に帰る」

 そう言って立ち上がった背中を、尾崎は何とも言えない気持ちで見つめた。

(全く、子どもなんだから)

 頭は良いけれど、腕も良いけれど、心は成長しきっていない。

(自分を守りすぎたせいで、人間らしさが歪んでしまったのかしらね)


 孤独で感覚を喪失しつつある子ども。

 悲しみで崩れかけている子ども。

 自分を守るために、自分を慰めるために、自分を壊してしまった。

 そして生まれたのは、冷血な殺し屋。

 五年前、江波が裏切った時。

 三年前、江波を殺し損ねた時。

 どうやって彼は、人格の完全崩壊を免れたのだろう?

 それとも、正常を演じているだけで、心は壊れてしまっているのだろうか?



      <もう、慣れたから……>




          35


「あの人って、ふらふら動き回ってて、全然足取りがつかめないんだもんな」

 貴史は、主のいない部屋の前でため息を吐いた。七階の前田の部屋だ。

「やっぱりやめましょうよ。佑さんに頼みますから、こっちでやりましょう」

 哲也の顔には、一刻も早くこの場から立ち去りたい、と書かれている。

「しょうがない」

 貴史もあきらめたらしい。くるりと踵を返し、一階の方へ降り始めた。階段を降りながら、貴史はふっと、今朝方の前田の妙な行動を思い出した。

「ところで、気になってたんだけど……その胸ポケ、何入ってんだ?」

 質問されてポケットを指差すのは、その中に答えがあるからだろう。

 しかし、哲也は首を傾げるばかりだった。

「前田さんからのプレゼントですけど」

「ハァ!?」

「そんなに驚くことないでしょう?」

 呆れ半分に、隣の貴史を見上げるが、本人は哲也の視線などどこ吹く風。

「『あの』前田さんが? あり得ねー!」

 同類がいた、と、哲也は内心で呟いた。

「貰っていいものなのか、ちょっと微妙ですけれどね」

 よっ、と軽く声を出して、踊り場の五段ほど上から、ぴょんと飛び降りる。

「どういうことだ?」

 貴史は哲也とは対照的に、一段一段きっちり確認するように降りている。

「『パンドラの箱の鍵』ですから」

 くるっと向きを変え、最初の一段目に足を踏み出しながら、哲也は答えた。ひょいと視線を上げると、真上に貴史の顔があった。

「何じゃそりゃ?」

「知らないんですか『パンドラの箱』……有名なギリシャ神話ですよ?」

「わーるかったな。その手の話には疎いんだよ俺は」

 貴史のふてくされたような表情は、妙な表現だが、かわいげがある。思わずおかしくなって、クスクス笑ってしまった。

「笑ってないで教えろって。その何とかの箱って、一体どんな話なんだよ?」

 口をとがらせる貴史がおかしくて、笑いを必死でかみ殺しながら、哲也は話を始めた。

「えーとですね……昔、世界はありとあらゆるものが、ごっちゃになった状態でした。それがカオスです。そのカオスの中から、秩序のある世界が生まれてきました。で、できた世界に命が生まれました」

「前置きが長いな」

「茶々入れないで下さい……その命を創ったのが、プロメテウスとエピメテウスって兄弟です。二人は創りだした動物それぞれに、早く飛べる翼とか、そういういいものを与えてやってました」

「良い兄弟だな」

 のんきな声で、貴史がまた口を挟む。

「だから、茶々入れないで下さいってば……そうやって、いろいろ与えてやってたんですけど、最後に人間を創った時には、もう与えてやるものが何もなかったんです」

「ネタ切れか」

 もう何も言う気がなくなって、哲也は今度は何も言わずに話を続けた。

「……それで、プロメテウスは、神しか使うことが許されていなかった火を、人間に与えたんです。火を手に入れたことによって、人間は他の動物より強くなれた……でも、禁を犯したわけですから、ゼウスを初めとするオリンポスの神々は、プロメテウスをコーカサスの山に鎖で繋いで、毎日鳥に肝臓を突かせるという罰を与えました」

「えぐいな」

「ついでに言うなら、肝臓は回復力が強いから、毎日突かれてもプロメテウスは死にませんでした……で、話を戻しますけど……」

 その様子を想像して顔をしかめた永居を横目に、哲也はまた話を続けた。

「神々の怒りは、弟のエピメテウスにも下りました。でも、直接じゃなかった……すんごく陰険な方法を使ったんです。神々はパンドラという名の美女を創って、エピメテウスに与えたんです」

「それのどこが罰なんだ?」

 きょとんとする貴史に、哲也は何かを否定するように手を振った。

「その美女が持っていた箱が問題なんですよ。神々はパンドラをエピメテウスの元に行かせる前に、一つの箱を与えたんです。ただし『決して開けるな』と固く言って」

「浦島太郎みたいだな」

「そーですね。パンドラは、箱の中身が気になって気になって仕方がなかった……開けるなと言われれば、中身を見たくなるのは当然のことで、ある日とうとう、彼女は箱を開けてしまった」

「で、バアサンになった、と」

「なってませんよ!」

 哲也は堪えきれずに吹き出した。






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