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第26章~第30章

          26


 まだ薄い青空の下。哲也はぼんやりと、フェンス越しに、視界の半分以上を占める緑を眺めていた。正面玄関前の駐車スペース。その隅に据えられた椅子に座る前田は、また右足に手を置いていた。やはり痛むのだろう。

 言葉を探していたらしい目が、ふっと哲也の方を向いた。

「何を知りたい?」

 すぐには答えることが出来なかった。

 自分は何が知りたいのだろう?

 疑問に思うことを挙げればきりがない。でも一番知りたいことなら……それなら、一つだ。

「美夏の過去を……誰か……博士って人が、消したんでしょう? 記憶を」

「知って、どうする? 何のために知りたい?」

 そう訊かれて、哲也はたじろいだ。


 どうする?

 そんなことは考えたこともなかった。ただ知りたいと思っていただけだ。

 しかし、知って、どうするのだろう?

 さっきの前田と金城の話から憶測して、あまり好ましい記憶とは思えない。

 もし、自分がそれを知ったら……

 今までと同じように、美夏に接していくことが出来るのだろうか?

 知ることさえ辛い記憶かもしれない。

 自分は、美夏に告げるためだけに、美夏の過去について知りたいのか?

 違う。

 じゃあ、本当は、何故知りたいのだろう?

 知りたいから知りたい。それじゃあ理由にならない。何故だ?


<私は一体何者なの?事故からずっとずっと、それを問い続けているわ。記憶が戻ったら、それが判るのかもしれない……ずっと戻って欲しいと思ってた>

<でも、今は戻したくないの……戻って欲しくないの>

<記憶が戻ったら、哲也のこと、忘れてしまうかもしれないから……>


 ……自分のために、知りたいのだ。

 美夏が、過去のない幻のような女ではない、と、納得したいだけだ。

 美夏の記憶を知らなければ、自分は美夏を愛することが不安なのだろうか?

 記憶が無くても、美夏は美夏だと納得出来ないのか?

 出来ない。

 何故?

 自分の存在さえ不安だから。

 自分が在るのは知っている。でも、自分が何なのかは解らない。だから不安なのだ。

 美夏は幻ではないと……

 ……幻かもしれない他人の言葉によって納得しようとしている?

 愚かしい。

 じゃあ、何故知りたい? どこかに理由があるはずだ。

 いや、理由を見つける以上に重要なのは、過去を知った時、自分はどうするかということだ。

 今まで通り、美夏に接することが出来るとは思えない。

 それは美夏のためにならないかもしれない。

 ……だが、もし、何かの弾みで、美夏の記憶が戻ったら……

 もしそれが恐ろしい記憶でも、自分が予め知っていたならば、きっと美夏を受け入れられるはずだ。

 そう、もしも記憶が戻っても、支えることが、できる。


 哲也は一度、深い息を吸った。

「記憶が戻ってしまっても、美夏を受け入れたいから」

 そう答えると、前田は皮肉っぽい笑みを浮かべた。ばかにされたような気がして、哲也は苛立ちを感じた。が、同時に背筋の寒くなるような恐怖を覚えてもいた。

 前田が口を開くのが見えた。

「自分がどれだけ恐ろしいことを言ったのか、後で知ることになるだろう」

 口元は笑ったままだったが、目は恐ろしいほど凍りついていた。

「構いません」

 きっぱりと、哲也は答えた。

「パンドラの箱を開けることになると思うがな」

 皮肉な笑みを浮かべたまま、前田はまた歩き始めた。その右手が、ついて来い、のジェスチャーをした。



          27


 階段をのぼり、正面玄関の受付……最初に、前田と金城が話をしていた場所まで戻る。前田はカウンターにあったメモ用紙を勝手に破り、ボールペンを走らせた。哲也はその流れるような動きを、しげしげと眺めていた。

 書き終えると、彼はそのメモ用紙を丁寧に折り畳んで、哲也に渡した。

 受け取りざま、哲也はふと、さっきの前田の言葉を思い出した。

「さっき、『パンドラの箱を開けることになる』って仰いましたよね?」

 前田は、あぁ、と答えた。

 哲也の頭の中で、昔読んだギリシャ神話の記憶が、色鮮やかに甦っていた。


 開かれたパンドラの箱。

 中から出てきたのは、様々な災い、そして呪い。

 だが、最後の最後に残ったのは、どんな災いでも呪いでもなかった。


「でも、希望は残るんです」

 そう答えると、前田は、さっきまでとは違う、どこか優しげな表情をした。

「そうだ。確かに希望は残る……だが、希望が残るかどうかは、お前次第だ、と言うことを忘れるな。お前が希望を失えば、おそらく美夏は死ぬだろう……それでも、賭けるか?」

 殆ど反射的に、哲也は肯いた。

 その時の前田の視線の意味は、彼には解らなかった。


「おはようございまーす」

 受付の二人と、警備員の浅川が顔を出し、前田に向かって挨拶した。哲也は三人に向かって頭を下げた。

 前田が浅川を呼び止め、近くに来るよう手招きした。

「昨日、香西が東棟にいたという話は、事実か?」

 前田の問いに、浅川はあっさり肯いた。

「変な歌が聞こえたんで覗いてみたら、ふらふら踊りながら廊下を歩いていたんですよ」

「何階だ?」

「たしか……五階だったかな」

 哲也の心臓を、氷の手のひらが鷲づかみにした。

 五階……貴史の部屋がある階だ……

「その歌は?」

 その問いが意外だったのか、浅川は一重の目を真ん丸にして、首を捻った。

「何分にも、歌詞がなかったんでねぇ……でも、聞き慣れない歌でしたよ」

 記憶をたどりながら、浅川は単調なメロディーを口ずさんだ。


 レ・ファ・ミ・ド・レ・ラー・ソ・ファ・ミ・レ・ド

 レ・ファ・ミ・ド・レ・ラー・ソ・ファ・ミ・ド・レ

 ファ・ミ・レー・ド

 レ・ミ・ファ・ソ・レー・ドー

 レ・ファ・ミ・ド・レ


 瞬間、前田の顔色が変わった。

「その曲を、ずっと歌っていたのか?」

「ええ、聞こえる限りは、ずっとこれを繰り返し繰り返し」

 浅川のその声が聞こえるやいなや、前田は早足で歩き始めた。傷めた右足を庇おうともしない。

「前田さん?」

 浅川の声が響く。受付の二人の視線が、物珍しそうに前田の背中を追っている。哲也はとっさに、彼の後を追いかけた。

「前田さん! 待って下さい……永居さん、生きてます! 今朝会ったんです!」

 くるっと振り返った目は、相変わらず厳しかったが、その中の驚きの色は、遠目にも誤魔化しようの無いほどだった。

 声は聞こえなかったが、口の形で、何を言っているのかは判った。

「ありえない」

 ありえない?

 貴史が生きていることがか?

 それとも、「紗希が貴史を殺さなかったこと」がか?

 いやまさか……まさか「貴史が紗希を殺した」と?

(それこそありえない……)

 あんなに、誰に対しても優しい貴史が、紗希を殺すなんて、ありえない。

 そう考えた哲也の脳に、唐突に、祐輔の昨日の言葉が甦った。

<あんな優しそーな顔して、あの人、一体何人殺したんだろうな>

(違う……ありえない……あるはずがない!)

 自分の心の中から、嘲り笑う声が聞こえてきた。


<あの人に『偽善者』って言ったのは、他でもないお前だろ>

<永居貴史は優しい人間だ、なんて、ただのお前の願望に過ぎないんだよ>

<あの人を、死んだ兄貴に重ねてるんだろ>




          28


 何故前田の後を追いかけたのか、哲也は自分でも解らなかった。ただ、どうしようもないほど嫌な予感がした。頭の中に響く嘲笑は、大きくなる一方。

「永居!」

 こんなに取り乱した前田を見るのは初めてだった。乱暴に扉を叩く姿など、普段の彼からは想像もつかなかった。何が彼をそうさせているのか、哲也には理解出来なかった。

 扉の施錠が開かれ、貴史の顔が覗く。焦りの色が見えた。

「何の御用ですか?」

 一刻も早く立ち去ってくれ、という考えが、その声には滲んでいた。前田はそれを無視して、中に入ろうとした。それを止めようと、貴史が腕を伸ばす。

 伸ばされた両手のうち、前田は左の手首を掴んだ。貴史の顔が苦痛に歪む。

 力の弱まった隙をついて、彼は部屋の奥へ姿を消した。

「やめて下さい!」

 叫ぶ声は悲痛だった。

 その声につられるように、哲也は身を乗り出した。

 騒ぎを察知して、周囲の扉が開く。

 咄嗟に、このままではマズイと思った。

「何でもありませんから!」

 巧くない答えだったが、口をついて出たのがこれだったのだから仕方ない。

 そのまま、自分も中に入って、扉を閉めた。


 中に入った瞬間、むせかえるほどの血の臭いがした。いや、実際はそれほどひどくはなかったのかもしれないが、血の臭いに敏感な哲也の嗅覚には、十分すぎる強さだった。

 床の上に、血が滴り落ちている。

 傍らに立ち上がった貴史の手首から、それは流れていた。

 傷の数が増えている。今朝は一つだったのに、今は少なくとも三つはある。

 視線を奥にやると、紗希がいた。ベッドの上だ。血でまだらになったシーツの上に、同じく血でまだらになった白衣を纏い、猫のように背を丸め、まるで威嚇するように、目の前に立つ前田を睨みつけている。

 その口の周りは、血で赤く染まっていた。

 前田の右の手からも、赤い液体が滴っていた。

「紗希……大丈夫だから……」

 血の滴る腕をぶら下げながら、貴史がその側に近づいていく。

 吐き気がするほど、優しい表情だった。

「血を飲ませたのか?」

 前田が厳しい声で問いかける。

 紗希に微笑みかけていた貴史の顔は、前田の方に向けられるなり、一転して刺々しくなった。哲也の背筋を悪寒が走った。

「そうですよ……だから、何だって仰るんですか?」

 こんなに刺のある声で、貴史が話すのを、哲也は聞いたことがなかった。自分の中で響く嘲笑が、よりいっそう大きくなった。

<ほら。彼が優しい人間なものか>

 哲也はその声を無視した。

 貴史の目が、前田を睨みつける。彼の傷つけられた腕は、明らかに紗希を庇っていた。

(何故、この人は、こんなことをするんだろう?)

 何故貴史は、自分の血を飲んだ紗希を庇おうとするのだろう?

 何故紗希は、貴史の血を飲んだのだろう?

 何も解らない哲也とは対照的に、前田は何もかも分かっているようだった。

 彼は貴史の言葉には何も答えず、ただ背をかがめて、紗希の顔に、己の顔を近づけていった。警戒に、彼女が身を硬くするのが判った。前田はいっこうにかまわず、その耳元で、何かを囁いた。

「紗希!」

 光のない目を見開いたまま、紗希は身体の支えをなくしたように、がくんと倒れかける。その身体を受け止めながら、貴史は前田を激しく睨みつけた。

 哲也は、前田の目を見て驚いた。

 何か、相手を哀れむような……どこか悲しそうな目だった。

 前田は紗希の目に向かって指を伸ばした。貴史の手がそれを邪険に払いのける。その目は敵意でぎらついていた。

「目蓋を閉じてやれ……そのままではドライアイになる」

 静かな声で唐突なことを言われ、貴史の攻撃的なオーラが弱まる。言われるままに、彼は紗希の目蓋を下ろした。

「一体何をしたんですか?」

 全ての感情が根こそぎ奪われたような声で、貴史が問うた。

「眠らせただけだ」

 抑揚のない声で、前田は答えた。

「どうやって?」

 哲也が反射的に問う。前田は哲也の方を振り返り、そして、さっき渡されたメモ用紙を入れた胸ポケットを、真っ直ぐに指差した。それ以上は何も言おうとしなかった。

 そして貴史の目を見て、問うた。

「昨日、首を落とされかけたんだろう?」

 瞬間、貴史の顔が青ざめた。奥歯をきつく噛んだのが判る。

 ぐったりした紗希の身体をきつく抱く、貴史の目には、形容しがたいおそれが、はっきりと宿っていた。




          29


 ポタポタと軽い音がする。貴史の傷から流れ落ちた血と、紗希の頬から流れ落ちた涙が、シーツに落ちる音だ。紗希の舌は、滴る血を舐め取っている。飲みきれない分が、シーツに紅い斑点を描く。

 一通り飲み終えたのか、紗希は手際よく止血処置をした。傷口を布で縛りながら、紗希はぽつり、ぽつりと話を始めた。

「何故かはわからないんだけど、私は、好きになった人を、いつも必ず殺してしまうの……殺して……そして、その首を落としたいと思ってしまう……何故なのかわからない……でも、事実なの……本当は殺したくないのに」

「じゃあ、今まで死体の首を落としていたのも?」

 貴史の問いに、紗希は首を、縦にも横にも振らなかった。

「単に首を落とすのが好きなんだと思ってた……でも違った……『好きな人の首』を、落とさずにはいられないの……他の人の首は、いくら切ってもだめだった……永居さんの首が、欲しくて欲しくて……そんな自分が、恐くて恐くて……本当にあなたの首を落としたら、その一瞬は私、とても幸せだと思うの。でも、その後は、想像するのさえ、嫌……きっと殺されるでしょう? 私、組織の手にかかって死ぬのは嫌……どうせ殺されるなら……永居さんに殺されたいって思ったの……そうすれば、私はあなたを殺さなくて済むもの」

 その言葉が、信じられないほどうれしくて、貴史は紗希を抱き締めた。

「どうして、笑ってるの?」

 問うその顔は、子どもが質問をする時のような、単純な疑問の表情だった。

「うれしいから……何でかな? わからないんだけど……」

 笑みは堪えようがなかった。抑えようとしても、ついつい笑ってしまう。

「好きと言われて、嫌がる人はいないよ。紗希は、俺のことを好きって言ってくれたんだろ?なら、俺が喜ぶのは当たり前じゃないか」

「でも、私、あなたを殺そうとしたのよ?」

 その声は明らかに戸惑っていた。それが何故か、貴史の心を穏やかにした。

「でも、殺したくないんだろ?そう思ってくれてるんだろ? なら、そんなこと俺は気にしないよ」

「本当に?」

 縋るように問いかける目が、愛おしくてたまらなかった。

「好きだよ、紗希」

 そう言った瞬間、何故、こんなにも静かな心になれるのだろうと、自分でも不思議なくらいだった。

 何故、自分を殺そうとした女を、愛せるのだろう?

 そして何故、自分の血を啜ったこの女を抱き締めている今、自分の心はこんなにも凪いでいるのだろう?

 優しく髪を撫でると、紗希は気持ちよさそうに目を閉じた。

 そっとベッドに横たえてやる。

 自分が大柄なのを差し引いても、小さな身体だった。力を込めると壊れてしまう硝子細工に触れるように、貴史は紗希に触れた。

 キスは、血の味がした。

 どれだけ深く口を合わせても、血の味以外はしなかった。

 唇が離れると、紗希は力が抜けたように目を閉じ、スウスウと静かな寝息を立て始めた。

 血の臭いが立ちこめる寝台に横たわっているのに、何故か貴史の心は穏やかだった。横で眠る紗希の寝顔はあどけなかった。

 好きだと言われたことがうれしくて、殺したくないと言われたことがうれしくて、今自分の側で、安心しきったように眠っているその存在全てが愛おしくてたまらなかった。

「愛してるよ」

 聞こえないと判ってはいても、そう言わずにはいられなかった。

「俺も、紗希になら、殺されてもいい」

 本気でそう思った。

「でも、一つだけ条件がある」

 寂しいのは嫌だから。

「もし俺を殺したくてたまらなくなって……どうしてもそれを抑えきれないのなら、殺してくれて構わないから……」

 何故か、胸が熱くなった。溢れそうになる涙を抑えながら、続きを語る。

「君に後を追ってくれなんて言わない……でも」

 でも。

 寂しいのは嫌だから。

「俺のことを忘れないで……」

 記憶の片隅でも構わないから。




          30


 長い話を終えた貴史が一息吐くのを見下ろしながら、前田は絶望的な表情で首を振った。

「そしてお前は、今また紗希に己の血を与えたというわけか」

「紗希が望んだからです。俺は、紗希が望むのなら、死んでも構わないんです……だから血ぐらい、どうってことない」

 そう言いながら、眠らされた紗希の前髪を梳く。

 優しい目。

 だが、哲也の目には、貴史は狂っているとしか見えなかった。

 紗希に切られた左手首は、今は止血処置を施されている。だが包帯を外せばその下には、無惨なほどの切り傷がある。その傷をつけた女に、慈しみの目を注ぐ貴史は、哲也には悪魔に魅入られたようにしか見えなかった。

「何故、そんなことを言う?」

 問いかける前田の目は、どこか悲痛だった。

「幹部に昇進しているあなたなら、俺の過去はご存じのはずです。俺が組織に入った動機だって、簡単に判るはずです……きっと……だからなんだと思います……だから、俺は紗希のために死にたいんです」

 前田は、もう何も言えないと感じたからなのか、ただ首を振った。

 哲也はもちろん何も言えるわけがなく、部屋には重い沈黙が垂れ込めた。

 ため息と、かすれた声が、前田の口から漏れた。

「え?」

 聞き取れなかったのか、貴史が聞き返した。

「結局私は、誰も生かすことは出来ないのか、と、言っただけだ」

 そう言ってから、彼は顔を見せるまいとするかのように立ち上がった。

「邪魔をした」

 それだけを言って、前田は足早に部屋を出ていった。

 哲也はすれ違いざま、彼の目に光るものを見たような気がした。それは気のせいだったのだろうか?

 今朝方の金城の言葉を思い出す。

<錆び付いたのう>


 そう。たしかに彼は錆びてしまった。彼の『熾天使の時計』は。

 彼の『人間の時計』は、むしろより生き生きと動いているような気がする。

(人間は、天使にはなれない)

 だからこそ彼は、一線を引いた瞬間から、人間に戻っていったのではないだろうか?

 彼が生き延びたのは、彼が自分自身を守る術に、現実世界においてであれ、精神世界においてであれ、長けていたからに他ならないのではないだろうか?

 自分というものを保ち続けたまま、正義を演じて人を殺し続ける。

 それは、自分自身のより頼む正義が崩壊した瞬間に、自分が崩壊することを意味してもいる。

 だから『熾天使の時計』が生まれたのだ。

 前田は、自分が外的圧力によって崩壊させられる前に、自らを解体することによって、自分自身を守ろうとしたのだ。

 そう。だから彼は言ったのだ。

<一度壊れてみるといい>

 だが、彼はひょっとすると、その限界をも知っていたのかもしれない。

 人間と熾天使の乖離が進行するにつれて、「自分」が曖昧になっていく。

 「本心」が漠然としていく。

 外的圧力によって、自己を崩壊させないために採った策が、内部分裂を引き起こし、その圧力によって、結果、自滅する。

 あのまま前線に居続ければ、江波に足を撃ち抜かれなくとも、あるいは彼は死んでいたかもしれない。

 曖昧な正義という外的圧迫に因ってではなく、曖昧な自己という内的圧迫のために。

 だから彼は、江波が憎めないのだ、と考えるのは、憶測に過ぎるだろうか?

 金城に見せた、あの寂しげな笑顔。

<ここにいるのは、天使の影を背負った、ただの残骸だ>

 彼はどんな気持ちで、あの言葉を口にしたのだろうか?


 弱い。

 人間は脆くて弱い。

 それを知っているからバリアを張って、必死になって自分を守ろうとする。

 だが、自分を守ろうとすればするほど、守るべき自分が曖昧になっていく。

 自分というものを探して、心の中を歩き回れば、信じられないほど数多くの他者が、自分の中に根付いているのに気づくだろう。

 極端に自分を守ろうとする者は、その全てを排除していこうとする。

 だがその結果残るのは、「本当の自分を捜している自分」だけだ。

 そして、その正体は理解出来ない。

 自分を捜そうとしている自分が「本当の自分」……

 まるで、童話の青い鳥のような結末だ。

 だが青い鳥とは違って、ようやっと見つけた答えまでが、どうしようもなく曖昧なのだ。

 そして何もかもが解らなくなる。

 何も解らないのだと思ってあきらめられれば、生き延びることも出来る。

 だが、それでも突き詰めずにはいられない人間は、死ぬしかない。

 あきらめられず、かといって死ぬことも出来ない。

 すると、自分を守るために、排除し続けてきた他人を創り出し、分裂する。

 解りたいという願望から逃れられないが故に、そのスタンスだけを継続し、死ねないが故に、逃げ出す。



(残骸であると自覚しているのに、あの人は苦しくないのだろうか?)

 苦しいに違いない。

 そこまで考えて、初めて哲也は、自分が泣いていることに気がついた。

 内線電話が、静寂を引き裂いて鳴った。






そういえば、作中の紗希のハミングは即興で作ったものだったのですが……こともあろうに、岸和田のだんじり祭りの特集DVDに、それなりに似たメロディーが使われていて、びっくら仰天しました。何故だんじり……

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