第21章~第25章
21
祐輔は何故か、深いため息を吐いた。
「そりゃ、悲しむべき事だぜ」
「何でですか?」
「……前田さんは、お前がその任務で死んでもいいと思うと考えたから、推薦したんだよ」
「それは、あるかもしれませんね……」
「何納得してンだよ? 愛しの美夏はどうなるんだよ、もしもお前が死んだら」
「それは言わないで下さい……今は、美夏のことは忘れていなきゃならないんです……」
「それも、前田さんのアドバイスか?」
哲也は答えなかった。祐輔はまたため息を吐いて、首を振った。
「嫌な商売だ」
「じゃあ、なんで入ったんですよ、この世界に」
光のない目で、哲也は問うた。
「……妹がね……その復讐の依頼から、この組織と関わり合いになって……んでそのうち、自分から組織を手伝うようになって、で、こうなった」
語らなかった部分を、敢えて聞こうとは思わなかった。語りたくないことを語らせてはいけない。この組織にいる人間は、みんな多かれ少なかれ傷を負っている。光になじみきれず、かといって闇に染まることも出来ない群れ。それが『ブラッディ・エンジェル』だと、解っているから。
祐輔はくいと、哲也をあごで促した。お前も話せ、と言われているのだ。
哲也は腕を組んで枕にしていたが、右手を引っ張り出して、それを両目の上にかざした。
「そもそも、事の発端は三年前の八月。俺の兄貴……実の兄ですよ、念のため言っておきますけど……その兄貴が、一人の男に殺されたんです。その男が、江波です。兄貴は結構人望もあった方で、まぁたぶん妬み嫉みが高じてあんな事になったんだと思いますけど……偶然に奴の居場所を突き止めた俺たちは、どうしても復讐せずにはいられなかったんです……育った場所柄、武器を集めるのは結構簡単でしたけど、ろくな腕もない集団でしたから。そのうちに顔を憶えられたみたいです。でもそれに気づかないまま決行して……」
そう言ってから、哲也は呼吸を整えた。
「皆殺しにされました」
胸の奥で、血が激しく逆巻いているような気がした。
軽く十人を超す仲間がいたはずだったのに、気がついたら、一人、また一人と死んでいた。
「逃げました……俺は……何人かは、まだ息があったみたいです……でも、見捨てて逃げました……どうしようもなく恐かった……」
身を乗り出した祐輔が、じっと、手のひらで目を覆ったままの哲也の顔を、上から見下ろした。
「江波は追ってきました……俺は必死で逃げましたよ……左腕に一発かすった傷の痕は、まだ残ってます。でも、もうだめだと思った時……」
そこまで言って、哲也は口元に、微かに笑みを浮かべた。
「前田さんが助けてくれたんです」
祐輔の驚きが、空気を伝って哲也に届いた。
哲也は手を戻し、目を開いた。
「前田さんの右足の傷は……たぶん、俺を庇った時に撃たれたものです」
「お前さえ庇わなけりゃ、あの人はまだ現役でいたって事か?」
何かを胸に突き刺されたような気がした。
哲也は再び目を閉じた。
「……かもしれません。でも、さっき、こう言ってました。江波のことを憎めない。人間の心以外で、彼に接することは出来ない。だから失敗した。って」
目を閉じているのに、祐輔が困惑するのが判る。
「人間の心以外……って?」
「熾天使」
そう言いながら、哲也は笑った。祐輔の困惑の度は深くなる。
「メアリ様ですよ。翼の六枚ある天使。あの人は、任務に集中している時を、『熾天使の時計』が動いている時、って言ってました……でも、三年前の江波処刑の時は、その時計が動かなかった、って」
「……意外に詩人なんだな、あの人……ただの冷たい殺し屋だと思ってた」
祐輔はそう言って、ふーっと長く息を吐き出した。
「俺もそう思ってました……あの人の口から、愛なんて単語が出てくるなんて思ってもみませんでした」
「美夏とのことか?」
「そうです」
忘れなければならない名前を、まだ口にしている自分がいる。
きっと、だから、未熟者といわれても仕方がないのだろう。
美夏、の名前に、忘れかけていたことを思い出した。
「祐さん、二ヶ月前、本部にいましたよね?」
「ああ……何でだ?」
「美夏がリスカしたとか、情報流れてこなかったですか?」
途端、祐輔の顔色が青ざめた。
「どういう意味だ?」
「流れていませんでしたか?」
「何故、美夏がリストカットをするんだ?」
「流れていないんですね?」
祐輔はジロッと哲也を睨んだ。しかし、たしかに先に質問をしてきたのは哲也の方で、自分はまだそれに答えていないのだから、まずは自分が答えねばならないだろう。そう考えて、祐輔は肩をすくめた。
「流れていないよ……で、俺の質問に答えろ。何故そんなことを訊く?」
「今日、美夏、倒れたでしょう? で、医務室で気がついたんですけど、右の手首にかなり深い切り傷の痕があったんです」
「右?」
「美夏は左利きですから」
哲也がそう説明すると、祐輔は納得したように、何度も肯いた。
「でも、何で切る必要があるんだろうな?」
どうやら、祐輔にも美夏の傷の理由は判らないらしい。哲也の脳裏を、ふと黒川麗美の顔が過ぎった。あの人なら知っているかもしれない、と考えたが、それを質問するのは、何だかひどくとんでもないことのように思えた。
「技術科のメンバーなら、何か知っているかもな」
「澤村さん辺り捕まえて訊いてみますよ」
「『マドンナ』じゃなくて?」
「そんなこと訊いたら、今度こそ射撃の的にされちゃいますって」
力無く笑って、哲也は肩をすくめた。
22
ひょいひょいと、廊下を踊るように歩いていく影がある。長い白衣が、風で丸く膨らみ、短い黒髪がサラサラとなびく、小さな影。
紗希だ。
大気が真っ青に染まった宵の口。小柄な影は、東棟の廊下を、ふわふわと、やはり踊るように歩き続ける。
生気のない黒い目。ただ反射される光だけが、鋭く、冷たい。
単調なハミングが流れてくる。
レ・ファ・ミ・ド・レ・ラー・ソ・ファ・ミ・レ・ド
レ・ファ・ミ・ド・レ・ラー・ソ・ファ・ミ・ド・レ
ファ・ミ・レー・ド
レ・ミ・ファ・ソ・レー・ドー
レ・ファ・ミ・ド・レ
この音だけが延々と繰り返される。
警備の人間とは一度もすれ違うことなく、彼女は一つのドアの前に立った。
唐突に、音が止む。
硬いノックの音が、闇に沈んでいく廊下にこだまする。
「はい?」
顔を出したのは、永居貴史だった。
「紗希?」
紗希は黙ったまま、ずっと上の方にある貴史の目を凝視した。
貴史も黙ったまま、紗希が入れるように、戸を開いた。
<ほら>
光のない真っ黒な瞳。
<ほら>
一歩、二歩……
<目の前に>
手がポケットの中に差し入れられる。
<切り刻んで>
冷ややかな金属塊。
<温かい血を>
硬い音が跳ね上がる。
<裏切り者>
涙が零れてきた。
「紗希?」
貴史の目が驚きに見開かれる。
「あたしを殺して」
床の上で、メスが冷たく輝いている。
「紗希……」
俯いたまま、紗希は耳を塞ぐように、両手で頭を抱えた。
「もう、抑えていられない……このままじゃ、私は『あなたを』殺してしまうわ……他の誰でもない『あなたを』殺してしまう! だからその前に私を……」
貴史はそっと、紗希の肩に手を置いた。
「何故、俺、なんだ?」
「優しいから」
目を上げようともせずに、紗希は言った。
貴史が、自分の言葉が理解出来ず、混乱しているのが、置かれた手を通してよく判る。
「大切なものができたら、それをなくすのが恐いの……だから、大切になる前に……なくして悲しむ前に……自分で壊すの」
「だから、俺を殺したいのか?」
紗希は貴史の目を、やはり見ようとしない。俯いたまま、言葉が流れる。
「そう……でも、そんなことはしたくないの……だから、あなたを殺してしまう前に、私を殺して……」
そこまで言って、紗希は始めて、真っ直ぐに貴史の目を見据えた。
「永居さんになら、殺されてもいい……」
その視線が床へと流れる。床の上で光っているメスに。
貴史は、紗希の小さな身体を、包み込むように抱き締めた。
メスのはね返す光は、相変わらず冷たい。
腕の中の紗希の身体は温かかった。
ふと、奇妙な臭いが、紗希の身体から発されているのに気づいた。
「……血の臭いがする」
呟くと、紗希の肩が細かく震えた。
「飲んだの……医局からもらった……そうすれば、あなたを切り裂きたい衝動を、抑えられると思った……」
飲んだだけではないのは明らかだった。本当に、ただ飲んだだけだというのなら、何故首筋から、錆びた鉄のような血の臭いが漂ってくるのだ?
「でも、無理だった?」
静かな声で尋ねる。
「そう……私は化け物だから……あなたの血が欲しいの……」
光のない目で、乾いた声で、紗希は笑い出した。貴史の胴に巻き付けられた二本の腕が、まるで絞め殺そうとするかのようにきつくなる。食い込んでいく爪が痛い。貴史の口から、痛みを堪える息が漏れる。
「紗希……」
呼びかけると、突然、締め付ける力は弱まった。
「殺して。私を」
視線がまた、床に落ちたメスの方へと流れていく。
貴史は紗希の腕を解き、冷たい光を放つ刃を拾い上げた。
紗希の顔が、悲しそうな笑みを浮かべた。
その表情は硬い氷柱のように、貴史の胸を貫いていくように感じられた。
「俺の血が、欲しいの?」
意識もしないのに、そんな言葉が口をついて出た。
紗希の表情が強張る。
その口から、人間のものではない声が、低く響いてきた。
貴史はメスを握りしめ、紗希に向かって微笑みかけた。
23
嘘くさい木目は、悪霊の目玉のように見える。ひょっとすると、奈落の底に通じる穴かもしれない。
そんなことを考えながら、哲也は寝床から天井を見上げていた。
昨日は遅くまで、同室の狙撃手たちとおしゃべりをしてしまった。体内時計のおかげで、いつもの時刻に目覚められたが、まだ頭がぼんやりするのは気のせいではあるまい。
おしゃべりと言っても、半分以上は、哲也が他のメンバーの質問に答える形だった。組織には慣れたか、だの、彼女との仲はどうだ、だの、黒川麗美はどんな人間だ、だの、とにかく、よくもこれほど思いつくものだと愚痴をこぼしたくなるほど、根ほり葉ほり散々に訊かれた。もちろん、答えたくないものはノーコメントと返した。例えば麗美のことだ。迂闊に口を滑らせれば、どんな仕返しをされるか、想像するだに恐ろしや。
「さーて、と」
昨日の貴史の話を思い出し、ようやっと哲也は起き上がった。
(明日の朝にでも俺の部屋に)
「ツメ……ね……まだ資料下りてないのに、変な感じだけど……ま、いっか」
起き上がり、見ると、祐輔だけがまだ寝ている。幸せそうな表情だ。麗美の夢だろうか? それとも、妹の?
「お先に」
着替えを済ませ、小声で告げてから外に出る。山間部の空気は透き通って、梅雨が近づいているというのに、あのうんざりするような湿気は全く感じられない。窓から見える緑は、次第に濃さを増していた。夏は近い。
階段を上る。二階から五階まで。プラスチックプレートの階数表示を、蛍光灯が照らしている。冷ややかな光だ。廊下に出た時、何故かホッとした。
ノックをする。
「待って」
静かな返事だけがドア越しに聞こえてきた。しばらく間が空いて、それから半分だけ扉が開いて、大きな貴史の身体が現れた。目に疲れの色が見える。
「永居さん?」
「すまないんだけど、明日にしてくれないか?」
「え?」
「事情で、今朝は身動きが取れないんだ」
貴史の表情は、哲也が今までに見たことがないほど、切実だった。
「事情って?」
「いいから……説明は明日するから……」
そう言うと、彼は、部屋の中を見せまいとするように、哲也の前に立ちはだかった。
「ゴメン……本当に、明日、ちゃんとわけを話すから」
「……わかりましたけど」
そう言うと、貴史はやっと、ホッとしたような顔になった。
「ゴメンな!」
それきり、扉は閉まった。
貴史は、左手で後ろ向きに扉を閉めた。
哲也は、ほんの一瞬だけしか見えなかったが、それに気がついた。
貴史の左手首に走っていた、深い切り傷。
(……どういうことだ?)
首を捻ってみたものの、理由を思いつくわけなどなく、哲也は諦めて歩き始めた。一階の食堂は昼食場と言うくらいだから、まだまだ開く時間ではない。硝子越しに、薄暗い食堂を横目で睨みながら、哲也は南棟へ移動した。
南棟の一階、正面から向かって右側、つまり東棟の側に、警備員室がある。夜勤に当たってしまった不運なメンバーたちが、好き勝手な色の毛布を被って仮眠を取っているのが、窓から見えた。山吹色に抹茶色。元は白だと思われる灰色。顔は見えないが、薄いピンクを被ったツワモノまでいる。
(ピンクなんてガラの人間が、ここにいるのかよ?)
警備を担当する特別狙撃手の面々を思いだし、哲也は吹き出した。
(花柄だったらお笑い種だ)
そんなくだらないことを考えると、おかしくておかしくて、今朝貴史の手首に刻まれていた傷のことも、危うく忘れてしまうところだった。
それを思い出させたのは、二人の男の会話だった。
「博士は、美夏は完璧じゃと言うとったろうが……」
この声は、金城だ。
「そんなことは言っていない。紗希に比べればマシだと言っていただけだ」
ぶっきらぼうな返事は、間違いない、前田の声だ。
今は誰もいないはずの、正面玄関の付近から聞こえてくる。
哲也は息を殺し、足音をひそめて、二人の近くへと進んでいった。
前田のため息が、硝子のような空気を伝ってきた。
24
「土台が悪かったと考えて、諦めるという手もある」
前田の静かな声が聞こえる。微かにためらいが感じられるのは、哲也の気のせいなのだろうか?
「じゃが、そうすると哲也はどうなる?」
金城が少し声を大きくした。
哲也は自分の名前に、ビクッと身体を強張らせた。
「あいつが一人前になるまでは、美夏は……」
「そんな悠長なことを言っていられないところまで、歪みが来たらどうする? 私は哲也のプロ意識に賭ける」
前田のセリフに、哲也は驚きと、妙な喜びの混じった気分になった。そして強い疑念も、同時に湧き起こってきた。
(歪み?)
金城の嘲笑が聞こえた。
「あんたらしくもない……言い訳じゃろ? 哲也はアマチュアじゃけぇ、あんたは江波殺しにあいつを選んだ。『冷静になる能力がない』のを買ったんじゃ。それを、今更プロ意識に賭けるも何も……」
「そうしなければ、思い切れるものか」
低い、激情を無理矢理抑え込んだような声が飛んだ。哲也の背が震える。
「あの二人を、私は手にかけたくない」
「綺麗事では殺し屋は勤まらんと、最初に言うたのはあんたじゃろうが……確かに、殺したくはないじゃろう。それはわしも同じじゃ……が、このまま……特に紗希を放って置いたら、何人死ぬか判らん」
「解っているよ。頭では、な!」
一瞬、明らかに声に感情がこもった。が、それはすぐにぼやけた。
「だが、人を殺し続けてきた私が助けた、たった二人だ……」
「……錆び付いたのう」
そう言う金城の声は、どこか悲しげだった。
前田は微かに微笑んだようだった。
「『時計』は、三年前に止まった。ここにいるのは、天使の影を背負った、ただの残骸だ……もう、あの『時計』は動かない……たとえ、今、私がこの手で江波を殺すことが出来ても、だ」
しばらく、沈黙が二人の間を支配した。哲也は息を殺して、会話が再開されるのを待った。口を開き、静寂を破ったのは前田の方だった。
「もし……そんな事態が起こったら、私はきっと堕ちるだろう……彼以上に」
前田は静かに、息を吐いた。
「残骸として生きていくしかないのか?」
ふっ、と、微かに笑って、前田は肩をすくめた。
「楽しみならあるさ……昔の私に似たヤツが、私の側にいる」
「……哲也か」
ゆっくりと、彼は肯いた。
「もし、美夏がどうにもならない状態にまで陥った時……その時は、私は今の私を頼みにして、哲也の強さに賭ける」
「……ならんように祈るしかないか」
金城がため息を吐くのが聞こえた。前田がまた肯いた。
「だが、人間は万能ではないからな……」
「とりあえず、当面の問題は、紗希をどうするか、じゃの」
金城は、考えるのに疲れたように、右のこめかみに手を当てた。
「過去を全て封じたものの、いつ記憶が戻るとも限らない……戻ってしまった場合……これはあくまでも最悪のケースだが、地下牢に監禁するということになるかもしれないな」
「使用許可は?」
「博士から来るだろう……あの人の言葉なら、議長も納得するはずだ」
「あんたの言は受け入れんでも、か」
金城がそう言うと、前田の表情が苦虫を噛みつぶしたようなものに変わる。
「たしかに哲也は若い……だが、彼こそ知るべきだ」
「そして、それは美夏のためにもなる、と」
「それは保証できん。紗希のことよりは、まだ確率は高いがね」
奇妙に深刻な声だった。
ふと、前田は思いだしたように、金城に尋ねた。
「そう言えば、永居はどうしている?」
「あ? ヤツなら、昨日は昼で上がった。正式な命令が下りるのは今日じゃが、まぁ体力の温存はしておいても損はないけぇの」
ふーん、と、あまり気のなさそうな返事が返ってきた。
「気になるんか? 紗希とのことが」
あぁ、と、短い返事が来る。こっちの返事は真剣だった。
「浅川の話じゃが、昨日の宵の口に、変な歌を歌いながら、東棟の廊下を踊りながら歩いとったらしい」
「は?」
前田の目が点になった。一年に一度見られるかどうかの珍しい顔だ。
金城は、言葉が足りなかったことに気がついて、慌てて付け加えた。
「紗希の方が、な。ヤツが踊るところなんぞ、金を貰うても見たくないわい」
おどけた金城の言葉に、前田が吹き出すのが聞こえてくる。それから、押し殺しきれない笑い声が漏れてきた。
哲也は全く意外に思った。前田が声を出して笑うことがあるなど、考えてみたこともなかったのだ。
(俺、あの人のこと、人間扱いしてなさ過ぎかなぁ……)
心の端に、妙な罪悪感を感じた。
前田の声が、また聞こえてくる。哲也の胸を、氷の手が掴んだ。
「しかしその話が本当ならば、永居は今頃死んでいるかもしれんな……」
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<しかしその話が本当ならば、永居は今頃死んでいるかもしれんな……>
前田の言葉が、哲也の頭の中をぐるぐると回り続けている。
何故、紗希が東棟の廊下を歩いていたら、貴史が死ぬのだ?だいたい、今朝貴史は生きていた……自分はこの目で、生きている彼を見た。
(何故……何故死ぬ?)
唐突に、哲也の脳裏に、昨日の祐輔の言葉が再生された。
<香西が、上層部に内緒で違法解剖してるっての、知ってるか?>
<薬の効果を知るために、許可をもらわずに、勝手に前線から死体運ばせて、解剖してるんだよ>
<永居さんが握りつぶしてるってもっぱらの噂だけど……>
もし……祐輔の言っていたことが本当だとしたら……紗希は、貴史に対して「特別な」感情を抱いている可能性がある……?
そして、紗希の「異常性」のために、ひょっとすると貴史が殺される……?
(博士……って、誰だ?)
さっきからの二人の会話に、たびたび顔を出す「博士」の単語。
一体、何者だ?
その人物は、紗希や美夏と、一体どんな関係があるというのだ?
議長さえその言を聞き入れる、というのなら、元は相当に高い地位にあった人物には違いないだろう。
そんな人物と、前田、金城が、直接繋がっている……ように見える……
さらに気になるのは、「最悪のケース」と前田が言った、「紗希を地下牢に監禁」という言葉。
そして「過去を全て封じたものの、いつ記憶が戻るとも」と……
(まさか……)
自分の憶測が当たっていたと?
美夏だけではなく紗希も、誰か……おそらくはその「博士」に、記憶を封じられていたと?
美夏の記憶喪失は、人為的なものだったというのか?
哲也の脳裏に、美夏の手首の傷と、貴史のそれの映像が、鮮やかに甦る。
我知らず、哲也は深いため息を吐いた。
その瞬間、撃鉄の上がる音が、不自然なほど大きく聞こえた。
ハッとして身を強張らせる。前田の厳しい顔が正面にあった。その隣の金城の顔も厳しい。金縛りにあったように、哲也は動けなかった。
真っ黒な銃口は、金城から哲也に向けられていた。
背中を冷や汗が伝い下りていく。
「いっそのこと、どうじゃ?」
前田に向かって、金城は軽い調子で言った。その目を、前田は睨みつける。
「冗談でも、言うんじゃない」
心臓が、骨のカゴの中で、閉じ込められた鳥のように暴れている。
前田の目が、じっと哲也の目を捕えた。
全身がすくんでしまって、一ミリたりとも動かせない。
前田の口が、開いた。
「聞いたんだな?」
首を縦に振ることさえ難しかった。だが微かな顎の動きを、前田は読み取った。目に失望の色が浮かぶ。
「……ま、えだ……さ、ん……」
何故こんなにも喉が渇くのだろう?
何故こんなにもかすれた声しか出ないのだろう?
たった二つの目に威圧されている自分が情けなくてたまらない。
前田は、哲也の言葉を無視し、金城の方にまた顔を向けた。
「処罰は覚悟だ……私の独断で行動する……あなたは何も知らない」
どこか思い詰めたような声だった。
金城は、ふっと口元を吊り上げると、撃鉄を下ろし、銃を戻した。
「わしは何も知らん……何も見とらんし、聞いとらん……」
「すまない」
「謝ることか……わしは『何も知らん』」
そう言って、彼はニンマリ笑った。前田の口元にも、微かな笑みが見えた。
「ほんじゃあな」
軽く手を振って、金城は警備員室の方に歩き出した。
哲也の心臓は、相変わらず激しい鼓動を刻んでいた。
前田が振り返り、ついて来い、と短く言った。
言われるままに、哲也は立ち上がり、ゆっくりと、右足を引きずって歩いていく前田の後について歩き始めた。立ち上がる時に、膝がガクガク震えているのに気がついた。
何か、とてつもなく恐ろしいものが、口を開けて、自分を待ちかまえているような気がした。
だんだん人間くさくなってくる前田さん。