あとがき・17歳の私をふりかえって
高校3年生の時、自分はこの「おはなし」に全力を注ぎ込んでおりました。
ミッションスクールに在籍し、キリスト教の価値観で教育を受けた私にとって、このお話は、宗教の授業の中では決して解決されなかった問いに、正面から向き合って、そして自分なりの答えを出すための作業でもありました。
17歳としては頑張って哲学したんではないかな、と、思います。
無論、その日々も遠くなった今、こうして読み返しますと、視野の狭さや知識の足りなさ、誤解曲解その他諸々が明らかに分かりまして、「あぁ17歳って子どもだったんだなぁ」と、ひしひし思うわけですが。
恥ずかしながら、当時の自分にはこれがすごく傑作に思えてですね、評論をやっている大人の人にも読んでもらったりしたのです。
この年でここまでの分量と登場人物の話を、たいして破綻もさせずに完結させている力量は認める、とは言われました。
ただ中身はたいしたことない、とも言われて、寝込むほど傷つきました。
自分がトシ食ってから読んでみると「はいそうですね」と思えるんですが、あの歳の自分にしてみれば、全力を出しきって完結させたのがこの話なわけですから、この上というのが想像がつかないわけです。
絶望して落ち込んで凹んで、色々したのですが。
ただ、このお話を書いていく中で、自分の抱いていた疑問が色々はっきり見えてきたり、漠然とわかったつもりになっていたことをもう一度考え直すことができたり、そういう意味では紛れもなく成長の糧になった話だったと思います。
「オトナ」の目から見て、「たいしたことない」ことでも、あの歳の私にしてみれば、すごくすごく苦しい悩みだったりしたわけで。
だから、そういう悩みを抱えている高校生と接する時には、自分はそれに寄り添う「オトナ」でありたいなぁ、とまた自覚しました。
心の中に永遠の14歳と永遠の17歳を飼っている(つまり中二病ですね)私ですが、それをやたらとこじらせることなく、肥大化した自己意識をそれなりに消化できたのは、やっぱりこれを書いたことが大きかったと思います。
黒歴史として葬るんでなくて、もういっぺん読みたいと言ってくれた友人がいたおかげで、自分の原点を一つ、もう一度見つめ返すことができました。
消したいほど恥ずかしかった過去でも、一周回ってみると、わりと苦笑しながら受け入れられるもんなんだな、と思います。
そして、こういう自分のあり方を、無理に「矯正」しようとせずに育んでくれた、家族や母校の先生方、また一緒に付き合ってくれた友人たちには、本当に感謝してもしきれない、とも思います。
泣いたり怒ったり泣いたり憤ったり泣いたり悩んだり悩んだり泣いたり……そうして、それでも毎日「考える」ことを止めなかった、向かい合うことを止めなかった、高校3年生の等身大の自分が、ここにいます。この「おはなし」は私のタイムカプセルです。
書いて良かったな、と、一周回った今は言えます。もし、高校生の方がこれを読んでいて、そしてもし今何かを書いているのなら、見返して恥ずかしくても、残しておいた方がいいと思います。
さて、本編についてですが。
三部作を想定して書いていたので、やけに後味のあやしい終わり方になっております。しかし、第二部となる『堕天使の定規』は、執筆中断してしまいました。
……もうこんなテンションで書けないですよ! これは高校生だから書けたんです。
というのもありますが、当時と今とでは自分の宗教が違うというのも大きいです。この当時はまぁ生育環境その他もありまして、キリスト教徒をしていたわけですが、その後、色々いろと悩んだ果てに改宗しまして。
この話の根幹には、キリスト教精神が非常に色濃く染みついているので、改宗した私にはどうしても「内側」の視点が書けないんですね。
そういうわけで、この「おはなし」はここでオシマイです。
宗教・信仰の観点から「なろう」に投稿してらっしゃる方は少ないので、まぁそういう意味では珍しく、そして異文化接触の機会になる話ではあったかなと思います。
私の通っていた学校の母教会の思想を背景にしてありますが、実際のキリスト教はもっと多種多様なので、これはそのうちの一つの紹介、でしかないわけですけれども。
まぁ、なにがしかの「お勉強」になってれば、幸いです。




