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第216章~第220章

最終章になります。

          216


 ヘリ墜落は、某国の圧力で、単なる事故として処理されたようだった。翌日の新聞は、社会面の小さな記事でそれを報じただけだった。墜落した場所が、人里離れた山間だったということも、揉み消し易さの一因だったのだろう。

 その日の昼近く、貴史と哲也は、全ての終わった本部に着き、臨時の狙撃手統括上級幹部に任じられた河西に、報告書を提出した。

 失礼しました、と、頭を下げればそれで終わりのはずだった。

 退出しようとした哲也の背に、戸川君、という声が掛けられた。

「議長が、お呼びだ」

 河西の表情からは、何を考えているのかはさっぱり読み取れなかった。

 しかし、哲也は、ついにきた、という思いで背筋が凍った。

 到着してから、同室者たちの話で、美夏が一体何をやったのか、結局前田がどんな行動を取ったのか、という話はすでに耳にしている……つまり、二人が組織に刃向かう行動を取った、ということを。

 貴史には声は掛けられなかった。

 哲也は黙ったまま、鉛のような足を引きずりながら、南棟七階の議長の部屋に向かった。

 ノックの後、静かな、入れ、という声が聞こえた。

 扉を開け、一礼して中に入る。

 山本は、先日金城と話したときに座っていたあの椅子に、今も座っていた。そして先日のように、哲也に、自分の向かいの椅子を勧めた。

 一睡も出来なかったのか、彼の目の下には、大きな隈が浮かんでいた。

 前置きは一切なかった。

「シンシア……川崎美夏の行動については、もう何か聞いたか?」

 単刀直入に尋ねた山本の表情は凍っていた。が、哲也はその目に、微かな苦悩の色を見て取った。

「南野の側に与し……北棟に突入した狙撃手を、三人殺したそうですね」

「そして、一人が今も重体。突入した全員が、傷を負わされた」

 無表情の仮面が崩れる。現れたのは、悲痛な、そして沈んだ色だった。

「君と美夏のことは聞いている。金城や黒川から……だから、来てもらった」

 山本の目は真っ直ぐに、哲也を捉えた。

 眼鏡の向こう、瞳の色はジェット・ブラック。

 喪に服している人間の目。

「川崎美夏の処分は……本来なら……死だ」

 一語一語を、まるで無理矢理口から押し出すように、彼は発音した。

 哲也は、かすかな希望の光を見いだした気がした。

「だが、今回は洗脳装置のこともあるし、こういう事件を起こす可能性があることを承知の上で、本部に入れていたのだ。危険だと分かってはいた。分かっていた事故が起こった……そう表現することも出来る」

 哲也は縋る思いで、山本の目を見つめ返した。

「だが……」

 紡がれたのは否定の接続詞。

「それでは、この組織は立ち行かない……『ブラッディ・エンジェル』は……『パッシフローラ』は、割り切れない哀しみから逃れられない人間の集合だ。今回の事件で命を落とした三人、そして命を危険にさらすことになった狙撃手たち……川崎美夏を生かし続けた場合、彼らはどんな反応を示すだろうか?」

 哲也は膝に爪を食い込ませた。そうでもしないと叫び出しそうだった。


 でも、美夏に、罪はないじゃないか。

 操った南野たちが悪いんじゃないか。

 刷り込みを行った『DD』の連中が悪いんじゃないか。

 美夏は自分で望んで、『DD』の兵士に生まれたわけじゃない。


「……彼女は今、地下にいる」

 そう言って、山本は立ち上がった。会わせるつもりなのだろう。

「再洗脳ですか?」

 山本は静かに首を振った。

「あの装置は、私が壊した……システム・プログラムを、全てリセットして」

 それで哲也は、美夏の居場所を察した。

 大阪に向かう前、正面玄関で金城と前田が交わしていた会話の中に、地下牢という単語があった。

 結局、その中に入ることになったのは、紗希ではなく美夏だった。

 紗希は博士の所で治療を受けることにより、貴史を殺さなくても精神の平衡を保てるようになり、まだしばらくは心配ないと思われていた美夏は、本部の洗脳装置によってあっさり昔の人格を復元され、事件を起こした。

 皮肉なことだ。

 地下へ降りていくエレベーターの中に、議長と二人きり。

 会話の代わりにおりている沈黙のために、空気がまるでゲルのように感じられる。重くて、粘っこくて、動けない。

 これが哀しみなのだろう、と、哲也はふと思った。

 心に重くのしかかり、晴れることなくしつこく残り、人を束縛する。

 その中で人は、次第次第に、知らぬ間に、窒息していく。


 この世で最も縛られた人間たち。

 哀しみを忘れることの出来ない純粋すぎる魂たち。

 『パッシフローラ』は、彼らの集う場所。

 "Passion Flower"

 受難の花。

 生きている限り苦しみ続ける道を、皆自ら選んだのだけれど、それは果たして、自ら望んで歩み始めた道なのだろうか。

 誰もこの哀しみを浄化してくれない。逃れられない。

 ……或いは、忘れられない……忘れることが恐い……かもしれない。

 ただどうしようもなく哀しくて、どうしようもなく苦しくて、そして行き場のない怒りばかりが激しく燃える。

 哀しみの炎、怒りの炎が、人を巻き込んで激しく燃える。そして自分を巻き込んで、全ては消えてなくなるのだ。


 『死』

 ただそれだけが真実だ。動かぬ真理の基だ。



 エレベーターを降り、薄暗い廊下を降りていく。蛍光灯の振動音が微かに響く。その明かりは無機質で冷たい。熱のない、死んだ光。

 見張りに立っていたのは祐輔だった。彼は議長に向かって礼をすると、牢の鍵を開けた。長年使われていなかったことが判るような、大きな音を立てて、地下牢の扉は開いた。

 山本は哲也に、先に入るよう手で示した。

 哲也は、冷や汗が身体を滴り落ちていくのを感じながら、中に入った。


 美夏は寝台に、全身を拘束されたまま眠っていた。




          217


「美夏」

 呼びかけても返事はない。

「判断は、君に任せる」

 背後で議長がそう言った。それはつまり、美夏を生かすも殺すも自分次第、ということ。

 ……いや、違う。

 自分の手で、殺せ、と、いうことなのだろう。

「しばらく……二人きりにさせてもらえませんか?」

 振り向きもせずにそう願うのは失礼なことだと分かってはいたが、今自分がしている表情を、誰にも見られたくなかった。

 山本はそれを察したようで、音もなく気配は地下牢から消えた。そして再び不快に軋みながら、扉が閉められた。

「美夏」

 呼びかけても返事はない。

「美夏!」

 拘束された左腕をつかみ、爪を食い込ませる。

 まだ新しい手首の傷が破れ、血が滲みだした。

 思わず手を離した哲也は、呆然と、手のひらについた血を見つめた。

 が、やがて、人間らしい感情が窺えない表情で、それを舐め始めた。

<血は生命の象徴>

 手についた血をすっかり舐め取ってしまうと、哲也は身をかがめて、今度は直接手首から血を啜り始めた。ちょうど、紗希が貴史に対してしたように。

<だから血を飲むことは……その人の生命を与えられること>

<あるいは奪うこと>

 次第次第に、哲也の舌の動きは貪欲になっていく。歯を使って、まるでこじ開けるように傷口を広げ、このままその肉さえ貪り喰らうのではないかと思われるほどに、激しく喉を鳴らす。汗が一筋、二筋、哲也の顔から滴った。

 美夏の指先が、ぴくりと動いた。それから、全身が痙攣を始めた。

 哲也は顔を手首から離して立ち上がると、奇妙にうれしそうな顔で、美夏を見下ろした。

 口の周りについた血液が一滴、美夏の白い肌を彩るように落ちた。

「美夏」

 気味が悪いほど純粋に、うれしそうな声。

 感情のない目が見開かれる。

「美夏」

「あなた、だぁれ?」

 全く感情のない声が響く。抑揚さえ殆どなかった。

 哲也の表情に、一瞬陰りが走る。

「お前は、誰だ?」

 感情が押しつぶされた声で、哲也は尋ね返した。

「私は……」

 そこで、美夏は言葉に詰まった。

「お前は、誰だ?」

 重ねて問いかける。美夏の眉間にしわが寄った。

「私は……」

 答えられない。

「私は……」

 言葉はそこで途切れる。

 哲也は不意に、江波殺しを命じられる前日に、美夏がしていた話を思い出した。

 相変わらず眉間にしわを寄せて、自分は誰なのだろうという問の答えを探す美夏に、哲也は話しかけた。

「憶えてるか? ……まぁ、その分じゃ憶えてねぇだろうけど」

 美夏は不思議そうに、哲也を見上げた。

「シュレーディンガーの猫、って、お前が俺にしつこく説明してくれた話」


 箱の蓋を開けるまで

 猫の生死は判らない


「お前の説明はちっとも解らなかったけどな、一個だけ覚えてることがあるんだよ。これは不確定性理論の思考実験だって……無論、それが何なのか解る頭を、釣り銭の計算も間違える俺が持ってるわけがねぇけどさ。確か、実際に観測したとき、確かにその粒子はある。けど、観測してない時にその粒子があるかどうかは判らん、ってことだったよな?」

 美夏は、首を縦にも横にも振らなかった。

 その代わり、一度だけ瞬きをした。

「お前の中にいるのか? それともお前がそうなのか? 蓋の開け方がわからねぇよ。美夏は生きてるのか死んでるのか?」

「美夏……」

 まるで他人の名前を呟くように、美夏はそれを口にした。

「ああそうだ。俺の探してる女だよ。生きてるのか?それとももう死んでるのか? ……ハハハ、妙なことを訊いてるな、俺は……元々幻だったんだ。山村博士が洗脳装置を使って、『シンシア』の中に作り上げた人格なんだから。この世に存在するわけがねぇんだよな」

 半ば自分に言い聞かせるように、哲也はしゃべり続ける。

「そうさ。お前が美夏であるわけがない。南野が洗脳装置を使って、シンシアを甦らせた以上、美夏が生きてるわけがないんだ。そうとも。お前が美夏のはずがない。美夏が俺の名前を忘れるもんか。俺を忘れるもんか。俺を知らないお前は美夏じゃない。お前は断じて美夏じゃない」

 話し続けるうちに、哲也の表情がひきつれたような笑いに満たされていく。

 美夏の……いや、彼女の眉間にまたしわが寄った。薄赤い唇を噛みしめる。

「そうだ。お前は美夏じゃない……」

 哲也の目から光が消える。

「お前は殺人者だ……三人の仲間を殺し、俺の愛した女を殺した……」

 闇色の目が女を見下ろす。

 きつく噛みしめすぎたせいで、彼女の唇から血が流れた。何か苦痛に耐えるようだ。いつもは青白い顔にうっすら赤みがさし、額に冷汗が浮かんでいる。

 哲也は独り言を止めようとはしない。

「そうだ。だから、お前を殺すことは美夏の仇を取ること……」

 冷たく光る拳銃を抜く。

 それは、かつて江波が前田を撃った銃。

 渡すべき相手が消えた今、これは哲也の物なのだろう。

 安全装置を外す。

 哲也は銃口を、彼女の心臓の真上に押し当てた。

「議長は俺に言った。判断は俺に任せると。だから、お前を殺していいのは俺だけだ。そして、俺が『殺さなければならない』」

 引き金に手をかける。




          218


 彼女の目は、縋るように哲也を見上げている。

 哲也の目は、墓穴のように虚ろで真っ暗だった。

「なぁ……どこにいるんだよ? 美夏……」

 答えはない。

 それで、哲也は、引き金を、引いた。

 視界が朱に染まる。

 未だ動き続ける心臓の鼓動に合わせ、どくどくと血が溢れ出ていく。


 彼の双眼からは、涙が流れ落ちていた。

 彼女が、薄く微笑んだ。


「て……つ、や……お、か、え……り……」


 固く冷たい音がして、拳銃が床に落ちる。

 美夏は、生きていたのだ。

 自分が、自分で、引き金を引いたのだ。


「美夏!」

「て、つ、や……愛、し……てる……て、言いた、か……た」

 血を噴きながら、美夏は声を絞り出した。

「わ、たし……生きてる……うちに……ちゃ、と……」

 涙が、一筋、二筋。

 美夏の目から流れ落ちる。

「あり、が、と……生きて、て……よか、た……哲也、に、会えた……から」

 また血を吐き出す。

 哲也はそれを手で拭ってやった。

「だ、いて……哲也」

 拘束具を外し、哲也は美夏を抱きしめた。

「これでいいか?」

「も、と……きつく……」

 腕に力を込める。美夏は静かに微笑んだ。

「わ、たしは……しあわ、せ……大、好き……哲也、の、腕の……」



 だからあなたを好きになったの。

 ただ純粋に『私』だけを見てくれるから。

 たとえ『私』の身体の中にいても、『私』じゃなければ愛さない。

 そんなあなただから愛したの。

 『私』の心を愛してくれるあなただから。

 だから私は愛したの。

 技術でもなく能力でもなく、容姿でもなく身体でもなく、心を愛してくれたあなただから。

 『私』の心の隙間を、あなたは埋めてくれました。

 かわいそうなぐらい純粋で、真っ直ぐで、誰よりも臆病で弱いあなた。

 自分が誰だかわからないで苦しんでいた『私』を、支えていたなんてこと、きっと気づきはしないでしょうけど。

 あなたがいて初めて、『私』は『私』であることを認識できた。

 ほんの少し視線が合っただけでも、指先が触れ合っただけでも、心の安らぐことがあるということを、教えてくれたあなた。

 きっと解らないでしょう。

 『私』が、どれだけ本当に、あなたを愛していたかなんて。

 でも、解らなくても構わない。

 誰が知らなくても『私』は知ってるから。

 大好きです。

 愛しています。

 哲也。

 私は、今、とても、幸せです。

 もう葛藤に苦しむこともないから。

 大好きな哲也の腕の中に、『私』はいる……『私』がいる……



 絶命した美夏の身体を抱きかかえて、哲也は泣いた。

 自分が殺してしまったことが悲しかった。悔しかった。やるせなかった。

 生きていたのに。

 美夏は生きていたのに。

 殺さなければならないと、何故自分は思い込んだのだろう。

(ああ、自分を守るためなのだ)

 美夏を生かし続けてはいられないと、暗に議長は言った。

 だから……

(自分の手で殺したかった。他の誰でもない自分の手で。だって、もしも他の誰かが殺していたら、自分はその人物を殺さずにはいられなかっただろう。そうすれば今度は自分が追われる。それを知っていたのだ)

 臆病な卑怯者だから、自分で自分の命を絶てない。

 たとえ屍の山を築いても、生き延びようとする醜い心。

 死にたくない。死にたくない。

 死んだらどうなるのかわからない。

 死んだら消えてしまうかもしれない。

 死にたくない。死にたくない。

(だから人を殺す卑怯者の臆病者なんだよ、俺は……)


<そしてだから、我々は君が欲しいんだ>


 耳元でアンドラスが囁いた。


<Lucifer! It is the end that you desire!>


 最後の一人の絶叫が、唐突に脳裏に甦る。

<ルシファー! これがお前の望みの結末だ!>


 哲也は奇妙なことに気がついた。

 南野圭司はモロク、湯浅克彦はアガリアレプト、北見逸輝はユフィール、美夏はシンシア、そして前田はコードがない。

 どこにも「ルシファー」というコードネームの人間が見当たらないのだ。

 南野が前田をルシファーと呼んでいたらしいという話はある。

 だが、前田がアンドラスに命令を下せるわけがない。

(いったい誰だ? 大阪で俺たちを攻撃するよう命令した、ルシファーは)

 答えを知っているかも知れない人間は、もう誰一人としていない。

 最後の一人を、美夏を、自分はこの手で殺してしまった。


 哲也は美夏の柔らかな焦茶色の髪を撫でた。身体は末端から冷え始めていたが、まだ温かかった。

 哲也は血まみれの美夏の唇に、噛みつくようにキスをした。何度も何度も口づけ、貪るように、徐々に冷たくなり始めているその口の中までも味わった。血にぬれた唇を、首筋に、胸元に触れさせる。


 暫くして、乾いた、狂ったような笑い声が、地下牢から響いてきた。




          219


 地下牢から出てきた哲也の手に、茶色い糸束のようなものが見えた。それを持つ彼の目は虚ろで、正気を失っているように見えた。

 先刻の異様な哄笑が、祐輔の耳に甦った。

「何を持ってるんだ、哲也」

「ああ、美夏の……髪の毛ですよ……形見にもらったんです……要ります?」

 そう言って、握りしめた髪束を、祐輔の目の前にぶら下げる。

「いや……遠慮するよ……」

「妹さんの形見ですよ? 本当に要らないんですか?」

 祐輔はびっくりして、哲也の目を見返した。

「美夏は、俺の妹じゃない」

 哲也は死んだ魚のような目のまま、脈絡なく話を継ぎ足した。

「美佳ちゃんさらわせたのは、俺の兄貴ですよ、坂井『先輩』」

「え?」

「俺の兄貴は、『暗黒師団』の情報員だったんです」

 祐輔は頭が混乱しそうだった。

「待て、お前の兄さんは、江波に殺されたんじゃなかったのか? 江波は連中の一人だったろうが」

「ええそうですよ……江波は、兄貴が俺を組織に入れるのを拒んだから、見せしめとして殺したんですよ……アンドラスが言ってた……」

「アンドラス?」

「連中の殺し屋です。大阪でやり合いました……まだ俺に未練があるみたいですね……向こうの誰かさんは……」

 祐輔は哲也の目を覗き込んだ。

「何故そんなにお前に執着するんだ、『ダーク・ディヴィジョン』は?」

「俺が卑怯者の臆病者で、自分の命を守るためなら、いくらでも死体の山を築けるからですよ。そう、相手が肉親でも友人でも、愛した女でも……」

 そう言いながら、ふらふらした足取りで、移動を始める。

「おい、哲也!」

「議長は、どこですか?」

 感情のない目が振り返って問うた。

 祐輔はあまりの不気味さに、思わず後ずさりした。

「どこですか、議長は?」

「部屋に戻られた……」

 やっとそれだけを答える。

「じゃあ、伝えといて下さいよ……裏切り者は処刑しました……って」

 まるで上の空の足取りで、哲也は階段の方に消えた。

 祐輔ははっと気づいて、扉を開けた。

 心臓に穴を空けられた美夏の死体が、床に横たわっていた。



「病的だ」

 全てを聞かされた山本は、ぽつりと呟いた。医務室の怪我人たちは、既に自室に戻っていたり、あるいは眠りについている。報告をした祐輔は、一通りの挨拶を添えた後帰っていった。

「でも私は、かえって納得しましたわ」

 尾崎がそう発言する。山本は訝しげに彼女の目を見やった。

「戸川君は浩一さんに似ています……ええ、端から見ている私でさえ恐ろしくなるくらい。自分を守るためなら、周囲の何だって破壊できる、とんでもないエゴイズムの持ち主です。でも、一人決めた愛する人のためになら尽くす……その一人が、浩一さんには江波君、戸川君には美夏でした。でも、その人間のためなら死ねるというのは誤りなのです。浩一さんはよくそう言っていましたが、本当に究極の選択を……相手の命か自分の命かを選択させたなら、二人とも間違いなく自分の命を採る……採ったでしょう。でも、後悔は残るのです。それが精神平衡の崩壊へとつながります。行動の脈絡がまるで消滅したようになり、失った安らぎを求めて、生きている限り永遠に苦しみ続けます。しかしそれでも、彼らは死よりは苦しみを選ぶのです。しかしその苦しみからも逃避しようと試み、逃げ、逃げ続けるのです。苦しいのが恐ろしいから……だから恐ろしさを感じない精神に、自分で変えてしまうのです」

 眼鏡の向こう、山本の目がわずかに見開かれた。

「今回の戸川君の行動は、彼の相反する二つの心の方向性が同時に現れた結果なのです。自分を守るために彼女を殺しましたが、彼女を愛してもいましたから、死体を抱き、形見として髪を切り落としたのです。我々にはとてつもなく倒錯した行為に思えます。ええ、きっとそうなのでしょう。しかし彼にはそれ以外の道を考える事ができないのです。そしておそらく浩一さんも……」

「ああ」

 山本も知っている。江波が組織に前田を連れてきた時に報告していた件を。つまり、前田の異常な行為を。

「彼らの行動は、一種の象徴なのです。戸川君の場合は永遠の結合、浩一さんの場合は束縛者からの解放。二人は二人のイメージに従って行動する。そこにおいては、世間や他者の倫理観等は、彼らの行動を制限できません。いいえ、それどころかむしろ暴走させるでしょう。その点に関してなら、おそらく南野も同じだと思います」

「三原……前田浩美のことか」

「そうです。南野と浩一さんは一般社会の倫理観に、戸川君は我々の倫理観によって、逆に行動がエスカレートしていった。彼らは自分の感情に素直です。そして自分の孤独を癒す限り他者を受け入れます。しかし最後に残るのは自己存在の絶対的肯定。それだけです。そして倫理というものが存在したが故に、彼らはルサンチマンに基づく創造しか行えなかった……つまり価値転倒です。既にあるものを否定した価値体系を作るのです。そしてその中では彼らは絶対者……我々は『彼らの世界』では、彼らによって容易に否定されうる程度の比重しか持ちえていません。彼らはその気になれば、世界全てを否定できます。ただ、否定しづらい存在がいくつかある……それが南野にとっての三原浩美と浩一さん、浩一さんにとっての江波、戸川君にとっての美夏ちゃん……しかしそれでも、最後には否定してしまえるのです」

 山本は思いため息を吐いた。

「……つまり、彼らは本質的に孤独な存在だ、という事か」




          220


 尾崎はそっと頷いた。

「ええ。だからこそ、アンドラスは……『ダーク・ディヴィジョン』は戸川君を欲したのだと思います。何故なら彼は、一般的良心を持ち合わせている人間にはとてもできないような事でも、平気でやれる素質を持っているからです。彼の良心は他人の良心とはずれています。もしも彼が、一般的環境で育ち、そのまま一生を終えるならば、それは殆ど芽を出さないままであったでしょう。しかし実際には十六歳の八月に兄が江波に殺され、こちらの世界にやってくる事になりました。ここが非情な世界である事は、議長、あなたもよくご存じでしょう?」

 議長はただ静かに頷いた。

 尾崎は言葉を続けた。

「こちらの世界にいてこそ、恐ろしいことに戸川君はその真価を発揮します。彼は平時には至って普通の人間です。しかし非常時だと感覚するや否や、自分を守るという事が全ての判断基準の上位に立ち、他者の命など何とも思わなくなれる……彼は元々、悲しいくらいに繊細だったと思います。けれども優しすぎる人間は最後には狂ってしまうのです。解りますか? 他者の傷をまるで自らの傷のように感じてしまう人間は、いずれその痛みに耐えきれなくなります。そこで生存本能がその優しさを抹殺してしまうのです。加えて、『正義』の問題がありました……この組織のタブーの一つ、『正義の曖昧さ』です。江波が離反した原因の一つだと、我々が考えたものです」

 山本はまた頷いた。

 尾崎の話はさらに続く。

「我々が納得している結論は次の通りです……絶対の正義を持つ人間などいない。絶対の正義は神の正義である。我々の正義はまがい物の正義である。しかしそれでも、弱者のためという大義はある……戸川君は、他人のために自分の命を捨てたりなんかしません。だからそんな大義など意に介しません。そして彼は神の存在を否定している……つまり、この世界のどこにも正義はなくなった。彼の世界観では、この世には悪しかないのです。ただ力と力が衝突している、それだけです。それは、彼を一度絶望に突き落とし、しかる後、悪として立ち上がらせる。彼は地獄の死刑執行官、アラストールとなるのです」

「カマエルやアフとはなりえないわけだ」

 山本の言葉に、尾崎は悲しそうな笑みを一瞬だけ浮かべた。

「ええ。カマエルたち『破壊の天使』は、神の正義に従って罪人を殺します。しかし戸川君の価値観の中には、神の正義は存在しません。あるのは悪だけ。だから彼は、地獄の死刑執行官なのです」

 しばしの沈黙の後、山本はぽつりと呟いた。

「しかし、謎だらけだ」

「そうですね……」

 本物の『ルシファー』は誰なのか。

 前田浩一は何故南野圭司に与したのか。

 死体の数が合わないのは何故なのか。

 しかし、それらは最早解くことのできない謎なのだろう、きっと。

「そう言えば……河西を通して聞いたんだが、永居が引退願を出したらしい。香西も一緒にな……結婚して、『時計草の村』に住むつもりのようだ」

「まあ、いいことじゃありませんか……で、許可は?」

 山本は苦い表情で首を振った。

「本部がこの状態で、有能な特別狙撃手と幹部候補生に去られるのは、組織として大きな痛手だよ……保留にした。しかし……結婚は認めようと思う」

 途端、尾崎の顔が明るくなった。

「組織の構成員も、詰まるところは人間だ。人を助けたくて、人の苦痛を和らげたくて、我々は手を血に染めている。今回は苦い事件だった。だからせめてあの二人には、幸せになってほしい……心からそう思うよ」

「ええ……」


 美夏を殺したのは哲也だ。しかし、哲也に美夏を殺させたのは『我々』だ。

 人を助ける、助けたい。そう言いながら、我々は何か大切なことを見落としていたのではないだろうか?

 それは自分も人間であること、そして自分の周囲にいる仲間たちも、人間であるということ。

 我々は矛盾を抱えて歩んでいる。

 私は、矛盾を抱えて生き続けている。

 自分の悲しみからさえ解き放たれていない人間が、他人を悲しみから解き放てるのか。

 おそらく否だと解っていても、回り出した歯車は止められないのだ。

 ただ悲しい。ただ苦しい。

 突き詰めてしまえば、きっと全てそれに辿り着くのだろう。

 そして、ただ愛が欲しい。愛して欲しい。

 きっと全てがその願いに辿り着くのだろう。



 貴史の部屋の壁にもたれて、紗希が歌う。

「ここにいる 私を 認めて  そして できれば 愛して

 誰にも知られず 悲しむなら 死ぬことさえ できないから」

 貴史の大きな手が、紗希の頭を撫でる。

「そこにいる 人を 認めましょう  そして できれば 愛しましょう

 ただ憎しみに 身を浸して 孤独なのは 誰ですか?

 答えは すでにあなたの 中にある」

 紗希の頬に、貴史は口づける。貴史の頬に、紗希も口づける。

 静かに、貴史は口を開いた。

「でもな、頭では解っていても……とても難しいんだ」

 紗希は貴史の目を見上げた。

「『人にはできないことも、神にはできる』わ……ねぇ、私、こう思うの……本当に神様を信じている人は、自分を正しいなんて思わないわ。毎日、神様にごめんなさいを言いながら生きていくの。きっともっと優しくなれる、もっと……そう考えることができるの。ねぇ、ご自分の命を捨てられるほどに、神様は私たちを愛してくださったでしょう? だから、原罪を背負っている私たちでも、元は神様の姿に似ていたのだから、きっともっと神様のように人を愛せるようになれるはずよ。もっと人に優しく、穏やかに生きられるはずよ。だから私は、そのために神様を信じたいし、また信じようと思うんだわ」

 貴史は優しく微笑んだ。

「そうだね。ねぇ、合言葉を作ろうよ。悪いことをしてしまいそうになった時に言うんだ……『神は愛』って。神様ならきっとこう考えられるはずだ、って思えるように」

「ええ……でも、引退願いが受理されない限り、悪いことを続けてしまうんでしょうね、私たち……」

貴史は紗希を、そっと抱きしめた。

「だから毎日、ごめんなさいを言うんだろう?」

「……そうね」



 美夏の髪束を握り、哲也は屋上に寝転がっていた。

「千早に殺されっちまうな……ふふ……ハハハ……アハハハハハハハハ」

 乾いた、狂った笑い声が空に吸い込まれていく。


<この世に救いがあるものか!>




               ― 『熾天使の時計』 第一部 完 ―




全体で三部作の予定であったのですよ。しかし、途中でテンション切れました。微妙に謎が残っているのは、続きで解決する予定だったからです。

お目通しありがとうございました。


一応、ふりかえってのあとがきをつけてみようと思います。

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