第211章~第215章
いよいよクライマックス。
211
「コンピューターの回復は、やっぱり間に合わんか」
山本の言葉に、岡野が答えた。
「ええ。しかし北棟は別系統ですから、向こうの情報に関しては、実質損害はゼロでしょうが」
それでか、と小さく呟いて、山本は額に手を当てた。
「北棟のシャッターが開かないらしいな……場所が場所だけに、無理やり破るのは気が引けるんだが」
金城たちは、一度シャッターを調べて開かないと知ると、破ってもいいかどうかを聞きに戻ってきたのだ。無論、入る手が見当たらないのにその場にいれば、前田の銃の餌食になるのは火を見るより明らかだからでもあるが。
そう言った山本に、岡野はふと思いついたようににやりと笑った。
「幽霊の力でも借りますか?」
「……澤村か?」
「彼なら北棟のネットワークに侵入出来るはずです」
その場に居合わせた人間の殆どが、目を点にした。
「だが君はさっき、北棟はこちらとは別系統だから、先刻の損害はゼロだと」
「主要な研究データを保管しているコンピューターは、ネットワークから独立しています。ネットワークに繋がっているコンピューターの情報は、こちらと殆ど同じです……だから損害は実質ゼロだと申し上げたのです」
岡野の屁理屈に、山本は一瞬顔をしかめた。が、大人しく口をつぐむ。
「分かった。やらせてみよう。全て君たちに任せる」
岡野はただ頭だけを下げて、議長の側を離れた。薬科の上級幹部たちと二言三言話をして退出する。向かう先は医務室だ。
白い扉を開くと、達紀は橋口の傍らで、椅子に掛けたまま舟を漕いでいた。見れば尾崎もである。雨で一段落がついて、緊張がほぐれたかららしい。
「澤村、起きろ」
まだ眠っている。
「起きんかッ!」
関西訛りの叱責に、達紀の両目がばちんと開く。
「Vイコール9分の34ですッ」
どうやらまだ寝ぼけているらしい。岡野は達紀の目の前に、自分の顔を持っていった。しだいに黒目の焦点が合ってくる。
「あれ? 姐さん?」
「この非常時に、なに呑気に寝とんじゃボケ。議長の命令じゃ。北棟のネットワークに侵入して、向こうのシステム乗っ取れ」
「でも、本部本館のコンピューターは全滅したんじゃ……」
ようやく目が覚めたらしい達紀は、暴言とも取れる岡野の言葉にぼそぼそと返した。言われた岡野の方は平然としたものである。
「そりゃあ、繋がっとる分はな……薬科のコンピューターで、LANに繋がっとらんのがあるやろう。それ使いィ」
「いいんですか?」
「いい。議長の指示やて言ぅたやろ。薬科のお偉方とも話はついとる。さっさとやりィ。乗っ取ったら、全部のシャッター解除せぇよ」
「はいッ」
達紀はまさに飛ぶように医務室から出ていった。
「さて……と、起こして済まんね、橋口。尾崎さんも」
つまり、橋口の隣に寝かされている穂積は寝たままということである。
「いいえ。でも姐さんの関西弁、ずいぶん久しぶりに聞いた気がしますね……やっぱりそっちの方がお似合いですよ。共通語より」
ベッドに寝たままの橋口が笑った。尾崎もつられて微かに笑う。
「焦るとどうしても母語になるな……って、いい加減姐さんてなぁ。岩下志麻ちゃうねんけど?」
「そりゃあそうでしょう。だって我らが姐さんは岡野美佐ですから」
「ふむ。クサイ台詞はその辺にして、さっさと寝てもらおうか。片が付いたら情報の復旧作業に酷使されるんやからな。今のうちに寝だめしとけ」
「はーい」
橋口は大人しくまた布団に潜り込んだ。
「尾崎さん、宜しく頼みます」
「はい」
貸し出されたのは広崎秀二のコンピューターだった。理由はバックアップを全てとってあるから、そしてもう一つ、本人がいいと言ったからである。
「これでまた借りが増えたな」
そう呟きながら、達紀はまず回線への接続作業を開始した。
「あと何分かかる?」
同僚や薬科の人々に取り囲まれながらも、達紀は滑らかに作業を続ける。
「さぁ? 向こうの防御の固さにもよりますからね……美夏も北見もコンピューターに強いし……侵入を予想していたなら、かなりしんどいと思いますけど」
しんどい、けれども、できないとは思っていないようだった。
「……嘘だろ?」
達紀はディスプレイの前で一瞬呆然となった。
『あっけなく陥落した』のである。
「何がどうなったんだ?」
状況の理解出来ない一人が尋ねる。まだぼんやりした声で、達紀は答えた。
「落とせましたよ……信じられないくらい、甘いガードで……」
「罠でも仕掛けられているんじゃないか?」
誰かが上げた声に、明瞭な否定の言葉が飛んだ。
見れば、浅川だった。
「脱出だよ……脱出する手があるんだ、あの場所から……あの南野圭司がただ意味もなく立て籠もりなんてやると思うか? 確実に逃げ出す算段があるんだ。でなければ、気が狂ったのかと思うよ。多勢に無勢、いずれは追い詰められると判っているんだから」
「しかし、どうやって脱出するんだ? 唯一本館から死角になっている北面は、断崖絶壁だぞ」
薬科の幹部の一人の言葉に、浅川は動じなかった。
「外から助けが来る、という可能性を、何故考慮しないんですか?」
「外?」
「今日は、やたらと空が喧しい日じゃありませんか……某国軍戦闘機で」
部屋の空気が凍結した。
212
永居貴史と戸川哲也の二人は、車から降りた。見上げれば、湿気を含んだ空気の中に、ぼんやりと十字架が立っている。雨は霧雨。近づく日暮れに、薄く青みを帯びた紫色に煙っている。
教会の扉が開いて、小柄な影が飛び出してきた。
「貴史!」
猫のようにしなやかな動きで飛んできた紗希を、貴史はしっかりと抱き留めた。小さな身体は温かく、鼓動が自分の身体にも伝わってくる。
愛おしい、と、自分の存在全てで感じた。
「紗希、ただいま」
「ううん。私が、ただいま、なの……私の居場所は、貴史のいる場所だから」
その言葉に、貴史は堪えきれなくなったように、腕に力を込めた。
その光景を、羨ましく、だが妬ましくも感じながら、しかし神聖なものを見るように眺めていた哲也は、教会の方からの呼びかけに振り返った。
「永井、戸川」
呼びかけたのは山村だった。
「先生?」
最初は光の加減かと思った。だが、間違いなく山村の表情は青ざめていた。
「どうかなさったんですか?」
そう問うた哲也に、彼は短い答えを返した。
「本部との連絡が途絶した」
紗希を抱きしめていた貴史が、その言葉に我に返る。山村は言葉を続けた。
「電波状況のせいじゃない……向こうで何か問題が発生したんじゃ」
哲也は咄嗟に、自分の鞄に手をやった。山村はそれを見た。
「その鞄の中身は?」
「江波の遺書……南野圭司の、裏切りを告発する文書です」
一瞬、山村の目が光った。
「中へ入れ。詳しい話を聞こう……焦るな。今更本部に向かっても仕方なかろうし、かえって事故を引き起こしかねん。もうそろそろ、黒川が本部に着いているはずじゃ思うて、連絡を入れてみたんじゃが」
こういう山村の姿を見ると、彼が牧師に化けたスパイのように見えて仕方がない。自分たち全員が、悪魔の手先のような気さえしてくる。
「戸川、何ぼさっとしとる」
そう声を掛けられて、哲也は慌てて教会の中に入った。
遺書に目を通した山村は、静かに、百合の入れてくれたコーヒーを啜った。
「と、すると……今本部と連絡が取れんのは、南野らが何かをやらかしとるから……か」
「その可能性が一番高いでしょうね。大阪を出てからも妨害を受けましたし」
答える貴史の表情には、紗希といた時の柔らかさは微塵もない。
「正体を暴かれて、逃亡……か」
コーヒーカップをソーサーに置き、山村はまた静かな声で呟いた。
「こっちも、南野は怪しいと睨んどった。黒川が寄越してきた情報もあったしな……それで、澤村の提案で『JFW』の元メンバーに、某国での南野のことを調べてもろうたんじゃ。ポール・ブラッドベリー、『JFW』の元最高評議会副議長じゃった男にな」
「『JFW』? あの某国を拠点にしてる、姉妹組織ですか?」
貴史の言葉に、山村は頷く。
「ほうじゃ。メンバー同士の接触権は、上層部の人間にしかないが、引退者の接触には組織は関与せんけぇの……そうすると、スカーレット・カーペンターという女と、某国で親しくなったという情報が手に入った」
「江波の母親ですね」
「そう……南野は彼女と組んで、何か無謀なことをやらかしたらしい……その企みが失敗して、彼女は殺されたそうだ」
「でも南野は、取引を持ちかけて生き延びた、と……江波から聞きました」
「ほうじゃ。恐らく『Rネット』の乗っ取り、もしくは機能麻痺じゃろう……全世界に網を張る、報復組織の連合体……『Rvenger's Network』のな」
「『Avenger's Network』じゃないんですね」
哲也がぽつりと言った。
"revenge"は、被害者が加害者に対して復讐すること。
"avenge"は、被害者のためにあだを討ってやること。
この組織のやっていることを考えれば、リヴェンジよりむしろアヴェンジの方が、実情にあっているように、一見、思えるのだが。
山村は手を組み、感情の読み取れない表情で、こう答えた。
「ネットワークに所属しとる人間はみんな、元を辿りゃあ被害者じゃけぇの。それにな、人は自分が経験したことのある痛みしか、理解できんのじゃ。兄弟を殺された痛みは、同じく兄弟を殺された人間にしか解らんように。われらも被害者……依頼者の痛みに同調して、報復を実行しとるじゃろ? つまり、正義だの何だのは、一種のお題目で……牧師が言うたらいなげじゃが……まぁ実質自分が被害者のような気持ちになっとる。じゃけ、"revenge"でえぇんじゃ。まぁ最近は、要求が多うて、"avenge"の要素が増加しとるがね」
しばらく沈黙が流れる。
哲也は思って尋ねてみた。
「先生、『正義』って、いったい何なんですか?」
山村は何も答えずに、じっと哲也の目を見つめ返した。
「先生」
もう一度声を掛ける。
ようやく口を開いた山村の眉間には、しわが刻まれていた。
「わしにも解らんよ、神の正義はな……人間の正義なんぞ、まがい物ばっかしじゃ……ほんまに正しいものなんぞ、この世界にゃあありゃあせん」
「じゃあ、先生の『正義』って何ですか」
「弾き出されたモンの居場所になることさ……この組織に所属しとる人間は、みんな世間から弾き出されとる。純粋すぎて、一途すぎて、世間に受け入れられんかった。優しすぎて傷つきやすい人間ばっかし……優しすぎるけぇ、かえって人を傷つける。そがぁな人間の居場所を残しとく……残しとかにゃあならん。それが、わしの考える『正しいこと』じゃ。今はな。わりゃあ、どう考えとるんじゃ? 『正義』について」
哲也は少し考え、思いつくままに口を開いた。
「どこにもないのに、どこかにあるもののように、みんなが考えているもの」
山村は少し肩をすくめた。
「おんどりゃ南野か」
「さぁ ?俺は神がいるとかいないとか、感じられないだけです」
牧師の前での爆弾発言に、貴史が慌てる。が、山村の方は平気な顔だった。
「死にゃあ解るさ……どっちが正しいんか」
その後ぽつりと、わしも、自分が正しいんか解っとらんがね、と、呟く声が聞こえた。
「自分のやっとることが絶対に正しいなんて思える奴ぁ、狂っとるよ」
「正解を求めるんじゃなく、近似値になろうとするんですね……」
貴史がそう言うと、山村は、ほうじゃのぉ、と、静かに答えた。
213
黒川麗美は、本部の建物の中に車を滑り込ませた。様子がおかしいのは音を聞く前から判った。明かりの付き方がいつもと違う。妙に物々しい。
本館に入ろうとした麗美を目敏く見つけたのは、金城に突入のメンバーから外され、正面玄関に立っていた祐輔だった。
「麗美さん」
名前を呼ばれ、麗美は振り返って、祐輔に気づいた。
「何が起こっているの?」
薄々答えを感づきながらも、確認の意味を込めて尋ねる。
祐輔は、南野たちが北棟に立て籠もっていることと、その経過を掻い摘んで話した。北棟に立て籠もっている一人に、前田がいると聞いた瞬間、麗美は自分の耳を疑った。
「ありえないわ!」
「じゃああの中にいる他の誰が、あの距離であんなに正確に狙いをつけられるんですか? 南野、湯浅、川崎、北見……川崎と北見は外見からあり得ないし、湯浅には狙撃手の経験がない。残るのは教官だけです」
麗美は首を振った。
祐輔の言うとおりなのだ、たしかに。しかし、今まで一緒に紗希や美夏を見守ってきた、自分たちは仲間ではなかったのか? その自分たちを捨てて、あの悪魔みたいな父親につくのか?
……それとも、全ては演技だったのか?
誰も救えないと流した涙も、何もかも全て演技だったのだろうか?
最初から、彼は南野の操り人形で、南野は、遠回しに自分たちを操っていたのではないのだろうか?
麗美は背筋を這い上がってくる悪寒に身を震わせた。
(そんなのは……それだけは、嫌だ……)
祐輔はそんな麗美の様子を眺めながら、なるべく抑えた声で告げた。
「もうそろそろ突入でしょう。どんな結果にしろ、もうすぐ判明します」
麗美は無言で頷いて、そのまま本館の中に入った。
突入三十秒前。脱出三分前。
達紀によって、北棟のシャッターが全て解除される。
金城率いる狙撃手の一隊が、突入を敢行した。
「来ましたね……」
北見=ユフィールが、湯浅=アガリアレプトに話しかけた。湯浅は頷いて
美夏の方を向いた。
「シンシア、殿を頼む」
「イエッサー」
答える美夏の声は平坦で、全てが無表情だった。
「で、どうなさるんですか、モロクの始末は」
迎え撃ちに出ていった美夏の背中から視線を外し、北見は尋ねる。
「置き去りにするだけでは足りんかね」
「確実に消した、という証拠を残しておいた方が、弁解の余地があるような
気がするのですが」
「十三人会議での、か?」
かつて南野とスカーレット・カーペンターが入っていた、『DD』の主導
機関の一つである。
「モロクは失脚したわけですし……もう一度力を持ちたいと思うのなら」
「で、次は誰に取り入る気だ、ユフィール」
「ルシファーあたりが妥当でしょうか……ああ、勿論、こっちの、ですよ」
前田ではない、という意味であろう。
つまり、『DD』における本当の実力者、ということだ。
「それには賛成できないな。ルシファーも妙な男だ。モロクに似ている」
「じゃあ誰になさるんです? アガリアレプト」
「ベルゼビュート、だな」
北見は呆れたように笑った。
「蠅の王ですか? 今だってあなたの上司ですよ」
「そうさ。私をモロクの監視役につけた御仁だ……順調に生き延びたおかげ
で上級悪魔まで昇進できたが、さて、どんな罰が下されるやら……」
「アラストールが来ないことを願いますよ」
アラストールは、地獄の死刑執行官である。
「全くだ。まぁ来ないだろうよ。脱出の手筈は整えてあるんだからな。で、
おまえはどうするんだ?」
「さぁ? ブエルあたりにしておきますか。いくつか手土産もありますし」
「ふむ。それならいけるだろう。ブエルならお前も面識があるし」
「全責任はモロクに……ということで」
北見は平然と言ってのける。眼鏡の向こうに見えるつり気味の目には、憐
れみの欠片も見当たらない。
「地獄の内紛極まれり、だな……賢い奴だよ、お前は」
いやに皮肉めいた湯浅の物言いに、北見は軽く肩をすくめる。
「さて、どこまで保ちますかね、あの欠陥兵士は」
話題を変え、彼は矛先をそらした。
「どうせ後二分足らずでお別れだ。知ったことじゃない……移動するぞ」
「諒解」
二人は屋上に向かった。ただし、上に出るのはぎりぎりになってからだ。
でないと、狙撃されるおそれが大きくなる。
「……よく言うものだ。あのガキも」
盗聴器で、湯浅と北見の話を聞いていた南野が、忌々しげに吐き捨てた。
北面の絶壁に面した部屋に、彼と前田はさっきからずっと閉じこめられて
いた。二度の失敗を、『ダーク・ディヴィジョン』は許さない。
「大丈夫なのですか?」
そう問うた前田に、歪んだ慈愛の眼差しを向け、南野は答えた。
「死ぬのは向こうだ」
その頃階下では、思わぬ反撃を受けて、突入隊が足止めを食っていた。
214
煙幕を張られて一旦退却を試みる。
途端、向こうからマシンガンが火を吹いた。
何人かが、防弾チョッキで保護されていない部分を撃たれて蹲る。幸い頭を撃たれた者はいなかったようだ。金城はあたりをつけて、一発撃ち返したが、手応えはゼロだった。
視界が明瞭に戻っていく。敵の姿は見えない。
そろそろと前進していくと、ヒュヒュッと空気を切り裂くような音がして、また何人かが倒れたり、うめき声を上げたりした。足を撃たれている。サッと白い影が、視界の端をかすめた。引き金を引くが間に合わず、金城は舌打ちをして、苛立ちを飛ばした。
人の神経を逆撫でするように、伸び伸びした歌声が聞こえてくる。
「かーごめ、かごめ、かーごのなーかのとーりィはーァ」
美夏の声だ。
しかし、どこから聞こえてくるのだろう。
あちこちに反響しているのか、声の中心が特定できない。
金城の銃を握る手に、じっとりと冷や汗がにじみ出た。歌は続く。
「いーつゥいーつゥ、出ーやァるーゥ」
「美夏!」
「晴ーァれーた、ゆーうがたーァ。するするすーる、突き入る……」
歌詞が違う。
ぞっとして、全員が足を止める。どこから聞こえてくるのか解らない歌の、次にくるはずの歌詞を思い出し、何人かが無意識のうちに後ろを振り返った。
金城は周囲に意識を集中させた。
何かが壊される音が、入ってきた方から聞こえた。全員が後ろを向く。
「後ろの正面……」
声の所在は依然として掴めない。金城は嫌な予感がして、前に向き直ろうとした。歌は最後のフレーズに入る。
「だーぁれ?」
声は、殆ど全員の背中側、金城の正面から聞こえた。そして一緒に、空気を切り裂く弾の音も。
とっさに身を伏せられたのは金城を含めて数人。しかし、伏せた者も伏せられなかった者も、殆ど全員が撃たれた。うち二人は頭に弾を受け死んだ。防弾チョッキを着ていなければ、何人死ぬことになっただろう。
「美夏!」
すぐに起き直り、金城は白い影を追いかけた。二階へ上がる階段の方へ。
ふわりと、脱ぎ捨てられた白衣が落ちてくる。
金城は、それを掴んで投げ捨てようとした。
と、前から長い足が伸びてきて、金城を階下へ蹴り落とした。咄嗟に受け身の姿勢をとる。背中を打ったが、大事はなさそうだ。
「美夏! 正気に戻れ!」
姿を消した相手に向かって叫ぶ。
「美夏!」
声は、届かない。聞こえているのか、いないのか。
脱出まで、あと一分を切った。
その頃、本館にいる達紀たちは、何とか使えるようになったレーダーの画面に、奇妙な影が映っているのを見つけた。
「これは?」
戻ってきた麗美の問いに、達紀は首をひねった。
高度一〇〇メートルほどに浮く黒い影。かなりの速度で接近している。
「判らない」
双眼鏡で、影の映っている辺りを確認した浅川は、自分の目を疑った。
「ヘリコプターだ……」
「バカな。こんなに近づいているのに、何にも音が聞こえないなんて!」
叫んだ達紀に、祐輔はまさかの可能性が当たっていたことを知った。
「軍用ヘリです……ローター音の周波数が、人間の可聴域より低いから、音が聞こえない」
その言葉がまだ終わらないかのうちに、達紀は通信機のスイッチを入れた。
「金城さん! 連中、ヘリで脱出する気だ!」
浅川も同じような事をしていた。本館に残っている全員に指示を飛ばす。
「坂井、本館からあのヘリを狙う。もう第一隊は間に合いそうにない!」
「諒解!」
二人は作戦部みたいになっている、薬科の研究室を飛び出す。
何故か、麗美も研究室から駆けだしていた。
「どこへ行くんです?」
そう問う祐輔に、麗美は自信に満ちた笑みを浮かべながら、早口で答えた。
「普通の弾で、軍用ヘリが落ちるわけないでしょ。絶対に打ち落とせる武器を提供するわ。何キロ先でも、視認さえできれば、確実に当たる武器をね!」
走りながら手筈を話し合う。
途中で道は別れた。浅川は屋上へ。麗美は祐輔を連れて、自分の部屋へ。
部屋の内線は生きていた。
麗美は必要な機材をまとめながら、研究室にラインをつなげた。重いから、どうしても運搬に男手がいる。祐輔を連れてきたのはそのためだ。
「もしもし?」
「麗美よ。達紀、本館の電気を、三分だけちょうだい。いえ、二分でいい!」
「何をする気だ?」
「荷電粒子砲を使うわ。試射はもうやってあるの。お願い!」
横から、議長の承諾が必要だという声が聞こえる。だが、それは途切れた。
次に聞こえてきたのは達紀の言葉だった。
「分かった……で、どうしたらいい?」
麗美は一区切りの指示を出すと、狙撃手たちを追いかけて屋上に向かった。
息を切らせながら屋上に着くと、それでもしっかりした手つきで、麗美は機材の設置を始めた。同時に、この奇妙な兵器の使い方を、浅川に教える。この中で一番狙撃能力が高いのは彼だからだ。
心臓が激しく鼓動している。けれど、頭は恐ろしいほど冷静だった。
(母さん、私、父さんを殺すわ)
215
黒いヘリは、何度か威嚇射撃を行ってから、北棟の屋上に降りた。すぐに、二つの人影が中へ引き上げられる。
「二人?」
本館屋上で見張りに立っていた狙撃手の一人が、素っ頓狂な声を上げた。
「じゃあ、残りの三人は置いてきぼりか……仲間割れしたか?」
浅川は大きくて不格好な銃を構えながら、ぼそっと呟いた。
「さぁ?」
素っ気ない答えを返しながら、麗美はできる限りの速さと正確さで、その調整を行った。
「目標、離陸しました」
見張りの声が聞こえる。麗美は調整を終えた。何度かの実験で、この銃を使う時に、屋上のどこにあるものをどう使えばいいのかを、麗美は全て把握していた。それでなければ、これの使用など思いつかなかっただろう。
「最大出力にしますから、相当な反動を覚悟して下さい」
「わかった」
浅川は銃を構え、暗視スコープ越しに目標を睨んだ。
ヘリは素晴らしい逃げ足で、地平線の彼方を目指している。
浅川は引き金を引いた。
二、三秒して、爆音が麗美たちの耳に返ってきた。
薄青く暮れ始めた山々の上に、オレンジ色の巨大な球光が現れた。
屋上で歓声が上がる。
倒れた浅川を助け起こしながら、祐輔は、身じろぎもせずにその光を見つめる、麗美を見つめた。
(死の女神)
そんな言葉が頭に浮かぶ。それほどに麗美の顔は無表情で、何かしら吹き出しているはずの感情が、全く見受けられなかった。
「麗美!」
聞き慣れた声が、階段の方から聞こえる。
振り返った麗美の顔に、一瞬、寂しげな笑みが浮かぶ。
「達紀……私……」
「言わなくていい……」
声もなく涙を流す麗美をそっと抱きしめながら、達紀は静かに囁いた。
祐輔は密かに、自嘲の笑みを漏らした。
黒川を支えられるのは澤村だ。自分の想いは、単なる憧れだったのだ、と。
「金城さんたちは?」
浅川が達紀に問う。達紀は北棟の方向を指差した。屋上にいる、麗美と達紀を除く全員が、そちらの方に目をやった。何人かは、身を乗り出すようにして北棟を眺めた。
玄関から、三々五々、突入した狙撃手たちが出てくる。その中には最早息を引き取っていると判る影もあった。ばらばらと、本館屋上にいた狙撃手たちは階段を下りていく。残ったのは達紀と麗美だけだった。
金城の姿が、北棟から現れる。あちこちに傷を負っているが、どうにか無事のようだ。そしてぐったりした青白い細身の女が、何人かに抱きかかえられるようにして現れた。
「美夏……」
麗美のその呟きが合図であったように、達紀は階段に向かって歩き出した。
医務室へ向かう道の様子は、今更ながら戦場のようだった。二人は、怪我人の中を、金城を探しながら歩いた。
彼は、医務室の扉の前に立っていた。あちこちから血が滲みだし、顔にも痣ができている。相当ひどくやられたようだった。慌てて近寄ると、金城は苦笑を交えた表情で、こう言った。
「確かに美夏ぁ強いのぉ……危なかった……」
「美夏は?」
麗美の問いに、金城はちらりと扉に目をやった。
「技術科が坂井に渡しとったダート銃があるじゃろ? 麻酔針を装填して、一応持ってったんじゃが、一発じゃ効かんで、二発打ち込んだ」
「じゃ、眠ってるだけですね?」
「たぶんな」
いそいそと様子を見に行った麗美とは反対に、達紀はどこか暗い目で金城を見上げた。
「議長はどう判断されるんでしょうね?」
金城は不自然でない程度に視線を逸らし、ふーっと長い息をついた。
「美夏のせいで死者が出たんは事実じゃ……たとえそれが、アレに操られた行動じゃったとしても……死んだ人間は帰って来ん……」
「じゃあ、処刑ですか?」
感情を押し殺した声で達紀は問うた。
「わしゃ、議長じゃない」
金城の声も死んでいた。
「ただ……」
迷いの色だけが確かな声を聞いて、達紀は金城の目を真っ直ぐに捉えた。
「わしが、美夏を、庇わにゃならん理由は、ない」
達紀は目の前が真っ暗になった気がした。
確かにそうだ。確かにそうなのだ。美夏のせいで死者が出ている。そして彼らは金城の部下だった。金城は確かに、博士と議長の命令で、美夏を監視していた一人だが……
<問題が起こったときに対処しやすいよう……>
達紀は首を振った。
図らずも問題は発生し、金城は中心になって対応した。その結果がこれだ。
重い息を吐きかけた達紀は、金城の拳が震えているのを認めた。
その日一日は、怪我人への応対、破壊された機器等の処理、化学物質による汚染の有無の確認等で忙殺された。
そして、死者が三名であること、ヘリコプターに乗り込んだ人間は二人であること、それにも関わらず、他の二人の死体が見つからなかったことなどが、相互に確認された。
かごめ歌の最中に聞こえてきた、何かの壊れる音は、一室の鍵が、銃でぶち破られる音だったという結論に達した。
歌を歌っていたシンシア=美夏は、即処刑に回されはしなかった。
物理はいちばん苦手な教科だったんですと言い訳しておく。荷電粒子砲は何かカッコイイのでやってみたかっただけなんです。




