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第206章~第210章

          206


 浅川は駆け足で遠ざかっていく。もう一人も、手当てが終わって、こちらは鎮痛剤を打ってもらうと、同じく銃を担いで駆け足で出ていった。三々五々、人気が抜けていく。

「雨が来そうね……」

 蒸すので、窓から少しだけ風を入れながら、尾崎は呟いた。

「澤村君、どうする?」

「ここで橋口を看てますよ……死人が歩き回るのは良くないでしょう」

「も……治療は、終わってるんだけど、なァ……」

 ベッドの方から、掠れ声が流れてくる。

「橋口君、寝てなさい。君、重傷なんだから。鎮痛剤打ってるからいいようなものの、そうでなかったら今どれだけ痛いことか」

 はーい、という返事を残し、彼は尾崎の言葉に大人しく従った。

「じゃ、そうしておいて」

 尾崎は達紀にそう言うと、膿盆の中のものを処分し、消毒するために立ち上がった。

 達紀は椅子を引っ張り出し、今のところ唯一の重傷者である、橋口のベッドの横に陣取った。一瞬だけ橋口の目が開く。何か笑っているようだった。

(北棟に閉じこもっているのは、南野と湯浅と北見、それから美夏と前田さんの五人……)

 妙な話だ。いつもなら北棟には、もっと、薬品開発研究科の人間が居るはずなのに、今日に限って北見以外、誰もいなかったとは。

 それから、北棟にいる、正確な遠距離射撃を行える人間……

(美夏は『DD』の方で、遠距離射撃の訓練受けたんだろうか……)

 そうでなかったなら、最も忌まわしい答えに行き着かなければならない。

 現役を引退して長い南野、狙撃手の経験のない湯浅と北見……残るは一人。

 前田は現役を引退して三年。しかも、引退した後、ずっと射撃訓練の教官を務めている。銃を使うことに限れば、江波処刑を割り当てられた永居よりも、ずっと上を今も行っている。

 前田なら、本館と北棟との距離くらい、大したことはないはずだ。

(何故南野に加担するんですか?)

 もしもそうなら、紗希や美夏をこの組織に組み込むよう画策したのにも、彼は一枚噛んでいたのだろうか。

(それにしても……尾崎さんの言うとおり……)

 北棟に立て籠もるのは何故だろう?

 第一、何故今日に行動を起こす必要が……

 いや、待て……江波の遺書が見つかって……しかしこれは偶然だ……美夏がデータを破壊したのがきっかけで……しかしなら何故美夏は「今日」そんな行動を取ったんだろう……

 ああもう、こっちは考えても解らない。話を元に戻そう。

 北棟……この状況では逃げることは難しい。そして持ちこたえられる可能性もなきに等しい。

 だいたい、何故わざわざ北棟に閉じこもる必要があるのだ。こんな面倒な事態になるぐらいなら、時間を決めて、毒性のあるガスなり何なり、空調装置に仕込んだ方が手っ取り早いだろう。南野が、それを思いつかなかったとは思えない。

 不可解な点はまだある。

 そしてそれらを総合していくと、妙な考えに突き当たる。

 南野は「この組織を壊すつもりではない」……むしろ、積極的に存続させておきたいように見えるのだ。

 今となっては彼は裏切り者である。裏切り者は、地の果てまでも追いかけて殺す方針の組織である。ここを運良く逃れても、そしてたとえ国外に逃げ延びても、安全を手に入れられるとは思えない。

 『ブラッディ・エンジェル』は、それ自体は日本国内が主な活動範囲だが、議長の言ったとおり、世界の各地域に姉妹組織が存在している。主なものとしては、某国の『ジャスティス・フォー・ザ・ウィーク(JFW)』と、欧州の『クィッド・プロ・クウォウ(QPQ)』があるが、これだけではない。

 そしてそれを、トップの一人であった彼が知らないはずがない。

(最初から死ぬ気であるなら、わざわざ立て籠もる理由がない……)

 もしも、だ。仮に某国軍のヘリなり何なりが来て、脱出を助けると仮定してみよう。しかしそうやってここを脱出しても、『Rネットワーク』に所属する組織がある限り、命はあってないようなものだ。

(ここから一番近い基地は……どこだったっけな……)

 そんなことをつらつら考えながら、また頭の一方で、南野がこの組織を存続させる事によって、利益が生じるのかどうかを考える。

(少なくとも、南野個人の利益にはならないよな……)

 そもそも南野は、何だってこの組織に入ったのだろう。『DD』ではかなり上の地位にいる人間のはずだ。それが、危険を冒して、狙撃手からこの組織に入り……いわば運良く生き残り……そんなことをしなければならない理由が、彼にあるだろうか?

(南野がこの組織に入ったのは……たしか、二十六歳ぐらいの時、だっけ)

 それ以前に、彼は某国へ留学している。スカーレットとは、おそらくその時に知り合ったのだろう。たぶんその時に『DD』とも接触したはずだ。

 何故彼は……そして湯浅は、この組織に入る必要があったのだろう?

(この組織を……こんな少数で乗っ取れると?)

 ……違う。

 南野がもしも議長になっていたら、全権を彼が把握することになる。

 そうなれば、数の多寡など関係ない。多数派を説得して、自分の意見を押し切るだけの能力が、南野にはある。

(そして少数だから、乗っ取られているなんて気づけないんだ……)

 南野自身が信頼できる、ごく少数の人間だけが真実を知る。

 知らない間に、ここは『ダーク・ディヴィジョン』の下に組み込まれていたかもしれない。

(でも、『DD』で実権を握る方が楽だったはずだ。何故この組織でなければならないのだろう? それとも、適当に選んだ? いや……彼はそんないい加減な人間じゃない。何かきっと別の理由がある)




          207


 弾丸が、南棟五階で銃を構えていた浅川の、左肩をかすっていった。

「ッ……」

「浅川、無理すな!」

 金城の声が飛ぶ。北棟にいる謎の狙撃手は、さっきから執拗に、左腕を狙い続けている。

(この距離……いくら軽い弾でも、動き回る相手によくもまぁ……)

 これだけの技術を持つ人間を、金城は五人の中では一人しか知らない。

(やっぱり、前田さん、か……)

 窓の下の影に身を隠して、金城は弾倉を交換した。遠目の上、確認する余裕もない。さらに正面を受け持っている二人ともが、サングラスをかけている。ただ、男であるのはまず間違いなさそうだ。北見と美夏は長髪だが、この二人はともに短髪である。

 片方は恐らく南野だろう。会議の時こそ外しているが、サングラスをかけて歩いている姿を、しばしば見かけた記憶がある。

「やっぱり、前田教官でしょうかねぇ……この腕は……」

 金城が思っていたのと同じ事を、こちらも弾倉交換のために身をひそめた、一般狙撃手の一人が呟いた。

「しかし、もう一人が南野だとしても、本当によくやりますよ……現役を引退して、あの人もう十年でしょう?」

 その横にいた祐輔が、金城に声をかけた。

 と見れば、こちらは全員伏せている。向こうは三階。こちらは五階。こちらの方が高さにおいては有利だ。が、遠距離となると若干話は変わる。重力の法則に従って、弾丸の軌道は下方へと曲げられる。それを調整するのは難しい。というよりは慣れが要る。現に先ほどから、近距離狙撃専門の祐輔は、大きくずれた箇所に何発も打ち込んでいる。

 こちらが全員伏せたので、向こうも止まった。角度の関係から、遮蔽物はこちらの方が有効に使える。ただし向こうは少人数。あまり関係はなさそうだ。

「ふーっ……」

 大きく息をついた祐輔の頬に、ポツリと冷たい滴が当たった。

「あ……雨だ……」

 その声に、金城は少し背を反らせて空を見た。どんより曇っていた空から、たしかにぽつぽつと雨が降ってきている。

「一時休戦かねぇ……」

 金城の呟きに、浅川は首を傾げた。

「さぁて? 向こうさん次第じゃないんでしょうか」

「いつ止むんじゃろう?」

「今朝の天気予報は見逃しましたんで、判りません」

「夕方から夜頃までは降り続くって予報でしたよ……梅雨前線が北上してきたとかで……週間予報は降ったり降ったり止んだりでした」

 そう言ってくれた狙撃手に向かって、金城は、夕方とは何時からのことじゃろうな、と茶化した。

「気象庁の今日の予報に従うなら、三時ぐらいから後は夕方なんでしょう」

 彼はくしゃっと笑みを浮かべながら答えた。

「とすると……連中が北棟に立て籠もってから、今でだいたい一時間か」

 浅川が腕時計を確かめながら、半ば独り言のように言った。

 金城も懐中時計を出して、ほうじゃのう、と相槌を打った。

 後ろでごそごそと人の動く気配がする。次いで、ガチッと金属同士のぶつかる音がした。振り返れば、祐輔が、ちょうど自分たちの背後にある北見の部屋の鍵をいじっていた。

「何やっとるんじゃ?」

 半分呆れているらしい顔で、金城が問うた。

「連中の企みに関して、何か判るかもしれないな、と思いまして……あの人も内通者でしょう? 部屋に何か残しているかもしれませんから」

「んなわけねぇだろ」

 端から飛ばされたヤジなど気に留めず、彼はごそごそと鍵をいじり続ける。

 カチャ、と音が聞こえ、祐輔は飛んできた金属片を、片手で受けた。

「合い鍵じゃ」

 緊急時のために、幹部候補生以下の部屋の合い鍵は、金城が管理している。無論プライバシーの問題があるから、使うことなど滅多にない。しかし、この組織においては裏切り者に人権などないのである。

 扉を開ける。北見の部屋は、恐ろしいほど殺風景であった。まるでこの部屋に住んだ人間など、今までに一人もいなかったのではないかと思うほどだ。

「まさしく、計画的じゃな……」

 横から覗き込んでいた金城が呟いた。

 既に身辺整理を済ませてあったという意味なのだろう。

 浅川が、何かに気づいたように、目を上げた。

「計画的、っちゅうことは……つまり、今日のことは予定通りというわけですよね?」

「それがどうかしたんですか?」

 尋ね返されて、浅川は少し言葉を選んだ。

「武器の移動その他から、これらが全て計画的だというこたぁ、既に判っとります。が、部屋がここまで綺麗なのは、ちぃと異様じゃぁありませんか?」

「北見は研究科でしたから、北棟で寝ていたんじゃありませんか?」

 祐輔の考えを浅川は否定した。

「北棟にゃ仮眠室はありません。場所が場所ですけぇ、シュラフの持ち込みも制限されとります。そのせいで実験がはかどらんと、研究科から苦情が出とったのは金城さんもご存じでしょう?」

 金城は頷く。

「鷹野さん辺りに聞いてみるか……北見がシュラフの持ち込み許可を申請していたかは……ほいじゃが何が言いたいんじゃ?」

「何故『今日』でなけりゃぁならんのか、です……」

 全員、黙ったまま浅川の言葉を聴いている。

「いくら北棟に地の利があっても、多勢に無勢なんですよ。有害化学物質の使用は、下手をすると自分たちも死ぬことになるわけですから、考えんでも別に構わんでしょう。そうすると、どんなに上手くやってもいずれは陥落するわけです。なのにわざわざこがぁな真似をした……現役を引退して長い南野、狙撃手経験のない湯浅と北見、川崎……前田さん一人で持ちこたえられるもんじゃあないし、だからこそ南野が反撃に加わっとるんでしょうが、ただでさえ不利なのに、こがぁな顔ぶれで一体何が出来るんですか? 立て籠もる必要性がどこにあるんです?」

「車で脱出したら足がつくからじゃないんですか?」

 祐輔が言った。

 金城は美夏のことは黙ったままにしておいた。実際、美夏の戦闘能力がどれほどのものか自分は知らないし、それに彼女が優れた兵士であったところで、たしかに浅川の言うとおり、立て籠もりの意義は見いだせない。

「じゃがそれでも、立て籠もるよりは生き延びられる可能性があります。北棟の北面は断崖ですよ。背水の陣なんです……それこそ全く意味がない」




          208


 浅川の言葉が途切れた時を見量るかのように、上空を飛行機が通過していった。黒塗りの厳めしい機体。この国に駐留する某国軍のものだ。

「戦闘機……」

 祐輔が、唐突に呟いた。側にいた狙撃手が、怪訝な顔をして返した。

「それがどうかしたのか?」

「今日は……この近辺の某国軍基地で……大規模な軍事演習があるはず……」

 それがどうした、と言おうとして、金城は気がついた。

 『DD』……『暗黒師団』のバックについていると考えられているのは、他ならぬ某国政府である。

「まさか、戦闘機が助けに来るとでも?」

「いえ、来るとしたらヘリでしょう……滑走路ありませんし、人を拾いに来るわけですから」

「なら、音で判る。撃ち墜としちゃりゃぁいい」

 ヘリコプターの特徴の一つは、喧しいローター音である。

「でも、雨ですよ?」

「雨ぐらいじゃぁ、あがぁな爆音は消せんよ」

 祐輔には一つの反論があったが、まさかそんなことはないだろうと思って、何も言わずにそのまま黙った。

「そうすると、いつか脱出の気配が出るはずですね……」

 浅川は次の対策を練り始めたようだ。

「脱出するために、屋上に行くのが、一番あり得そうですが……」

「狙い撃ちされる可能性が高いな……雨じゃけぇ、精度は低かろうが……」

「北面の絶壁に近づいて、ロープを投げる手も考えられますけど」

「雨じゃ滑りませんか?」

 祐輔が口を挟んだ。

「撃たれるよりゃあマシじゃろ」

 金城は、ある意味でもっともな言葉を返した。それからも金城と浅川の話は続く。じっとそのやり取りを聴きながら、祐輔はぼんやりと考えていた。

 基地に逃げ込んでしまえば、まずあり得ない話だが、政府も手が出せなくなるわけだ。としたら、その前に仕留めなければならない。しかし、一緒にヘリも撃墜した場合、その情報が流れない可能性はゼロに近しい。それをどう某国政府が釈明するのだろうか。何もなしにうっちゃられたら、ここの事もばれてしまうかもしれない。

 全ては、この考えが当たっているかどうかにかかるわけだが。

 しかし何の目的もなく、南野圭司が立て籠もりなどという、愚行とも思える行動を、実行するとは思えない。

 彼が何を考えているのか、実のところ、我々は全く掴んでいないのではないだろうか。

(いいのだろうか、このままで)

 そう思うと、無性に動きたくてたまらなくなった。しかし、何もするべき事を思いつけないのである。

「焦っとるか、坂井」

 金城に名前を呼ばれ、祐輔は素直に頷いた。金城はふぅとため息を吐いて、この比較的新米の狙撃手が、右手を握ったり開いたりしている様を眺めた。

「もし連中が脱出するっちゅうんなら、突入の準備は必要じゃろうな」

「じゃあ、そうしますか?」

「ん……お前と佐伯……あと今北見の部屋の中に引っ込んどるの、行け」

 いきなりお呼び出しを食らって、北見の部屋にいた面々が、一様に「ゲッ」と声を上げた。じろりとそれを睨んでから、金城は背中で笑った。

「わしはどうなんですか?」

 浅川が問い返す。

「佐伯ももうベテランじゃろ……信用しんさい。確かに、完全に現役で一番の古株はわれじゃが、佐伯も次点じゃ」

 金城は昇進により、一応引退者扱いである。「ただの」特別狙撃手としては浅川が最古参、その次が佐伯だ。もちろん、実質は金城が最古参なのだが。

 浅川は表情を消して、静かに頷いた。

「じゃあ、行ってきます」

 そろそろと低い姿勢で、移動が始まった。

 全員が姿を消したのを見届けて、金城は浅川を振り返った。

「マエさんは、げに裏切り者なんじゃろうか?」

 浅川はしばらく黙っていたが、やがて金城の目を真っ直ぐに見て、言った。

「わしらが知っとるんは、あの人が『たった一人からの完全な愛情』を要求しとったゆぅこと……それだけです」

「ああ……あの人はその相手を、江波じゃと……」

 今頃はきっと死んでいるだろう男の、血の滲んだような冷たい赤い目を思い出しながら、金城は答えた。

「が、違った……江波はあの人の顔を焼き、組織から抜けた……あの人の要求は、とてつもなく重い枷だった、から。そう、言うなれば『完全な相互依存』……あるいは『究極の』……お互いに自らの人生を……魂までをも賭けて愛し合う関係……この世では決して得られないだろうもの」

「ほうじゃろうか?」

 金城はチラ、と北棟を窺ってから、また浅川に視線を戻した。

「自分の人生を博打に突っ込んどる人間が、あそこに居るじゃろうが」

 浅川の顔が、一瞬青ざめた。

「南野が?」

 その表情は明らかにこう続けていた。

 ありえない、と。

「マエさんはなぁ……」

 金城は一呼吸置いて、殆ど睨みつけるように浅川を見つめた。

「たとえ自分を『保護』してくれた人間でも、用済みになりゃあ平気な顔して殺せる人間なんだ……たとえば父親とか」

 浅川は金城の口が紡ぎ出そうとする言葉を察した。

「江波も……なぁ。江波殺しに、殆ど捨て駒扱いで戸川哲也を推薦したんは」

 戸川哲也は江波を憎んでいるから、きっと彼を殺せるに違いない、と。

 そう一番最初に主張したのは……

「……あの人じゃろ?」

「何を仰りたいんですか、金城さん」

「前田浩一は、南野圭司と、気味悪いくらいそっくりじゃ、ゆぅこと」

 沈黙。

 ただ雨の音だけが静かに響いてくる。

 浅川は、奇妙な答えを考えた。金城が口を開く。

「この先は、わしの話せることじゃあない……議長が話してくれるじゃろ……もし必要とあらば、じゃが」

「まさか、あの二人が、親子だと、でも?」

 金城は首を、縦にも横にも振らなかった。

「わしにゃあ話す権利はないよ……どっかの誰かさんはべらべらしゃべっとるようじゃがの……」

 金城は後をはぐらかすように、微かに笑った。




          209


「後五十分……か」

 壁に掛けられた時計を見上げて、南野は呟いた。

「五十分後には、ここを脱出できるわけですか?」

 前田が、小口径の拳銃を握ったまま問い返した。見えない退路は本当にあるのだろうか。雨が全てを閉ざしてしまったような気がする。

「予定通りならな……さて、お前はどうする?」

 わかりきっている答えを求めるのは、まだ不安があるからだろうか。

 前田は静かに笑った。

「ついていきます」

 江波は死にました……でも、あなたがいますから、まだ生きていけます。

 もし本当に、あなたが『私』を見てくれているのなら。

「本当に『私だけ』ですね?」

 返事に偽りを感じたら、この場で即座に撃ち殺してやる。そして自分も死ねばいい。一緒に地獄に堕ちる、ただそれだけのこと。

「お前だけだ」

 前田はまた、声を立てずに笑った。

 その笑顔が何を意味しているのかを、南野は知らないだろう。

 しかし、前田の心の奥底までを覗いた江波になら、この笑みが戸籍上の父親・三原純一を殺した時のそれと同じものだと、判ったかもしれない。


 ただ、雨の音の中に、時間が過ぎていく。

 残り三十分。


 二人は本館正面の部屋から抜け出した。

「用意しておくべきものが一つある……『我々』が脱出するために」

「どういうことですか?」

「お前は知っているだろう?私が一度『DD』で、クーデターに失敗した事」

 前田は何も答えずに、父親の後を歩き続ける。

「処刑免除の見返りが、この組織の骨抜きだった……しかし実質上計画は頓挫……『DD』が脱出に手を貸すのは、アガリアレプトとユフィールの二人だけだろう。失敗者に戻る場所はないだろうし、シンシアは既に捨てられている。そしてお前は元から『DD』の人間ではない」

「それでは、脱出してどうするのですか?」

 南野は、一室のドアを開いた。

「さぁね? ただ、死ぬのはごめんだ」

 その言葉を理解できた。

 そう、生きたいから生きてきたのではなかった。

 ただ、死にたくないから生きてきたのだ。

 死にたくないから生き残った。生き残ろうとあがいてきた。

 江波のためには死ねると思っていたけれど……本当はどうしただろう?

 そこまで考えた時、南野が自分を見つめているのにふと気づいた。

「死にたくないのは、お前も同じだろう?」

 前田はまた微かに笑って頷いた。


 どうせ私は地獄行き。

 口では何とでも強がれるけど、目の前に死を突きつけられれば、恐怖で身の竦む私。

 一緒に死ねばいい。……それは強がり。

 一緒に地獄に堕ちればいい。……それはただ、寂しさの裏返し。

 ずっと一緒にいて欲しい。

 それはたった一人で十分なのに、たった一人はどこにもいない……

 江波は消えた。

 また、笑いがこみ上げてくる。自分を嘲る笑いが。

 ……たった一人さえいれば他には何も要らない。

 確かにそうだけれど、今でもそう信じている……はず……だけれど。

 何故だろう?

 幸恵や金城さん、澤村や黒川、組織のみんなと離れることが、寂しいのは。

 ああでも、これはきっと今だけの感覚……きっとそうだ。

 だって一緒に生きた人と離れるのが苦しいなら、何故私は、あの男を殺した時に笑ったんだろう?

 浩美……浩美……みんなが浩美を見ている……浩一ではなく浩美を。

 江波が見ていたのはどっちだろう?

 彼は私を、どちらの名前でも呼ばなかった。二人きりの時は。


「ハオ」

 小さな声で呟くと、南野が不思議そうに振り返った。この人でもこんな表情をすることがあるのかと、漠然と思う。

「何だ?」

「江波は私をこう呼んでました。ハオ……浩一の『浩』、浩美の『浩』の中国語読みです」

「三人目、か」

「そうですね……私はいつも、私のつもりだった……でもいくつもに分かれていた。私は私であるから私だ。これがどうしても理解出来なかった。バラバラだったから。本当の私がどこにいるのか判らなかった」

 南野はニヤリと口の端をつり上げた。

「本当のお前はどれだと、自分では思うか? 浩一か、浩美か、ハオ、か」

「どれかと考えている私が本当の私です。それは少なくとも浩美ではない」

「それでいい」

 満足げな笑みを浮かべて、南野はやや厚手のジャケットと背負い鞄のようなものを投げ渡した。

「全てはこれからの天気次第だ……雨だと使いづらいものだからな」

「え?」

「予報だと、日暮れ頃に少しだけ止むらしい。気象庁に期待するよ」

 そう言って彼は、明かり取りの、狭い嵌め殺しの窓を見上げた。

 そういえば、心なしか、雨足が緩くなっている気がする。


 脱出まで、残り二十分。




          210


「強行突入の準備はできましたけど?」

 祐輔の言葉に、金城は我に返った。南棟と西棟の間の階段の踊り場にいるのは、北棟のあの部屋から人気が消えたからである。双眼鏡で確認したが、部屋には誰もいなくなっていた。

 ひょっとすると、もう脱出してしまったのだろうか。

 しかしヘリのローター音は聞いていない。それとも祐輔の予想が外れたか。

 そうなると、なるべく早く突入した方がよいような気がしてきた。

「雨足が緩うなってきたけぇ、そろそろ頃合いかの……議長は何と?」

「できるだけ死ぬな。あと北棟内で銃を使うのは控えろ、と……どこにどんな薬物が保管されてるか判ったもんじゃないから、らしいです」

「ということは、突入OKってことですね」

 浅川が金城を見やった。

「ほうじゃの。坂井を抜いた、準備に関わった連中を、第一隊とするか。あぁ後わしも入る」

「何故僕は抜かれるんですか?」

「わりゃ成績が悪いけぇの」

 一瞬目が点になった祐輔を横目に、浅川はくつくつ笑う。それで祐輔にも何を言われているのかが判った。殺しの腕だ。

「わかりました。待機します」

 不服そうに口をとがらせて下がった坂井の背中で、浅川は声を必死で殺しながら笑い続けていた。その肩に手を置いて、金城は静かに言った。

「わしが死んだら、英姫ヨンヒと佐恵子を頼む」

 浅川は驚きに目を見開いて、金城の目を見返した。

 そんな冗談は言わないで下さい、と返したかった、が、彼の目は真剣だった。

「何故ですか? あの五人の中に、あなたと対等に戦える人間がいるんですか? いえ、対等以上に……前田さんはもう足を……」

「美夏だ」

「え?」

「川崎美夏は『暗黒師団』で、兵士として育てられた……研究科においとるんは、昔の記憶が戻らんようにとの配慮もあるんじゃ。澤村の話だと、相当の腕らしい。多少勘は鈍っとるじゃろうがの」

「それにしたって、縁起でもない」

「まぁ、用心はしておくにこしたことはない」

「そりゃ用心とは言いません。佐恵ちゃんだって、まだ小さいのに」

「今年で小学校は卒業するさ」

 そう言った金城は、浅川に背を向けていた。

「じゃ、行って来るよ」

「主の恵みのあらんことを」

 ぽつりと呟いた言葉に、金城は一瞬振り返った。

「神は罪人を祝福してくれるんかね」

 歩き去っていく彼の背中が、非常に虚ろな脆いものに見えて、浅川は激しく首を振った。

 階下が騒がしい。

 浅川はじっと、金城の言葉を反芻していた。

「罪人、か」


 この組織のやっていることは正義ではない。少なくとも神の正義ではない。自分たちは、自分たちが『正しい』と思うことをやっているだけ。それは全て『我々の』正義。

 社会の……それとも世間の? ……歪みや汚濁に耐えられない、真っ直ぐな人間、純粋すぎる人間の、哀しい末路の一つ。

 空虚な正義を振りかざしても、無意味なことを知っていて、それでもなお、自分たちの手を血に染める。間違っていると知りながら、でもこれ以上に正しい道を見つけ出せない『子ども』たち。

 ここは迷宮の中。

 苦しむことに耐えられない『我々』が選んだのは、一番安易な道。

 目には目を、歯には歯を……

 傷つけ合う中から生まれるものなど何もない。そんなことぐらい『識』っている。でも、あまりに痛みがひどかったなら、苦しかったなら、暴力に暴力を返す以外の選択肢など、目に入りはしない。

 自分は罪人だと自覚している。エゴにまみれた人間だと自覚している。自覚するだけでは意味がない。それも『識』っている。それだけでは意味などないことも。でもそれでも、強烈な哀しみと苦しみを抑えられない。

 苦しい、哀しい、悲しい、痛い、寂しい、淋しい、辛い……何も感じナイ。

 全ての感覚を麻痺させれば、最後には空虚になる。

 どうにか身につけていた『善』の仮面がはがれ落ちて、殺人の理由が同情になる。憐憫になる。そして『偽善』を自覚する。

(ジャア、本物ノ『善』ハ、何処ニアルノダロウカ?)

 偽善の重みに耐えかねて、現実から逃げ出した誰かさん。

 捨てられた重荷を背負うのは、回り始めたもう一つの時間を動く誰かさん。

  『熾天使の時計』?

 金城の、懐中時計の内側の、子どもの拙い天使の絵。

 まだ幼かった佐恵子が描いた、善の象徴、義の化身。

(ホントウ、ノ『熾天使』ハ、何処ニイルノ?)

 ……きっとどこにもいないさ……この世界のどこにも……だから……

 ああ、ああ、苦しいのは辛い。

 我々は全員、敵前逃亡罪に問われるだろう。

 向かい合う勇気などない……けれど知っているだろうか? 逃げ出すことにも勇気が必要だということ……それでも我々の罪は軽くならないだろうか。

 『偽善』

 それは組織の禁句。

 我々が間違っていることは、我々自身がよく知っている。

 では誰が、我々を正しい道に導き戻してくれるのか。

 この身を引き裂かんばかりの哀しみを癒して。


<私と一緒に傷を負う覚悟がないのなら、私の前を通過して>

 欲しい言葉は「あなたの力になりたい」じゃない。

 本当に欲しい言葉は「此処に居て欲しい」。

<ここが私の居場所だから、私はここを離れられない。離れたくない>

 欲しいのは居場所。存在の認証。アイデンティファイされること。

 私のことを、判ってくれるだけでは嫌。解れとは言わない。せめて分かって欲しい。魂までの理解は要求しない。ただ心のレベルで私を認識してほしい。

<私の前に人がいる。その人の前に私はいない……それが苦しい>

 他者なしに自己はいかにして自己を自己と認識しうるのか?

<一緒に傷を負う覚悟がないなら、私の傷をえぐらないで>

<記憶の再生は、経験の再体験……わかる?もう一度私が傷つくということ>

<私は傷を癒されることなんか求めていない>

<ただ、一緒に傷ついてくれる人が欲しいだけ>


 浅川は深く息を吸い込んだ。

 その口から、不意に、紗希の口ずさんでいた歌がこぼれてきた。


『ここにいる私を認めて そしてできれば愛して

 誰にも知られず悲しむなら 死ぬことさえできないから』




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