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第201章~第205章

          201


「ばれましたね」

 盗聴器の受信装置を前にして、湯浅は低く押し殺した声で笑った。

「今更という気もするがね」

 同じような声で、南野も笑った。

 二人は既に北棟に入っていた。そう、達紀が考えたとおり、本部で唯一立て籠もることのできるであろう棟を、彼らは選択したのだ。

「山本は慎重派だからな……」

「たしかに、あまりそりが合っていたとは思えませんね……少なくとも、私の目から見ていた限りでは」

「君しか気づいていなかっただろうがね」

「二十年前もそうやって、某国を欺こうとしたんですか?」

 南野は、一瞬忌々しそうな表情を見せた。

「そして、今のように失敗したわけだが……あいつも余計なことをする……」

「もとはと言えば、あなたが情にほだされたからです」

 今度ははっきり渋い顔をした。

「つまり、浩一が諸悪の根元だと言いたいわけか」

 湯浅は、拘束され、気を失って倒れている男に、チラリと目をやった。

「はっきり言うなら、そうですね……」

 そろそろ防戦準備にかかりますか、と言うように、湯浅は傍らの小銃を取り上げた。

「こちらは三人。役立たずを含めても五人です……キツイですよ、あと二時間保たせればいいだけだと言っても」

 北棟に武器を運ぶ手伝いをした薬科所属の幹部候補生、美夏、前田、そしていま話をしている二人だ。

「地の利はこちらにあるがね……地上出入り口のシャッターはどうする?」

 化学物質が漏れた時、汚染区域を広げないためのシャッターが、北棟にはあちこちに設置されている。

「今閉めるのは、自分たちがここにいると告げているようなものですからね。とりあえず、中の通路の分をいくつか下ろしておきますか……あと、一階の窓に、いろいろ小細工しておきますよ……」

 そう言って、湯浅は立ち上がった。

 湯浅が出ていくと、南野は静かに前田の傍に腰を下ろした。ぴくりとも動かず、死体のように転がっている、その髪に指を通す。柔らかな黒髪だ。

「間違っていると言われてもいいさ……」

 そう呟くように言って、彼は『子』の滑らかな頬に唇を落とした。

「お前以外の人間は、どうなってもいい……お前さえいれば……充分だ」

 そう囁くように話す南野の表情は、信じられないくらい穏やかだった。

(お前になら破滅させられてもいい……)

 もちろん、道連れにしてやるけれど。

 独りでに笑いがこぼれてくる。

(誰にも渡さない。たとえ、スカーレットの息子でも……私以外の誰にも触れさせない……お前は私だけの物だ)

 扉が開いた。湯浅が帰ってきたのだ。飼い猫を撫でるように、前田に触れている南野を見て、彼は呆れたように言った。

「そうしていると、まるで変質者のようですね」

「帰ってきた第一声がそれか」

 南野は小さく笑った。

「シャッターの管理は北見……ユフィールに任せましたよ……あいつはここの施設の関して、いちばん詳しいですから」

 薬科の内通者の名前である。麗美の前年、達紀の次の年の『特別枠』の人間だ。会議の傍聴をサボリ倒していた男である。あれには理由があった。

 主要な人間が全員会議に出席して抜けている間は、北棟の人口密度は一気に下がる。その隙を狙えば、大型の武器を運び込み、隠すことができる。武器の管理に関しては、狙撃手統括の南野の手が及ぶところである。情報の改竄は、それほど難しいことではない。

「戦闘要員としてはそれほどあてになりません。川崎美夏……シンシアの方がよっぽど使えますけれど」

 南野は小さく笑った。

「だろうな……」

 仮にも『ダーク・ディヴィジョン』で訓練された人間兵器だ。戦闘要員として使えないわけはない。いや、そうでなくては困る。

「スタングレネードは全部盗んでおいたろうな?」

 音だけがする手榴弾である。轟音で相手を気絶させるためのものだ。TNT火薬にして、約百グラム相当の爆音を響かせる。

「三つしかありませんからね」

 ポケットから、きれいに折り畳まれた細長いリストを取り出して見せる。

 南野はそれを一瞥してから、湯浅に返し、窓から外を見上げた。

 重い灰色の雲が、じっとりと空を覆っている。

「雨が来そうだな」

「六月ですからね……そろそろ梅雨前線が北上してくるでしょう。ニュースでたしか、夕方頃から降ると言っていましたよ」

「見落とされる心配はないとは思うが」

「念には念を入れておきますか。見落とされたら、皆殺しにされますから」

 湯浅は皮肉めいた笑みを浮かべた。

「アガリアレプト。一、二階の防戦準備の点検、再確認終了しました」

 やや長い髪を、後ろで一つにくくった男が顔を出した。北見=ユフィールである。美夏と同じく細身で色白であるが、こちらはややつり目気味で、眼鏡をかけている。

「ご苦労……さてと、これから二時間ばかり、堪え忍ぶとしましょうか」

 湯浅はややおどけた調子でそう告げて、南野に意味ありげな視線を送った。

 前田が微かに身じろぎした。




          202


「ようやくお目覚めか、ルシファー」

 皮肉めいた調子で投げかけられた言葉が、南野のものであると知って、前田は飛び起きようとした。が、拘束されているためにそうはいかなかった。

「脱出ですか」

 妙に感傷的な笑みが、一瞬だけ南野の顔に浮かぶ。

「いろいろと面白い経験も積めたがね……最後の最後で失敗しては意味がない……少し事を急ぎすぎたようだ……私にも寿命というものがあるからな……」

 焦りが彼を変えたのか。

「それで、サロメとシンシアを、こっちに……?」

「やり過ぎだったな……まぁ、よくやってくれたよ、お前は……」

 冷たい目で笑いながら、南野は応戦準備のための銃を取り上げた。

「縛り上げておいて、何が『よくやってくれた』なものか」

 噛みつくように言った前田に、南野はどこか残酷な笑みを深くした。

「解いたら、私たちの妨害をするだろう?」

「そうしたら、あなたはスイッチを押せばいい……」

 歯ぎしりをするような表情で、前田は言った。押し殺した声だった。

 南野はクスクスと、堪えきれなくなったように、小さく笑い声を漏らした。

「死体になったら、抵抗もしないわけだ」

 ユフィール、アガリアレプトの二人は、相手にしてられん、とでも言いたげな顔で、見張りに出ていった。

 前田は、南野の言いたいことを察して、きつく睨みつけた。

「あなたは母の影しか追いかけてない」

「そうだな。浩美は私が唯一愛した女だ……」

「あなたは私を見ているんじゃない……私の中に残る母を見ているだけ」

「自分を見て欲しかったのか?」

 死が近づいてくるのが分かる。何故なのかは解らなくても。

「そうです……江波は『私』を見てくれた……『私』を愛してくれた……他の誰でもない『私』を……」

 どうせ死ぬ……それなら、言いたいことぐらい言ってから死にたい。

 抑圧され続けた自分の生の、最後の瞬間ぐらい反抗してやりたい。

「バカな浩一」

 その言葉に、前田は涙ぐんだ。

 江波が昔、よく自分にそう言っていた。その記憶が鮮やかに甦ってきた。


<バカな浩一>

<泣き虫の浩一>


 口ではそんなことを言いながらも、それでも優しかった。

 自分一人の甘い夢だったけれど。

 五年前のあの日に目を覚まされてから、自分の生は全て南野の手に握られている事を、ずっと実感させられ続けてきた。

「私がお前を見ていないと、誰が言った? 私は言っていない」

 驚いて見上げる前田の目に、南野のいつもと変わらない光のない目が映る。

「女で愛したのは浩美だけだ……お前は女ではない」

 その言葉が頭に染み込んでいく。

 前田は微かに、嘲るような笑みを浮かべた。

 嘘だ。

 あんなに冷たいこの人が。

「私はお前を見ている……お前は江波しか見ようとしなかった……私を拒絶していたのはお前の方だ!」


 だって、私には一人で充分だから。

 その一人は江波だと信じ切っていたから。

 突き放されても、それでも彼以外愛せるとは思わなかったから。

 たった一人が完全に私だけを愛してくれるのなら、そのたった一人以外の人間は、別にどうなっても構わない。

 そのたった一人は、南野だった……?


「私は、たった一人の人に愛されるなら、それで良かった……」

 呟いた前田に、南野は、どこか寂しそうに笑った。

「それがあいつだと、お前は信じていたわけか」

「だって、あなたにとって、私は、『浩美』の影でしかないと……思ってた」

 南野は、すっと、前田の顔の輪郭をなぞった。

「お前が浩美の影に過ぎないなら、何故整形した後も、私はお前に執着しなければならない? たしかに、浩美の面影が消えたのはうれしくないことだった。だが、今の私には『お前の方が』重要なんだ」

「じゃあ、何故、私が苦しむようなことばかり、言ったんですか?」

 この男に自分は、今まで、何度泣かされたことだろう。

 南野は、少し目をきつくした。

「知弘のことを忘れようとしない、お前が忌々しかった。お前だけを見ているのは私だけだったのに、お前は自分を捨てたあいつの影ばかり……」

 そう言ってから、二人は同時に苦笑した。

「お互い様だな」

「そうですね」




          203


 地下の武器庫を点検していた特別狙撃手の一人が、忌々しげな顔で、南棟の二階にいる、金城の方に報告に来た。

「やられましたよ! 小銃類と弾薬その他……全体量にくらべれば、大したことありませんけど、盗まれてます。あと……スタングレネードが三つとも」

「スタングレネードぉ?」

 素っ頓狂な声を上げた金城の横で、浅川が顔を半分歪めた。

「嫌な予感がするんですが……」

「何じゃ?」

「その、スタングレネードって、音で人を気絶させる手榴弾ですよね? たしかそうだったと思うんですけど」

「ああ……それが?」

「『金城さんの仮説』に従えば、南野や湯浅は、北棟に立て籠もっているはずですよね?」

 金城は一瞬、あれ? と思ったが、そうだったと思い直して、頷いた。

 この案をくれた達紀は、一応死体ということになっているのだ。

「それがどうかしたのか?」

「あそこって、攻撃をかけようと思ったら……いえ、近づこうとしたら丸見えですよね? 向こうからは……だから、そのスタングレネードを投げられたら、気絶している間にあの世行きにされてしまうんじゃないかと……」

 そう言やそうだ……と、金城は腕組みをした。

 考え込む『攻撃部隊』の面々に、有り難い言葉をくれたのは議長だった。

「その可能性は低いだろう」

「何故ですか、議長」

「あれは、ここが直接攻撃を受けた時の、いわば『最終兵器』で、使い道が少ない……十年ぐらい前の、欧州の『QPQ』との共同作戦での使用が、今のところ最初で最後だ……何故かというと……」

 いったん間を置いて、山本は続けた。

「あれはな、音が大きすぎるんだよ……北棟の壁は他に比べて厚い方だが、窓を開け放って投げるわけだろう? 巻き添えを食う可能性が大きい。自分の方が気絶している間に、爆音を聞かなかった人間が近づいてきたら、どう対応するつもりだ? 南野はそこまで頭の回らない男じゃない」

 TNT火薬百グラム相当である。TNTは強力な火薬である。たかだか百グラムとは侮れない轟音を発する。無論スタングレネードの中にTNTが入っているわけではないが、音は同程度。よっぽどの非常事態ででもない限り、たしかに使用は難しいだろう。普通の研究所を装っているのに、不信感を抱かれるような真似を、わざわざする必要はない。

「恐らく連中に与していると思われる、薬科の北見が、何かする可能性は?」

 何か、とは、毒ガス等化学兵器の使用だろう。

「ウチで開発しているのは、催眠ガス、悪くても催涙ガス以上のものじゃない……それに閉鎖空間ならいざ知らず、吹きッさらしの屋外で、望み通りの効果が期待出来ると思うか? それに、ガスマスクならこちらにもある。たとえ使うとしても、一度限りだろう」

「こっちにもあるんですか?」

 浅川が、知らなかった、という表情で問い返した。

「薬科の倉庫に、箱詰めである……まぁ、警戒するに越したことはないから、今、鷹野に言って出させている。着けたい奴は着けろ」

 山本が手を振ると、彼らはバラバラと西棟の方へ移動を始めた。残ったのは金城だけだ。

「着けないのか?」

「後で着けます……まだ報告が来とらんので、ここを動けんだけです」

 そう答えた金城は、パタパタという足音に振り向いた。

 前線狙撃手の坂井祐輔……哲也のルームメイトで、彼の元同級生、美佳の兄だと判った男である。

「東棟の再確認終了しました。川崎美夏、所在不明」

 続いて他の顔もぱらぱら現れる。

 その報告を総合すると、どうやら今、本部にいるはずなのに、東西南の本館に姿が見えないのは、南野と湯浅、北見と美夏、そして前田の五人のようだ。

 それを聞いて、山本は頭を抱えた。

「南野……湯浅……北見……再洗脳されたというなら美夏……そこまでは解る……解らないでもない……しかし何故前田が?」

 紗希、そして美夏のことも知っていた。

 その前田が何故?

「死体に訊いてつかぁさい。わしは西棟に行ったヤツらと合流しますけん」

 そう言い置いて、金城は小走りに南棟から出ていった。

 山本はフゥッと嘆息した。

(南野が裏切り、湯浅が裏切り……北見が裏切り、美夏は操られた……)

 北見は湯浅の網がひっかけてきた。

 おそらくこちらに入る前から、北見は『DD』と繋がっていたのだろう。

 そう言えば、ここ数年、幹部候補生は湯浅の網がひっかけてきた人間が続いている……紗希と美夏はともかくとして、その前の年の麗美、前述の北見と、そのさらに前年の達紀……全員、湯浅のネットワークが見つけだしてきた人材だ。湯浅が『DD』の人間なら、きっと、より使える人材は、自分たちの方へ引っ張り込んだことだろう。

(前田は……何故……)

 頭の中でその言葉を繰り返しながらも、山本は、金城の言葉の通り、地下の霊安室に向かった。

(澤村が、湯浅と繋がっていないと言う保証が、どこにある……)

 そこまで考えて、彼は首を振った。

(南野に与している人間は、全員北棟に行ったはずだ……澤村が霊安室にいればよし、いなければ、向こうに与していると思えばいい)




          204


 扉を開けると、達紀の姿はなかった。

 しばし呆然と佇む山本の背後で、扉が開いた。

 銃を向けると、人影は慌てて両手を挙げた。

 銃口を固定したまま明かりを点けると、そこに立っていたのは達紀だった。

「どこへ行っていた?」

「北棟に行ってみようかと思ったんですけど、どうも物々しい雰囲気だったんで、戻ってきたんです」

 北棟、の言葉に、山本は目を険しくした。

「何故北棟に行こうとした?」

 殆ど尋問口調の山本に、達紀は嫌な予感がした。

「僕は裏切ってません!」

「北棟には、南野たちが立て籠もっている……そこに何故行こうとした?」

 銃を下ろさずに、山本はさらに尋ねた。達紀は、両手を挙げたままの状態がつらくなり始めていたが、なお同じ体勢のままで答えた。

「前田さんが、気づかれているから、北棟の放射線実験管理室に逃げ込めって言ってきたんですよ……」

「前田が?」

「ええ……でも、その後美夏が来て話せなくなったんで、彼が何を考えてたのかはサッパリなんですけどね……それにあの人、敵か味方かイマイチよく解らないし。北棟って、この組織で唯一立てこもれそうな場所ですよね?わざわざそこを指定した理由が、どうも防弾性に優れた分厚い鉛の扉だけとは思えなくって……それで、ひょっとしたらあの人、南野と組んで、僕を人質に取る魂胆だったんじゃないかと邪推しまして……それで様子を見ていたら、案の定でしたので、戻ってきたという次第です」

 ようやく、山本が銃を下げてくれたので、達紀は凝った肩を叩けるようになった。

「前田と南野は、繋がっているのか?」

 山本の声は抑えられてはいたが、それでも落胆の色は隠せなかった。

「少なくとも、血は」

 そう言ってしまってからハッとしたが、達紀は、もうこの際だと、肚を決めた。山本は驚いて、彼を見た。彼は目を合わせずに、続きをしゃべった。

「湯浅の個人データベースにハックをかけた時、黒川麗美と、南野や前田との繋がりに言及する文を見つけたんです……それで、信じられなくて。薬科三の広崎秀二が、大学で遺伝子工学を専門にしていたという情報を見つけて、居ても立ってもいられなくなって、『スコープ』を使わせたんです」

「DNAパターンを解析させたわけか」

 ハッキングに関して、今はお咎めを下すつもりはないらしい。山本の表情は深刻だったが、罰を与えようという雰囲気はなかった。

「はい」

「広崎はその時に、南野、前田さん、麗美の三人の他に、江波、美夏ちゃん、それから紗希の、三人のパターンを調べました。その結果、最初に言った四人……南野と前田さん、麗美と江波……この四人に、血縁関係があることが判明したんです。そして、南野と前田さんのパターンは、『異常なほど酷似』していました」

 山本が不審げに眉を顰めた。

「広崎の立てた仮説はこうです……前田さんは、南野と、彼の姉妹との間に生まれた子どもではないのか、と。僕は、江波が細工をしていたと思しき本部のコンピューターを使って、公の記録を盗み見ました。南野には姉がいました。前田さんはその人……三原浩美の息子として登録されています。しかし、何の血縁関係もない男との間に生まれたとは思えないほど、前田さんのDNAパターンは、南野に似ていました……普通、DNAは、両親のパターンを受け継ぐものです。ところが、あの人のそれは、母親のパターンしか持ち合わせていない。出される結論は一つです。両親が、ともに似通ったパターンの持ち主……すなわち姉弟であった」

 山本は、右手で顔を覆って首を振った。

「南野には、人間らしい情が殆ど窺えません……彼が唯一人間となれたのが、姉と一緒にいる時だけだったとしたら、彼女との子である前田さんには、並々ならぬ執着心を持っていることでしょう。そして事実、彼に近づきすぎた江波は、追放されました。自分の子どもでさえ、近づくことを許さないんです」

 達紀はそこでふと気づいた。

 前田の求める究極の相互依存状態を、南野もまた欲しているということに。

 もし前田がその事に気づいているなら……

 そう想像して、彼はサァッと血の気が引くような気がした。

「前田が南野に『与している』いる、という、確証はないわけだな?」

「え……ええ……今のところは……」

 そう答えると、一瞬だけだが、山本の表情が緩んだ。が、またすぐに引き締まった。

「ところで、黒川も南野の子どもだと言ったか?」

「え……あ、はい。麗美自身の話では、父親は死んだと聞かされて育ったそうです」

 そのためにいじめを受けたと、達紀は高校時代に聞いた。

 このことが判明した後の麗美の様子から推して、彼女がこれを知っていたということはありえない、と、達紀は付け加えた。

 山本は黙ったままだった。しかし、立ち去る様子もない。

 ふと思い出して、達紀は試しに尋ねてみた。

「モロクとかアガリアレプトって、どういう意味かご存じですか?」

 山本は驚いたように達紀の目を見た。

「モロク? アガリアレプト? 南野たちの『名前』か?」

「はい……ご存じですか?」

「義父から少しそんな単語聞いた覚えはある……たしかモロクは……子どもを生け贄に要求する魔神だった……アガリアレプトは判らない」

「そうですか。ありがとうございます」

(子どもを生け贄、か……)

 生け贄にされた……あるいはされるのは、三人のうち誰だろう?

 江波?前田?それとも……麗美?

 麗美だけは絶対に嫌だと考えて、達紀は自分の勝手さを、内心で嘲笑した。

「お戻りにならないんですか?」

 依然部屋に立ったままの山本に、達紀は思いきって言ってみた。こんな所でぐずぐずしている場合ではないはずなのだ。

 しかし、山本の動作はどこか緩慢だった。何か、糸が幾本か切れた操り人形のように、キレのない……いや、生気の感じられない動きが見える。

「……戻るよ。君も上がってきたらいい……内通者は全員北棟に閉じこもったはずだから。もう手当を受けに行っても大丈夫だろう」

「……そうですね」




          205


 医務室に入ると、何人かがぎょっとして、達紀の足を確認した。幽霊に足がないという話は、迷信に過ぎないと、頭では判っていても、やはりとっさの事となると、どうしても身体が自然とそう動いてしまうものらしい。

「生きてたのか」

 ベッドに寝かされている橋口が、かすれた声でそう言って笑った。その横では穂積が眠っている。あの時、中央情報処理室にいた人間で、まだ治療を受けていないのは、どうやら霊安室にいた自分だけらしい。

「だって、僕より爆弾に近いところにいた君が、まだ生きてるんだから」

 そう答えた達紀の白衣の襟を、尾崎が掴んだ。

「消毒まだでしょ。霊安室なんかで寝てたんだから、しっかりやっておかないとね。あそこ、清潔とは言い難いんだから」

 白衣を脱がせ、傷口を水道水で洗うように指示する。

「そういや隅っこに、ゴキブリの死体がありましたっけね」

 チクチクという痛みを堪えながら、軽口を叩く。

「おいおい、捨てといてくれよ……って、死体は動けねえもんな」

 肩に血の滲んだ包帯を巻いた狙撃手が加わる。見れば、鎮痛剤と思しき注射を打たれているところだった。

「佐伯さん、動かないでください!」

 注射を打っていた薬科二の青年が苦情を述べた。

「すまん」

 佐伯は素直に謝る。

「……誰に撃たれたんですか?」

 達紀の問いに、佐伯は首を捻った。

「さぁ? 何せ遠かったからなぁ……下から撃ったら不利だってんで、本館の上の方の階の窓から撃ってんだけどさ……まぁ命中率が低い低い……弾が重いとションベンするし……」

「はぁ……」

 要するに、重力の法則に従って、軌道が下に曲げられると言いたいらしい。

 佐伯はさっきの青年に礼を言って、銃に手を伸ばしながら続けた。どうやらもう一度『攻撃』に参加するつもりらしい。

「撃ったヤツの顔を確認するヒマもなくやられたんだが、相当の腕だな……としか言いようがねえ。南野は現役引退して長いし、もともと射撃より策を弄して陥れる方が得手だったって聞いてる……湯浅は諜報員から支部連、本部連組で、狙撃手の経験はねえ……この二人じゃねえのは確かだろうが」

 んじゃ、と言って、佐伯は銃を担いで、医務室を出ていった。

 こちらへ来いと手招きされ、椅子に座らされると、消毒液に浸した脱脂綿で傷口をちょこちょことつつかれる。

「これ、ハードウェアの破片でできた傷ね?」

「あと爆弾の破片ですかね」

 そう答えていると、ふと、尾崎のピンセットを持つ手が止まった。金属製の膿盆(のうぼん:医療に用いる空豆型の容器)に脱脂綿を挟んだピンセットを置くと、より小さな別のをつまみ上げて、動かないで、と言った。息を殺してじっとしていると、尾崎は傷口に、何も持たないピンセットを近づける。案の定、それは傷口の中に入ってきた。

 痛いのを堪えていると、何かが引き抜かれる。脱脂綿を載せたのとは、別の膿盆の上で、微かな音がした。どうも破片のようだ。

 ほっとしたのも束の間、続いて別の傷口に痛みが移った。それを何度か繰り返し、ようやく尾崎はまた消毒作業に戻った。

「後できっちり調べないといけないけど、今はこれでゴメンね」

 消毒を終えると、ガーゼを当てる。

 と、第二第三の狙撃手の怪我人が入ってきた。

「澤村……生きてたのか?」

 見れば浅川だ。左肩を撃ち抜かれているらしい。

「ええ。ちょっと理由があって、死んだふりをしていました……浅川さんは、誰に撃たれたんですか?」

「うーん……たぶん……南野、湯浅、北見ではないとは思うんだが……」

「あれ? あのサボリ魔、内通者だったんですか?」

 ちょっとした浦島太郎気分の達紀に、別の狙撃手が口を挟んだ。

「会議サボってる間に、武器庫の武器くすねてたんだよアイツは」

「浅川さん、こっちに……」

 尾崎が手招きすると、彼は制服の上着を脱いだ。その下の白いシャツには、真っ赤なシミができている。思わず達紀は目を背けた。

「澤村ァ、その程度で目ェ背けとったらいけんよ」

 別の声がからかうように響く。

「無茶言います……蛙の解剖したくなくて物理取ったんですよ僕は!」

 どっと部屋が沸き返る。

「わしはカエルか」

 浅川が笑いながら、チラッと達紀を振り返った。尾崎がハイハイと、正面を向くように指示する。

「動かないで……意外に口径が小さいみたいね、あなたを撃った銃は」

「ええ……普通殺す気なら、もう少し重い弾を使うと思うんですが」

 そうねぇ、と相槌を打って、尾崎は血まみれになった脱脂綿を膿盆に落とした。そこには既に、弾の欠片と思しき金属片が載せられている。

「殺す気がないなら、何故北棟に立て籠もる必要があるのかしらね……たとえ数日持ちこたえたところで、袋の鼠なのには変わりないはず……はい次。曽井君、浅川さんに鎮痛剤を……」

 注射器を持って近づいた青年に、浅川はいらないと手で示した。

「ああ、要りません。動きさえスムーズになったらいいんで……なんか、弾が肉に食い込んで、キシキシいうてたんで、ここへ入っただけですから」

 心臓へ達しては大事だったから、それで来たのだと言う。

 今の情況では、とても精密検査なんて無理だろうことは、判っていたらしいが、弾の破片を抜いてもらって、少し安心したらしい。




お察しの通りの状況になってゆきます。

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