第16章~第20章
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(何だこれ……)
体に添って、両腕は真っ直ぐに伸ばされている。
その右の手首の近くに、幾筋もの白い傷痕が走っているのが目に入った。
布団を戻し、右腕だけをそろそろと引っ張り出した。
光の下に引っ張り出すと、傷の様子が、影で見るより、よりはっきりと判った。見えているだけで四つある。ほぼ平行に並び、そしてそのどれも、かなり深くまで切ったらしい。まるで太い蚯蚓腫れのようになっている。
(リスカ?)
リストカットにしては数が少ない。それに、これだけ深い傷だと、治るにはかなりの時間が必要になる。普通、ここまで深く切るだろうか?
そうすると、もう一つの可能性が高くなる。
自殺をする時のためらい傷だ。
だが、それでも腑に落ちない。
ためらい傷がほぼ平行につけられるのは周知の事実だし、死のうと思っている以上、切り込みが深くなるのも当たり前だ。そこまでは納得がいく。
しかし、傷の治り具合から考えてみるに、この四本の傷は一度につけられたものではない。一度には多くても、二本であろう。他の傷痕は、完治して消えてしまったのではないか、とも考えてみたが、やはり妙だ。
だいたい、少なくとも二度、これほど腕を切ったというのに、誰もそのことについて言及してはいない。それなのに、傷痕を見ても、何年も前に切ったようなものには見えない。いや、ほんの二ヶ月ほど前に切ったような新しさだ。
わけが解らない。
仮に二ヶ月前に切ったのだとすると、何故切ったのかが問題になる。
自分と美夏が付き合いだしたのが、組織に入って一月後だから、今から半年少し前。その間、別に特に美夏を怒らせたり追いつめたりするような行動は、一度たりとも取ってはいない。自分が理由とは考えにくい。
しかし、美夏は仕事上で、これといって重大な失敗はしていない。
腕を切る理由など見当たらない。
だが、現に、さほど古くもない傷痕が、美夏の手首についている。
誰かに切られたのだろうか?
いや。この本部内でそんなことをする人間などいないだろう。この外ならばいざ知らず。
(でも、二ヶ月前ったらなぁ……)
ちょうど、任務で本部の外に出ていた時期と重なる。美夏の身に、具体的に何があったかなど、知ることなどできない時だ。
(待てよ……)
自分が任務のために、長期間本部を離れる時に限って、手首を切っているのだとしたら?
今までで、二ヶ月を超す期間、本部を離れたのは二回。
美夏の手首に傷がつけられたのは、最低二回。
計算は合う。
(俺のいない時に、何か起きてるんだろうか?)
しかし、何が、あるいは誰が、それほど美夏を追いつめているのだろう?
そこまでは解らなかった。
黙って右腕を布団の中に戻す。美夏はまだ眠り続けている。
哲也の心に、一つの疑問が湧き上がってきた。
(前田さんのあの言葉、あれは一体どういう意味なんだろう?)
二人とも死なせてやった方がいい、とは、一体どういう意味なのだろうか?
二人、とは、そもそも誰だ?
自分と美夏か?いや、貴史か?
それとも……誰だ?
誰かを忘れている気がする。
貴史にとって近しい人物……金城ではない……誰か、別の人間……誰だ?
香西紗希?
いや、別に、彼女はそんなに貴史に近しいわけではない。
そもそも、なんで彼女の名前が出てきたのだろう?
さっき廊下ですれ違ったからか? ……いや、どうも違うような気がする……
(美夏だ)
今朝、美夏が言っていた言葉のせいだ。
<主演女優は香西紗希>
主演女優……主演女優……一体どういう意味だ? 一体「何の」だ?
さっき見かけた時の紗希の目が、脳裏に鮮やかに甦る。
(あの銀色の、救急箱みたいな箱……たしかどこかで……)
突然、頭の中に、輸血用の血液を採られた時のことが閃いた。その片隅に、さっき見たものとそっくり同じ箱がある。
「血だ!」
思わず叫ぶと、部屋の隅でおしゃべりをしていた尾崎と麗美が、ぎょっとして振り返った。
「血ですって? 何のこと?」
尾崎の声は固い。その雰囲気に圧され、しどろもどろな答えになった。
「いえ……ちょっと、考えてたら思い浮かんで……さっき、廊下で紗希さんとすれ違ったんですけど……その時に……」
「血液のパックが入った箱を抱えてたって?」
麗美がズバッと核心をついた。何も答えられないでいる哲也に、彼女はニヤリと美しい笑みを向けた。
「三課の実験で使うって言ったから、私が渡したのよ」
尾崎が、まるで何でもないことのように言った。
「許可証は?」
「いるわけないでしょ。あの子、完全な特別扱いなのよ……議長からの命令でね……許可証なしでも提供してもらえるようになってるの。特に血液はね」
尾崎はそう言って、気にするな、というように小さく手を振った。
(議長?)
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「議長……議長……そうだ。何故かここへ辿り着く……」
前田は、美夏に関わる何かの話を、議長の許可が下りるまで話せないと言っていた。
尾崎は、紗希は議長の命令で、許可証なしでも実験用の血液の提供が受けられる、というようなことを言っていた。
(美夏にも紗希さんにも、何か重大な秘密があるのかもしれない)
だが、美夏と紗希に、共通点などあるのだろうか? 性別と、キャリアであるということ以外、共通点らしい共通点など見当たらない。
(何があるんだ? この二人に……)
解らない。
でも、間違いなく何かがある。
でなければ、何故議長が一介の幹部候補生ごときに、こうまで目をかける?
何か、人に言えない理由があるはずだ。そう簡単には人に言えない理由が。
(それは、関係しているのか?あの傷と……)
美夏の右手首に付いていた傷の様子を思い出し、哲也は背筋が寒くなった。
首を振り、生々しい映像を頭から追い出す。
(永居さんに訊けば、紗希さんのこと、他に何か判るかもしれない……)
仕事が割り振られた今日は、美夏の部屋には帰らない。
前線狙撃手の部屋で雑魚寝だ。
一部屋に四人から五人の割り当て。ただし、絶対に誰か一人二人欠けているので、計算よりは広い面積を使える。もっとも先輩連中の話だと、九月末から十月初めの間は、そうはいかないらしい。組織に新しく入ってきた連中との顔合わせや、昇進連絡などのために、一部の支部連絡員たちを除いたほぼ全員が本部に帰還するからだ。
もちろん、哲也はまだそれは経験していない。
きっと九月には狭いキツイと悲鳴を上げているのだろう。
本部で寝起きしている面子は、特に希望がない限り、個室が宛われる。無論好んで相部屋を希望する人間は稀だ。今の所は一人もいない。
無論美夏も個室である。美夏の隣の部屋が紗希の部屋。そのまた隣が麗美の部屋。で、一部屋おいてその隣が達紀。南棟の五階はエリート居住区だ。
前田など、ノンキャリアからの昇進組は、東棟に多い。東棟は、ほぼ全てが本部詰めの人間たちの居住区域にあてられている。ただし一階部分は昼食場。二階三階が前線狙撃手たちの部屋。四階と五階、それから六階の一部は、主に特別狙撃手、そして研究員たちの部屋。六階の一部と、最上階の七階が、前線組出身の幹部たちの部屋だ。
上級幹部や議長は前線組出身でも、就任後は南棟へ移るのが慣例。
南棟は、七階の一番東の部屋が議長の部屋で、その隣が副議長。残りはほぼ全て上級幹部。そして美夏たちキャリア組。
東棟と南棟は、分けて呼ばれてはいるものの、扉一枚で繋がっているので、警戒の厳しい夜間以外は移動し放題。夜間移動しなければならないのは、不運にも夜勤に当たってしまった、警備員こと特別狙撃手くらいのもの。それ以外で移動する奴は不審者。時計が九時を回ったら、大人しく訪れた部屋で朝を迎える方が賢明である。いや、十時だろうが十一時だろうが未明の領域に入っていようが、それでも移動する奴は移動するが。
「戸川君、そろそろ美夏ちゃんを起こしてくれる? この部屋に泊まらせるのはあまり良くないわ」
尾崎の声で我に返る。ついさっきまで、哲也の頭の中には、光のない紗希の真っ黒な目が浮かんでいたのだ。
「はい……おい、美夏」
揺さぶってみるが、起きる気配はない。
麗美がからかうように言った。
「『眠れる森の美女』みたいに、キスしてみたら? もっとも、私の方がキレイだけどね」
「あのね……麗美ちゃん。そんなこと言うもんじゃないの」
尾崎があきれ顔で、麗美の頭をはたいた。
「やっだなぁ。ジョークですってばジョーク!」
「冗談に聞こえませんよ」
哲也は素っ気なくそう言って、美夏の額に手を置き、すぐ真上からその顔を覗き込んだ。
背後で硬直する麗美と尾崎を放って、哲也はそのまま美夏にキスをした。
「普通、ホントにやる?」
麗美が腕組みをし、長い脚を組んだ。首を傾げ、見下ろすような視線。
「ノッた以上最後までつきあいます」
唇を離した哲也が、ニヤリと不敵に笑った。
「あっそう」
「おーい美夏……本当に起きろってば」
麗美を無視し、再び美夏の体を揺さぶる。
薄目が開く。
が、またすぐに閉じた。
「……尾崎さん。美夏、起きる気なさそうです」
「しょうがないわね……運んであげられる?」
「出来ると思いますけど……」
「んじゃよろしく。私らには到底運べないから」
尾崎はそう言いながら、哲也の肩をポンと叩いた。
それで改めて気がついたが、尾崎もかなり背が高い。百七十五はある。考えてみると、麗美も百七十近くあるし、上級幹部会の紅一点、岡野もそのくらいあるように見える。
そう考えると、百五十五しかない紗希が、際だって小さく見える。
外見など関係ないはずなのに、それ故にいっそう、彼女がこの組織の中で、根本的に異質な存在に思えてしまうのは何故だろうか。
美夏とは対照的な茶色い肌。真っ黒な髪。大きな黒目。羽織っている白衣のせいで、小柄な体はよりいっそう小さく見える。
不思議なもので、記憶にある紗希の顔には、笑顔は一つもない。それどころか、敵意を含んだあの黒い目以外、何も憶えていない気がする。
哲也は、頭の中にこびりつく黒い目を追い出し、また美夏を見た。
運べといわれた以上、そうするしかあるまい。
あきらめて布団を引きはがし、背中と膝の裏に腕を通して抱き上げる。
「んじゃ、お手数かけました」
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抱え上げてみて気がついたが、身長の割に軽い。痩せているせいだろう。本当に、ガリガリと言ってもいいほどなのだ。それでいて、出るところはきっちり出ているなどと考えるのは、自分が男だからか。
「おいおい……」
エレベーターのボタンを足で押していると、通りがかった広崎秀二に声をかけられた。紗希に便利に使われていたあの研究員である。
「ボタンくらい僕が押すよ」
そう言って、彼はやって来たエレベーターにするりと入った。
「すいません」
「何階? って、五階か……」
哲也は黙って肯いた。扉が閉まり、上昇していくエレベーターの音以外には何も聞こえない、奇妙な空気が内部空間に充満した。
「じゃあ」
そう言って、秀二は四階で降りていった。
扉が閉まると、また沈黙が降りる。美夏の寝息は聞こえない。顔の前に頬を近づけると、空気が動いているのは微かに感じられる。
記憶喪失だと言っていた美夏。
死体のように眠っている美夏。
身体の仄かな温かさと、微かな空気の流れだけが、僅かな生気を漂わせる。
生きているのだろうか?
存在しているのだろうか?
本当に幻ではないのだろうか?
ふと、引っ掛かった。
美夏は交通事故で、記憶を無くしたと言っていた。
記憶を無くしたのに、交通事故でそれを無くしたということは知っている。
「何故」「交通事故」だと知っているのだ?
「誰が」「交通事故」だと教えた?
(前田さん……が……何か知っているんだ……)
それを話すのに、議長の許可が必要なのに違いない。
(一体、美夏の過去って……)
扉が開く。
南棟の方向に向かって歩き出す。
(美夏の過去と、右手首の傷に、何か関係はあるんだろうか?)
あるとは思えない。だが、ひょっとしたらあるかもしれない。
(……まさか)
誰かが、故意に、美夏の記憶を消した?
その指示が……議長によって下されたものだとしたら……
(やめよう……根拠のない推測は……)
部屋の前まで来て、哲也は途方に暮れた。
「どーやって扉を開けろってんだよ」
両手はものの見事にふさがっているし、足を使って開けるわけにもいかなさそうだ。ため息を吐いて、哲也は美夏を一旦床に下ろした。扉を開け、再び美夏を抱えて中に入る。相変わらず、誰も住んでいないのかと思えるほど、人の気配のしない部屋だ。ベッドの上に美夏の身体を下ろすと、布団をかぶせて、哲也は外に出た。
今日は泊まるつもりはないから。
東棟の方に曲がると、向かいにある西棟がよく見える。上の方の階が研究員たちの実験室や仮眠室に充てられ、下の階は仕事の来ていない狙撃手たちや、仕事に一段落ついた本部の人間たちの暇つぶしの施設になっている。地下の射撃練習場には、東西の両棟から降りることができる。受付は南側。
そして、そこにも『メアリ様』の像が据えられているのを、哲也は思い出した。剣と天秤を持った熾天使。
「熾天使の時計……か」
思うに、自分のそれは、まだ動き始めてさえいないのだろう。
(まだ……プロじゃないな……俺は)
前田は、今回は人間の心で臨め、と言っていた。
裏を返すなら、次回からは人間として任務に臨むな、ということだろう。
死刑執行人である、ということ以外、全てを忘れなければならない。
それが出来なかった時、前田ほどの人物でさえ返り討ちにあった。
ましてや、まだまだ腕の未熟な自分なら、どれほどの痛い目を見ることか。
そう、美夏に誓ったことも果たせなくなる。
(矛盾してるな……いつもだけれど)
美夏への誓いを果たしたかったら、美夏のことを忘れなければならない。
(ああ、頭がこんがらがりそう)
エレベーターが上で足止めをくっているらしく、なかなか来ない。哲也は諦めて、階段で下りていくことにした。
ちょうど三階に下りようとするところで、永居貴史と出会した。
「ああ、ちょうど良かった……」
人なつっこい笑みを浮かべて、彼はそう言った。
哲也は妙な違和感を覚えた。
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「探してたんだよ」
ニコニコ笑いながら、貴史はそう言った。哲也は何か、両側頭部から、脳に指を挿し入れられているような気持ち悪さを感じた。
「何ですか?」
「いや。今度の仕事、一緒だってね。さっき主任に聞いたから。江波暗殺の。聞いてない?」
穏やかな顔はいつもと同じはずなのに、何故こんなにも胸がむかつくのか。
気持ち悪さを押し殺して、哲也は答えた。
「尾崎さんから聞きました……」
「尾崎さんから?」
「美夏が、会議中に倒れたって、麗美さんから連絡が入ったんです」
「ああ。じゃ、ずっと医務室にいたんだ。見当違いのとこばっか探してたよ」
納得したように一人肯く貴史を見て、哲也は堪えきれずに額に手を当てた。
「それで、俺に何の用なんですか?」
「ここじゃ長引くから、明日の朝にでも俺の部屋来てくれる? 今回はサポート俺だけど、ある程度のラインまでは決めておかないとね。それだけ」
人の良さそうな笑顔……無性に吐き気がする。
「……大丈夫か? 顔色悪いけど」
心配そうな顔。ああ、気持ちが悪い。頼むからそんな表情で俺を見るな。
「偽善者」
小さな声で呟いて、哲也ははっとした。
不思議そうな顔で首を傾げている貴史から目を逸らし、哲也は慌てて階段を飛び降りていった。
(俺……何て言ったんだ?)
胸のむかつきがきつくなっている。走ったから、こんなにも呼吸が荒くて、心臓がドキドキするんだろうか? 違う。こんな程度で息が上がるほど、自分はヤワな身体じゃないはずだ。
とにかく、気持ちが悪い……貴史の顔を見ると、吐き気がする。
(偽善者……偽善者って……)
貴史の顔を見ると、気持ちが悪くなるのは、彼があんまりにも優しそうな顔をしているからだろうか。いや、実際彼は優しいが……。
傍目には善意の塊みたいな貴史の、本当の顔は、殺し屋。
それも、あの江波暗殺の実行犯として指名されるほどの腕の。
自分が死刑執行人に選ばれたのは、江波に対して、激しい憎悪を抱いているからだ。だが、貴史が選ばれたのは、純粋に力量の故だ。
(一体あの人は、どんな顔をして人を殺すんだろう?)
そうだ。それを考えると吐き気がするのだ。
穏やかな表情しか見せたことのない彼は、一体どんな表情で、殺人を行うのだろうか?
いつもと同じ、穏やかな顔で?
それとも、悲しそうな表情をしているのだろうか?
いや、ひょっとすると、楽しそうな表情をしているかもしれない。
考えれば考えるほど、気持ちが悪くなっていく。
首を振って、その思考を追い払おうとした。だが、紗希の黒い目よりも執拗に、これは頭の中にこびりついていた。
自分たちの部屋に入ると、一年先輩の坂井祐輔が、銃の手入れをしていた。奇妙な形だ。見たことがない。
「何ですか、それ?」
問いかけると、祐輔は視線だけを哲也の方に向けた。
「ただいま、くらい言ったらどうだよ」
「……ただいま」
何故かむやみに恥ずかしかった。三年前の八月から、ただいまと言って帰る家など、無いも同然だったのだ。
「ハッ。赤くなってやんの」
そう言われて、哲也の顔はますます赤くなった。
「るっさーい。で、何なんですよそれは?」
「ダート銃だよ。技術課の連中が、いっぺん使ってみてくれって言うから」
「ダートって、針?」
そう問うと、祐輔はほれ、と、細身の釘のようなものを持ち上げて見せた。ただ、妙に後ろ半分ほどが膨らんでいる。
「この太さだともう釘だけどな……毒だの麻酔だの、中に仕込んで使うタイプだ。相手の身体に刺さると、この中の液が注入される。これは実験用だから、中身は生理食塩水だけどな。毒は赤、麻酔は緑のラインが入ってる。赤ライン二本は新薬。三課の開発した、な」
「ちょっと不便そうですね」
「俺も思った。射程距離短いんだよ……十メートルない。嫌味かっつうの」
そのセリフがおかしくて、哲也はクスクスと笑った。祐輔は遠隔射撃が下手だ。無論、この組織の中では、の話だが。
「あーあ。何かここに笑っている標的がいるなーあ」
わざとらしく声を張り上げながら、祐輔は緑のラインの入った針を摘んだ。
「射撃の的はやめて下さい。麗美さんで懲りてます」
そう言うと、祐輔の動きが止まった。
「全く。お前が羨ましいよ。あんなべっぴんから呼び出されるなんて」
麗美から連絡が入った時、祐輔は哲也の隣にいたのだ。
「あのぉ……坂井さん……俺の彼女は美夏なんですけど……」
「わーってるわい。だから安心して麗美さん見てられんだろうが」
「へ?」
「でも、相手が澤村さんじゃ、敵いっこねーわ。あきらめて遠くから見るだけにしておくよ。俺なんかただのスナイパーだもん。向こう幹部だし」
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しんみりと呟いて、祐輔は天井を仰いだ。
「あのぉ……坂井さん……もしかして麗美さんのこと……」
「一目惚れ」
臆面もなく祐輔は断言した。哲也はガックリと項垂れる。
「よした方が賢明に一票」
「何でだよ?」
「あの人は実は恐ろしーいお方なんです。会議中に携帯メールで私語するわ、人を捕まえて『射撃の的にしてやる』と宣うわ、それはそれはもう」
「……詳しいな」
あきれ顔の祐輔に、哲也は悪びれもなく答える。
「美夏からの情報です。的にする宣言くらったのは俺ですけど」
「かーっ……よくやったよなぁ、お前も。幹部候補生と『お付き合い』してるゼンソなんて、前代未聞だ」
先程の哲也より、さらに深くガックリと項垂れて、祐輔は言った。
「同期だったのが良かったんですね」
「俺の同期の女なんて、香西紗希だぞ……手ぇ出す気なんざ欠片も起こらん」
そう言いながら祐輔は、考えただけでも寒気がする、というふうに、両腕をさすった。
「何でですよ?」
「何でってさぁ……近寄るだけで殺されそうじゃん。香西って。思わん?」
そう言われて、哲也は少し考え込んだ。
「そうッスね。たしかにそんな雰囲気あります……」
あの血液を、紗希は一体何に使うつもりなのだろう?
そんな思考が、哲也の脳裏を過ぎった。
「何っつーか……ニッコリ微笑んで、ずぶりとメスを心臓に入れてくれそうな気配が、そりゃあもう濃厚に漂ってるっつーか……とにかく恐ろしいわけ」
「そう考えると、よく助手つとまりますよね、広崎さんも」
哲也は、エレベーターのボタンを押してくれた男の顔を思い出す。
「そういや、それで思い出したわ」
「何を?」
問い返すと、祐輔はいつになく真剣な顔になって、哲也の目を凝視した。
「香西が、上層部に内緒で違法解剖してるっての、知ってるか?」
「へ?」
開いた口がふさがらない。だが、紗希ならやりかねないと思った。
「薬の効果を知るために、許可をもらわずに、勝手に前線から死体運ばせて、解剖してるんだよ……支部連絡員の小林の情報だけど」
「ちょっと、何でそんなことしてるのに、警告も処分もないんですか?」
そんなことをしたら、かなり重い罰が下されるはずだ。
いや……紗希は、議長から特別扱いを受けている……許可なしで血液を提供してもらえるのなら、許可なしで死体の解剖をしても、許される身分なのかもしれない。
「知らね。永居さんが握りつぶしてるってもっぱらの噂だけど……」
永居、の言葉に、哲也の肩がびくんと震えた。
「ねぇ、坂井さん」
「あ?」
ガチンと硬い音がして、整備が終わる。形の奇妙さはまだましになった。
「何だよ?」
「標的を殺す時、どんな顔で殺します?」
哲也の問いを、祐輔はすぐには呑み込めなかったらしい。が、それが彼の中に浸透していくにつれて、まず驚きの表情から、あきれの表情になり、そして眉間に皺が寄った。
「別に……無表情に近いかな? 時々、手こずったりとかしたら睨むけど。何でそんなことを訊くんだ?」
「ちょっと……永居さんが、どんな顔で人を殺すのか、想像しちゃって……」
口ごもって、哲也は視線を落とした。
「はは。同じ事考えてやんの……あんな優しそーな顔して、あの人、一体何人殺したんだろうな。ゼンソはどんなに短くても三年だろ……軽く二桁いってるはずだもんな……」
それだけの血に自らの手を染めながら、あんなに穏やかに笑えるものなのだろうか。それを考えると、気持ち悪くて仕方がない。
「お前はどうなんだよ? どんな顔で、標的を殺してるんだ?」
いきなり話を振られ、今度は哲也が困惑した。
「そうですね……殆ど、相手を睨み続けてます……憎しみで自分を塗り潰している……みたいな……」
そこまでいって、ハッと気がついた。
「そうか……だから……」
だから、前田は自分を選んだのだ。
「何が『だから』なんだよ?」
意味を呑み込めずにいる祐輔に、哲也は教えた。
「組織の裏切り者の所在が判ったんです……処刑執行は、俺と永居さん」
「マジかよ? 『あの』前田さんが失敗したヤマだぜ!」
祐輔が大声を上げた。
無理もない。
新入りが、伝説になっている狙撃手が唯一失敗した任務を任されたのだ。
哲也は畳の上にごろりと転がった。
「今日の午後の幹部総会で、その本人から推薦されたんですよ……俺が江波に対して、個人的な理由とは言え、激しい憎悪を抱いているから、って」