第186章~第190章
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その日は何事もなく始まった。人生のどこにでも見つけられるような、そんなありふれた一日で、終わるはずだった。
澤村達紀は、いつも通り七時に目を覚まし、まだ人もまばらな食堂で、朝食を取った。七時半起きが多いから、好物を先に確保するためには、七時起きがちょうど良い。それより早いと、まだ出来ていないメニューがあるからだ。
最近ヴィタミン剤の消費量が増えてきたので、彼は千切りにしたキャベツをいつもより多めに盛りつけた。柔らかそうなレタスを選んで、その上に載せたが、ミニトマトは遠慮した。ピーマンは平気だが、トマトは嫌いだ。一度とんでもなく酸っぱいのに当たって以来、彼は可能な限りトマトを避けて生活している。レモンは最初から口にする気はない。あんなものを食べたら、舌の体積が半分になってしまいそうだ。
厚めのベーコンを三切れと、ふっくらしたスクランブルエッグをたっぷり。隅にある味噌汁の具に、麩がないことを確認して、後で飲もうと考えた。麩は好きではない。炊きたてのご飯をついだ茶碗を、おかずを取った皿を載せた盆に載せると、水を入れたコップでバランスを取った。
窓際の『指定席』に腰掛けると、いただきますと手を合わせて、まずベーコンを齧った。いつもながら、いい焼け具合だ。これはちょっとでも目を離すとすぐに焦げ付き、こまめに油分をふき取って焼かないと、油まみれでギトギトになってしまうクセモノである。
スクランブルエッグを半分平らげ、コップの水を飲み干したところで、彼は南野がやってくるのをみた。途端、さっき水を飲んだばかりであるにも関わらず、喉がヒリヒリするのを彼は感じた。立ち上がり、水差しを丸ごと一ついただいて席に戻ると、立て続けに二杯干す。それで一息ついて、また箸を動かし始めた。せっかくせしめたベーコンだが、どうも三枚目にはたどり着けないような気がする。お楽しみの味噌汁も諦めて部屋に戻った方が良さそうだ。おそらく気づかれてはいないと思うが、とんでもない相手の秘密を知ってしまった身としては、近づくだけで殺されそうな気がして仕方がない。
チラとかの男の動きを見やると、真面目な顔をして、味噌汁の量を調整しているところだった。思わず吹き出しかけたものの、慌てて思いとどまった。
目を逸らした先の入り口から、見慣れた人物が入ってきた。
前田だ。
相変わらず流麗な動きである。たかがおかずをよそうというだけの行為にも関わらず、いやに優雅である。そして、これでもかと言うほど隙がない。そこは「父親」の南野も同じだ。
南野の方は、とっくに席に着いて、箸を使い始めていた。
前田は真っ直ぐ、達紀の方に向かって歩いてきた。そしてそのまま、何も訊かずに、向かいの席に座った。
正視出来ず、達紀は目を外の風景にやった。青みを増していく山々。
ふと、前田の指が、妙な動きをしているのが、視界の端に見えた。
不思議に思って見ると、コップの結露の水滴を使って、字を書いていた。
<シッテイル コトヲ シッテイル ノハ >
そこまで書いたところで、前田は、達紀が視線を自分に向けたことに気づいて、口の動きで続きを伝えた。
<誰?>
達紀は眉間にしわを寄せた。
(知っていることを知っている人間……何を?)
<何を?>
<ハッキング>
達紀は少し考えた。おそらく、前田は、自分の個人情報を盗りに行った時のことを指しているのだろう。誰か知っている人間がいただろうか。
<麗美>
<他には? 彼女は今本部にはいないだろう?>
達紀は眉間のしわを深くした。
<コーヒー、飲みますか?>
脳裏に鮮やかに、一人の女の姿が浮かんだ。
<美夏>
前田は、そうか、と、小さな口の動きで言った。
<それがどうかしたんですか?>
<内通者だ>
え?
<気をつけろ。監視されてる。私ほど酷くはないが……>
何故だ?
美夏は、暗示を克服したはずではなかったのか?
自分で確かめて、大丈夫だと思ったのに。
何故だ?
<地下>
え?
<逃げるなら、北棟だ……放射線実験室……あそこなら>
そこまで言いかけて、前田は不器用にコップを倒した。流れ出した半分ほどの水は、先ほど書いた文字の跡を全て消し去った。布巾を取りに行こうとした達紀の前に、血の気のない白い手が伸ばされた。
「澤村さん、ここ、いいですか?」
美夏がニッコリと笑って、布巾を差し出した。激しく打ち鳴らされる心臓を無理やり抑えつけながら、達紀はそれを受け取った。
「ああ、でも僕はもう食べ終わるけどね」
素知らぬ顔をして水を注ぎ直す前田に向かって、美夏は、達紀の見たこともない笑みを含んだ顔で見つめていた。
<内通者だ。気をつけろ。監視されてる>
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「じゃあ、お先にね」
平静を装って、達紀は席を立った。今はいつもと変わらない笑みを浮かべた美夏が、ひらひらと小さく手を振った。
(美夏が、内通者?)
前田は何を言う気だったのだろう?
(内通者……気をつけろ、監視されている……地下……逃げるなら、北棟の放射線実験室……)
達紀は窓から、東西南の棟から少し離れたところにある、北棟を見た。
居住区である東棟と西棟が、南棟を通じて繋がっているのに対し、人工化学物質や放射線などの「取扱危険物」を扱う北棟は、完全に独立した棟になっている。屋根付きの通路さえない。本部の離れ小島と言える。
達紀はたしかに高校では物理を取っていたが、北棟で扱われるモノとは縁のない専攻を取った。そのため、組織に入って五年を経た今でも、北棟の内部を彼は殆どと言っていいほど知らない。北棟を根城にしているのは、三課を中心とする薬科の人間。それから、麗美だ。技術科であの棟に出入りする人間は、薬科の人間に比べれば少ない。ましてや一日の殆どをそこで過ごすような真似をする人間となると、麗美以外にはいない。
(どうやって北棟に入って、厳重に管理されている放射線実験室に入れと?)
もちろん、放射線実験室と言っても、まさに放射線をそのものが飛び交っている方の部屋ではない。その実験を管理する方の部屋だ。分厚い鉛製の扉と、放射線遮断の鉛ガラスで、実験室と隔てられている。北棟の中でも最も厳しく管理されている区域である。銃撃戦にでもなれば、扉の分厚いあそこは、確かにある意味では安全といえるかも知れない。だがそんな事態になるとは、ちょっと思えない。そして、扉が分厚いという以上に、そこに逃げ込むべき理由は見当たらないように思われる。
いったい何故、前田はあんなことを言ったのだろう?
それに、もう一つ気になることがある。
前田は言った。
「内通者……監視されている……地下……」と……
内通者が誰か(その誰かは自分であるらしいが)を監視するのは、頷けないことではない。
しかし、何故ここで唐突に、「地下」などという単語が入ってくるのだろうか?
地下、の後ろに、何か言葉が続くような様子はなかった。彼ははっきりそこで言葉を句切っていた。北棟の放射線実験室、などという長い言葉を口にする暇があったのなら、そして地下、の言葉に続きがあったのなら、まずその続きを口にする方が自然だと、達紀には思われた。
内通者と監視と地下。
この三つの単語が、いったいどこで繋がるのだろうか。
達紀は、まず本部の全ての棟の地下にある施設の情報を、頭の中に呼び出してみた。
(北棟は……判らん……何か実験室だったような気がする……)
では判らない北棟のことはおいて、知っている東西南の棟の地下の情報だ。
西棟の地下一階には、解剖室がある。そして遺体安置所、他、三課の実験室が並んでいる。地下二階には、昔使われていた「地下牢」があるはずだ。今はどうやら物置も同然になっているらしいが(そして置かれる「物」には、紗希が無許可で解剖した死体も、きっとあることだろう)。
次に、南棟の地下だ。一階部分にはシャワールームや浴場がある。二階には東西の棟と一部連結した状態で、射撃訓練場がある。三階は武器庫だ。
では最後に東棟だ。地下一階に生活必需品や、その他消耗品の倉庫がある。地下二階は……南棟B2と連結するための通路と……
(議長と一部の上級幹部以外立ち入り禁止の……開かずの間……)
開かずの間の中に入れる人間は……上級幹部会議長、同副議長、狙撃手統括上級幹部、諜報員統括上級幹部、医局総監……この五人だけだ。この五人の中に、南野と湯浅は入っている。そして、開かずの間の中にあるのは……
(洗脳装置の二号機!)
冷戦時代に某共産圏の国家が開発を手がけたものの、中途で投げ出した研究を、組織が一応完成させて作ったものだ。この一号機は山村の診療所の地下にあり、それを使って、紗希と美夏の人格の一部は作られた。
(南野は……二号機を私用して、美夏の人格を『元』の状態に変えたんだ!)
二号機は一号機の改良型だ。効果は一号機以上のものが期待出来る。そして言ってみれば、南野は美夏を、彼女が育った環境に連れ戻しただけなのだ。
となると、もう美夏は信用出来る相手ではない。いや、むしろ南野の手先、敵である。
そしてその彼女が、「自分が、前田浩一と南野圭司の、本当の関係を知っている」ことを知っているのだ!
美夏……いや、『シンシア』は、当然それを南野に報告しているはずだ。
(まずい!)
昔の彼女に戻っているなら、状況次第では、即刻殺されかねない。
(尾崎さんと金城さんに……)
早く伝えなければ。今の美夏は、保護するべき対象ではなく、戦うべき敵になってしまったのだと。
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階段を下り、南野にも湯浅にも美夏にも出会さないことを祈りながら、達紀はまず警備員室に飛び込んだ。飛び込んで、心強い狙撃手たちの姿を認めて、ようやく彼は少し落ち着きを取り戻した。
(裏、取ってない……)
地下の「開かずの間」は、コンピューター管理だ。いつ誰が中に入ったのか全てコンピューターに記録されている。自分の腕なら、盗み出すことも可能なはずだ。それをしてからでも、遅くはなかったかもしれない。しかし、ここに来た以上、もう話さずにはいられない。自分の立場上も、精神上も。
いきなり深刻な顔をして飛び込んできた達紀に、一番扉に近い位置にいた浅川が、非常事態にでもなったのか、と尋ねた。達紀はとっさに首を振った。
「金城さん……話があります……」
蒼白な達紀の表情を見て、金城は、銃に弾が装填されていることを確認してから、黙って立ち上がった。
「ここじゃあ何だ。医務室へ行こう」
外に出てから、彼はそう囁いた。医務室なら尾崎がいる。怪我人がいたら、医務室を出て、駐車場の側あたりにでも行くまでだ。
歩きながら、達紀は常に、背中をこわばらせていた。いつ撃たれるだろうかと考えると、冷や汗がじっとりにじみ出てくる。
(笑っちまうよ……まったく)
新米だとか先輩だとかいうことを考えず、純粋に地位だけで見るなら、金城も自分も、階級は同じ幹部だ。だが「前線」に出て、自分の手で人を殺し、血を背負って生きてきた金城と、自分は違う。自分はただ少しばかり頭が良いという、それだけの理由で早めに昇進させてもらった。ろくに銃も握れない自分が、いわば矢面に立っている彼らに指示を下す立場にいる。何ということ。
(俺はこの地位に相応の働きをしているだろうか?)
いや、自分という存在は、血を流して戦っている狙撃手のみんなに対して、失礼に当たるのではないのだろうか。
肩に温かなものを感じて、彼は首を動かした。金城のゴツゴツした手のひらが、肩の上に乗っていた。
「安心しろ」
それが何に対して言われたものなのか、達紀は判らなかった。しかし、その言葉は確かに、達紀の中の何かをほっとさせた。
達紀は扉を開いて、少し中を覗いた。尾崎は机の上に突っ伏していた。
「尾崎さん」
幸いにして怪我人はいないらしい。達紀は殆ど逃げ込むように、扉の中へと飛び込んだ。金城はいつもと変わらない、ゆったりした足取りで中に入る。
目を覚ました尾崎は、まだ少々重いと見える目蓋をこすりながら、二人の方を振り返った。
「おはよう……で、何?」
達紀はとっさに周囲を確認した。誰もいないように見える。
「美夏が、戻りました」
尾崎は驚きに目を見開いた。金城は奥歯をきつく噛んだようだった。
「装置の効果が切れて戻ったんじゃありません……」
「どういうこと?」
「装置に『かけられ』て、『戻され』たんです」
金城はそれで察しが付いたようだった。だが、尾崎は依然首を捻っている。
「東棟B2の開かずの間……あの中に何があるか……」
それで、ようやく尾崎にも、達紀の言わんとしていることがのみ込めた。
「試作二号機ね」
「そうです……あれを使える人間の中に、南野は入っています。迂闊でした」
「状況は、どうなっているの?」
「かなりまずいと思います。少なくとも僕に関しては……美夏はきっと、僕が何を探っていたかを探り当てているでしょう。そして探り当てているなら、南野に報告していないはずがないと思います。そうなれば、南野にとって僕は、目障り以外の何者でもない存在……」
金城が長いため息をついた。
「ほいで、わしらも危うい、か」
「ちょっと待って。それ、どうして判ったの?」
達紀はちょっとの間、済まなさそうに目を伏せた。
「前田さんが……」
途端、尾崎の目が険しくなった。
「だから疑うなって言ったでしょう!」
「恐かったんです!」
正直な言葉が口から飛び出した。
「恐かった……南野は……あの人は……目的のためなら手段を選ばない……」
「だから、自分の子どもさえ、単なる道具にしてしまう、と?」
達紀は静かに頷いた。
「奇妙な話ね。そんなことを言っておきながら、南野の娘のはずの麗美とは、よろしくやってるそうじゃないの」
その言葉で、達紀の顔は面白いほどに赤くなった。
「だって……麗美が僕を裏切るはずはない……僕は高校の時から、麗美と一緒にいたんです……」
「殆ど同じ言葉を、あなたに返すわ。私は浩一さんが十五の時から一緒にいたのよ。あなたの麗美との付き合いの倍以上の年月、私は彼を見ていたの。彼がどんな人間なのか、私は知ってる。少なくともあなたよりは」
目を伏せて萎縮している達紀を見て、金城はやんわりと切り出した。
「尾崎さん、もうえぇじゃろ」
「でも」
「人は、自分の知っとるもんしか、信じられんのじゃけ」
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礼拝の進行は、聖歌隊のオープニング賛美から、司会者(ここでは牧師)の挨拶、会衆賛美、「主の祈り」もしくは「使徒信条」の詠唱、牧師もしくはゲスト(今日は牧師本人)の説教、聖歌隊の礼拝賛美、祈祷、祝祷、黙祷の順が一般的である。牧師であるので、もちろんプロテスタントの場合だ。
(良い声じゃね……良ぉ響いとる……綺麗なソプラノ……)
ピアノを弾いていた百合は、他の会衆に負けないくらい元気な紗希の声を聞きながら、ちらりとそう思った。
(組織抜けてうちの聖歌隊来てくれたらうれしいんじゃけどな……って、その前に告解と洗礼かァ……いやいやそれ以前に、父さんが紗希さんを組織から抜けさしてくれんか……残念じゃけど)
大人の聖歌隊員は、教会の正会員、つまり洗礼を受けた人間で構成される。もちろん、子どもの聖歌隊になると話は別だ。高校生にならないと、受洗できないグループもある。山村たちのグループもそうである。と言っても、高校に入れるような年齢になったらという意味であるから、高校に行ったことのない前田も、受けようと思えば受けられる。受けるつもりなどないだろうが。
聖歌隊席に戻り、百合は紗希の方をじっと見た。ここの教会の場合、会衆は当然祭壇に向かって正面に座っているが、聖歌隊は祭壇に向かって左側に、会衆の方を向いて着席している。ピアノは祭壇横に据えられている。百合の席はそのすぐ傍。紗希は最前列に着席している。
大きな黒い目は、真っ直ぐに、一段上に立つ山村を見上げている。
「こうも毎週礼拝があると、説教のネタを集めるのも大変ですな。わしゃあ、人よりは、話の種に困っとらん自信がありますが、説教となると話ゃあ別だ。ついつい昔の自分をネタにしたくなる。勝手な解釈を加えようが、誰にも怒られんですけぇの」
会堂にいる数名が、何か遠い場所を見つめるような目で笑った。
「ほいじゃが、わしの後継になってくれるらしい百合は、まだまだ高校生ですけぇの……しばらくはわしがやらにゃあいけんのでしょうな……」
そう言ってから、山村は聖書を取り上げた。
「まぁ、余談は置いときましょう……今日の聖書の箇所は、新約聖書、コリントの信徒への手紙、一の、第十三章四節から八節の前半までです……
『愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない』
……何人か、この言葉が非常に突き刺さる方々がいらっしゃるでしょうな。そう言うわしもそうです。いや、おそらくこの中にいる人々の中で、わしが最もこの言葉に苦しんどる一人でしょう」
しん、と、会堂内が静まりかえる。
いや、元から静かであった。
深みに沈んだような、重い静けさが、会堂に充満した。
「取り返しのつかない事を、わしは、した……そして今も、し続けておる」
ピリピリと、痺れるような沈黙が、会堂に広がる。
しかしそれでも、何故か、痛いほどの沈黙、という形容はあてはまらない。
不思議な静けさだった。
「だがあえて、今日の言葉に、これを選んだ。過去は戻ってこないからこそ、『過ぎ去りしもの』なのです。じゃが未来は違う。未来とは『未だ来ぬもの』……まだ来ていないからこそ、希望を託すことが出来るのです。過去を悔いたところで、失われた命は帰ってきません。じゃが、まだある命を保とうとすることならできる」
山村は一呼吸置き、今度は真っ直ぐに、紗希の目を見つめ返した。
「わしが時々、誰か一人のためだけに、説教をしておること、長い皆さんにはお分かりでしょうな。そう。今日もそうです。今日も、わしはただ一人のために、話をしている。これは牧師としては反則かもしれません。しかし、全ての人は違う道を歩んできた。一人の人を動かせる言葉が、他の人もまた動かせるとは限らない。それほど力のある『言』を、わしは語れません。ましてや今日話しかける相手は、非常に特殊な生い立ちを背負っている。全員に語りかけることも出来ます。じゃが、それではその人のためにはならない。そしてまた、皆さんのためにもならない……その人と皆さんに通じる話をしようと思えば、どちらも中途半端にならざるを得んからです。その人には、ここにいる多くの人々より、おそらくまだ多くの未来が残されている……勝手な判断をしたことについては、頭を下げるよりありませんが、その子のためにと思って、今日はわしの言葉をきいてやって下さい」
後ろの方に座っていた、細身の初老の男性が、静かに頷いた。
高橋……元、一般狙撃手統括上級幹部……
それを認めて、山村は僅かに微笑んだ。
それから、またじっと紗希の目を見つめた。
「現在わしらが使っとる聖書は、新共同訳です。英語版の聖書には、ニューイングリッシュバイブルというものがあり、これはオックスフォード大学の学者が、十数年の歳月をかけ、原典を……つまり新約聖書の場合は、コイネと呼ばれるギリシア語で書かれていたわけですが……それから直接、英語に翻訳したものです。格調高い文なので、わしの拙い英語力では、ろくろく解読出来んのですが、今日の聖書の箇所のうち、七節を、ニューイングリッシュバイブルの原文で読んでみます」
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「七節を三つに分けて訳しておるのですが、その始めの部分を。ここは比較的平易な英語ですので、訳せる方は訳せるかと思います。
『There is nothing love cannot face.』
和訳すると……愛に向かい合えないことはない、愛には直面できないことはない……となりますか。続きは私訳を読み上げるにとどめますが、
『愛する信念、愛する希望、愛する忍耐は無限である。愛には決して、これで終わりということはない』
となります。そう、『愛は決して滅びない』のです」
山村が紗希を見つめる。
紗希が、食い入るように、山村の目を見つめる。
山村の言葉を、紗希が受け止めている。
「わしに欠けていたのは愛でした……愛……この場合は『アガペ』と呼ばれる自己犠牲的、非打算的な愛で、『エロス』の愛とは別のものですが……それがわしには欠けていた。無論あの状況で、なお愛を語れるほど、わしは聖人じゃなかったし、それ以前に神のことも何も知らなかった。現人神……天皇のこと以外には……まぁそれは、今は関係のないことです。
一九四五年の八月六日を、わしは疎開先で迎えました……焦土と化した故郷を見て、そして家族が誰一人生き残っていなかったことを知って、茫然自失の状態となって……一番最初に戻ってきた感情は、怒りと憎しみでした。
怒りと憎しみ……そして悲しみこそが、『ブラッディ・エンジェル』の活動を支え続けているものです。しかし本当は、全てこれらの感情は、なくなってしまった方がいいものなのです。しかし矛盾に満ちたこの世は、なかなかこの鎖を解いてはくれません。そしてそれ故に、あの組織も活動を続けています。そして彼らの感情が解るが故に、わしも彼らを庇っています。
『愛には直面できないことはない』
この言葉のとおりに、わしは行動していない。そうでありながら、人を指導する位に立っている。この矛盾に、わしはいつも苦しんでいます。しかし、こうも思ったのです。苦しめることは、ひょっとして恵みなのではないかと。
パウロは言っています。教えられなければ、罪というものの存在など知らなかった、と。しかし、罪というものを知っているからこそ、我々はそれに向かい合うことができるのです。その意味では、罪を知り、罪に向かい合い、罪を克服する機会に恵まれたということは、大きな恵みであると言えるでしょう。
犯した罪を、なかったことにすることは出来ません。何故なら過去は過ぎ去ってしまったものだからです。しかし、犯してしまうかも知れない罪を、避けることなら可能です。失ってしまいそうな大切な命を、失わずにすむかもしれない……自分が、もう一人の……あるいは本当の自分……罪に染まり、神に背を向けている自分に向かい合い、それを克服しようとするのなら、その命の灯を、保ったままにすることができるかもしれない……」
……貴史だ。
先生は、私と貴史のことを仰ってるんだ。
「『愛する信念、愛する希望、愛する忍耐は無限である』のです」
どうずればいいの?
どうすれば、そんな無限の信念を……希望を……忍耐を持てるの?
「無限の信念、希望、忍耐を、『持っているから』愛せるのではありません。『愛しているから』こそ、無限の信念、希望、忍耐を持つことができるのです」
愛しているから?
貴史は私に血をくれた……
ねぇ、貴史、あなたは、私を愛しているから、私に……?
「その例を、私たちは知っている」
何?
「主イエス・キリストは、人々を愛していたからこそ、無限の忍耐をもって、十字架にかかり、私たちの罪を償おうとしてくださった」
私の罪は許されているの?
ううん……そんなことない……
「しかし、主が贖ってくださったからと言って、私たちの犯した罪が消えたりなどはしない。しかし、自分の罪の十字架を背負っていく覚悟ができたなら」
自分の十字架を背負っていく覚悟ができたなら?
「主の後に従って行きなさい。そして、主のように愛し、主のように祈り、主のために働きなさい」
主のために……働く?
「重い重い十字架です。しかし、あなたが自分を愛するなら、耐えていくことができるでしょう」
自分を……愛する?
「そして、あなたが自分を愛し、人を愛するなら、全てに対して、向かい合うことができるようになるはずです」
(わしは、自分を愛している。じゃが、同時に激しく憎んでいる……)
こうして私は、聖書の試験を学年一位で通過したのだった。




