第176章~第180章
ちょうどアメリカが戦争にはまって抜けられなくなる頃に書いたのです。
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荷物……と言っても、ナップザックとウェストポーチが、それぞれ二つだけなのだが、それをきちんと確認してから、二人はてくてくと道を歩き始めた。
「ずいぶんにぎやかな人だったね」
沈黙を破るように、哲也は言った。
「いつもあんなんだよ。しっかし驚いた……まさか知ってたなんてなぁ」
あの村は、別に、そんなに隠蔽された存在ではないのかもしれない。
ふと、横沢がかなり若く見えたのが気になって、訊いてみた。
「あの人、貴史といくつ違い?」
「ん? 確か一つ下だったと思うけど」
「じゃあ、二十七か……結構若いんだ……」
「十九のお前サンに言われたかないだろうよ」
言われて初めて、哲也は自分の年を思い出す。へへへと笑ってごまかすと、貴史も小さく笑い返してきた。それがまた殺された兄を思い起こさせて、哲也は胸の奥に、ツキリと刺が刺さるのを感じた。
(兄貴が、善人だったら、良かったのに)
貴史みたいな、という修飾部をつける気にはならなかった。何故なら貴史は人殺しだから。人殺しは悪人だから。だから、貴史は悪人のはずだから。
もう何十人も人を殺しているはずなのに、どうして貴史は優しく笑っていられるんだろう?
「ねぇ……」
「ん?」
「顔見知りを殺ったこと、ある?」
唐突な問いに、貴史は少し眉をひそめた。
「ないよ……上がそうならないように手回ししてる。まぁ大阪や東京となるとまた話は変わるけどね。俺はここ出身だけど、何度もこの地域に来てる……人間が多いから、そうそう出会したりなんかしないだろう、って理屈だろうと思うけど」
「紗希さんは……サロメは、顔見知りどころか、大好きな人間を、あえて殺そうとしたわけでしょ?」
貴史の目線が厳しくなる。
「貴史は紗希さんにとっては、誰にも渡したくない宝物みたいな存在で、誰かにとられるくらいなら、いっそのこと自分で壊してしまおうと考えてる……」
哲也は貴史と目を合わせず、ただ歩きながら淡々と話し続ける。
「貴史はともかく、『アドヴァーセリ』までに『サロメ』が手にかけた人間はみんな、物体、に過ぎなかった。アドヴァーセリになって、初めて『人に渡したくない』という修飾部がくっついた。それは執着心」
「そして、サロメはアドヴァーセリを独占するために殺そうとして失敗し、結局『計画的半殺し』に遭うわけだ……」
「そう。そして今度の標的が、貴史」
逆接の接続詞を呑み込んで、哲也は貴史の目を見返した。目を逸らし、歩調を少し早めた貴史は、何故か微笑んでいた。
「でも紗希には、俺を殺そうとする意志と同時に、俺を殺すまいとする意志が働いてる……単なる執着心だけなら、あの君と前田さんが俺の部屋にやって来たあの日に、俺は死体になってベッドに転がってたさ」
「つまり、執着心以上の感情を、紗希さんは持ってる、と?」
貴史はちょっと照れくさそうに笑った。
「愛情かどうかは、断言するには根拠が足りない。でも、何らかの情であるのは間違いないだろう……」
「でも、俺の考えが当たっていたら、紗希さんは貴史を強く拘束するはずだ。それでも、紗希さんに『耐えられる』?」
ぴたりと、貴史は歩みを止めた。哲也も立ち止まり、怖々貴史の両眼を見つめた。説教前の教師のような厳しい視線が、哲也を突き刺している。
「俺が折れたら、紗希も折れる。そのくらい知ってる。解ってる」
哲也はキュッと心臓を、冷たい手が掴むのを感じた。
「罪人にだって、救いを求める権利くらいあると思わないか? 俺は紗希に尽くすことが、俺が今まで壊してきた命への償いだと思う。たとえ紗希が、普通の人間ではなくても……遺伝子をいじくられた生命でも……それでも、この世に生まれてきた以上、救われる権利はあるはずだ。この世界に生まれてきた生命で、救われてはいけないと定められてるものなんか、あってはいけないと俺は思う……俺はそう信じてる。そして紗希のために生きることが、残された時間になすべきことだと、そう確信してる……」
そうか、と、哲也は心の中で呟いた。
貴史はこれが終わったら、組織を抜けてあの村へ移る腹づもりなのだろう。
<普通の人間ではなくても……遺伝子をいじくられた生命でも……それでも、この世に生まれてきた以上、救われる権利はあるはずだ。この世界に生まれてきた生命で、救われてはいけないと定められてるものなんか、あってはいけない>
「ねぇ、じゃあ、あの人は?」
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<ねぇ、じゃあ、あの人は?>
哲也は全く子どものような目で、貴史を見上げて問うた。
「前田さんは? あの人にも、救われる権利はあるの?」
残酷な問いに、貴史はぐっと奥歯を噛んだ。
「あるよ」
「断言出来る?」
「断言するんだ!」
そう言って、貴史はひどく悲しそうな、辛そうな目で、哲也を見つめた。
「だってあの人は、望んであんな血を引いて生まれてきたんじゃない……自分の与り知らない問題のために、救われないと定められてるなんて、そんなの、絶対に間違ってる!」
<生まれてきたと言うことに関しては、私は無罪だ>
「もし血のせいであの人が救われないと言うのなら、南野が倍罰せられなきゃおかしいよ! あの人は無罪だ。悪いのは南野なんだ……なのに何故、あの人が罰されなきゃいけない? あの人は生きているだけなんだ。何も悪いことなんてしてなかった。それなのに、ただ血のために救われてはいけないなんて、それは間違ってる! もしそれが事実なら、あの人は母親の胎内で死んでしまった方が良かったかも知れない……存在すること自体が罪なら、存在するという以上の罪を重ねる前に、消えてしまった方が良かっただろうよ……」
<なぜ、わたしは母の胎にいるうちに
死んでしまわなかったのか。
せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。
なぜ、膝があってわたしを抱き
乳房があって乳を飲ませたのか。
それさえなければ、今は黙して伏し
憩いを得て眠りについていたであろうに。
(旧約聖書 ヨブ記 3章11~13節)>
「この世に生まれ出でるということは、救いを得る権利を掴むことだと、俺は思ってる……十字架にかけられた重罪人さえ、悔い改めて救われたというのなら、この世に生まれた全ての人間に、救われる権利はあるはずだ。それは生まれに関係なく、万人が持っている誰にも奪えない権利であるはずだ。
太陽の光は、善人にも悪人にも降り注ぐし、雨だってそうだ。神の救いとはそういうもので、ただそれを求めるかどうかが全てなんだと、俺は思う。日の光が嫌いなら日陰に逃げ込めばいい。たぶん、そんな感じなんだ。求めるならそれは与えられる」
<求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
(新約聖書 マタイによる福音書 7章7~8節
ルカによる福音書 11章9~13節)>
「聖書、読んだんだね……」
十字架にかけられた重罪人、は、新約聖書の登場人物だ。最後の最後、神に向かって悔い改め、彼は天に召される。
貴史はああ、と答えて、ぽつぽつと歩きながら呟いた。
「君が外に出てる間で、家事その他がない時は、ずっと読んでたよ」
「どんな感じがした?」
「悲しくなった。そして、絶望しそうになった……」
「何故?」
思いもかけない答えに、哲也は思わず貴史の顔を見た。貴史は寂しげに微笑んでいた。自分には見えない、遠くを見ている目。
「旧約聖書は、イスラエルの人間の救いの書だろ? 彼らが異邦人と呼んでいる俺たちに、救いは開かれてなかった。一部の人を除いて。でも、新約聖書になって、救いはみんなに開かれた。そして、死の直前にまで、救われるチャンスが広げられたんだ」
「貴史は救われたいの?」
「救いを求めて、何が悪い? もしあの世に天国と地獄があるなら、俺は間違いなく地獄に落とされる。それを恐いと思うのは、自然じゃないのか?」
貴史は右手を持ち上げて振り、哲也に示した。
「俺がこの手で、何人の人間を殺したか、分かるか? 二進法で数えたって、片手じゃ足りない数だ。その奪った命の中で、少なくとも一つ、償いをしなければならないと感じている命がある」
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「あの女の子?」
逡巡はしながらも、結局砕いてしまった幼い命。
「そうだ……せめて彼女の命に対して、何かしなけりゃいけない。俺はそう思ってる。そう思うのは、不自然じゃないだろう?」
哲也は黙って頷いた。
「この組織って、本当にめちゃくちゃ微妙なバランスの上に成り立ってる……そう思わないか? 組織の存在意義を否定するようなものを、積極的に存在させているんだから……でも、ひょっとすると、それは人間の縮図なのかも知れない……弱い人間の」
<だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
(新約聖書 ローマの信徒への手紙 第12章17~21節)>
「組織の矛盾は、人間の矛盾の現れそのものなんじゃないのか、と……そんな事を、君のいない間、ずっと考えてた」
「抜ける気なんだね」
そう言うと、貴史ははっきりと頷いた。
「これに蹴りがついたら、紗希を迎えに行く。紗希も組織から抜けさせる……あそこにいたら、どんどん闇に喰われていってしまう」
「議長が許可を下ろすと思う?」
「下ろさせてみせる」
無理なんじゃない? と言いかけた言葉を、哲也は飲み込んだ。それは貴史だってきっと、十分に解っているはずだ。それをあえてやろうとしている。その彼に、そんなことを言うのは、いけない。
「ほら、見えてきた……」
貴史の声に視線を上げると、中古車販売の店の看板が見えた。
「買うの?」
「借りるの。また、本部連絡員が返しに来る手筈だよ」
店の外に立つと、貴史はひらひらと手を振った。店番の青年がそれに気づいて、奥に引っ込む。ねぐらを手配してくれた日野老人と、だいたい同年輩の、しかし背は軽く十センチは高い男が、人の良さそうな笑みを浮かべて現れた。しかし、日野氏と一緒で、目つきは鋭い。
「久しぶりやなぁ」
どうやら彼も、貴史の知人らしい。まったくこの男は大阪に、いったい何人知り合いがいるのだろう。組織に長年所属している人間の強みだろうか。
「ホンマ。で、すんませんけど……」
それだけしか言わずに、貴史はあの人好きのする笑顔でお茶を濁した。
「はいはい……あーあ、返ってくるのはいつになるんか」
「ホンマ、すんませんね」
差し出された鍵を受け取り、貴史はまたそう言った。
「後で立ち寄って返しぃや」
「解ってます」
貴史はぺこりと頭を下げて、哲也を歩くよう促した。
「あの人は?」
「支部連の仲原さん。中古車販売の仕事をずっとやってる。もう何十年もね。完全に地域にとけ込んでるよ。誰も疑ったりなんかしないだろう」
最後の言葉に何故か、背筋がゾクッとした。
「ねぇ」
「何?」
「俺、時々、貴史がめちゃくちゃ恐くて仕方なくなる」
「そうだろうね」
ずいぶんあっさりと返されて、哲也はかえって緊張した。
「俺は、善人の仮面被った悪人なんだから。でも自分が正義だとうぬぼれて、人殺しをするような人間よりは、百倍マシだと思ってるよ。つまり、昔に比べれば、百倍マシになったってことだね」
「でも、悪に開き直ってもいないね」
哲也は微かに笑みを浮かべた。貴史はおどけた表情で、肩をすくめた。
「そんなことできるかっての。それじゃ地獄行き決定じゃないか。俺は死んでも地獄にだけは行きたくない……考えてもみろ。隣にヒトラーやムッソリーニがいるなんてさ」
たしかに、考えたくない。
「それにスターリンが加わったら、ワレサのセリフだね」
「たしか、元ポーランド大統領で、『連帯』の指導者だったっけ?」
貴史はそう言って、長く伸びた車庫の、シャッターの一つに鍵を差し込む。見渡せば、どれにもスプレーで、品のない字が書き殴られていた。横浜とは、雲泥の差もいいところだ。あっちの「落描き」は、芸術の域に達している。
「そう。『私は死んでも地獄には行きたくない。何故なら地獄には、ヒトラーやムッソリーニやスターリンがいるからだ』だったっけな……」
哲也の声を背中で聞きながら、貴史はシャッターを持ち上げた。白い手入れの行き届いた車が、視界に現れる。貴史は鍵を持ち替え、車のドアを開けた。サッと脇に避けると、ススーッと滑るように、車は車庫の外に出てきた。貴史はシャッターを下ろして鍵をかけると、再び運転席に乗り込み、後部シートのロックを外した。また白だ、と思いながら、哲也はそっちに乗り込む。
「ポーランドって東側だったよな。冷戦中は」
「ソ連離れがよく解るセリフだよね」
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「さて、連中追っかけて来るかねぇ?」
兵庫県に入ってから、貴史は一度、後方を振り返った。
「さぁね? 来ないに越したことはないと思うけど、南野が易々と諦めるかどうかは、めっちゃくちゃ疑わしいね」
「言えてる……」
貴史はクスクス笑った。
「ところで、本当に大丈夫だよね、この車。何の細工もされてないよね?」
「さっきから何回点検してると思ってるんだよ。心配性だな。ブレーキ完璧、盗聴器および爆弾の気配ゼロ、タイヤの調子も万全。心配無用だよ」
「そんなこと言われてもねぇ……」
諜報専門の支部連絡員ということは、湯浅の部下ということになる。余計な心配もしたくなるというもの。何せ、分捕り品とはいえ、さっきの車は爆発を起こしている。
「俺の腕を信用しろ……ってのは、今となってはあまり言いたくないセリフだけど、そんなに疑うなよ。仲原さんにも悪いぞ」
「解ってる……でも恐いんだよ」
最後の方はもうほとんど呟くような声で、哲也は言った。
「それを言わせてもらうなら、臨海工業地帯でのお前さんの方が、よーっぽど恐かったよ。マジで気が狂ったかと思った」
死体の転がる倉庫で、哄笑していた。
「いや。分裂してるんだよ、俺は……解離って言った方が当たってるかな……まぁとにかく、そんな状態なんだよ。俺の中に別の俺がいて、またさらに別の俺がいる。そんな感じ……あの倉庫の中で、昔死んだと思ってたのが生き返ってきてさ……ギリギリの状況だったってのに、頭の中は半分漫才みたいな状況になっちまった。そいつがあんまりにもボケまくるから……まぁそのおかげで多少衝撃が和らいだってのも、ないではないんだけどね」
自分の取ったとんでもない選択肢を思い出しながら、哲也は苦笑した。
「解離性同一性障害?」
「いや。多重人格じゃないよ。ちゃんと記憶全部繋がってるし」
「じゃ、統合失調症?」
「知らない。でも人って、多かれ少なかれ、こんな傾向あるんじゃない? 別に病気なんてもんじゃないと思うけど」
「そうだね……でも、何で笑ってたの?」
「んー……言葉で説明するにはあまりにも複雑だなぁ……いろんな考えが頭の中で一気に処理されて、その結果、気がついたら笑ってたんだよ」
「例えばどんな考え?」
そう尋ねられて、哲也は少し眉間にしわを寄せた。
「そうだね……例えば、俺はめちゃくちゃ弱い人間で、自分が助かりたいって理由だけで、虫の息の友人を見捨てて逃げた。そしてそんな人間だからこそ、連中は……『DD』の人間は、俺を欲しいと思うのだと、アンドラスに聞かされた。それから、『熾天使の時計』は、その弱さを克服するための……他人のような存在に責任転嫁するための道具だってこと……そんなことをつらつらと……あ、あと、美夏のことを考えた」
「前田さんの警告、君全然守ってないね」
貴史が、ため息をつきながらもニヤニヤしているのは、バックミラー越しに判る。
「……そうかもしれない……って、それは置いておいて、と……俺は時計を、闇に飲み込まれないために……つまり、美夏が自分に光を感じてくれるために回そうと、そう思ったんだよ」
「ふぅん」
あっさりと受け流されて、哲也は不満げに貴史の頭を見た。それに気づき、貴史はヘラッと笑った。
「そんな顔すんなよ……軽く考えてるわけじゃない……ただそれじゃあ、君はこれから先も組織でやっていくつもり、ってことだね?」
「だって、あそこ以外に、俺の居場所なんてないもん」
「時計草の村にも?」
「あそこは『神様のいる村』なんだろ? こんな悪人いちゃいけない……それに息苦しいと、自分で思う……解んないんだよ。なんか、途方もなく複雑でさ。俺は自分のやってることが、たぶん悪いだろうと解ってはいる。でもやめずにはいられない。それに、その中にしか居場所がないとさえ感じてる……時計草の村は……あそこは、俺が存在するには、きれいすぎる……」
しゃべるそばから、哲也の頭は混乱しているようだった。
「聖書の言を一つ、生かじりながら言わせてもらうよ。
『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである』
浄土真宗にも、似たような考えがあるだろ? 悪人正機って。自分は正しいと思っている人間には、神なんていらない。自分は悪いと知っている人間をこそ神は憐れんでくれる……愛してくれる……俺は悪人だから、神が必要なんだ。悪人だから神に反逆するのだ、じゃ、悪魔も同然だよ。それじゃあ南野と一緒じゃないか」
「そうかな? 俺の推論だけど、南野は神が嫌いなだけだよ。嫌いだから逆らってるんだ。逆らった結果悪になってる。それだけのことだと思う」
「何故?」
「だって、愛した女は実の姉だった。どんなに真剣でも、絶対に許されない。許さないのは誰か? 『神』だ。南野に言わせれば『酷い話』だろうよ。だから神が嫌いで、だから逆らうんだ」
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貴史はしばらく黙ったままだった。が、やがて唐突に口を開いた。
「前田さんは、善とか悪とか、どう考えているんだろうね」
南野は実の姉を愛した。その結果生まれてきた前田は、腹違いながら、実の兄である江波を愛した。そしてたぶん、今も愛し続けている。
「考えてないんじゃない?だって考えたら、自分が苦しいだけだもの……」
『本当なら、生まれることは許されなかった命』
『ただ一人愛した人間は、半分血の繋がった兄』
「俺は、それでも、あの人は考えると思う……あの人は、大人なのか子どもなのか、判らないところがある……同じ結論にたどり着くと解っていても、同じことをずっと悔い続ける。
俺の個人的な意見だけど、あの人には、善悪の二項じゃ足りない。ちょうどあの人の性別が、男と女の二つでは足りないのと同じようにね。そして、大人と子どもの二つでは足りない。何とも形容出来ない人だよ、あの人は」
貴史の声を聞いて、哲也はぽつりと、呟いた。
「存在する存在」
「え? 何?」
「存在する存在。ただ純粋な存在。それ以上の何かでもなく、それ以下の何かでもない。ただ純粋であるという存在」
「何のことだ?」
「前田さん。たぶん、あの人はこんな人」
移ろいゆく車外の景色を、焦点の定まらない目で眺めながら、呟く。
「あの人、純粋か?」
「とても。そして江波に報いられなかった分、紗希さんよりも、たぶん。ただ純粋であるという以外に、形容のしようがないから……あの人は、善悪を超越してるんだ」
「それじゃ、神じゃないか」
「神だよ」
哲也の言葉に、ぎょっとして、貴史は振り返った。
「前向いて下さい!」
本部を出た日と同じ調子で、哲也は叫んだ。貴史は慌てて前を向いた。
「何を言い出すかと思えば……」
「だって、まるで神話の中の神みたいだもの」
「キリスト教の神じゃなくて?」
「ユダヤ教やイスラム教でもないね。イスラム教とか、『生まず、生まれず』だし。でも、ゾロアスター教ならいけるかも」
「あれは二神教だっけ?」
光と善の神アフラ・マズダと、闇と悪の神アーリマン。世界はこの二人の神の戦いであり、最後に勝利するのは光であるアフラ・マズダ。
「信徒が崇拝するのは、光と善の神アフラ・マズダだけだけどね。ペルシア神話によれば、アフラ・マズダには七人の……まぁ、天使が仕えてる……その七人には順位……かな? なんかそんなのがあって、その第四位が、アールマティっていう、絶世の美女なんだ」
「……先が読めたような気がする」
貴史は皮肉っぽい笑みを口元に浮かべた。
「アールマティは、アフラ・マズダの娘だけど、父親であるアフラ・マズダとの間に、四人の子どもを生んでる。ギリシアやエジプトの神話になったら、話はもっと極端になる。というよりは、類例が増える。ギリシア神話の主神ゼウスの奥さんはヘラだけど、彼女はゼウスの姉でもあるんだよ」
「おい」
姉、という単語に、貴史がぴくりと反応を示した。
「思わない? 南野の生きてる世界って、まるで神話の世界みたいだって。全ての善悪は彼が決定するんだ。そこに他者の意志の介在する余地はない。それが南野の世界だ。彼はある意味で、自分を神とみなしているのかもしれない……それなら、『神』である彼と、その姉との間に生まれたあの人も、彼の価値観においては『神』と定義されるとは、考えられない?」
「考えたくもない」
南野は人間じゃないか。
貴史の目はそう言っていた。
「ギリシア・ローマ神話は、キリスト教に駆逐されなかった。それは神話が、人間という存在の根本から出てきたものだから、とは考えられない? たしかに文学的に価値があったというのもあると思う。あるいは、ゲルマン民族のローマコンプレックス……そんなものもあったのかもしれない。だけど、きっとそれだけじゃない」
哲也は一息ついてから、頭の中で少し言葉を整理した。
「南野は、キリスト教の感覚で動いている人間じゃない……『DD』の本国の中枢を担う人間たちに、キリスト教的思想の持ち主が多いから、結果として悪魔になっているだけ……たとえ本人に自覚がなかったとしても、そんな考えは心のどこかにあるはずだよ……人並み以上に教養があるらしい彼なら、ギリシア神話を知らないわけがない。そして『神なら姉を愛することも許される』ということが、彼の中に残っていないはずがない」
貴史は口を開かなかった。ただ、キリスト教の善悪二項対立で、全て説明がつくような気がしていた欧米の思想の、奇妙ないびつさ……危うい平衡を垣間見たような気がした。
神を失った近代。近代の先駆けとなったルネサンス……
<ヴィーナスの誕生……絵の中で全裸のヴィーナスが微笑んでいる>
一番最初に、神を見失ったのは、ヨーロッパではなかったのか。
<神の座を狙い、ルシフェルは天から堕ちた>




