第151章~第155章
メシの描写が案外多いことに気がつく。
151
江波の遺書の封筒には、また元通り封がされた。貴史は時計をチラリと見てから、哲也の方に視線を戻した。
「さて、と……これは議長に報告すべきことかな?」
「え?そうでしょう?」
何故そんなことを訊かれるのか解らない、というような顔で哲也は言った。
「君が決めるんだ」
「俺が?」
どこか間の抜けた声でおうむ返しに訊く。貴史は澄ましかえった顔だ。
「そ、お前が決めろ……俺はただの補佐役だろ?」
「体よく責任逃れをされているような気がするのは気のせいでしょうかね?」
「気のせいだ」
さらりと言ってから、貴史はもう一度時計を見て立ち上がった。
「んじゃ、俺は昼飯作るから。出来上がるまでには決めとけよ。江波のこともそれのことも、両方とも」
そのまま哲也に背を向けると、貴史は炊飯器の中を覗き込んでから、冷蔵庫の扉を開いた。まずベーコンを取り出し、次いで先日グラタンに使った残りのタマネギを取り出した。半分しか使わなかったので、ラップに包んで野菜室に入れておいたのだ。それから、ニンジンも一本取り出した。
手際よくニンジンの皮をむき、半分に切ってから、皮のむかれていない方をラップで包んで、また冷蔵庫に入れる。野菜はみじん切りに、ベーコンはだいたい正方形に切って、油をひいたフライパンの上で炒め始める。塩こしょうを振りかけ、味の素の瓶を振る。貴史のつかむ柄が、楕円を描くように動いたかと思うと、ニンジン一欠片こぼすことなく、具が全部宙を舞って、またフライパンの中に落ちてきた。
ぼうっと思考世界に浸っていた哲也は、その光景を見て一瞬現実に帰った。
(すっげー……中華の達人みてぇ)
本当の達人には失礼かもしれないが、率直に彼はそう思ったのだ。
貴史はいったん火を弱め、炊飯器からご飯をフライパンの中へ落としていった。塊になっているので、フライ返しで少し切るように細かく分けてから、また火を強める。シュッと醤油をひと回し半。それがまんべんなく染み込むように、またご飯と具が均一に混ざるように、フライ返しが折れるんじゃないかと心配してしまうほど、元気よく混ぜていく。ただし、ご飯一粒、野菜一欠片、ベーコン一枚たりとも、フライパンの外にこぼしてはいない。
(家事出来るよなぁ……)
決めておけといわれたことなど忘れて、哲也は貴史の手際に見入っていた。
「お皿! それから、コップとスプーン出して!」
いきなり声をかけられて、哲也は一瞬びっくりしたが、すぐに言われた通りにした。深めの大皿に、出来たての焼きめし(関東ではチャーハンと言うようだが、関西では焼きめしと言う)が盛りつけられる。醤油の香ばしい香りが、鼻孔をくすぐり、哲也はこっそりと、その匂いをいっぱいに吸い込んだ。
「うん。我ながらいい出来だ」
麦茶を二人のコップに注ぎながら、貴史は満足げに頷いている。
「では、いただきます……の前に、結論は?」
哲也はお預けを食らった犬のように、恨めしげに貴史の顔を見上げた。
「明日また江波ンとこへ顔を出すよ……注射器なり錠剤なり持ってね……」
「遺書の方は?」
「どうにかして、議長に直接渡すよ……上級幹部会を通したら、絶対に南野が握り潰すし……考えてみたら、俺や貴史の一番の上司なんだよね、あの男は。だから、報告を渡すとしたら、どうしてもあの男の手を通らなくちゃいけない……議長に直接渡す方法ってあるかなぁ?」
指先でスプーンを玩びながら、哲也は「もう食べてもいいでしょ?」という視線を送る。
「うーん……ないことは無いと思うけど……分かった、分ーかったよ! 食べていいって! そんな恨めしそうな目でじっと見るなってば!」
途端、哲也の顔はパァッと輝き、いっただっきまーす、と明るい声が響く。
貴史はため息混じりに、いただきます、と大人しく呟いた。
「んー、おいしい!」
「そっか」
幸せそうな顔で焼きめしを平らげていく哲也を見ながら、貴史は微笑んだ。
(あいつも生きてたら、こんな風になったのかな?)
ふと、死んだ弟の記憶が頭を過ぎった。自分の足で立つ前に、死んでしまった。殺されてしまった。
自分はいい。ただ父を憎めばそれでいいのだから。
だが哲也は、誰を憎んだらいいのだろう?
哲也の兄は殺された。でも、それはある意味当然の報いだったのだ。その兄のために消えた、元同級生がいたのだ。
兄を憎むべきだろうか?
だが果たして、哲也にそれが出来るだろうか?
江波を憎むべきだろうか?
だが、今の哲也に、それは出来ないのではないだろうか?
152
塩気の多いものを食べたせいか、お茶の減りがやたらに早い。昨日の作って冷やしていた分はなくなってしまって、今朝作ったばかりのまだ温いお茶を、薬缶から直接コップに注ぐ。一度席を立った哲也は、氷を四つ掴んで戻ってきた。カランカランと、涼やかな音が部屋に響く。
「ところで、どういう方法なの? その直接議長にアレを渡せるってのは」
冷えるのを待つようにコップを振りながら、哲也が尋ねた。
「ああ。帰りにな、また山村先生の所に寄ったらどうかな、と思ったんだ……先生は議長の舅にあたるわけだし、あの村なら娘の百合ちゃんもいるし」
「百合ちゃんは組織に関わって生きていく気はないみたいだけど?」
哲也はそう言いながら、底の方の温度変化を確かめるように、何度もコップの下方を叩く。
「でも、組織が、うーん……まぁ、まがい物なんだけどさ……正義も何もない集団に変えられていくのを、黙って見てるとは思わないけどな」
「そういうもんかな?」
「俺はそうなんじゃないかと思うんだけど……まぁ、先生の方は、今も組織にかなり積極的に関わってらっしゃるから、仲介をお願いするにはまさにうってつけだと思うよ」
そう言って貴史は、氷に触れて冷えた上唇を暖めるようにぺろりと舐めた。
「そうだね」
ようやく満足するまでに冷えたらしく、哲也はやっとお茶に口をつけた。
「あれ、何か入ってる? ……リンゴ?」
一口飲んで、哲也は首を傾げる。貴史は少し照れくさそうに笑った。
「いや、ハーブを入れてみたんだよ」
これは百合の影響だな、と思いながら、哲也はまた口をつけた。ふんわりと甘い香りが心地よい。
「何のハーブを入れたの?」
「カモミール」
「効果は?」
「リラックスできて、体が芯から温まる。発汗作用があるから、ひき始めの風邪に効果あり……だったかな? うろ覚えだけど」
少々唸りながら、貴史はハーブの効能を頭から捻り出した。
「へぇ……ちょっと砂糖欲しいかも……匂いは甘いけど……味は……」
「苦い?」
「いや、苦くはないけど。ストレートで飲む時も砂糖入れる方だから」
そう言えば、濃いめに作ったココアを三杯も平気で飲んでいたっけ、と貴史は昨日の晩のことを思い出した。
「ふぅん。でもこれアイスだしなぁ。次はホットで飲もっか」
「シロップとかないの?」
「残念ながら。やっぱホットで飲んだ方がいいよな、うん」
「でも、ありがと」
少し落ち込んでいるようにも見えたので、哲也はそう言った。
「いや。単に俺が試してみたかっただけだから」
ちょっとどぎまぎしながら答えると、貴史はぐいっと、コップに残ったカモミール・ティーを飲み干した。
「じゃ、その方針で行くか……午後はどうするんだ?」
哲也は口の中で転がしていた液体を、急いで飲み込んだ。
「家にいるよ……今日はバイト休みだし」
そう答えた哲也に、貴史は何やら意味ありげな視線を送った。
「騒がしーいのが来そうな予感がするのは、俺だけかな?」
「は?」
騒がしいの?何のことだ?
ちっとも理解出来ないでいるらしい哲也に、貴史はほら、と促した。
「高階千早だよ」
途端、哲也は、前回千早に会った後の頭痛が、また一気にぶり返してきたような気がした。
「来ないだろ……嫌いだって言っといたんだから……」
「いや。案外ああいうのに限ってしつこいかもよ」
「俺は美夏一筋なんだってば」
思い出したくもない、というように頭を抱える。考えてみれば、既に二度も千早に唇を奪われているのだ。美夏に知られたらどんなことになるか。
「知ってるさ。俺もちぃこもね」
「ちぃこ?」
「千早のことさ。ほら、最初会った時、福浦さん、千早のことちぃって呼んでただろ?」
「それで、勝手につけたのか」
貴史は何故かクスクス笑いだした。
「いや。向こうもそれでいいって言ったんだよ。君のバイト中ここ来た時に」
「ハァ!?」
最高に間抜けな声が、哲也の口から発された。
「んじゃ、あいつが俺のバイト先を知っていたのは……」
貴史はあっはっは、と、邪気のない笑いを飛ばした。
「ごめん。だってあんまりしつこかったから。つい口が滑って……」
「それでよくトクソ務まりますよね……」
冷ややかなセリフも、貴史の笑顔には溶かされてしまうものらしい。どうも皮肉の効果は発揮されていないようだ。
「だって、あんな子の相手なんて、したことなかったからさぁ」
哲也は嫌味なほど深々とため息をついた。無論意味なし。
153
「妙な事になっているようです」
湯浅が、デスクから振り返りながら告げた。その部屋を訪れていた南野は、どういうことか、と問いかけた。眉間に微かにしわが寄っている。
「『ドゥルジ』からの報告ですと、戸川と『カイム』が、連れ立って『彼』の家へ行ったそうです……帰りも駅まで送られていたとか」
「たしかに妙な話だ」
南野は考え込むような動作をしながら、左右の脚を組み替えた。椅子の余分がないので、腰掛けているのは湯浅のベッドだ。
「私のことを告発する気か……」
「あの戸川が聞く耳を持つでしょうか?」
「妙なところで、まだ『人間』だからな、あいつは……」
忌々しそうに目を細める。
「戸川がですか?」
「まぁ、両方だが……先だっての報告にあっただろう? 江波が末期の癌だと。余計な同情の念を、奴が抱かないとも限らんだろう」
「兄を殺した男に同情?」
湯浅は、嘲りの色を浮かべた目で、微かに笑った。
「奴の死の真相を知れば、しないとも限らないさ……もっとも、それを信じたならの話になるが……」
「で、信じたと?」
「私が知るわけがないだろう」
完全に感情のない声で、南野は答えた。湯浅は、ごもっとも、と言うように肩をすくめてみせた。
「他に何か報告はないのか?」
「そうですね……『彼』の家から帰ってくる時、戸川が何か封筒のようなものを持っていたと書いてありますが……」
瞬間、南野の表情が一気に険悪になった。
「何故それを先に言わん!」
湯浅はちょっと戸惑っているようだった。南野はきつく奥歯を噛んだ。
「中身の見当は?」
「残念ながら。永居は盗聴器に関しては、やたらと目が利きますから」
「どうにかして、こっちの手に入れないとな……公表されるとまずい内容である可能性が高い……我々にとって、だが」
南野の鋭い視線が、湯浅の双眼を捉えた。目を逸らせぬまま、湯浅は口を開いた。
「しかし妙ですね」
「何がだ?」
じっと湯浅の目を見つめながら、また感情の消えた声で尋ねる。
「こちらには人質がいるというのに」
南野は口元にだけ、うっすらと笑みを浮かべた。
「遅かれ早かれ、奴は死ぬ。そうなれば、あいつの生死など知らん。と、こういうことだろう……」
「自棄になっているということですか?」
「そうとも言える」
しばらく沈黙が、部屋を覆った。南野は、身じろぎ一つせずに考えている。
やがて、ゆっくりとした瞬きをして、彼は顔を上げた。
「大阪から出たら、追跡させろ。真っ直ぐ本部に帰ってくるなら良し、どこか『別の場所』に立ち寄るようなら、また別の手を使え」
「直接向こうで何かをする気はないので?」
湯浅は、意外そうな顔で返した。
「今のところはない。あまり表沙汰になるような真似は取りたくないからな。わざわざ騒ぎを起こして、警察の目を引きつける必要はなかろう。それだけの価値のあるものかどうかは、まだ確定されていない」
何の表情も浮かべず、何の感情もない声で、南野は答えた。
せっかく狙いを定めた獲物を、消してしまうような真似を取るのは愚かしいことだ。人生を賭けたゲームを、後少しの所で潰してしまうつもりはない。
冷静に対処しなければ。
湯浅は、ふと思いついて問うてみた。
「それまでに、偶然にでも中身が判明して、それがまずかった場合には?」
南野は何の躊躇もなく答えた。
「殺れ」
凍てつくような闇色の目が、湯浅を突き刺した。
154
沈黙が部屋を支配している。誰も口を開かない。まるで口を開くことを恐れているかのように。
尾崎は机に向かって、月例報告書類を作成している。達紀は気まずそうに、チラチラと前田の方を見やっている。それに気付いているのかいないのか、前田はじっと、傷跡の浮いた足を湯につけていた。その目はぼんやりと、空中を見続けている。
パシャ、と、足を自ら引き上げる音が、ようやく沈黙を揺るがした。
「僕が捨てますから」
立ち上がりかけた前田をとどめ、達紀は代わりに洗面器を持ち上げた。中の水を捨て、タオルの水気を切り、使用済みシールの貼られた籠に投げ込む。
そうやって立ち上がったのを機に、医務室から逃げ出そうと試みたのだが、前田の横を通りかかった時、手を捕まれて、動くに動けなくなった。
「何ですか?」
離して下さい、と目で言いながら、達紀は前田の手に自分の手をのせた。
前田は、小声で何かを呟いた。小さすぎて、達紀には聞き取れなかった。
「何ですか?」
前田の手に手をかけたまま、達紀は聞き返した。
前田は、ふいと顔を背けて、手を離した。その手を、今度は達紀が握った。
「何て仰ったんですか?」
前田は口をつぐんだままだ。背けられた彼の闇色の目は、悲しげに沈んで見えた。その様子は、迷子になった子どもに似ていた。
「何て仰ったんですか?」
もう一度尋ねる。前田はやっと、彼の顔を正面から見た。そして見てから、達紀は胸に、言いようのない痛みが走るのを感じた。何故こんな痛みを感じるのか、彼は理解出来なかった。ただ、前田の目を真っ直ぐに見つめるのが、何か苦しくて仕方がなかった。
「私は、無罪だ」
かすれた小さな……だが、今度はかろうじてながら聞き取れる声で、彼は呟いた。
達紀は、痛みが熱を伴って、胸を焼いていくのを感じた。
前田はまた、同じ声で呟いた。
「生まれてきたのは、私の責任じゃない……私には、選べなかったんだ」
途端、胸を締めつけるものが、もっと熱くなって、達紀は涙を堪えた。
知っているのだ。
前田は、知っているのだ。
自分が知ってしまったことを。
いつの間にか、尾崎がこちらを向いていた。無表情を取り繕ってはいたが、彼女の目も潤んでいた。
前田の目から、涙が一筋、音もなく頬を伝い下りていった。
「私に、生きる権利はないのか?」
それは、達紀に問いかけているのではなかった。尾崎に対して問うているのでもなかった。誰でもない、人間に問いかけているのだ。
堪えきれなくなったように、尾崎は顔を背け、また書類に目を落とした。
達紀は何も答えられなかった。
ただ、じっと静かに座っている前田を、見つめることさえ辛かった。
前田は、椅子の背にもたれかかり、その後ろの壁に頭を預けて、瞬き以外には殆ど動いていない。
精巧な蝋人形のようなその姿を見ていて、達紀はふと、組織に入ったばかりの年に見た、彼の昔の姿が重なったように思った。
壊れてしまった美しい人形。
<歌を忘れたカナリヤは……>
そう、いけないことだ。
人が存在していいかどうかを、人が決めるなんていけないことだ。
存在していてもいい、とか、存在してはいけない、とか、そんなことを言う権利を、人間は持ってなんかいない。
ここにいていいよ、とも、ここから消えろ、とも、言うことは出来ない。
何故ならその言葉は、自分を上位として発されるものだから。
本当は、自分がここにいていいのかどうかさえ、解ってなんかいないのに。
だから、自分にただ言えることは一つだけだ。
「生きててくれたことを、僕は、うれしいと思います」
前田の目が、じっと達紀に注がれた。
「何故?」
問い返されて、達紀は戸惑った。
「うれしいと思うことに、理由なんか必要ですか?」
前田は口をつぐんだ。じっと自分を見つめる目に、達紀は縋るような色を見つけた。自分の存在を肯定されることに、前田は慣れていないのだ。
二十年以上、そうやって、否定され続けて来たのか。江波と過ごした、ごく一部の時期を除いて。
「人間として、あなたが好きです。他の人たちを好きなのと同じように」
前田は、どこか寂しそうに微笑んだ。
155
突然、明日の日曜礼拝に出たいと、紗希が言いだした。百合は、肉じゃがをよそい分けていた手を止めて、祖父の方を振り返った。
「どうするん?」
「えぇじゃろう……紗希の好きにしんさい」
山村は、新聞を読んでいた手を止めて、そう答えた。
「やったぁ」
紗希は無邪気な子どものように歓声を上げた。
「ただし、私語厳禁だぞ」
効果があるかどうかは判らないが、とりあえず釘を差す。
「わかってまぁす」
紗希は明るい声で答えた。どうも効き目はないらしい。ため息をついて、山村はまた新聞に目を戻した。
「れ……麗美さん……手! 手!」
出汁巻き卵を切り分けていた麗美の手を見て、百合が悲鳴を上げた。
「え?」
何がそんなに恐ろしいのか解らない、という顔で、麗美が包丁を持ったまま振り返る。
「ゆ……指広げて切っちゃだめ! 手ェ切るから!」
「じゃあどうするの?」
切らないように気をつけてるのに、と目で言いながら、小首を傾げる。
「こう、猫の手みたいに丸くして、親指は引っ込めるんです」
そう言うと、百合は麗美に代わって切り始めた。不揃いだった卵の幅が、きれいに揃う。端から覗き込んでいた麗美は、おお、と感嘆の声を上げた。
「そうか。そう切るのね」
「今まで家事どうしてたんですか?」
皿に卵を移しながら、百合はあきれ混じりの目で麗美を見やる。
「え? 学校全部地元だったから、母さんがやってくれてたの」
「……さようですか」
顔良しスタイル良し頭良し、性格少々問題有り、生活能力大いに問題有り。
頭の中でそんなことを考えながら、食卓に運んで下さいと皿を渡し、再び肉じゃがをよそい始める。長い糸こんにゃくが曲者で、上手く器に入れるには、ちょっとコツがいる。
「私も一つくらい料理出来るようになりたいなぁ……」
食器を並べながら、麗美がぼそっと呟く。百合は聞こえないふりをして、塩アジの焼け具合を調べた。こんがりときつね色になっている。火を止めて別の皿に移す。味噌汁は、沸騰してきたので火を弱める。具はワカメと油揚げだ。
いつもどおりの食前の祈り。
ちらりと片目を開けて見ると、紗希が神妙な顔で手を組み合わせていた。
(今日も不思議な絵だったなぁ……)
百合は、また目を閉じると、瞼の裏に、今日紗希が描いた絵を思い描いた。
まるで水の中にいるような絵だった。下の方の黒が、どんどん鮮やかな青に変わっていく。その中に、赤い大きな点がいくつか散っていた。そして、白い小さな点は、まるで光の粒子のように、無数に散乱して……
気付けば、祖父は最後の「アーメン」を唱えていた。他の二人より少し遅れて「アーメン」と唱え、いただきますと再び手を合わせる。
「おじいちゃん、明日の曲目は?」
一口味噌汁を啜ってから確認する。時々気まぐれで変えてしまうのだ。
「オープニングの演奏は賛美歌312番。礼拝賛美は435番。最後の頌栄は514番。先週の予告通り」
肉じゃがの糸こんにゃくを引っ張りながら、山村は答える。
「『いつくしみ深き』と『聞けや愛のことばを』か……了解」
楽しそうに、肉じゃがのおかわりに立った紗希を見ながら、百合は言った。
「いっぺん、歌いたい曲のアンケートでも採ろうかゆぅて思うたんじゃが」
そう言って、山村はアジの白身を口に放り込む。
「うわやめて。みなクリスマスの曲にされてしまうわ……」
この村の人間は、何月であろうが、暇さえあればとにかくクリスマスの歌ばかり歌っている。
「確かに。今日も昼間っから『ドナ・ノービス・パーチェム』歌うとったな」
「ありゃぁまぁ、明確にクリスマス、ってわけじゃないけどね」
出汁巻きを小皿に確保しながら、百合は答えた。
「『ドナ・ノービス・パーチェム』って、どういう意味なの?」
同じく出汁巻きに箸をのばしていた紗希が尋ねた。
「ラテン語で『主よ、我らに平和を』って意味だったと……」
確保した出汁巻きを二つに切り分けながら答える。
「ふぅん……平和かぁ」
ちょっと、この村の人間には似合わないような気がした。でも、だからこそこの村には似合うような気もした。
しん、と、一瞬食卓が静まりかえる。
沈黙を打ち破るべく、百合は再び口を開いた。
「ところで麗美さん、本気で料理覚えてみますか?」
いきなり話題を振られて、麗美はジャガイモを喉につっかえさせた。慌ててお茶を飲み、奥に押し流す。
「大丈夫ですか?」
「いや……大丈夫だけど……何? 教えてくれるの?」
麗美の目が輝いている。百合は内心、しまったかな、と感じた。
「私に教えられるのなら、ですけど」
「じゃあ、せめてカレーライスは作れるようになりたい……かな」
「いや、あの……それは……出来ればもう少し刃物の扱いに慣れてからにしてもらいたいんですけど……」
あれではピーラーを握らせるのも恐ろしい。台所が血の海になりそうだ。
「え? じゃあ何?」
「まずはお菓子でどうです? クッキーとか。今日下ごしらえだけして、明日の朝に焼くつもりなんですけど」
「やるやる! お土産にしてもいいわよね?」
「どうぞ」
「んじゃ、決まり!」
もちろん、この間パンセは隔離されているに違いない。




