表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/45

第11章~第15章

          11


 上級幹部会議の、息が詰まるほど重々しい雰囲気の中で、前田は顔をしかめた。周りの人間のざわめきさえ、耳に入らない。

「全く、忌々しいことです」

 諜報員総括上級幹部の湯浅が、スクリーンの男の顔を見ながら言った。

「この三年間、我々の網をかいくぐり続けてきた道理です。やつは敵対組織に与していた……我々の内部情報を流した上に、優秀な狙撃手を何人も殺害し、今もやつらに匿われて、のうのうと生きている……この裏切り者を生かしておくべき理由などありません。議長!」

 組織のトップたる議長の山本は、机の上に載せていた手を二度組み替え、何か考え込んでいる風だった。髪には白いものが混じっているとはいえ、老いたという形容にはまだほど遠い、精力的な雰囲気を持っている。その、黒縁の四角い眼鏡の向こう。普段は和やかな目が、今は厳しいものになっていた。

「しかし、誰を選べというのだ。殆どの場合、人選は幹部会に一任してきた。だが、今回はそういうわけにはいかんだろう?」

 前田はぐっと拳を握りしめ、歯を食いしばった。もうすぐだ。

「三年前には、組織一の敏腕だった前田が返り討ちにあっている……今の所、彼を超える人材は、私の目には見つかっていない。どうやって仕留めると言うのだ? 前線狙撃手を捨て駒にする方法は、私は嫌いだ」

「しかしそれでは、組織としての顔が立ちません。手強いからと言って、裏切り者を放っておけば、後々にも響きます!」

 前線狙撃手総括の南野が言う。断固たる口調だ。

「だからといって、これから伸びる可能性のある芽を潰すのかね?」

「時には名を取る必要もあるでしょう」

 南野には、一歩も譲る気はないらしい。山本はため息を吐いて首を振った。

「だが、誰を行かせるのだ? 並みの腕では、あの男は殺せぬ。あの男を殺せるだけの腕の持ち主となると……」

「特別狙撃手の永居貴史を。彼ならやれると思います」

 金城が発言した。今回の会議の幹部代表の二人は、西村と金城である。

「だが、永居は顔が知られている。前田の二の舞になる可能性がある」

 前田はまた奥歯を噛んだ。

「しかし、現在特別狙撃手で最も腕の立つ者といえば、まず彼です」

「私は金城君の意見に賛同します」

 前線狙撃手総括補の河西が言った。場の空気に流れが生まれる。

 前田は首を振り、発言権のない自分の立場を呪った。

 後ろに控えていた達紀が、恐る恐る、といった感じで前田をつついてきた。

 不機嫌な顔で振り返ると、一枚のメモを渡された。

<西村さんに、幹部会の同意を求めるよう発言してくれと、頼んでみます>

 下を見ると、尾崎の署名がしてある。

 黙って肯き、メモを澤村に返した。

 見ると、尾崎はもうすでに西村と話をつけたらしい。西村が挙手しているのが目に入った。

「この件は非常に重大な問題ですから、上級幹部だけで方向を決定するのではなく、できれば幹部会にも計って、賛成を得てから決定して欲しいと考えるのですが、いかがでしょうか?」

「一理ありますね……私は賛成します」

 技術課総括補の上級幹部、岡野が発言した。上級幹部会の紅一点である。

「これより、幹部総会に切り換えるというのはいかがですか、議長?」

 河西が提案する。山本が右手を挙げた。採択だ。

 前田はほっと息を吐いた。これで自分にも発言権が与えられたわけだ。

「これより、幹部総会とする。よって発言権は幹部代表のみならず、全幹部に拡大される。今までの話に、意見のある者は?」

 前田は真っ直ぐに手を挙げた。

 会場の雰囲気が、一気にざわめくのが判った。彼は滅多に発言などしないからである。しかも、三年前に暗殺に失敗した当人でもある。

「前線狙撃手の、戸川哲也を推薦します」

 ざわめきが驚愕のどよめきに変わる。

「何故戸川を推薦するのかね? 彼は今年組織に入ったばかりだが」

 山本は、じっと前田の顔を見つめた。

「顔が知られていないと言う理由での推薦では、よもやないと思うが」

 南野の言葉に、前田は深く肯いた。

「そのとおりです。第一、彼の場合はそれは理由にならないでしょう……彼は江波知弘を知っています……ご存じの通り、三年前、私は江波の暗殺に失敗しました。しかしその時、彼の命を狙っていたのは私だけではなかった……戸川君もまた、あの男の命を狙っていたのです。正確には、彼の仲間たちが。無論失敗に終わりました。生き残ったのは彼一人です」

 前田の話に、一瞬静まりかえっていた会議場内が、また騒がしくなった。

 山本が、静かにするように手で示す。

 水を打ったように静まりかえった空気の中で、前田は話を再開した。

「彼はそのため、今でも江波を深く憎んでいます……もちろん、この組織の裏切り者が、自分の狙っていた男であることは知りません。しかし、もしそのことを告げてやったなら……」

 前田は、一度深く息を吸って、間を置いた。

「むしろ彼は、自ら、江波暗殺を実行したいと志願するでしょう」

 前田が着席した途端、場内に喧噪が戻る。

「彼が、冷静にこの任務を実行出来ると、君は保証出来るのか?」

 山本の問いに、前田は首を振った。

「保証は出来ません。しかし、信じています。彼ならばやり遂げると。そしてもし、それで死んだとしても……それでも彼は構わないと思います」

「解った」

 山本の目に穏やかさが戻る。

「前田の意見を入れて、前線狙撃手の戸川に任せる。ただし、補佐として特別狙撃手の永居をつかせる……どうかね、南野君?」

「異存はありません」

 能面のような表情で、南野は答えた。

「他には? 異存のある者は挙手を」

 誰も手を挙げなかった。

 決定だ。




          12


 議場から出ていく前田の後を、尾崎幸恵と金城憲司、そして澤村達紀が追いかける。右足を庇うようなその歩き方は、どんなに無視を決め込んでいても、あっと言う間に追いつかれる。

「浩一さん! どういうつもりなんですか? 戸川君を推薦するなんて!」

 尾崎の声には明らかに非難の色が混じっている。

「二人とも死なせてやった方がいい……」

 ぼそっと呟いた言葉に、尾崎が真っ青な顔で立ちすくんだ。

「あなた……あなたという人は!」

 人目もはばからずに大声を出すと、何人かの出席者たちが、不審そうな目で尾崎を見た。だが彼女には、そんなことを気にかけている余裕はなかった。

「せっかく生き延びたのに! それを殺すんですか?」

 尾崎の声を無視して、前田は歩き続ける。

「尾崎さん、医務室に戻った方がえぇ……もう一時間を過ぎとる……前田さんのことは、わしらで追いかけるけぇ」

 金城の言葉に、尾崎は暗い顔で肯いた。達紀は先に走り出している。

 尾崎はふらふらした足取りで、医務室に向かって歩き始めた。

 金城が、前田、達紀の後を追い始めた。

 前田の行きそうな場所は判っている。

 屋上だ。

 風雨にさらされたコンクリートの階段を上っていくと、前田が地べたに腰を下ろし、胡座をかいているのが目に入った。その隣に、達紀が立っている。

「考えがあるんじゃろ?」

「あぁ」

 前田はぶっきらぼうな声で答えた。

「『あの二人』絡みで」

「そうだ」

「何をする気なんですか?」

 達紀が問うと、前田は眉間に皺を寄せた。

「川崎美夏が倒れたのは、恐らく疲労が理由ではない……」

「じゃ、彼女の記憶が戻ってきているっておっしゃるんですか?」

「私の考えだと、な」

「戻ってきていい記憶だとは思わんが……」

 金城が首を振りながら言った。

「だが、過去のない人間は、自分の存在というものを、ひどく曖昧に感じてしまうものだ……そして、自分が存在していると言うことさえ、疑わしいものだと考える。自分が『在る』という確証が欲しくて、記憶を求める。今居る自分が幻ではないことを、確かめたいと思って……現に、幸恵は何度かそんな言葉を聞いている」

「記憶が戻ったら、彼女はどうなると思われますか?」

 達紀が重く沈んだ顔で問う。

「まず、正気ではいられまい……それは香西紗希にも言える」

「あいつはもう殆ど狂っとる」

 金城が苦虫をかみつぶしたような顔で言った。

「ああ。何か理由をつけて、あいつを本部から引っ張り出す必要があるな」

「薬を嗅がせて強引に連れて行く手もありますが?」

 達紀の提案に、前田が目を真ん丸にした。

「効かんな。多分……あいつは薬への耐性が強すぎる……並みの麻酔では」

「今回、永居が本部を離れるが……」

 唐突に、金城が口を挟んだ。

「あるいはひょっとすると、永居になら扱えるかもしれん、と思うんじゃが」

「無理だろう。あいつの過去を知っていて、そんな言葉が出るとは、思っても見なかったよ」

「ああ。じゃが、永居になら、と考える理由はある……」

「それ以上言うな……今は戸川の問題で、ただでさえ頭が混乱してるんだ」

 逃げるように、前田は目を閉じた。金城が鼻で笑った。

「自分で巻き起こしといて、なーにを言うか。川崎美夏には戸川哲也がいる。それと同じに、香西紗希には永居が……」

「くっつく前に、紗希は貴史を殺してしまいますよ」

 達紀が冷たく言った。

「たしかに、美夏ちゃんにとって、哲也君は重要な存在です。しかし、貴史が紗希にとって、そんな存在になれるとは思えません……そうなる前に、彼女の中のプログラムが、彼を殺してしまうでしょう」

「山村博士が散々に手こずったあれだな。やっぱり消えていなかったのか」

 前田の問いに、達紀ははっきりと肯いた。

「ええ。幹部会議の最中に、僕の携帯が鳴ったの、憶えてらっしゃいますね? 実はあの時、麗美からメールが入ったんですよ。あいつ、会議中のかなりの時間を、美夏ちゃんとそれでしゃべってるんですけど」

 前田ががっくりと項垂れた。金城が口元に楽しそうな笑みを浮かべる。

 達紀は気にせずに話を続けた。

「上級幹部会の議場への移動の間に読んだんですが、紗希と美夏ちゃんが筆談してたっていうんですよ。で、その会話の中で、紗希が、輸血用血液の保管庫へのパスを要求してた、って寄越してきたんです」

「……まずいな」

 前田は顔を上げ、眉をひそめた。金城の顔からも笑みが消える。

「このままだと、いずれ貴史を薬で眠らせて、メスで身体をズタズタにしかねませんよ。本当に」

「まったく……『暗黒師団(ダーク・ディヴィジョン)』の連中は……なんちゅう教育を施したんか。今頃江波も狂っとるじゃろうの」

 前田が手を振った。

「金城さん。その名前は出さん方がいい……向こうのも、江波のも」

「ああ、すまんかった」

 金城が軽く右手を挙げる。

「で、実際の所、戸川君を推薦した裏の理由って、何なんですか?」

 達紀の問いに、前田は「まだ忘れていなかったのか」とでも言いたげな表情を作った。

「幸恵に言ったとおりだよ……二人とも死なせてやろうと思ったからだ」

「本気で仰ってるんですか?」

 前田の視線も鋭いが、今の達紀の視線も、負けず劣らず鋭い。

「……二人とも死ぬか、そうでなければ二人とも生き延びるか……乱暴な話になるが、今は賭けるほかないと考えている……穏便に事を済ませられるなら、これに勝ることはない。だが、そうするにはあまりに酷すぎる過去だ。緩やかな解決など、ありえないほどにな」

 達紀はため息を吐きながら、前田の隣に、するすると腰を下ろした。

「僕ら、今まで何のために、二人を見守っていたんでしょうね……」

「ひょっとすると……」

 前田が空へ視線を向けながら、ぽつりと言った。

「あの二人は、死んでいた方が幸せだったのかもしれないな。戸川も……」

「そんなことはなかった、と、言えるようにしたいのは山々じゃが」

 金城の声も、いつになく沈んでいる。

 重い空気の漂う向こうでは、西空が茜色に染まり始めていた。

<夜が来る>




          13


「戸川」

 厳しい視線が、自分を捕えるのを、哲也は感じた。

「何ですか、前田さん」

「話がある」

「江波のことですか?」

「もう通達がいったのか?」

 前田は驚いて、相手の顔を見上げた。哲也は首を振った。

「正式にはまだです。医務室で尾崎さんから聞きました……あなたが俺を推薦してくれたそうですね」

「ああ」

「死なせるために……」

 そう言って、哲也はクスッと笑った。

「今、やっと思い出しましたよ。前田さんに会った時、妙な既視感に襲われたんですが……」

 前田はぐっと哲也を睨みつけた。お構いなしに言葉は続けられる。

「三年前。江波から逃げる俺を庇ってくれたのは、前田さんだったんですね。その右足の傷、俺を庇って受けたものでしょう? サングラスを掛けていたからちょっと顔は判らなかったけど……」

「いや……」

 そう言うと、哲也はちょっと意外そうな顔をした。

「現場から離れて時間が経っていたせいで、勘が鈍っていたからだ……誰を庇おうが、勘さえ鈍っていなけりゃ、撃たれたりするものか」

 そう言ってから、前田はついてこい、と手で示した。

「ここじゃ、込み入った話はできんからな」

 哲也は、背後に自分を突き刺す視線があるような感覚を覚えたが、それを無視して、前田の後について歩き始めた。やはり、右足を引きずっている。

 外へ出ると、赤紫色の西空が目に飛び込んできた。その中央に座る太陽は、異様なほどに大きく見える。

 前田は非常階段をゆっくりと登っていく。

「風が赤い……」

 ぽつりと、呟かれた言葉が、妙に耳に残った。

 上まで登り切ると、前田はコンクリートの囲いに背を預け、腰を下ろした。哲也もその隣に足を伸ばす。

 何の前振りもなく、話は始められた。

「美夏をどう思っている?」


 問いの意味が呑み込めずに、哲也は前田の横顔を見た。険しい顔だった。

 もう一度、全く同じ調子で尋ねられた。

 哲也は胸に引っ掛かっているものを無視した。一度深く息を吸う。

「前田さんは、ゴシップとは無縁の人だと思ってたのに」

「いいから答えろ」

 茶化そうとした哲也に、前田は厳しい声で、再度答えるよう促した。

 哲也の胸の中で、気味の悪い痛みが、どんどん強くなっていく。言いようのない寒気が、胸の底から湧き上がってくる。

「俺にとっては、ある意味で、俺より重要かもしれない存在」

 答えていくうちにも、気持ちの悪さは加速度的に強まっていく。

「愛しているのか?」

 前田からそんな言葉を聞くなんて、意外だった。この組織では、もはや殆ど伝説の狙撃手になっている彼が、愛などという単語を口にするなど、考えてもみなかった。ほぼ全ての任務を完璧にこなし、前線組からでは最年少で幹部に昇進した、冷徹な仕事人。それが哲也の、前田に対するイメージだった。

 彼の犯した唯一の失敗が、江波暗殺。

 そしてそれによって、彼は前線から完全に引退せざるをえなくなった。

 気持ち悪さが収まる代わりに、何か冷たいものが刺さったような気がした。

 何も答えない哲也に、前田はまた尋ねた。

「愛しているのか?」

「しています。でも、変な感じがします……美夏の感情は、どこか上滑り……っていうんですか? なんだか、そんな風に、奥の奥から出てきているものじゃないような感じがするんです……」

 何故こんなことを話しているんだろう?

 だが話していくうちに、あれほどしつこくこびりついていた気持ち悪さが、徐々に消えていくような感覚がした。

「はっきり言ってしまうと……美夏は本当は幻なんじゃないかと、そんなことを考えたりもします。でもそれをいうなら、俺だって、三年前の八月から、幻になっちゃってるも同然なんですけど」

 前田は何も答えない。その様子が続きを促しているように見えたので、哲也は言葉を探し始めた。

「美夏が会議中に倒れたって、麗美さんから連絡が入ったので、医務室に行きました。その時、美夏は、自分が記憶喪失だって話してきたんです……一年前に交通事故に遭って、昔のことは全部忘れてしまった、って……」

 そう話すと、あの時の背筋の凍るような感覚が甦ってきた。両腕をさすりながら、哲也は続きを話した。

「正直、恐かった。全身が氷漬けにされたような感じだった。俺は自分自身の存在は疑いません。疑っている自分がいるから。でも、美夏が俺の見ている幻ではないと、断言なんて出来ない……ずっと夢を見ているんじゃないかとさえ思っているんです。俺はまだ十六歳で、兄貴も本当は生きていて、俺はただ、変な夢を延々見続けているだけで、目が覚めたら、全て、何もかもが、三年前の、あの日の前まで戻っているんじゃないかと……本当はこの組織も俺の見ている夢の中の存在で、美夏も、前田さんも、麗美さんも、尾崎さんも、みんな俺の夢の中の幻なんじゃないか、って……」

 どんなに歯を食いしばっても、空を仰いでも、涙はこぼれ落ちてきた。

「夢なら覚めて欲しい。でも、覚めて欲しくない。兄貴は生き返るけど、美夏は消えてしまう。みんなは生き返るけど、前田さんたちが消えてしまう……俺には選べないんです。夢から覚める方法を知ってるのに。どちらも選べないから、ずっと流されてるんです」

 手の甲で涙を拭うと、胸の奥に澱んでいるものを吐き出すような、低い声でこう言った。

「死ぬのが、恐い」




          14


 前田はそっと、哲也の頬に触れた。驚いて顔を上げた彼の目に、昔の自分が見えたような気がした。

「夢から覚める方法ってのは、自殺か?」

 哲也は黙って肯いた。前田が少し、体の位置を動かした。

 乾いた音が、波紋のように広がっていった。

「何すんですかッ!」

 平手打ちされた頬を押さえながら、哲也が叫んだ。

「ほら。現実だろう?」

 動揺の欠片もない声でさらりと言われ、哲也は胸が気持ち悪くなった。

 真っ正面から自分を睨み据える前田の目は、冷厳すぎて、息が出来ないほどだ。どれだけ叫んでも、はね返してしまう冷たい目。

「お前を推したのは、失敗だったかもしれんな」

 胸の気持ち悪さが強くなっていく。さっきの気持ち悪さとは違う。冷たいのではない。熱い。銑鉄のような気持ちの悪さだ。胸の奥で対流している。

「死にたくない死にたくないと思って事に臨んだら、死ぬぞ」

「じゃあどうしろって言うんですか!」

「死ね」


 時間が止まったような気がした。

 言葉の音だけが頭の中に入ってきて、意味は皆目つかめていない状態。

 そんな状態が、かなり長く続いたように思われた。本当は一瞬のことだったのかもしれないが、少なくとも哲也にとっては、長い時間が経った。

 前田の表情はぴくりとも動いていない。

 瞬き一つしない厳しい目は、相変わらず自分を睨み据えている。

 ようやっと、言葉の意味が、哲也の中に染み込んできた。と同時に、表現のしようのない苛立ちが、枯れ草に放たれた火のように燃え上がった。

「何なんですかあなたは! いったい何が言いたいんです!」

 前田はやっと一回瞬きをしたが、それでも表情は動かなかった。

「前線に出ている間は、任務のこと以外は何もかも忘れろ。一番重要なのは、任務とお前自身のことだ。美夏のことは忘れろ。思考を全て任務に向けるんだ……表現としてではなく、本当に、死ぬ気でやれ」

「やってます!」

「じゃあ今のは、本部だからってこぼした泣き言か?」

 はいともいいえとも言えず、哲也は唇を噛んだ。

「そんなことは、思ってたって言うもんじゃない」

「それじゃ、苦しすぎて俺は壊れますよ!」

 吐き出すように、哲也は言った。

「一度、壊れてみるといい」

「真っ平御免です。前田さん、壊れたことあるんですか?」

「あるよ……そのお陰で、任務中は『人間ではなくなる』ことが出来るようになった。全てを忘れた……人を、標的を殺すということ以外は……」

 哲也は、身体の芯から悪寒に襲われるような心地がした。

 前田が『伝説』になった理由が解ったような気がした。

 自分自身をさえ捨ててしまったからだ。

「任務に就いた瞬間から、私は人間であることを止めた。人間の時計を止めたんだ。そして代わりに、別の時計を動かし始めた」

「天使の時計ですか?」

 ブラッディ・エンジェル。

 人の血に染まった羽をもつ天使。

 人間であるということを忘れたと言う前田には、確かに似つかわしい。

「ああ。熾天使(セラフィム)の時計だ……任務に就いている間、私は自分自身とは全く別の存在になった。そうすることで、自分を守り、同時に完全に任務をこなすこと

ができた……ただ一回を除いて」

 哲也は、前田がこれから何を言おうとしているのかが、薄々解ったような気がした。

 前田は、そんな哲也の思考を知ってか知らずか、一度天を仰いだ。

「江波は私にとって……そう、戦友だった。彼が組織を裏切った理由を、私は知らない。それがどれほど私に衝撃を与えるものであったとしても、私は彼に対して、人間以外の心で接することは出来なかっただろう。今だって、私は彼を憎みきれていない……この右足を潰された今でも」

 前田は天を仰いだまま、目を閉じた。

 きっと目蓋の裏には、組織を裏切る前の江波の姿があるのだろう。

「だが、上層部は死刑執行人に私を指名した。江波は組織の中でも、非常に腕の立つ方で、私以外に彼を殺せる人間は見当たらなかったからだ。だが、私は失敗した……人間の時計は止まらなかった。熾天使の時計が動かなかった」

 目を開けると、彼はまだ真っ直ぐに哲也の目を見た。

 言葉はまだ続く。

「私がお前を指名した理由は二つある。その一つがここにある。お前は狙撃手としては、まだまだ未熟だ。技量もまだ足りないし、何より人間のまま任務に臨んでいる。だが、お前が人間であることが、今回は良い方向に動くような気がした……組織の実働部隊に現役でいる人間で、お前以上に江波を憎んでいる者はいない。他の人間は、多かれ少なかれ、憎悪以外の感情も抱いている……純粋な憎しみだけで、あの男に対せるのはお前だけだった」

 太陽は、その半分近くがすでに地平線の下に入った。

 赤色の後退とともに、東からコバルトブルーの空気が忍び寄ってくる。

 まだ、話は終わらない。




          15


「どうして、『死ね』って言ったんですか?」

 哲也の問いに、前田は黙って目を閉じた。

「誰でも、自分の命を捨てる者は、それを得る……」

「ようするに、死ぬ気でやれって言いたいんですか?」

「私はそう解釈している。聖書の言葉だが、確かに当たっていると思う。もっとも、一部分だけ取り上げてどうこう言うのは、本来の読み方から離れた行為だと言われるだろうがな」

 前田の口元に、微かに笑みが浮かんだ。

 哲也はそれを、まるでとても珍しいものでも見るように凝視した。

 ふっと浮かんできたまた別の疑問を、問いかけてみる。

「何故、美夏のことを訊いたんですか?」

 前田は、かなりの時間、何も答えなかった。

 しびれを切らして、もう一回尋ねようとした頃になって、ようやくその口が開かれた。

「二つ目の理由だ……だが、これはしばらくは教えられない……許可が下りるまではな」

「許可?」

「議長のな……私ごときの直訴が、取り上げられるかどうかは疑問だが」

 体の位置をずらした前田が、一瞬顔をしかめた。右足首に左手を添える。

「何故、そこまで俺に構うんですか?」

 そう問うと、空いた右手で、軽く頭をはたかれた。

「自惚れるんじゃない……お前だけに構っているわけではないんだ」

 そう言うと、彼はゆっくりと立ち上がった。

 振り返り、あの厳しい目で、また言った。

「いいか。三年前のあの日のことだけ考えろ……たとえどんなことがあっても他のことは考えるんじゃない……これを守れなかった時が、お前の死ぬ時だ。補佐に永居が入るが、あてにするな。他人をあてにする奴は死ぬ」

「わかってますよ」

 そう答えた哲也を、前田は胡散臭そうな目で見た。

「まぁ、いずれ身に沁みて解るだろう」

 階段を降り始めた前田に、哲也はもう一度声をかけた。

「二人とも死なせる、ってどういう意味ですか?」

 前田は立ち止まり、振り返ったが、何も答えずにまた歩き始めた。

「ねぇ、どういう意味なんですか?」

 追いかけて、もう一度問うた。

「今は話せん」

 ぶっきらぼうな言葉を後に残して、前田は影の中に消えていってしまった。

 哲也は意味が解らず、そのまま突っ立っていたが、やがて首を振って、医務室に向かって歩き始めた。

 美夏はまだ、あそこにいるのだろうか。

(二人とも死なせる……)

 医務室で尾崎から聞いたのだが、前田の様子からすると、どうやらうっかり口を滑らせてしまったと見る方が当たっていそうだ。あの時の尾崎は、かなり冷静さを欠いていた。そのせいで、話してはいけないことの断片を、ついつい口にしてしまったのだろう。

(でも、どういう意味なんだろう……二人って……俺と美夏か?)

 視界の隅を、白い影が走り抜けた。振り返って見ると、紗希だった。銀色の救急箱のようなものを抱えている。

 無意識のうちに、紗希さん、と声をかけてしまったものらしい。

 真っ黒い大きな目が、哲也を睨み上げていた。

「何か用?」

 表情だけでも十分すぎるほどなのに、声まで刺々しい。三十センチは下にあるはずの目に気圧されて、哲也は首を振った。

 紗希はそれを見ると、また踵を返して、廊下を走り始めた。

「なーんかどっかで見た記憶があるんだけどな……あの救急箱……」

 そう呟きながら、また医務室に向かって歩き始めた。突き当たりの角を右に曲がると、クリーム色に塗られた木の扉が目に入る。白いプラスチックプレートに『医務室』の文字がはっきりと書かれている。

「失礼しまーす」

 会釈をしながら中に入ると、尾崎と麗美が話をしていた。間近で見れば見るほど、完璧な容姿の麗美は、それなりに整った顔の女ばかりのこの本部でも、ずば抜けて目立つ。恋人であるという贔屓目で見ても、やはり美夏では麗美の足元に及ぶかどうか、である。

(これで独り者謳歌してるんだから、どんだけ性格ひねくれてんだか)

 ひねくれていると言うよりは、かっ飛んでいると言った方が正解であろう。

 十八番の決めゼリフが「今度射撃の的にしてやる」で、レーザーの研究を専門にしているから、言われた方はいつ光線が飛んでくるかビクビクものだが、本人は言うだけで撃つ気はないらしい。

 「本当に撃つと、あとあと面倒くさいから」撃たないのだと、麗美の悪友の達紀が言っていたと、美夏が教えてくれたことがある。

(それでも、あの人に言われると、どうしても嘘に思えないんだよな)

 この組織で七不思議をつくるなら、是非入れておきたい項目だ。

 話の区切りがついたのか、ようやっと尾崎が哲也の方を向いた。

「美夏ちゃん、今ちょっと寝ててね……」

「あ、構いませんよ」

 そう言って、ベッドの左側に引きずっておいた椅子に腰掛ける。

 じゃあ、という尾崎の声で、またとりとめもないおしゃべりが始まった。

 ベッドの周りに引っ張られているカーテンを少し開くと、白い美夏の寝顔が見えた。同じ白いという形容詞でも、麗美とは違う、病的な白さだ。茶味がかった長い髪が、あちらこちらに広がっている。白いシーツ、白い布団、白い枕そして美夏の肌。何もかもが白い中で、広がった髪の毛の焦茶だけが、奇妙に生々しかった。気持ち悪いほどに。

 そっと額に手を触れる。微かに温かさが伝わってくる。

 起きる気配はない。

 何か嫌な予感がして、哲也はそっと布団をめくった。その左胸に、恐る恐る手を載せる。心臓の動く感触が、ふくらみの下から小さく伝わってきた。

 ほっと息を吐き、布団を元に戻そうとした。

 そこで、妙なものが見えた。





この頃はまだぶっきらぼう男前(?)系だった前田さん。よもや、そんなキャラであんなキャラになるとは、書き手も予想もしていなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ