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第141章~第145章

猟奇的な人々の愛情表現

         141


 南野圭司と、『暗黒師団』メンバーのスカーレットとかいう女との間に生まれた子どもが江波だって?

 じゃあ南野は、自分の息子を殺せと命令しているのか?

 江波が組織を裏切ったからだろうか?

 いや、違う。

 裏切るも何も、カイムの話を信じるなら、南野はスカーレットが『DD』の人間であることを先刻承知だった。

 そうだ。

 本当の裏切り者は、江波じゃない。南野だ。


「本当に?」

 確認されたのが忌々しいらしく、カイムは、哲也にも聞こえるほど大きな音を立てて舌打ちした。

「嘘など言わん。どうせ、私の命ももう終わるんだ。人間は、死に際には本当のことを言うもんだ」

「あんたは健康体だろう?」

 千早は言っていた。カイムは健康体だと……ただし江波は末期のガンだと。

「あの方が亡くなられた後に、生きていても仕方がない」

 そう言った後に、笑うように歪めた口元や、涙を堪えているような目が、本当に悲しそうで、哲也は心の中に、彼に対する同情が生まれてきているのを感じた。

「江波は、本当にガンなのか?」

 千早を信じないわけではないが、どうしても確かめておきたかった。

「ああ……もう、半年も保たないだろう……延命治療をしたところで、な」

 言外に含まれた意味を、哲也は悟った。

 江波は、命を延ばす気など無いのだ。

「殺す意味なんて無いってこと?」

「お前さんへの話が終われば、あの方はすぐにでも命を絶ってしまわれるだろう……唯一心残りがあるとすれば、弟君のことぐらいだろうが……そのことに関しては諦めていらっしゃる」

「弟?」

 江波に兄弟がいたなんて、初耳だ。家族は全員死んだと書いてあったはずだが……しかし、父親の南野が生きているのだ。渡された情報が改竄されているのは、もはや明白だ。

 カイムは煙草に手を伸ばしたが、あきらめたようだった。

「異母弟だがね……まぁ、弟というか、妹というか、微妙なんだが……」

 途端、哲也は嫌な予感がした。男とも女とも言い切れない、両性具有の人間で、江波に近しかった人間は、一人しか知らない。

「まさか、前田浩一?」

「知っていたのか」

「兄弟だとは知らなかったよ……」

 それが事実なら、前田は自分の兄を愛したことになる。

 表情をこわばらせている哲也の横で、カイムは先ほど落としたまま、まだ燻っている煙草の残骸を見つめていた。

「そうか」

 そう答えながら、彼は何かを決意したように、煙草を踏みつけて潰した。

「それで、どうするんだ?」

 カイムはじっと、哲也の目を見つめた。戸惑ったように首を傾げると、彼は少し苛立ちの滲んだ口調で言い直した。

「話を聞くのか、聞かないのか?」

 聞かないと答えることは許さない、と、その目は言っていた。

「聞くよ」

 本部で感じた憎しみが、妙に薄れてきているのを、哲也は感じていた。それはひょっとすると、実の父親に命を狙われているという江波の立場と、彼に尽くしているカイムの姿に、奇妙な同情を感じたからかもしれなかった。

「明日朝七時、京橋の改札前に立っている……話を聞く気がまだあったなら、来てくれ……一時間までは待つ」

「来なかったら?」

「本部に遺言状を送りつけると仰っていた」

 それが、今の彼に出来る精一杯の抵抗なのだろう。

「解った……明日朝七時、京橋駅の改札前、だね?」

「そうだ」


 別れ際に、少し振り返って、カイムの姿を観察してみた。福浦から千早経由で渡された情報では、彼はまだ五十代のはずだったが、後ろ姿は、もう六十を越して、七十にさえ見えた。

 ふと、哲也は、カイムが江波のことを、コードネームのアドヴァーセリではなく、本名で呼んでいたことに気がついた。

(本名……って言っても変な感じだな……父親が南野圭司で、母親がスカーレットとかいう女で……どこから江波知弘なんて名前が出てきたんだろう?)

 とにかく、今日やるべきことは終わった。

 哲也は踵を返し、貴史のいるねぐらに戻ろうと考え、歩き始めた。

 今日やるべきことは終わった。後一つ残っているとしたら、さっさと寝て、明日の朝早起きをすることだ。




          142


 七時の三分前に、哲也は京橋の改札前に来た。カイムは先に来ていた。行き交う人々の中で、その灰色の頭は少し目立っていた。

「おはよう」

 ぶっきらぼうに言い捨てて、相手は先に立って歩き始めた。

「電車は使わないの?」

「これからラッシュに入るだろう? 車がある」

「車の中で、俺があんたを殺るとか考えないの? 若しくは、その逆とかさ」

「悪魔だって契約を守るんだ。それなら、天使はなおさらだろう?」

 漢文の比況の文法そのままの物言いがおかしくて、哲也は少し微笑んだ。

 いつか自分と貴史の車をつけていた、あの黒い車が止まっていた。まさかと思って、運転手を見る。ジンだった。

 後部座席に二人並んで座る。今度も、哲也はカイムの左側になるように仕組んだ。哲也の警戒を、カイムは何とも思っていないらしかった。

 運転しているジンが、六甲おろしのハミングをしていた。昨日のタイガースが、劇的なサヨナラ勝ちをしたからだろう。

「本当に阪神好きだったんですね」

 哲也が言うと、ジンは少し驚いたようだった。

「憶えとったんか? わしのこと」

「ええ。ついでに言うなら、あなたが梅田の駅で、応援グッズが入っていると思しきリュックサックを背負っているのも見かけましたよ」

「ふむ……よう目が利く……」

「あのおばさんも、あなたがたの仲間なんですか? あの喫茶店の……」

 福浦と赤井がくれた資料には載っていなかったが。

「別れた女房や。組織とは何の関係もない」

 それきり、ジンは口をつぐんでしまった。重苦しい沈黙が、ずっと車の中を支配している。しかし、別に誰も打ち破ろうとはしなかった。哲也はずっと、移り変わっていく車外の景色を眺めていた。薄暗く寂れた小さな家々。錆び付いたシャッターの下りたビル。異様に浮き上がって見える、新しい洒落たデザインの建物。ようやく動き始めた町の姿。通勤途中の人々の顔。


 車は住宅街に入り、何の変哲もない一戸建ての前で停止した。

 さりげなく表札を探してみる。インターホンの横に、流麗な筆記体調の横文字が見えた。それを解読して、哲也は一瞬ぎょっとした。

 『Carpenterカーペンター

(今使っている偽名と同じ姓だ……)

 別にベルを押すでもなく、カイムは平然と家の鍵を開けた。促されるまま、哲也は中に入った。自然と警戒心が強くなって、彼は上着の内ポケットに入れたペン型銃に触れたいという衝動を抑えなければならなかった。

 カイムは二階の一室の前で止まった。三度ノックをしてから、返事を待たずに中に入った。いいのだろうかと、妙な遠慮を感じながら、哲也もその中に足を踏み入れ……そして、息が止まるかと思った。


 三年前のあの日、友人たちを皆殺しにした憎むべき敵は、変わり果てた姿になって、寝台に横たわっていた。変わらないのは、血の滲んだようなその目だけだった。抗ガン剤の副作用で髪はすっかり抜け落ち、痩せ衰えて、死期が近いのは素人目にも明らかだった。三年で、人はこれほどまでに変わってしまうものなのか、と考えながら、哲也は、カイムの手を借りて上半身を起こそうとする江波を、ぼうっと見つめていた。

 憎しみよりも、驚きの方が強かった。驚きと、奇妙な恐怖……死に対する。

 起き上がった江波は、背に挟んだクッションにもたれながら、話し始めた。

「ここ二、三日で、急に弱ってきてね……もう少ししっかりした状態で話をしたかったんだが……まぁ、来てくれて良かった」

 少しかすれてはいたが、明瞭な声だった。江波の脇の椅子に腰を下ろしたカイムが、哲也の傍に置かれた椅子を目で示した。座れということだろう。彼は大人しく、それに従った。

「兄のことで、話があるそうですね」

 感情の消えた声で、哲也は答えた。どんな感情を滲ませればいいのか、彼には解らなかった。憎いけれども、同情もしている。でも、妙な憐れみを見せるのは、彼に対しての侮辱に思えた。そんなことなど考える必要さえないと、心の隅で主張する声があったが、哲也は無視した。

 江波も、何の表情も浮かべなかった。

「ああ……私が三年前に、命令で殺した男……君の兄……」

 哲也は一瞬唇を噛んだ。兄の死に様が脳裏に蘇る。だが、次の言葉を聞いて思わず口を開いた。

「『ディバック』について……だが……」


 『ディバック』?

 前に……福浦さんから一度聞いたような気がする……赤井さんの店で……

 まさか。

 そんなバカなことが、あるはずがない。

 兄貴が、『暗黒師団』のメンバーだったって?


「私が『ディバック』……戸川健一郎を殺したのは、君を『暗黒師団』に入れることを拒んだからだ」

 哲也は何も答えることが出来なかった。答える言葉が見つからなかった。

 江波は、哲也が何も言わないのを確認してから、言葉を継いだ。

「彼は『暗黒師団』の諜報員だった……訓練するに値する人材を捜し出すように指示されていた……」

 嘘だ、と、哲也は心の中で叫んだ。声にはならなかった。昨日の夜のカイムの言葉が、楔のように哲也の心に打ち込まれていた。

<人間は、死に際には本当のことを言うもんだ>

 江波はまた、哲也がなにも答えないのを確認して、再び口を開いた。

「我々は、『ディバック』の諜報員としての価値は認めていたが、それ以上に興味深かったのは、弟である君の方だった……我々は、『ディバック』に、君を組織に入れるように指示をした。が、彼ははねつけた……

 私は言ってやった……人の子どもは売れるくせに、自分の弟は売れないのかと……君の近所で一人、行方不明になった子がいただろう……君の兄が組織に売ったんだよ……」




          143


 哲也は昔の記憶を手繰り返してみた。

 兄はいったい何をして稼いでいたのか……自分は何も知らない。ただ、働きに出ていたという以外には何も。

 兄が「働きに出て」から、近所で行方不明になった子はいただろうか?

 名前は思い出せない……でも、たしかにいた。女の子だった気がする。

 兄は盛り場へは顔を出すなと言っていた。それも、自分の裏の顔を知られないためだったのか?

 兄がみんなに優しかったのも、売るための人間を捜していたから?

 そんな……そんな……その兄のために、みんなはこの男に殺されたのか?


「真実ですか?」

 喉の奥から絞り出すような声で、哲也はかろうじてそれだけを問うた。

「事実だ」

 静かに、江波は答えた。それから、彼は話を続けた。

「そうやって詰ったが、彼は動かなかった。君だけは売ろうとしなかった……そのことを上に報告したら、消せと言う命令が下りた……私はそれに従った。報復のために、君たちが来るとは思ってもみなかったがね……あんな男のために、命をかけるとは、思っていなかった……」

 しばらく沈黙が下りる。哲也は、堪えきれなくなった涙を落とした。

「何も知らなかったんだ……」

 尊敬していたのに。

 信じていたのに。

 大好きだったのに。

「そう……君たちは何も知らなかった……そして知らない……私の父……」

 江波の言葉を、哲也は引き継いだ。

「南野圭司?」

「カイムから聞いたか……そう……あの男は『ブラッディ・エンジェル』……『パッシフローラ』を、完全に乗っ取るつもりだ……そしてその所属する『Rネット』……あの某国にネットワークを持つ『JFW』や、欧州の『QPQ』といった、弱者のための報復組織の連合を……浸食していく気だ……それも、そうとは知られないうちに……無論、全てを掌握出来るとは考えていないだろう……だが少なくとも『パッシフローラ』だけは、『暗黒師団』の下部組織も同然にしてしまう気だ……」

「そんなこと……」

 ありえない、と言おうとするのを、江波は遮った。

「事実だ。『パッシフローラ』には異分子が送り込まれている……」

 異分子、と聞いた瞬間、哲也は嫌な予感がした。

「『サロメ』と『シンシア』?」

 江波は、ゆっくり、しかしはっきりと、縦に首を振った。

「その二人だ」

「でも、二人だけでは何も出来ません!」

 否定したい心から、哲也はそう叫んだ。江波は動じなかった。

「だが、その二人が何か問題を起こした場合……現議長に責任を取らせ、その椅子から引きずり下ろすことは出来る……あの二人は、ただそのための捨て駒なんだ。南野にとっては……山本議長さえ潰してしまえば、あの二人は用済み……何の良心の呵責もなく、彼はあの二人を殺すだろうね」

 何の違和感もなく、紗希と美夏を平然と殺す南野が想像出来た。哲也は恐ろしくなって、その考えを頭から振り払おうとした。

「待って……あの二人は、前田さんと黒川さんが、偶然見つけて……」

「必然だ。そうなるように仕掛けた。彼は全てを知っていたのだから」

 『知っていた』という言葉に、彼は力を入れた。

「でも、発見された時には、二人とも瀕死の重傷を……」

「普通の人間から見ればな……二人とも特殊訓練を受けているし、快復力は、普通の人間よりも強い。サロメは定期的に輸血を行う必要のある身体だが、それさえきっちり行えば、常人よりも早く傷を快復させることができる」

 哲也の脳裏に、美夏の右手首に刻まれた、あの切り傷の映像が蘇った。

 あの傷のことが人の口に上らなかった理由の中には、つけてもすぐに治ってしまったからだというのも、きっとあるに違いない。

 だが、腑に落ちないこともある。美夏は二回車ではねられていたと、山村は言っていたのだ。

「車で二回はねられても、平気だと?」

「平気なわけはない。それなりに計算はしていただろう……主要な内臓への損傷を抑えつつ、傍目には瀕死としか見えないように……無論、そのまま放っておけば間違いなく死ぬが……その前に、保護されるように……」




          144


「南野は、そんなことのために、紗希さんや美夏を半殺しの目に?」

 たったそれだけの理由で、紗希や美夏を今も苦しめているというのか。

 哲也は、南野に対する、言葉に出来ない激しい怒りが、ふつふつと沸いてくるのを感じていた。

「あの男も焦れてきている」

 江波は、少し疲労の色を見せながらも、しっかりした口調で言った。

「あの男の計算が狂い始めたのは、私の母、スカーレット・カーペンターが、二十年以上前に殺された時だ。某国警察は事故死として処理したが、私たちは今でも、殺されたのだと信じているよ……何せその後、まるで謀ったかのように、母に近しかった人たちが、死んだり逮捕されたりしたのだからね……そう思わない方がどうかしている」

「それで?」

「それ以来、あの男の行動には、どこか自暴自棄な部分が見えるようになってきた……これは私の推測になるがね、私は、三原浩美は、実はあの男が殺したんじゃないかと思っているんだよ」

「三原浩美?」

 哲也は、前田が両性具有者であったということと、江波に顔を焼かれたということ以外、何も知らない。

「ああ……旧姓前田……あの男の実の姉だよ……前田浩一の母親さ」

 哲也は一瞬、聞き間違いかと思った。


 昨日、カイムは言っていた。

 前田浩一は、江波知弘の異母弟だと。

 すると当然、前田と江波は、父親を同じくする兄弟と言うことになる。

 その前田の母親が、共通の父親であるはずの南野の実の姉?

 ありえない……あってはならない。


 驚きに口も聞けないでいる哲也に、江波はまた短く告げた。事実だ、と。

「姓が違うのは、あの男と浩美の両親が離婚したせいでね……あの男は父親に引き取られて育ったんだが……母親の方に引き取られた浩美に対して、単なる姉への思い以上の感情を抱いたらしい。私の母スカーレットには、ただの同志という以上の感情は殆ど持ち合わせていなかったようだが」

「それで、その浩美の方も、弟を?」

 もはや悪寒さえ感じなかった。全ての感覚が麻痺していく。ただ聴覚だけが残って、江波の発する言葉を受信していた。

「いや。浩美の方は、あの男をただ弟として愛していただけらしい……そして弟の歪んだ視線に気づくことなく、結婚してしまった」

 そこまで言ってから、江波は、哲也の憶えているのと同じ、あの酷薄な笑みを浮かべた。

「あの男が、歪んだ形であれ、人間らしくなれたのは、姉と共にいる時だけだった。その姉を奪われた……気も狂わんばかりだっただろうことは想像がつく……そして、その後彼が何をしたのかもね……結果、浩一が生まれた……浩美の夫は、おそらく浩一が自分の子どもではないと知っていたんだろう。だから浩美が死んだ時、あっさりと浩一を浩美の身代わりにしたんだ」

 哲也は、江波の言い方に、奇妙な感じを覚えた。

「まるで見てきたように言う……」

「自分で調べたことと、浩一から聞いた話をつなぎ合わせて、一部推測を付け足しただけだよ……浩一は言っていた。母親の葬儀が済んだ直後から、父親の……まぁ、血はつながってないわけだが……とにかく戸籍上の父親の、自分を見る目が変わったと」

「汚れたものでも見るような目になったと?」

 嫌な予感から逃げるように、哲也は口を挟んだ。

 江波はまた、残酷な笑いを浮かべた。

「女を見るような目になったのさ。それが浩一が六歳の時。そして八歳になった年、浩一は継父に犯された……幸か不幸か、女でもある身体だったからね。そして、私の口から言うのは何か腹立たしいんだが、この上なく美しかった。その容姿のせいで、彼はずいぶん酷い目にあったようだよ。消えてしまえみたいなことも言われたらしい。それで、彼は壊れた……」

 たとえ残酷な笑みでも、浮かんでいた方がまだましだった。そう思えるほど冷たい光を宿した赤い目が、無表情になった顔の中でぎらぎらと光っていた。

「全存在を否定されるより、身体だけでも認められている方がましだと考えたのだと、そう言っていた……父親を誘い、他の男を誘い……そうやってどんどん心を崩壊させていった。自分を痛めつけ続けることによって、心の痛覚を麻痺させてしまおうとしていたのかもしれない。十四の年、私に出会うまでは」




          145


 江波の顔に疲労の色が濃くなっている。傍に控えるカイムが、心配そうな視線を何度も主の方へ向ける。だが、まだ彼は、このある意味では残酷と言える話を、続ける気でいるらしかった。

「私はあの男の命令で、浩一を、組織に引っ張り込むため探しに行った。ちょうど雨が降ってきてね。雨宿りをしようと、軒下に駆け込んできた彼とぶつかったんだ。もっとも、髪を長く伸ばして、スカートを穿いていたから、むしろ彼女と言った方がいいのかもしれなかったがね……浩一は、私が『自分を探しに来た』というのが、ひどくうれしかったらしい。ただそれだけで、自分の命を私にくれる気になったようだ……それほどまでに、自分を失いかけていたのだとも言えるだろうが……

 私は、浩一の名前を知らないで、浩美の名前で探していた。ただ、その浩美が私の兄弟であることは知っていた……あの男の血を分けた、ね……だがそのくせ、何も知らない浩美が私を誘った時、どうしても抗えないと思った」

 もはや消え失せてしまったと思った悪寒が、哲也の背筋を再び走った。

「悪魔に魅入られたとしか思えないね……妹だと知ってて抱いたんだから……だがそれで、浩美が完全な女ではないことを知った。翌朝尋ねてみたら、あっさり両性具有者だと認めたよ。八歳の時以来、父親と関係し続けていることもね……だが、その次浩一はこう言ったんだ。

『もう父は要らない人です』

 自分自身を見てくれる私が現れた。だから、もう身体しか必要としていない人間など要らない、と……そして、私に父親殺害を依頼した。その内容を聞いて、私は納得したよ。浩一が、私の異母弟……南野圭司の子どもだと。向こうにいた時、私は殺害の手口に関して、散々残酷だなんだと言われてきたが、たった十四歳だった浩一の提案より悪趣味なことはしたことがない」

 聞いてはいけない気がした。でも、聞きたいと思った。

「何をしたんですか?」

「半殺しにした父親の目の前で、自分を抱けと言ってきた」

 まるでなんでもないことのように、彼はさらりと口にした。それがあまりにも自然に話されたせいで、哲也は今聞いたことの意味をのみこめなかった。

「二、三時間は生きていられるだろう程度に抑えて、身動きが取れないように拘束し、舌を噛めないようにしてね……血塗れになって半死半生の男の前で、あいつを……」

「……止めて下さい……」

 両耳を押さえながら、哲也はかろうじてそれだけを言った。

「君には刺激が強すぎたかな……」

 江波は、嘲笑のようにも見える薄笑いを浮かべながら、そう呟いた。

「それが、人間のやることですか?」

「『普通の』人間はやらないだろうよ……そもそも、人を殺すことさえもね。その点じゃ、君も『異常な』人間の一人だよ……もっとも、浩一は、君なんか足元にも及ばないくらい異常だったんだがね」

 江波の目がカイムに向けられた。彼は頷き、テーブルの上に伏せられていたグラスに、水差しから水を注いで、主に差し出した。骨張った江波の手が、差し出されたそれをつかむ。そして、一息にその水を飲み干した。グラスを返すと、江波はまた話を続けた。

「浩一は私を愛した。私に完全に依存しきっていた。初めのうちは可愛く思っていた。だが、彼が殺人者としての頭角を現し、私の築いてきた地位や評価を脅かすまでになって、私は彼に憎しみを感じるようになった。私が成し遂げるのに苦労したことを、彼はさらりと、本当に簡単に達成してしまう。私は自分のプライドと、彼を可愛いと思う気持ちの板挟みになった。浩一が、ただ私にだけ心を許し、ただ私だけを信じていることを知っていても、彼の才能への嫉妬と、その存在への憎しみは、消えはしなかった……」

 だから、彼の顔を焼いたのか? と、哲也は心の中で問いかけた。江波は息をつごうとしているだけだ。まだ話し終えてはいない。

「彼を殺し、ずたずたに切り刻んでやりたいと思う一方で、私の中には、まだ彼を愛しいと思う気持ちがあった。その葛藤に翻弄されて、あの時期の私は、彼に会うごとに、ばらばらの態度を取っていたような記憶がある……優しくしたり、冷たく突き放したり……でも、どれも全て、自分に正直な態度だった。そんな風になってしまった私を、なお彼は愛した……いや、依存しすぎていたせいで、離れると言うことを考えられないでいたんだろう……

 そんな時だったんだ……あの男が私に、『DD』へ戻れ、と命令したのは。その言葉を聞いた瞬間、自分の中で何かが壊れていくのを感じた。もう二度と彼に会うことは叶わない……そう感じた瞬間、全てが嫉妬に塗り潰された」

 江波の赤い双眸が、炎が燃え上がるように煌めいた。

「やっぱり、私はどこかが歪んでいるのだろうね」

 そう言う彼の口元は歪められて、皮肉めいた笑いが浮かんでいた。

「彼を殺してしまえと言う気持ちが、どんどん強くなっていった……憎いから殺してしまえ……それだけじゃなかった。愛しいから……だから、他の誰にも渡したくないから、殺して自分だけのものにしてしまいたいと思った」

 その言葉を聞いた瞬間、哲也の脳裏に、鮮やかに一人の女の姿が蘇った。


 白衣を羽織った小柄な体躯。短く切られた黒髪、浅黒い肌。

 光の消え失せた、真っ黒な目。

 サロメ……香西紗希。


<……永居さんの首が、欲しくて欲しくて……>

<本当にあなたの首を落としたら、その一瞬は私、とても幸せだと思うの>


 あぁだから……

 だから、紗希は貴史の首を落とそうとしたのだ。

 どこへも行かせない。誰にも触れさせない。自分以外の、誰にも渡さない。



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