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第136章~第140章

世界史の復習を兼用。

          136


 全文英語であるので、和訳したものをお目にかける。


「   親愛なる勝洋

 メールは拝見しました。二人で相談した結果、あなたのお話を受けることにしました。これは組織としての援助ではなく、あくまでも友人としての好意によるものです。あなたの愛するあなたの仲間たちの中に、憎むべき裏切り者がいるなど、本当に耐え難いことでしょう。

 提案に従って、一線を離れた元部下を使って調査しますから、正規の方法をとるよりも遅れるかもしれませんが、それでもよろしければ。

 最高評議会には伝えないでおきますよ、もちろん。もはや一線を引いた身である我々の私生活に、彼らは干渉する権利を持たないのですから。

 くれぐれも、健康には気をつけて下さい。あなたとあなたの教会、あなたの愛する仲間たちに、神の祝福がありますように。

                     ポール & グレイス  」


 返信を読みながら、麗美はほっと安堵の息を漏らした。

「良かったのぉ」

 山村が、コンピューター画面からから、麗美の方に向き直って言った。

「本当に」

 そのまましばらく黙っていたが、ふと好奇心に駆られて尋ねてみた。

「この、ポールとグレイス……は、いったい今何をしてらっしゃるんですか? 元は『JFW』でかなり高い地位にあったようですが」

「ああ。この二人は夫婦でな……夫のポールは『JFW』の最高評議会の、元副議長……グレイスは、『JFW』が資金援助をしとる病院の、付属幼稚園の園長をしとったんじゃ。今は二人揃って、郊外に引退し、ボランティア活動に精を出しとると、少し前の年賀状に書いてあったな」

「善良なる某国市民ですね」

 ぱっとその様が想像出来てしまって、麗美は少し笑みを漏らした。

「ほうじゃのぉ……まぁ、グレイスの方は、一から十まで善良なる市民ゆうてもええじゃろう。ポールの方は複雑じゃのぉ……まぁ、一から九まで、か」

 他のメールをチェックしながら、山村は呟いた。その顔が歪んでいる。無理もない。届いたメールのうち、ポールとグレイスから来たもの以外は、すべて要りもしない商業メールだったのだ。しかも、長らくボックスを開けていなかったと見えて、どうやら百通近くたまっているように見える。

「やっぱり『JFW』も、法に触れる行動を?」

「取らんかったら『弱者の正義』なんぞ、実行出来んじゃろうが」

 次々とスパムメールを削除しながら、山村が答える。

「まぁ、そりゃそうですよね」

 ジャスティス・フォー・ザ・ウィーク:弱者のための正義。

 ジャスティス・オヴ・ザ・ウィーク:弱者の正義。

 似ているようで、似ていない。前置詞一つで、こんなにも意味が変わるものなのかと、妙にしみじみとした気持ちになった。

「まぁ向こうは広いけぇ、表と裏の顔を持った組織になっとるが……表が社会的弱者を保護する合法団体。裏は、犯罪者を私刑に処する非合法組織……表の方の活動は、結構評価されとるようじゃがね」

 まだまだ削除できない。いつまで続くのかと思うほどのスパムメールの山。

 見かねた麗美は口を挟んだ。

「他のメールは、全部本当に要りませんか? まだこの受信フォルダに置きっぱなしになっている、開封済みの昔のメールも含めて」

「ちぃと待ってくれ……ん、要らん……全く、余計なモンを送りつけよって」

「じゃ、まずこのメールを、別のフォルダに保存しますね」

 マウスを山村に替わって操作し始める。やりにくかろうと、彼は椅子を麗美に譲った。一礼して腰掛けると、麗美は、ポールとグレイスから送られてきたメールを、めぼしいフォルダに移動した。それから「編集」をクリックして、残りのメールを全て選択し、まとめて削除した。

「ほぉ……そんな方法があったんか……」

「こっちの方が数倍楽でしょう? とくにこんな時には」

 席を返しながら、麗美は微笑んだ。

「ほうじゃのう……次からはわしもすることにするよ……さーてと。昼飯はまだか?」

 そう言われて、麗美はとっさに自分の腕時計を確認した。

「まだ十一時を過ぎたばかりじゃないですか。百合ちゃん、これからそろそろ作り始めるかな、ってぐらいですよ」

「ふむ……年かのぉ」

「まだまだ元気でいて下さらなきゃ困りますよ」

 そう言う麗美に、山村は穏やかな笑みを浮かべた。

「何事も神様の御心じゃけぇの……御心なら、生かしていただけるじゃろう」

 返すべき言葉か見つからなくて、麗美はそのまま一礼して、地下室を出た。

 自分の泊まっている部屋は、紗希の隣の部屋だ。議長夫妻の元寝室。ひょいと隣の部屋を覗いてみると、今日もまた紗希は画用紙に向かって、一心不乱に色を塗り重ねていた。相変わらず黒い。ただ、今日は青と水色が増えている。

(不思議な世界……)

 自分が来た日の絵から、紗希の心の殻が破れ始めているのが見える。それはひょっとすると危険な賭になるのかもしれない。

 山村の推測が外れて、貴史が紗希の拘束に耐えきれなかったら。

 もしもそんな事態になったなら、紗希は手ひどく裏切られた気持ちになるだろう。そうしたら、もう二度と心を開こうとはしないかもしれない。

 紗希は今、貴史を信頼しきっている。

 だからそのために、決して裏切られる心配のない道……そんなことになる前に、貴史を殺してしまうという選択……を捨てた。

 殺す必要などどこにもない。彼は決して裏切らないのだから、と信じて。

 だから紗希は、心を開こうと努力している。努力しなければ開けないほど、固く閉ざされたその扉。あの色は、錆び付いた扉の象徴なのかもしれない。開かれることなく、風雨にさらされる中、固く錆びてしまった扉。

 ……貴史は紗希に拘束されることを、本当に自ら望んでいるのだろうか?

(自分の罪滅ぼしのために?)


 きっと、紗希は貴史に依存しきることだろう。そして紗希は、貴史の中に、自らと共有出来ない何かがある、という状態を、激しく拒絶するだろう。それでも貴史は耐えられるのだろうか?

 紗希の要求する究極の受容。

 それは、貴史自身の人生をほぼ完全に束縛するであろうこと。

 自分自身を保ちながら、かつ、それに囚われることなく生き続けるなど可能だろうか?


(それが出来なかった時は、紗希は貴史が裏切ったと感じるのでしょうね)


 唐突に、麗美は自分の今の情況を考えてみた。

 自分は達紀と『契約』した。自分の望む限りずっと、達紀は自分に『真実』であり続けなければならない、という『契約』を。

 もし、達紀が『裏切った』と感じたなら、自分はきっと、弁解の余地さえ与えずに、彼を撃ち殺すことだろう。自分の中には、そんなところがある。

 麗美はふっと、力無く笑った。

(でもね、激情に任せて達紀を殺してしまったら、きっと私は、一生後悔するのよ……だって達紀以上に、本当の私を受け容れてくれた人なんていなかったんだもの……だから、もし裏切られたと感じても、きっと私は達紀を殺せないでしょう。ええ、きっと……)

 僕を信じられないなら、契約をしよう、と、彼は言った。

(そんなもの、もう要らない)


 誠実に。誠実に。ただそうあろうとし続ければいい。

 人のためを思うなら、何故騙したり裏切ったり出来るのだろう?

 「私は」達紀を信じる。


 その瞬間、麗美はふっと、今まで自分の肩に重くのしかかっていた何かが、すーっと消えていくのを感じた。




          137


「明日だな……」

 買い物のおまけにもらったカレンダーを見ながら、貴史が呟いた。

「うん」

 その隣で、インスタントのココアを啜っていた哲也が、ゆっくりと頷いた。

 今日は金曜日。明日は土曜日。『カイム』が京橋に現れる日。

「何か、持ってくか?」

「飛び道具はやめとく……向こうに取られたら、かえって厄介だから……向こうが始めから持ってるって可能性もあるけど、人目あるし、いきなり構えたりしやしないでしょ」

 飲み終え、お代わりを作りに席を立つ。貴史はついでに自分の分も頼んだ。

 哲也は快く、彼の分のカップも受け取り、ココアの粉をスプーンでカップに入れると、いったん少量の牛乳でペースト状にしてから、熱湯を注いだ。こうすると粉が玉にならない。

「はい、どうぞ」

「サンキュ」

 くるくるとスプーンを動かして、まだ底の方に残っているペーストココアを溶かし出しながら、哲也はまた話を始めた。

「とりあえず、針と麻酔は持っていこうかと……貸してくれるよね?」

「いいよ。でも、それだけでいいのか?」

「うーん……格闘技というか、護身術というか……まぁそういう系統のには、それなりに自信あるけど……」

 哲也は知るまい。記憶を取り戻しつつある彼女は、その自分さえ簡単に投げ飛ばせるであろうほどの人間であることを。そう、知らないからこそ、のんきにそんなことが言えるのだ。

「油断は禁物だぞ」

「でも、あからさまに武器なんか携帯出来ないでしょ?」

「あからさまじゃなきゃいいんだろ?」

 そう言うと、貴史はポケットに手を突っ込んだ。シャープペンシルを抜き取って手渡す。ずしりと重い。前に一度見たことがある。単発銃だ。

「弾は一発だけだ。どうせこめてる暇なんかないだろうしな。一見したぐらいじゃ判りゃしないだろ。持ってけよ」

 哲也は少し逡巡してから、それを受け取った。

「地理は、頭ン中に叩き込んであるな?」

「当たり前でしょ」

「んじゃ、健闘を祈る」

 真面目くさった顔で貴史は言った。哲也は茶化してやりたくなった。

「何に?」

 貴史はんーと、しばらく真面目に考え込んでいたが、やがて答えを決めた。

「時計草の村の神だな」

「ようするに、イエス・キリストじゃないですか」

 微苦笑しながら、哲也は言ったが、貴史の顔は大真面目だった。

「いや。時計草の村にいる神だよ」

「違うんですか」

「違うも何も、俺にはイエス・キリストが何なのかなんて解んねぇもん。ただ言えるのは、時計草の村にいる神なら、信じられるってことだけ。それがイエス・キリストと同じかどうかなんて、無宗教で育った俺にゃ、解りゃしないって……だいたいさ、カトリックとかプロテスタントとか東方正教とか、みんなごちゃごちゃになってるだろ? それぞれみんな自分が正しいって主張してる。どれかが正しいなら、他は何かが間違ってるわけだろ? でも俺には正直言って全然判らない。それはたぶん、俺が外にいる人間だからなんだろうけどさ……俺はただ、中に入ってみてから、信じられると感じた神を言っただけだよ」

 一息にそう言って、貴史は渇いた喉にココアを流し込んだ。

 哲也は、妙な引っかかりを感じたので、頭の中で言葉を組み立ててみた。

 口の中のココアを、完全に飲み込んでから、哲也はそれを口に出した。

「貴史の言葉は、ある意味で真実だと思うよ」

「嘘なんか言ってないからね」

 今度は向こうが茶化した。だから今度は哲也が、大真面目な顔をする番だ。

「そういう意味じゃないよ……実際に真実だと思ったことしか、人間は完全には受け容れられないだろう、っていうのは、当たってると俺も思う……ただ、何かが正しいなら、その他の全ては間違ってる、っていうのは、違うと思う。宗教や哲学は、数学とは違うから、ただ一つの正答以外はみんな間違いなんてことはないんだよ。だから、何がどう間違っているかを指摘する権利なんて、そもそも存在してない。正解のない世界なんだと思う……」

 一息入れるため、哲也は残りのココアを口に含んだ。貴史は黙って、哲也が続きを語り出すのを待っている。

「俺が思うには、どんなに『自分は無宗教者だ』とか『自分は無神論者だ』と言っていても、人はやっぱり、それなりに自分を動かす宗教を持ってるんだよ……それが神を必要とするかしないかは別にして……仏教には神なんかいないからね……俺の言ってる宗教っていうのは、ようするに、人の心を律し、良心の発達を促進する、ある種の行動信条のことなんだけど……って解る?」

 貴史には難しい言葉を使ったかもしれない、と思い、哲也は慌てて尋ねた。

「ある種の行動信条ってのが、どうもしっくりこない」

 教条なら解るんだけど、と付け加えながら笑う。

「じゃあ言い換えるよ。良心の働き……たとえば何々はしてはいけないことだとか、そういう判断をすること……これを決定する基準になるもの。そして、人が行動する時に、その行動を決定する基準になる信念……これならどう?」

「OK。解った。ようするに、人生における総判断基準のことだね」




          138


 哲也は僅かに残っていたココアを全て飲み干した。貴史のマグカップはとうに空っぽになっている。お代わりはいるかと訊いてみると、貴史は要らないと答えた。それで、哲也も座ったままでいることにした。

「じゃ、もういいよね? 説明抜きで『宗教』って使いまくっても」

「うん」

「同じ宗教を信じているからって、全員が同じ行動を取るわけじゃない。それは解るでしょ?」

 貴史は黙って頷いた。

「俺の考えだと、同じ宗教を信じるにしても、全員が全員、同じ形で信じているわけじゃない……もっと言えば、全員がそれぞれの解釈で、自分なりにそれを信じているわけ。それぞれの中で正しいと思われることにも、大同小異とは言っても、やっぱり差異が生じる。でも、信じている人にとっては、それはちっとも誤ったことなんかじゃないし、それは遠くかけ離れたどんな宗教の間にだって言えることだ。同じ流れの宗教の中で、それぞれが『正しい』と思うこと……つまり、貴史の言う『人生の総判断基準』に、派閥じみたものができた時、分裂が起こる……」


 例えば、厳格な戒律と聖戦思想で知られるイスラム教だが、それにも派閥は存在する。大別すると、現在イスラム教徒の九割を占めるスンナ派と、残りの一割を占め、イランの国教に定められているシーア派である。この二つの派閥が生じた経緯を簡単に辿ってみると、だいたいこういうことになる。

 イスラム教は、メッカ出身の預言者ムハンマドによって創始された、ユダヤ教、キリスト教の流れをくむ一神教だ。無論、ムハンマドは単なる預言者、つまり人間であるので、当然死ぬ。その後、ムスリム(イスラム教徒)たちは、投票によってカリフと呼ばれる指導者を選出していった。だが、四代目のカリフであったアリーが暗殺された。その結果、イスラム教は、新たにカリフを名乗った(選挙で選ばれたわけではないということ)シリア総督のムアーウィヤを支持するスンナ派と、アリーの子孫を支持するシーア派に別れた。

 スンナ派の「スンナ」とは「言行」という意味で、「預言者ムハンマドの言行を重んずる人々」ということを意味する。彼らはアリーまでの四人のカリフを正統なカリフと認めた。ムアーウィヤはそうではないが、だからといって彼を攻撃する気はなく、ただアラブ=イスラーム社会の慣習を遵守しようとした人々だ。

 対し、シーア派は「シーア=アリー」、すなわち「アリーの党派」という意味の言葉を略したというだけあって、ムアーウィヤを認めようとしなかった。彼らは、ムハンマドの娘ファーティマを娶ったアリーと、その子孫だけが正統な指導者イマームであると信じたのだ。

 つまり、彼らはそれぞれの信念によって、同じアッラーの神を信じながらも袂を分かったわけである。それぞれ自分たちが正しいと信じながら。


 哲也は椅子の背に頭をもたせかけて、天井を見上げた。

「だからね、個々人にとっては正しいんだよ。人がどう見るかは問題じゃなくって。そして誰も、自分の考えを、完全に人に理解させることなんて出来ない……だから、誰も相手が間違っているだなんて、そもそも言えやしないんだ。何が合っていて、何が間違っているかなんて解らない」

 哲也がそこで言葉を切った理由を、貴史はなんとなく察した。

「だから、自分が信じられると思ったものを、信じたらいい……と?」

 そう答えると、哲也はニコッと笑った。

「そういうこと。何も人の考えをつつき回す必要なんてないんだよ。どんなに説明したって、相手が完全に自分の言いたいこと理解出来るわけなんてないんだから、逆に言えば、自分だって、どんなに詳しく説明されても、人の考えは完全に理解なんて出来やしないってこと。だから、自分の信じることは、自分の中にだけ置いとけばいい……誰かに教えてしまって、それが変形させられるのが嫌ならね……」

「あらかじめ、そういう覚悟をしとかなきゃいけないってことか」

「そう。だから俺は、ショーペンハウアーってずるい奴だと思ったりする」

「ショーペンハウアー?」

 思いもかけない人名の登場に、貴史は間抜けな声を上げた。

「彼の遺稿の中に、こんなことが書いてあったんです。『まもなく虫どもがわたしの体を喰い尽くすだろうという考えには耐えられる。しかし哲学の教授どもが私の哲学をかじるさまを思い浮かべると、ぞっとして身震いが出る』」

 そう言って、哲也は皮肉っぽい笑いを浮かべた。

「自分の哲学が人にかじられていくのが嫌なら、誰にも教えずに置けば良かったのに……って思いません?」

 貴史は苦笑しながら、脚を組み替えた。

「言ったら変形されると解っていても、言わずにはいられなかった。言いたいという衝動に突き動かされて、どうしようもなかった……そうは思えない?」

 哲也はちょっとの間目を見開いたが、やがてニヤリと笑った。

「そうですよね……」

 貴史はふと、哲也がこの間の自分のことを、暗に示したのではなかろうかと感じた。自分の中にため込んできた他人の秘密。知らないうちに、心のダムの底に堆積していたものが、理性という堰をうち破ってしまったあの瞬間を。

 哲也は話に区切りがついたと考えたのか、貴史の分のマグカップも持って立ち上がった。キッチンから、水を流す音が聞こえてくる。

「ねぇ」

 洗ったカップを拭きながら、哲也が声をかけた。その声が、心なしか固く感じられた。平静を装って、貴史は答えた。

「何?」

「三日経っても戻らなかったら、殺ってね……俺の代わりに……」

 思わず振り返って、哲也の顔を……目を見つめた。

 彼は静かに笑っていた。




          139


 男は両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、誰かを捜していた。湿った空気が、微かに鼻孔を刺激する。爬虫類じみたねっとりした視線は、駅周辺の人混みを構成する顔たちを、検分するように見回していた。

(あれほど目立つ容姿をしながら、よく紛れ込んだものだ……)

 そう考えてから、彼は、自分の主人も昔はそうだったかと思い出した。

 黄みがかった苔色の虹彩に、赤く浮き上がった血管が走るその目は、素早くまた行き交う顔たちを調べ始める。

(違う……違う……この男も違う……)

 何故、自分の主を殺しに来る男に、挨拶などしなければならないのか、彼は理解に苦しんだが、命令には従わなければならない。かつて主人であった、スカーレットの遺言だ。知弘の言うことには絶対に従うように、と。

 そこまで考えてから、彼……カイムは静かに首を振った。

(今にして思えば、ご自分がいずれ殺されることを知っておられたのだろう)

 冷戦中の話だ。暗殺が容認されていた時代だ。事故死として処理されたが、カイムはそれを頭から信じていなかった。スカーレットは政府に殺されたのだと、彼は今でも固く信じている。

<私を殺しに来る少年に、よろしく伝えてくれ……彼が来た時に、私は意識を保ち続けていられる自信がないから……>

 そう言った時の主人の顔を思い出し、彼はやるせなくてたまらなくなった。

 彼は、もう殆ど灰色になった自分の頭髪に指を入れ、ガリガリと掻いた。

 ようやっと帰ってきてくれたと思ったのに、また自分を置いて死んでいってしまう。スカーレットも、彼女の息子も、守りたいと思ったものは、みんな彼の手をすり抜けていってしまうのだ。

 再び自分の意志で動けるようになるわけでもないのに、延命措置など執っても意味などない、という主人の考えを、彼は理解出来ないわけではなかった。しかし、それでも心のどこかで、主人に生きていて欲しいと思っていた。何故なら彼には、今は亡き女主人とその息子への忠誠以外には、自分を支えるものなどなかったから。だから、主人の死は、彼自信の生きる意味の喪失をも意味していた。

 カイムは建物の壁に背を預け、しばらく休むことにした。焦っても、あの男を見つけられるとは限らないのだ。ポケットから煙草を取り出し、口にくわえると、少し震える指で火をつけた。梅雨は近いが、夕暮れはまだ冷える。

 肺を満たしていく煙。身体の中に蓄積されていく毒。

 ぼんやりと煙のたなびく様を眺めながら、彼は現在主人である江波知弘が、自分を『暗黒師団』の中に連絡役として残し、『ブラッディ・エンジェル』に入った時のことを思い起こした。今思い返すと少し笑ってしまうくらい、自分は荒れた。捨てられたような気がして、苦しかった。警察の厄介になったのもだいたいあの頃だ。刑務所から出てきてからは、少しは苦しさに耐えるようになったが……

 火をつけられた煙草は、どんどん短くなっていく。

 灰に変わっていく煙草……短くなっていく。そしてなくなるのだ。

 カイムは、その煙草を見つめるのがつらくなった。

(私は、人に従うしか知らない……あの方が死んだら、生きてはいけない)

 希望もなく闇の中を生きていた時、光をくれたのはスカーレットだった。その時心に誓ったのだ。彼女に一生を捧げようと。だが彼女は殺された。だから今度は、彼女の息子のために一生を捧げようと誓った。それなのに……

(残酷です。あまりにも残酷です……実の息子さえ、平気で手にかける……)

 もう幾度と無く流した涙が、また頬を伝い下りていくのを、彼は感じた。

 判りきっているのに。

 南野圭司、『モロク』には、自分の子どもを殺すことなど何でもないと。

 判っている。でも解らない。判ったところで、この苦しさは無くならない。そして解りたくもない。

 涙を拭い、また人混みに目を凝らした。

 ふと、彼の目は一人の男を捉えた。彼は真っ直ぐにその男を見つめた。

(彼だ……)

 向こうもカイムに気づいたらしい。平静を装うとしているようだが、口元に楽しそうな笑みが微かに見えた。

 ふと、写真でだけしか見たことのない主人の弟に、似ていると思った。だが彼は首を振り、それを否定した。

 男はカイムの方に、少しずつ、しかし確かに近づいてきた。

 そして、彼はついに、カイムの目の前で足を止めた。

 真っ黒な目が、静かに自分を見つめてくる。カイムは攻撃的なオーラを出すまいと、激しくなってくる心臓の鼓動を抑えつけようとした。

 目の前に経つ青年は、まるで近所の知人に挨拶をするような調子で言った。

「こんばんは」




          140


「こんばんは」

 幾分かすれた声で、カイムは答えた。それから、殆ど息もつかずに、次の言葉を吐き出した。

「あの方が、あなたに、よろしく伝えてくれと、仰った」

 哲也は少し目を見開き、それから今度は、あからさまな敵意を込めた目で、カイムを見つめた。

「そうですか」

 抑揚のない冷たい声で、返事が返ってくる。カイムは顔を上げ、相手の顔を見つめた。

「話したいことがあると仰っていた……だが……あ、んたが来るまで、意識を保ち続けていられる自信がないから、と」

 本当なら貴様と怒鳴ってやりたかった。自分の生き甲斐を……生きる支えを壊しにやってくる男に、丁寧に応対する義務などないはずなのだから。

「それは三年前、彼を殺し損ね、仲間を見捨てて逃げ出した僕を、嘲笑う言葉なんでしょうね」

 慇懃無礼な口調で、哲也は答えた。カイムはぎゅっと拳を握りしめた。

「そんなくだらないことをなさる方ではない」

「じゃあ、何なんですか?」

「詳しくは知らない。だが、あんたの兄さんについてだと聞いた」

 哲也は眉をひそめた。

 兄についての話?

「まさか、今更言い訳ですか?」

「そんなことをなさるわけがないだろう!」

 ついカッとなって怒鳴り、カイムは一瞬しまったと思った。が、哲也は別に気にしていないようだった。

「あんたは本当に、江波に尽くしてるみたいだね」

 そう言いながら、哲也はカイムの左側に立ち、同じように壁に背を預けた。カイムも右利きだから、いざという時には自分の方が攻撃を加えやすい計算になる。だが、一見したところ、彼には攻撃の意志はないようだった。いや、あるにはあるのかもしれないが、それを殆ど完全に抑えつけていた。

 横にいる初老の男の顔を、何の気無しに眺める。カイムは寂しそうに、一瞬だけ笑った。

「私は、あの方の母君に、一生を捧げようと誓った……だが、殺されてしまった……そして、その償いの意も込めて、あの方に仕えている」

「殺された? 誰に?」

 まさか『ブラッディ・エンジェル』ではないだろうかと、哲也は一瞬勘繰った。しかし、母親を殺した組織にわざわざ入る人間などいるまいと、その考えを打ち消した。

「スカーレット様は『DD』切っての切れ者だった……そしてそれを隠そうとなさらなかった……だから、某国政府は目障りに思って、消した」

「『DD』?」

 哲也は、思わずそっくり同じ言葉を返していた。

 ダブル・ディー?

 カイムは別にばかにする風でもなく、淡々と答えた。

「『ダーク・ディヴィジョン』の略称だ」


 "Dark Division"

 『暗黒師団』


 江波の母親が『暗黒師団』のメンバーで、某国政府に消された?

 待て。それなら何故、江波はこの国にいるのだ?

 某国政府に復讐したいというのなら、某国にネットワークを持つ、『ブラッディ・エンジェル』の姉妹組織に入れば良いのではないか?

 何故わざわざ『ブラッディ・エンジェル』に入った?

 そうだ……何故江波はこの国にいる?


 混乱している哲也に向かって、カイムは言葉を続けた。

「私はこの国で、スカーレット様と出会った。その時、あの方は一人の友人を連れておられた……その人物とスカーレット様との間にお生まれなったのが、知弘様だ……その人物はこの国の人間だった……」

 哲也は、カイムが『スカーレットの友人』に対して、敬語を全く使っていないことに気がついた。あまりいい感情を抱いていないらしい。

「その男は知弘様を、この国で育てるように、スカーレット様に言った。そしてスカーレット様は目付役に、私を指名して下さった」

「俺の知っている人ですかね?」

 冗談交じりに聞いてみた。カイムは真面目な顔を崩さなかった。

「知っているだろうよ……お前さんの組織の中枢にいるはずだからね……南野圭司という男だ」

 哲也は鈍器で頭を強打されたような気がした。


 南野圭司?


「冗談だろう?」

 ひきつった笑いを浮かべながら、哲也はカイムの顔を見下ろした。

「冗談なら有り難いね」




ちなみにカイムの目は、昔々の友人の目をモデルにしていたりする。

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