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第131章~第135章

※ この話は中二病(17歳)の妄想です ※

          131


「あの絵、何ですか?」

 紗希と百合が夕食の準備に取りかかり始めて、ようやく麗美は質問の機会を得た。山村は黙って、壁を覆い尽くす本棚の下の方から、画用紙を折り畳まずに収められるほどの、大きな紙袋を取り出した。

「ここに来た翌日から、紗希は毎日絵を描いとる……絵と呼べるものなんかは解らんがね。これが、一番初めに描いたもんじゃ」

 そう言って、山村は一枚の画用紙を取り出して見せた。

「裏に、日付が書いてあるじゃろう?」

 確かめてみると、確かにここに連れてきた翌日、月曜日のものだった。

「これ、絵ですか?」

 真っ黒に汚く塗り潰された画用紙。最初は緑で描かれていたはずの何かの線は、一度見ただけではそうだったとは解らなくなるほど、丁寧に真っ赤な絵の具が塗り重ねられていた。気味の悪い灰色の斑点が、ぽつぽつと黒の上に散っている。遠目には、毒蜘蛛の拡大写真のようにも見えた。

「じゃけぇ、絵と呼べるんかは解らんっちゅうたんじゃが……これを見て、率直なところどう思う?」

「気持ち悪いです」

 ほうか、とだけ答えて、山村は二枚目の画用紙を引っ張り出した。

「これが二日目の絵じゃ」

 やっぱり真っ黒だった。真っ黒に塗り潰された上に、群青と濃い緑が、銅の炎色反応を起こしている火のように、所々にぼっと灯っている。そしてまた、赤い絵の具が、血の川のように画面を盛大に横切っていた。少し黄色を混ぜたオレンジ色が、上からぽとんと垂らされたようにいくつか散っている。それはさながら、暗闇の中の火花にも見えた。

「実際の記憶と、虚偽の記憶が混ざっとるかな……あがぁなぁの身体からは、弾丸はいっこも見つからんかったんじゃが。このオレンジ、銃口から出る火に似とらんか? わしはほうじゃろうと思うとるんじゃが」

「私には、解りません」

 麗美はそれだけしか答えられなかった。計算は抽象的だが、絵は数式以上に抽象的だ。それを解する能力を、自分が持ち合わせているとは思えない。

「まぁええか……で、これが三枚目……昨日の絵じゃ」

 赤とオレンジの量が増えている。反対に、青と緑は姿を消した。端の方の色を見て、少なくとも青は使っていたのが判った。後で塗り潰してしまったのだろう。何か不気味な引っかき傷を見ているようで、気持ちが悪い。下の方に、少しだけ白が残っていた。違う。白い絵の具を使ったのだ。光点のように、下の方にぽつぽつと散っている。あるいは、指を振ったためなのか、細く不安定な線を描いている。

「なんだか、穏やかではない絵ばかりですね」

「が、今日のは違った……わしゃあ、これを始める前に、紗希に『目を閉じた時に見えるものを描け』っちゅうたんじゃ。奇妙に聞こえるじゃろうが……」

 目を閉じれば、何も見えなくなるはずなのだ。

「いえ……なんとなく、わかります」

 記憶の残像。あるいは、実在はしなくとも、脳の中にありありと描くことのできるイメージ。目で見ず心で見る何か。

「黒ばっかしなんは、まぁ、仕方のないことなんじゃろうが……今までどっちかっちゅうと、殺伐とした感じの絵が多かったじゃろう?」

「ええ」

「じゃが、今日は何か『救い』みとぉなもんが見えた……あの空色……」

「あれが?」

「すくなくとも、紗希に見えとる、希望の光の象徴じゃろう」

 彼はそう言いながら、先ほど紗希が仕上げたばかりの、あの絵を見つめた。

 暗幕の裂け目から、彼方の青空を眺めるかのようなイメージ。

「それは、貴史の存在ですか?」

「断言は出来んが、おそらくほうじゃろう……色々と聞いてみとるが、あがぁなぁはどうも『寂しい』っちゅう感覚に振り回されとるようじゃのぉ」

「寂しい?」

 訝しげに首を傾げた麗美に、山村はすぐには答えを返さなかった。

「あがぁなぁが『暗黒師団』の『開発』した、初期の『戦闘用人間兵器』じゃっちゅうんは、われも知っとろう? もっとも、同期に生まれた仲間は、もう一人も生き残っとりゃあせんらしいが……実験に失敗したやらで、紗希以外は、脱走前には既に全員死んでおったと……紗希は、人間として生きるために一番必要なもんを、全く与えられずに育った。それが何なのかは解らんでも、何かが足りんのは解る……」

「それが、紗希が『寂しい』と感じている状態、だと?」

 別に頷くでもなく、山村は淡々と言葉を続けた。

「何かを手に入れんことにゃあ、それは解決出来ん……ほいじゃが、その何かが何なのかが紗希には解らん。結果として、何でもいいから手に入れたものを頑なに守ろうとする……完全に独占しようとしてしまう……その「もの」が人間である場合、紗希の拘束はきつすぎる……普通の人間にゃあ、な」

「貴史は紗希の拘束に耐えられるということですね?」

「いや……違う」




          132


 麗美はわが耳を疑った。

「耐えられないんですか? 貴史にも」

 山村はにやりと笑った。

「耐える必要なぞ、初めからありゃあせんのじゃよ。貴史にゃあな」

「それは……彼が……紗希を……あの、『愛している』から、ですか?」

 麗美は僅かに顔を赤らめながら、その動詞を口にした。山村はまたうっすらと笑った。

「それもあるじゃろう……じゃが、もちぃと俗っぽい理由もあるたぁ考えられんか?」

 わけが解らない、という顔で、麗美は眉間にしわを寄せた。

「貴史はえぇ奴じゃ……なんで殺し屋になったんか、と思うくらい、優しい。じゃけぇ、あんなぁは人の死を背負いすぎる……罪の意識に苛まれる……」

 ようやく麗美にも、山村の言いたいことが呑み込めてきた。

「つまり、貴史は、自分の罪滅ぼしのために、紗希に拘束されることを自ら望んでいると仰りたいわけですね?」

「わしの見たところでは」

「それでは紗希が利用されているみたいで可哀想です」

 妙に感傷的になった麗美に、山村は首を振った。

「利用かもしらんが、この貴史の心の動きのおかげで、紗希は安定するための支えを得られるんじゃ……利用は、必ずしも悪いことばっかしたぁ限らんよ」

「納得がいきません」

「われの納得することじゃあなかろうが」

「それはそうですが……」

「あの二人のことは、あの二人に任しときゃあえぇ……道を踏み外さん限り、わしらぁ横から見とるだけで十分じゃ……」

 山村はぐっと声を低めた。ソファに深く腰掛けなおしながら、麗美は話題が自分が今回ここを訪れた本当の目的に移ったことを察した。

 余計な前置きなどなかった。山村は直接本題に切り込んできた。

「『JFW』の『元メンバー』と接触したい、とな」

「はい」

「南野の過去を調べる気か?」

 驚きに目を丸くしている麗美に、何、簡単な推理じゃよ、と、山村はすっとぼけて見せた。

「『JFW』は某国を拠点に活動している……その某国は『暗黒師団』を背後から支えていると言われている……南野はかつてそこにいた……そして江波は現在そこに所属している……南野と江波は、わしが組織におった時に、すでにかなり親密な関係にあった」

 親子だからです、と言いたいのを、麗美はこらえた。

「じゃけぇ、答えを導き出せん方が、よっぽどどうかしとるよ」

 山村は、麗美の心の中を知ってか知らずか、全く屈託がない。

 麗美は、達紀の導き出した「まだ破滅的ではない仮説」を、頭から信じていなかった……ありえない可能性がある希望に縋るのは、もう嫌だったのだ。その結果は、今日の夕方には出るはずだ。自分はそれを聞くことになるだろう。そして、前田が絶望そのものの中に在ることを知るのだ。

 押し黙っている麗美に、山村は尋ねた。

「何故『元メンバー』なんじゃ?」

「現在組織に所属している人たちなら、必然的に『上』の制約を受けることになります……『JFW』なら最高評議会、我々ならば上級幹部会の……ですが組織を離れた人間ならば、組織にいたときのコネをほとんどそっくり使える上に、制約を受ける心配が格段に減ります」

「とは限らんが……」

 堰が切れたように、麗美は早口でしゃべり出した。

「ええ。でも、山村博士、あなたとまだお付き合いのあるメンバーなら、相当の情報網を所有している可能性が高い……あなたは元議長で、『Rネット』の日本における最高指導者だった……当然、姉妹組織の中枢に、伝手がおありでしょう? 私たちは何も『JFW』の機密を要求しているわけではない……ただ南野圭司という男と、『暗黒師団』とが接触していたかどうか……それを調べたいのです。単なる過去なら、他にも方法はあるでしょう。しかし、私たちの求める情報を手に入れられる組織で、伝手があるのは『JFW』だけです……向こうの政府は『暗黒師団』のことを完全に伏せています。もともと、これの存在についてだって、『JFW』を通して知ったのです。ならばその情報を提供してくれた『JFW』に、その関連の調査を依頼するのは、自然なことではありませんか?」

 やられたな、と言うように、山村は苦笑する。

「もし、南野が『暗黒師団』と良からぬ形で関わっていたら、どうする?」

「処刑は『上』が決定することです……私に与えられているのは告発の権利だけ……ただそれを実行するだけです」

「それでえぇんか?」

「構いません……この手で殺したいなんて、別に思いません」

 父親だから、というわけではないけれど、と、麗美は心の中で付け足した。

 山村はしばらく思案しているようだったが、やがておもむろに口を開いた。

「ポールとグレイスに、話は持ちかけてやる……ほいじゃが、受け容れてくれるかどうかは、向こうの決めることじゃ」

 麗美は顔を輝かせた。ばっと頭を下げる。

「ありがとうございます!」

 美女に、まさに輝かんばかりの笑顔で礼を言われて、山村はどこか決まり悪そうに笑った。

「さぁてと……二人にメールを打たんとな……電話でもえぇが、時差の計算が面倒じゃけぇのぉ……まぁ、夕食後になるが」

「よろしくお願いします」


 ほどなくして、夕食のコンソメスープの香りが、応接室にも漂ってきた。




          133


 終わった。麗美は正しかった。まったく、自分は希望的観測の達人らしい。

 達紀は中央情報処理室の、真っ白な天井を、ぼんやりと見上げた。

 結果はまさに絶望的だった。


 前田浩一の母親、三原浩美(旧姓前田)には、姉妹はいなかった。家庭環境を調べてみて、浩美の家が母子家庭だったらしいのが分かった。それで、今度は裁判所の記録を盗み見てみた。離婚であれ事故であれ、『今』はほとんどの情報が、電子化されて保管されている……無論厳重に、だが、達紀の腕には、あまり大した問題はなかった。

 母子家庭になった理由は両親の離婚だった。父親の方に弟が引き取られていた。父親の方の姓は南野。引き取られていった彼女の弟の名前は、圭司。

 南野圭司。

 横文字だけの欧米ならばいざ知らず、この日本で同姓同名というのは、ありふれた名字でさえ少ないものだ。そして、あの前田と南野とのDNAパターンの異常なほどの相似……

 間違いない。

 南野圭司と、その姉である前田浩美の間に出来た子が、浩一だ。

 むろん、こんな血統の子どもが、公に生まれることが許されるはずはない。

 「三原浩一」の戸籍上の父親は、ちゃんと別にいる。いや、いた。

 妻の死を受け入れられず、結果として(血のつながらない、しかし戸籍上では実の)子に殺された男。


 達紀は重いため息をついた。実際、肩の上に、何か重いものがのしかかっているような気がした。途方もなく大きな十字架が。

(呪われた血だ……)

 姉と弟との間に生まれ、戸籍上の父を刺殺し……実の兄を愛した。

(でも……)

 こんな状況に陥ったのは、彼一人の責任だろうか?

 望んで生まれてきたわけではない。もしも生まれることを望めるのならば、こんな絶望的な状況など、選ぶわけがなかっただろう。

 彼は、生まれたことに関しては、全く無罪なのだ。罪があったのは両親だ。

 では、母親である浩美の死は、彼の責任だっただろうか?

 記録を調べてみたが、交通事故死だった。状況まで突っ込んで、調べられる限り調べたところ、浩一は、父親と先に道路を渡り終えていて助かったらしい……後から渡ってきた浩美だけが、信号を無視した車にはねられ、即死した。ひき逃げ事件として捜査されたが、結局、犯人は捕まらぬまま時効を迎えた。

 別に、これは浩一の責任ではない。

 戸籍上の父を刺殺したのは、彼の責任だろうか?

 彼に責任がないとは言えない。何故なら、江波に殺人計画を持ちかけたのは彼自身で、江波が勝手に殺してやるといったわけではない。

 だが、彼がそんな行動に出た理由も、解らないではないのだ。

 死んだ浩美の身代わりとして、自分を求めてくる父親。浩美にならなければ愛してはもらえなかった。自分を自分として見て欲しかったのに、彼はただ浩美だけを見続けた。浩一は彼の中で、すでに死んでいた。存在しなかった。

 そんな中で、彼は半ば自分として生きることをあきらめていった。

 だが、運命の女神は残酷だった。

 自分として生きることをあきらめ、自棄になっていた浩一=浩美の前に、江波が現れ、彼=彼女の世界を一瞬にして変容させてしまった。

 記憶にはっきりと残る中では、初めて自分を自分として認めてくれた人。

 それ以降の浩一が、それこそ坂を転げ落ちるように、江波に傾倒していったのは、想像に難くない。欲しくて欲しくてたまらなくて、でも誰も与えてくれなかったものを、江波は与えてくれたのだから。

 初めて与えられた宝物。手放すまいとして、彼はそれをきつく抱き過ぎた。

 江波は、前田の拘束を受け入れるつもりなどなかった。

 そして彼は、全てを失った。

 前田が江波を愛するようになったのは、ある意味では当然のことだったといえる。ただ一つの問題は、二人は、半分血がつながっていたということ。

 愛することは罪だろうか? この問いだけではあまりにも曖昧過ぎるというのなら、前田が江波を愛したのは、忌むべきことなのだろうか、と問い直そう。

 それはいけないことだったのだろうか?

 達紀は、正しいとは言えなくても、間違ったことだとも言えない気がした。

 偶然愛してしまった人間が、たまたま父親の同じ兄だったというだけだ。

 そうと知らずに深く愛し、気づいた時にはもはや引き返せなくなっていた。

 江波と前田の血がつながってさえいなければ良かったのに……そうすれば、まだ二人は、ある意味で祝福された道を歩んでいたかもしれなかったのに。

 だが、二人は兄弟だった。

 無論、南野にとってはとんでもないスキャンダルだ。江波と前田が、自分の血を引く兄弟だと判ったら、自分が実の姉と通じたことがばれてしまう。前田も、たとえ知ったところで、自分の破滅的な生を人に話す気はないだろう。唯一口を開きそうなのは江波だったが、彼はそうしなかった。気まぐれなのか、それとも前田を愛していたからなのか、それとも……南野に忠誠を誓っていたからなのか。まぁ、今は、南野に命を狙われているので、これは少しありそうにない話に思われるが。


 この世に生を受けた時点で、既に彼は呪われていたのだろうか?

 命自体は呪われていたとしても、あの事故で浩美が死ななければ、彼はまだ普通の人生を送れていたのではないだろうか?

 もしも江波に出会わなければ、彼は全てをあきらめて、父親の人形になることを受け入れていただろうか? それとも、いずれやはり殺していただろうか?


 今前田は、自分の生をただひたすらに呪い続けている。何より自分自身を。

 達紀はようやっと、前田が自分をして「地獄に落ちるべき魂」と呼んでいる理由が、理解できた気がした。

(でも……生まれてきたのは、あなたの責任じゃないんです……)

 望んで生まれてきたわけじゃない。何の責任もないのに、何の罪も咎もないのに、何故呪いを背負って生きなければならない?




          134


「コーヒー、飲みますか?」

 いつのまにか、美夏がマグカップを二つ持って、傍に立っていた。

「ああ……ありがとう」

 カップを受け取り、口をつける。実に美味く淹れてある。気の滅入るような事実を発見した後である今でさえ、そう感じられるのだから、もっといい気分の時に飲んだなら、この何倍も美味しく思われたことだろう。

「君が淹れたのかい?」

「ええ。新しいバッグを使っただけですけどね」

「美味しいよ……本当に、落ち着く」

 美夏は微笑んで、ありがとうございます、と答えた。青白い頬が、ほんのりと紅を差したようにピンクに染まった。が、それは一瞬の話だった。

「なんだか、消耗してますね」

 ずばり今の状態を表現されて、達紀は困ったように肩をすくめた。

「消耗しない人間なんかいないだろうよ……一生分の悪夢を見てしまった気分だ……もう悪夢は見ないね、きっと」

 美夏はしばらく逡巡していたが、やがて思い切ったように口を開いた。

「ハッキングなさってたようですが、ここのコンピューター、外と切れているんじゃなかったんですか?」

 達紀は一瞬ギョッとしたが、まさか美夏がしゃべることはあるまいと思い、正直に告白した。

「異端児のコンピューターが一台だけあってね……ちょうどいい機会だから、遠慮なく利用させてもらった」

「それ、蒲原さんのコンピューターですよね?」

「ああ。もっとも、ごんなご大層なプログラムを仕掛けた張本人は、蒲原じゃないんだがね……僕の推論によれば、君の彼氏が殺しに行っている男……」

 美夏は苦笑交じりにその後に言葉を継ぎ足した。

「そして、私の元教官ですか……」

「だいぶ思い出したね」

 内心驚きながらも、達紀は平静を装って答えた。博士の機械は、美夏に対してはあまり効力を発揮していなかったようだ。いや、紗希に対しても、効いていなかったといえば効いていなかったが。

 美夏は別に気にする風でもない。

「教官といっても、彼の担当は実戦組でしたから、私は簡単な格闘術の訓練を行ってもらっただけですけど。インドネシアの方の実戦格闘技らしいです」

「ほう」

「物理学的諸法則を、最大限に生かして、最小の力で最大の効果を得ることをモットーとしたものです。だから、私みたいに細くても、タイミングを掴んできちんとした角度でてこを使ってやれば、金城さんぐらいの人でも投げ飛ばせます。実際、実戦訓練でですが、彼くらいの体格の人間を、三人ほどまとめて相手にさせられたこともありました」

「結果は?」

 物理法則を生かした格闘技、の言葉に興味を覚えて、達紀は尋ねた。

「勝ちましたよ。そりゃ……負けたら命の保証ありませんし……必死でした。本当に……」

 そう言いながら、美夏は声を立てずに笑った。達紀は、訊いてはいけないことを聞いてしまった気がして、思わず咳払いをした。

「そんなに昔のことを思い出しているのに、君はあまり攻撃性が強まっているようには見えないね」

 話題を変えようとして、達紀は言った。美夏は、少し眉間にしわを寄せた。

「私は紗希さんとは違って『ナチュラル・グループ』ですから」

「何、だって?」

「『ナチュラル・グループ』……遺伝子の改変をしていない、通常受精卵から生み出されたグループのことです。まぁ、精子も卵も、選びに選び抜いたのを組み合わせてはいますが、言ってみれば普通の人間です。でも、紗希さんは違う……紗希さんは『キメラ・グループ』なんです。通常受精卵に、さらに第三者の遺伝子を、強引に組み込んでいる……だから、あの人の遺伝子には、三つの起源があるわけです」

「どうやって、そんなことを、二十年前に?」

「詳しいことは判りません……でも……」

 美夏は眉間のしわをよりいっそう深くした。

「でも?」

「ドクトル・ブエルが、深く関わっていたみたいです……うろ覚えの記憶なんですが、レトロウィルスの、通常細胞で言うなら核にあたるRNAに、何かの操作を加えて、卵割が始まった受精卵に近づけ、転写酵素だったか逆転写酵素だったか……とにかく何かの酵素を使って、第三者のDNAデータを受精卵にむりやり組み込ませていた……と、思います」

「強引だな」

 本当にそんなことが可能なのだろうか。

 おそらく、自分たちの技術では不可能だろう。『今』の技術でも。

 美夏は構わずに言葉を続けた。

「半分ドクトルのお遊びだったんじゃないかと、私は考えてます……その後、無論人の子宮にそれを入れるわけですが、着床せずに死んだ卵もかなりあったと思います。そして超音波で胎児の様子を調べ、奇形児は即刻堕胎……それもかなりいたようですね……不自然なことをしたわけですから……そして残ったごくごく僅かな子どもたちの中に、紗希さんがいた……彼らは本当に、完全な実験動物でした。ある意味では……実際、人体実験に使われた子どももいたようです……そんなこんなで、結局、今生き残っているのは紗希さんだけ」

「そしてその紗希も、江波を殺そうとしたかどで、殺されかけたところを、偶然我々の組織の人間が見つけて保護したのだ……と」

 美夏ははっきりと頷いた。

「『暗黒師団』の方では、『サロメ』は抹消済みリストに入っています。私の名前が、そちらに入っているかは判りませんがね」

「君のコードネームは何だったっけな?」

 どうも、横文字の名前を覚えるのは苦手だ。高校時代は、麗美に世界史でボロ負けに負けていた。仕返しに、古典でこてんぱんにしてやったが。

「『シンシア』です。卵提供者のファーストネームだそうです」

 ふむ、そんなとこからの命名とは盲点だった、などと考えながら、達紀は同時におや、とも思った。

「『サロメ』は? まさかこれも誰かのファーストネームじゃないだろうね?」

 まさか、と言いながら、美夏は笑った。

「ワイルドの『サロメ』からですよ。ほら、あの耽美主義文学とか世紀末文学とか言われている劇。紗希さん、人の血をすすっているだけだった間は『カーミラ』って呼ばれてたんですが……あ、カーミラってのは女吸血鬼の名前です……首を切り落とすようになって、名前を変えられたんです」

「預言者の首を?」

 茶化す達紀の顔が、美夏の次の言葉で凍りついた。

「まさか。『餌』ですよ」




          135


 予想だにしていなかった単語を聞かされて、達紀の思考は一瞬停止した。

「餌?」

 おうむ返しにそう言うと、美夏はええ、と頷いた。

「無理矢理改変された遺伝情報のせいか、それとも他の何かが理由なのか、とにかくあの人は、血がなくては二進も三進もいかない身体です。定期的に輸血を行わないと、衰弱してやがて死んでしまうでしょう。でもあの人は、ただ血を注がれるだけでは満足出来なかった。自分がつけた傷口から血を飲まないと満足しなかった……それで、『処理』を兼ねて、用済みだと見なされた組織の人間を、生き餌として彼女に与えたんです」

 達紀は、思わずその様を想像して、口元を押さえた。吐き気がこみ上げる。美夏が、大丈夫ですか、と目で問いかけた。達紀は首を振った。

「想像したくないね……もう、しちゃったけど……」

「私もこの目で見たことはありません……漏れてきた話を聞いただけです」

 そう言いながら、美夏は手を差し出した。空になったマグカップを手渡しながら、達紀は言葉を繋げた。

「そうだろうね……で、ところが紗希は、生き餌でもなかった江波を殺そうとした。で、その結果こんなことになった……」

「そうです。そう聞いています」

 達紀は、カップを洗うために立ち上がろうとした、美夏の白衣を掴んで引き留めた。

「まだ何か?」

 もう話は終わりでしょう? と言う目を、まだ終わっていない、と見返す。

「君は、何故だ?」

「え?」

「君は何故、あの組織を追われた?」

 美夏が、その薄赤い唇を、きゅっと噛んだのが判った。普段は穏やかなその目に、今はあからさまな敵意が見受けられた。

「言いたくないなら、別に構わない」

 目を逸らすことなく、達紀は言った。

 美夏が唇を、微かにつり上げた。今までに見たことのない、冷たい表情。

「しくじったからです」

「任務に?」

「ええ」

「何の? 差し支えなければ、言ってくれるかな?」

 達紀の言葉に、美夏は、ますますその冷たい笑いを深くした。

「防衛庁の機密情報の奪取と、そのシステムに爆弾を仕掛けること」

 何でもないことのように、彼女は言った。が、達紀は度肝を抜かれた。

「防衛庁!?」

「ええ……防衛庁です。もちろんこの国の」

「しかしあそこのコンピューターは、外部と完全に遮断されていて……」

 自分で、外部と遮断されているはずのここのコンピューターにだって、侵入出来る自信があると言っておきながら、ずいぶん慌てている。

 美夏はクスクスと、少し声を立てて笑った。

「ペンタゴンにさえ不正アクセスが可能なら、ボンクラが管理する日本の省庁のシステムなんて、朝飯前じゃないんですか? もっとも、その朝飯前のはずの任務に、私は失敗したわけですけれど……」

 意味ありげに言葉を切る。達紀は、これは何か裏があるぞ、と感じた。

「本当なら、失敗するはずはなかったんだね?」

「当たり前です! そのための教育を受けて育ったんですから……でも、何故か失敗した……『誰かが横槍を入れた』んです……絶対に」

 その時の気持ちを思い出したらしく、美夏はぐっと拳を握りしめた。

 達紀はやんわりと、その拳の上に自分の手のひらを重ねた。

「入れた人間に心当たりはあるかい?」

「ありません。私は、同期の誰とでも比較的うまくやっていましたし……」

 もう大丈夫です、と言うように、達紀の手のひらをそっとのける。

「それに、同期ではない人間たちとも、特にトラブルは起こしていませんでしたから……何故妨害されたのか、皆目見当もつきません」

「ふむ」

 これは注意しておく必要があるかも知れない、と、達紀は心の中で考えた。

 そう考えながらも、彼は話を変えた。

「なぜ、連中は防衛庁の情報を欲しがったんだろうな?」

 美夏は首を振った。

「判りません。でも、推測を許してもらえますなら、この国を完全に支配してやりたい、という『向こうさん』のご意向でしょうね」

 『向こうさん』……きっと某国政府のことだろう。『暗黒師団』のバックについているという、あの国。

「やつら、日本を属国化する気か……」

「もうほとんどそんなものでしょうけれどね。公用語が日本語だと言うだけで実際には属国も同然ですよ……政治しかり、経済しかり、産業しかり……」

「唯一生き残っているとしたら、文化か」

 つい口調が皮肉っぽくなる。美夏もそれは同じだ。

「それも浸食されていますけどね……まあ、それは悪いことだとは思いませんよ。この国の文化であれ、どこの国の文化であれ、他国のものを吸収しながら育つのは、ある意味で自然なことですから。でも、現代世界でなければ、この日本という国は、とっくに向こうの属国になっていたでしょう。むしろ今だって、ひねくれた見方をしても良いのなら、併合されていない方が不思議なくらいだと、私は思います」

「君も意外に毒舌だね……」

 もういいよ、と付け加えながら、達紀は苦笑した。

「昔の感覚が蘇ってきたから……というのもあるんでしょうね。もっとも、私はその昔いた組織の支援者を、ボロカスに言ったわけですけれど」

 立ち上がりながらそう言って、美夏は、カップを洗うために外へと出ていった。達紀も、また自分一人になった情報処理室の全電源を確認し、外へ出た。



うん。この頃は「防衛庁」だったんだ。あんなにスピーディーに「省」に昇格するなんて思ってなかったんだ。

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