第126章~第130章
126
毎朝の恒例行事となりつつある健康診断に、紗希はずいぶん慣れてきた。
「血圧は正常値の範囲内……体温……三七度ジャスト……ちぃと熱があるみたいじゃのぉ……」
体温計を、エタノールを滲ませた脱脂綿で消毒しながら、山村が呟いた。
「そうですか? 私、平熱で三六度八分ですけど」
ガリ、ガリ、ガリ……
「そんなに高かったか?」
山村が警戒するような目をして、廊下の向こうの方に耳を澄ませた。
「ええ……」
なるべく小さな声で答えながら、紗希も耳を澄ませた。
ボトッ、バタン、ガタッ……トットットッ……バタバタバタ……
「パンセッ! 朝食抜きにするわよ!」
百合の怒鳴り声などどこ吹く風、とばかりに、軽快な足音は診療所の方へと次第に近づいてくる。
「つけ狙われとるのぉ……」
「仕方ありませんよ。私はあの子の拾い主を殺そうとしたんですから」
「案外、ライバルと思うとるんかも知らんな」
山村が茶化すように言った。目が悪戯っぽく輝いている。
「何の?」
「ネズミ取りの」
「そんなにネズミ臭いですか、私の身体?」
紗希も笑いながら返す。上着を着ると、そろそろと待合室の方に退避する。これから、ある意味で日常茶飯事になってしまった捕り物が展開されるのだ。
ドアの向こうで、山村がそろそろと扉を開ける気配がした。と同時に、別の小さな気配が、弾丸のように飛び込んできた。パンセだ。
紗希のいる待合室に行かせろとばかりに、ニャアニャア鳴き立てる。
「だーぁめッ!」
百合がパンセを掴み上げるのが、ドア越しに感じられた。ドタドタと騒がしい音が続き、ようやく籠の中に押し込めたらしい。
「OKですよ、紗希さん」
そろそろと扉を開けると、ガタガタ動く籠を両手で抱え込んだ百合の姿が、まず真っ先に目に入った。
「ごめんなさいね」
「いえいえこちらこそ……このアホ猫めが毎回お騒がせして……」
抗議するかのように、籠の動きが激しくなる。ぷっと山村が吹き出した。不服そうな目で、自分を見上げる孫に気づき、ゴホンと咳払いをする。
「朝飯は出来とるんか?」
「とーぉに……でもこの分じゃったら、じいちゃんの塩鮭、パンセに回るかも知らんねぇ」
「やめてくれ!」
「嘘よ、嘘……紗希さん、戻りましょ」
籠をしっかりと抱え込み、百合が声をかける。紗希は、籠をつついてやろうと伸ばしていた手を引っ込めて、大人しく教会の方へ歩き始めた。
この二人、いつのまにか、姉妹のように仲良くなっている。それもまたどうやら、パンセの気にくわない事項の一つであるようだ。
「……で、塩鮭と何? 朝ご飯」
「ほうれん草のお浸しと、お味噌汁、高橋さんとこで漬けたタクアンのお裾分け。それから卵巻きと……あ、きんぴらも。冷凍のだけど」
「味噌汁の具は何?」
「ニンジンとゴボウとネギ」
「美味しそうね」
のんきな会話が遠ざかっていくのを感じながら、山村はふっと、部屋の隅の『通信機』が、ノイズを立てているのに気がついた。
誰だろう。こんな時間に。どうやら本部の人間らしいが。
周波数を合わせると、オー・ワン・オー・フォー、と言う女の声が聞き取れた。麗美の本部でのコードをもじったものだ。
「黒川か?」
「博、士……ですね……?」
時々ブツブツ切れるのは、電波状態が悪いせいだろう。
「何か急用でも?」
「また今日……そ、ちらに……ぅかがいます……」
山村は顔をしかめた。一体どういうつもりなのだ?
「まだ治療は終わっとらん」
麗美の声の調子は、電波状態の悪さを差し引くと、普段通りらしい。
「経過……観察、の……名、目で……も、一つ……ご協力を……お願、いした……事がある、のです」
「何の?」
「『JFW』……の、元メ、ンバーと……接触、出……来ませんか?」
「何のために?」
元メンバー? 現メンバーではなく?
「詳し、くは、そ……ちらでお話……ます……ここだと……あぶな……」
「黒川?」
「そろそろ……厳し、いので……失礼、します……では、また」
そのまま、またノイズの嵐に切り替わる。
山村はスイッチを落とした。
思わぬ客が来ることになった。
(全く……最近の若い奴らと来たら……何でもかんでも自分たちで考えて、勝手に行動してしまう……)
そこまで考えたところで、かつての自分もそうであったことを思い出し、誰に聞かれているわけでもないのに、彼はまた咳払いをしてしまった。
(『JFW』か……)
議長を辞した後は、交友関係のあった一部のメンバーと、年に二、三度話をする程度だ。南野の過去については、その中で僅かに聞き知ったに過ぎない。何故今になって、それを調べようというのだろう?
それとも『本当に』、あの男は『暗黒師団』と接触していたのか?
そう考えた瞬間、山村は、脊椎が一気に氷になってしまったように感じた。
(あってはならん……それだけは……それだけは!)
組織の誇りが失われてしまう。もしもそんなことが事実ならば。
(ほいじゃが、事実じゃったら?)
127
哲也は久々に、コンタクトを入れずに外に出た。行き先は、キタのあのお好み焼き屋。千早に呼び出しを食らったのだ。できれば無視したかったが、情報を渡すのだと言われれば、逃げるわけには行かない。幾分重い心持ちで、彼は暖簾をくぐった。
「いらっしゃーぁい」
満面の笑みで、鮮やかな赤メッシュが迎えてくれる。最初にあった時と同じ紺の浴衣に、赤いたすきを掛けている。
「おはようさん」
「何なん? 愛想ないなぁ……注文は?」
千早はあからさまに不機嫌そうな顔になって、哲也を見つめた。メニューを持ち上げて、さりげなく視線を逸らす。
「烏龍茶一つ。後で追加する」
「はいはい……ウーロン一つね……六番、ウーロン、イチィ!」
キレのいい声で、注文を奥へと飛ばす。その声を聞きながら、哲也は千早が運んできた水に口をつけた。レモンの酸味が心地良い。だがその程度では、今の気分は晴れそうにもない。
「で、今更何? 情報なら、それなりに集め始めてるんだけど」
「いや……ちょっと思いついて、な……病院の記録に探りをかけてみた」
そう言いながら、千早はちゃっかり運んでおいた自分の水に口をつけた。
「どうやって!?」
哲也の声に、千早はシーッと人差し指を立てた。
「やかまし。企業秘密や。そんなん言えるか。それはそれとして、とにかく、あの男はたしかにガンで、あの病院にかかってる……再入院するようしつこく医者に勧められてるみたいやけど、そのたびに頑固に突っぱねてるらしい」
「どうして?」
「知るかいな……それはええとして……保ってあと三ヶ月弱らしいわ」
「三ヶ月?」
「しかも、入院してちゃんとした治療を受けたらの話でや……それを突っぱねとるんやから、そこまで保たへんのは、まぁたぶん間違いあらへんやろ」
しばらく沈黙が続く。
哲也の中で、またあの葛藤が繰り返される。殺すべきか、殺さぬべきか。
それを見透かしたかのように、千早が言葉を付け加える。
「どないしはるん? ドクター・キリコ」
哲也はぷいと顔を背けた。店に漂う音が、やけに大きく聞こえる。鉄板の上でやけ上がっていくお好み焼きの音。抑えられたボリュームで流される、和風にアレンジされた、ポップスのメロディー。厨房の喧噪。客たちの絶え間ないおしゃべり。でも何故か静かだと思った。
そのままずっと、沈黙が続くのかとさえ思ったほどだ。
ゴトッと、すぐ傍で固い音がした。見ると、先ほど注文した烏龍茶が置かれている。間の悪さをごまかすように、哲也はストローを立てて、かき回した。グラスにぶつかった氷が、カラカラと音を立てる。
「明後日の土曜、京橋に行く……それで、決める……」
それだけ言うと、もう返事をするつもりがないかのように、一気にお茶を吸い上げた。
「嫌われたみたいやなぁ、ウチ」
どこか自嘲めいた口調で、千早が呟いた。
「嫌いだよ」
素っ気ない声で、哲也は答えた。
「そんなに彼女が大事なん?」
「俺が守るって決めたんだ」
「そんなん、あんたに甘えてるだけとちゃうん?」
ぴくっと、哲也の頬が引きつった。
「殺すぞ」
低く抑えた声で言うその目からは、光が消えていた。
千早はそれ以上、口を開こうとはしなかった。
そのまま何分か時間が経過して、それきりで二人は別れてしまった。
<そんなん、あんたに甘えてるだけとちゃうん?>
違う。
甘えているのは俺の方だ。
だから、対等になるために、俺は美夏を守らなきゃいけない。
俺は脆い。美夏も脆い。
でも、俺と美夏と、二人が一緒になれば、少しは強くなるかも知れない。
美夏は自分を傷つけてまで、俺を守ってくれていた。
なら、美夏のために、俺が傷つくのは当然の事じゃないだろうか?
それがいつになるのかは分からないけれど。
人に頼るのは、もうやめたい。
でも、支え合うなら話は別だ。
俺は美夏を守る。美夏を支える。美夏も俺を守る。俺を支える。
そうやって、二人で生きていけたらいいと思う。
そんなことを考えながら歩いていた梅田の駅で、思いもかけない人物を見かけた。初めて大阪で迎えた朝、喫茶店のおばちゃんと、親しげに話をしていたあの中年の男だ。
(ジン?)
コインロッカーの方へ向かっているのはすぐに見て取れた。
縦長の扉を開き、ずいぶん大きなリュックサックを引っ張り出す。口の部分から、阪神タイガースのメガホンの柄が飛び出していた。
思わずおかしさがこみ上げてきて、小さな声で笑う。
(そうだよ……人間なんだ……)
唐突に浮かんできたその言葉に、何故か心の底からほっとした。
128
「三回目です」
蒲原が、達紀に向かって言った。三度目のメッセージが現れたのだ。
< Scarlet >
「緋色? それとも……人名かな?」
「人名じゃないんでしょうか? 一番最初が大文字になってますから」
蒲原の言葉に、なるほど、と思った。見れば確かに大文字で始まっている。
「それにしても、脈絡がないな……『私の勝ちだ』……『気をつけろ。「敵」はお前たちの中にいる』……そして今度は『スカーレット』か」
「三回とも別々の人間が送ってよこしたのかとさえ思いますね……」
「それは難しいと思うけどな……相当固いはずなんだ。ここの防御は……それを破る人間が、三人も四人もいてくれては困るよ」
苦笑する達紀に、蒲原も笑いながら頷いた。
「たしかに……しかし、異質ですね、特に今回のメッセージは……メッセージというか、むしろ、何かの信号……あるいはパスワードみたいです……最初の二つは、話しかける相手がいるみたいだったけど……」
そこまでしゃべって、蒲原は口をつぐんだ。達紀の顔は真っ青だった。
(話しかける相手? パスワード?)
「ここの基礎のシステムを組んだのは誰だ?」
唐突な問いに戸惑いながら、蒲原は答えた。
「岡野の姐さんです。指揮を執ったのは。みんなで役割分担して」
「その時、江波はどうしてた?」
「ちょくちょく覗きに来てましたよ……技術科のメンバーとは割と仲のいい方でしたから……でも……ちょっと待って下さい。まさか、江波が!?」
達紀は蒲原の顔を見ようともせず、引っ張った椅子に腰を下ろした。
「メッセージは外から来てるんだろう? 外にいながら、内部事情に詳しい人間で、なおかつ今も生きている……ときたら、真っ先に考えつかないか?」
「組織を離れた他の人間は?」
「技術科は人手が基本的に足りてない……だから、そうそう簡単に引退が許されたりはしない。在野になった元技術科の人間で、これだけの腕の持ち主は、僕が調べた限りはいない……」
「江波は狙撃手出身です!」
「ケース816の記録をさらえば判る。江波がこの組織で手がけた最後の事件だ……あいつは全く技術科の助けを借りずに、この任務を完遂した」
戸惑っているのは頭だけで、蒲原の指は勝手に動いて、言われた記録を呼び出していた。
ケース816。実行者:ES031-江波知弘。
画面に現れた文字を見て、達紀がもう一度口を開いた。
「ちょっと待て……どうして呼び出せたんだ?」
言われている意味が解らなくて、蒲原は困惑した。
「狙撃手の任務の記録は、通常『聖域』に保管されているはずだ」
「ただ検索をかけただけです……」
哀れなほどおろおろしながら答える。
「ありえない……僕だって、南野の所から引き抜いてきたのに……」
そこまで言ったところで、達紀はふっと思いついた。
「蒲原。僕のコンピューターで、同じようにやってみてくれ」
「はい」
しばらくして、情けない声で答えが返ってきた。
「できません……」
その答えを聞いた瞬間、達紀はニヤッと口元をつり上げた。
「やっぱりか。このコンピューターにしか入っていないデータはある?」
「いえ……全部バックアップを取ってあります……」
「じゃ、壊しても問題ないな」
「ええッ!?」
「いや。ちょいとばかり線を抜くだけさ……どうやら……」
電源を落とす操作をしながら、達紀は言った。画面が暗くなっていく。
「君のコンピューターだけが『変わっている』みたいだね。何、検疫だよ……ウィルスに感染したプログラムを、隔離するのと同じことさ」
そう言いながら、デスクの下に潜り込み、複雑に絡み合ったコードの中から一本を選び出すと、えいやっとばかりに引き抜く。
「これでとりあえず、最低限の対処は出来たかな……後で、この中にあるプログラムを全部調べる必要があるだろうね……」
「え?」
「僕の考えが当たっているなら、君のコンピューターは『フリー』なんだよ。外ともつながるし、聖域にも入れる……そういうふうに細工が施されてるんだ……ただ、何か鍵を持っている人間でないと、利用は出来ないんだろうけど」
蒲原の青ざめた顔を無視して、達紀は気持ちよさそうに伸びをした。
「僕は……埋め込んでません……そんなもの……」
「知ってるよ」
安心させるように笑いながら、達紀は二進数の四を指で示した。右手の中指だけが立てられた状態。
「僕の調べた限り、技術科以外の人間で、そんな真似をするチャンスがあったのは四人だけだ。そしてその中に、江波は入ってる。システムの大規模改修が行われたのは七年前だったよな?」
こくりと、蒲原は頷いた。
「その時、一番頻繁にここに出入りしていた人間は、江波だろう?」
蒲原はまた頷いた。
「このコンピューターは、番号を見たところ、結構古いみたいだ……七年前には、すでにここにあった……当たってるかい?」
また頷く。
「OSはバージョンアップを重ねてるようだけど、ソフトその他は、全部まとめてまた入れたりしていたんじゃないのかい?」
今度は二度頷いた。
「その時、全部のプログラムをいちいちチェックしたりはしてなかったね?」
引きつった顔で、蒲原はまた頷く。
「やられたね……たいした男だよ。予算をケチる本部も本部だけど……」
達紀は肩を震わせながら、声を出さずに笑った。
一気に力が抜けたように、蒲原は自分のデスクに俯せになった。
「僕は岡野の姐さんに報告してくるけど……君はどうする?」
「潔白だと言う以外には、別にすることはありません」
俯せになったまま、彼は唸るように言った。
「OK……じゃあ、僕一人で行くよ」
129
車を止め、外に下りる。傾き始めた日の下で、教会の十字架は金色に光って見える。麗美はきびきびした動作で、インターホンを叩いた。
顔を出したのは紗希だった。
「博士や百合ちゃんは?」
「祈祷会です」
ああ、そういやそんなものもあったっけ、と、聞かれたらまさに「説教」を降らされそうなことを考えながら、麗美は「そう」とだけ答えた。
奥に引っ込む紗希の後に、続いて入る。会堂には上がらず、紗希は奥の階段から、自分に割り当てられている来客用寝室の方に上がっていった。麗美の耳に、綺麗な賛美歌の合唱が響いてきた。きっと百合は、ピアノを弾いているのだろう。
猫のように音もなく、紗希は階段を上っていく。
「私も入っていいのかしら?」
階段を上がりながら呟くと、声だけが降ってきた。
「どうぞ……何もありませんけどね……」
青いピンの刺された部屋の戸が、微かに開いている。
中に入ると、青いビニールシートが敷かれた上に、べたべたと絵の具を塗り重ねられた、キャンバス地の画用紙があった。
絵ではない。でも、小綺麗な絵などよりも、何か訴えかけるものがある。
よく見れば、使い古したタオルの上に、濁った水の入ったバケツが置かれ、絵の具がしぼり取られたチューブや、それらを混ぜ合わせるパレットもある。
だが、筆がない。
紗希は指で絵の具を混ぜ、画用紙の上に、気の向くままに塗り重ねていっているのだ。描かれている何かを世界と呼べるのならば、それは実に奇妙なものだった。
上の方に、青と緑と、少し多めの白を、でたらめに混ぜた線が走っている。
黄色と青と黄緑を混ぜた、短い線が、その青い線の周囲と、画用紙の縁の辺りに、草が生えているように散りばめられている。そして何も混ざっていない純粋な黒が、乱雑に、残りのスペースを覆い尽くしていた。
壊れたテレビ画面のようにも、それは見えた。
紗希は右の指を真っ黒に染め、黒の上にさらに黒を重ねた。
それから唐突に、白のチューブを握ると、バケツの水でぞんざいに洗っただけの手で純白をすくい取り、まだ乾ききらない黒の上に線を描いた。
稲妻のようだ、と、初めて麗美は思った。
画用紙の上を走る白に、まだ湿った黒が滲んでいくその様が、似ていた。
だが、そう思ったのも一瞬だった。
紗希はまた指を黒く染め、灰色っぽくなったその世界を、また真っ黒に染め直していった。だが、混ぜ込まれた白は、すぐには消えなかった。黒を、また黒を重ね、ようやくその白を塗りつぶしたと思ったら、彼女はまた手を洗い、白を画面に塗り始めた。暗い空にまた稲妻が走り、そして再び、闇へと戻っていく。それを何回も繰り返しているらしかった。
色を重ねるうちに、明らかに、紗希の顔に疲労の色が見えてきた。
だが、言葉を出そうにも、口を動かすことが出来なかった。今のこの紗希の前では、息をするだけで精一杯だった。
何度目かになる白を塗りつぶした後、紗希は、今度は丹念に手を洗った。
それからおもむろに、赤と黒と茶色、それから黄土色と黄色をぐちゃぐちゃと混ぜて、赤錆びた鉄のような色を作った。
その鉄の色で、今まで浸食されずに残っていた、緑と青のエリアを、完全に塗り潰してしまった。そしてその錆を、黒の上にも持ち込んだ。まるで引っかき傷のように、乱雑に引かれた直線。見ているだけで痛いほどだった。
明るい色は消えてしまった。
画用紙の上に残ったのは、黒と、鉄錆のような色だけ。
紗希はまた、手を丹念に洗った。次の色に、彼女はなかなか手を染めようとしなかった。
乾くのを待っているのだ、と、ふと麗美は思い当たった。
今までは、乾く乾かないなどお構いなしに、気の向くままに色を重ねていたようにも見えた。だが、今は重ねた絵の具が乾くのを待っている。
新しい小さなパレットに、紗希はようやく別の色を出した。
それは、今まで一度も使われてはいないらしい、真新しいセルリアンブルーのチューブだった。
ほとんど水を加えずに、紗希はその水色で、黒と鉄錆の画面に、三本の明るい線を引いた。それは、猫が引っ掻いた暗幕の破れ目から、向こうの青空を見る、というようなイメージだった。
何か他の色が増えるのだろうかと思って見ていたが、それきり、紗希は色を重ねることをやめてしまった。
「紗希?」
ようやく開いた口からでてきたのは、彼女の名前だった。紗希は麗美の存在など、忘れ去ってしまっているようだった。
「これでいいんだ……今日は、これでいいんだ」
独り言のように、何度か繰り返した。
ピアノが、頌栄(しょうえい:礼拝の最後に全員で歌う曲)を奏でているのが聞こえる。
紗希は、青く染まったままの手を高く掲げながら、小声でそれを口ずさんでいた。
父、御子、御霊の、おおみ神に、ときわにたえせず、み栄えあれ。
祈祷会は終わったようだった。三々五々、人が会堂から出ていくのが判る。
パタパタと音がして、紗希はひょいと扉の方を向いた。百合の足音だ。
130
礼拝用の、白いブラウスに紺のロングスカートといういでたちのまま、百合は紗希の部屋に飛び込んできた。
「百合ちゃん、着替えないと、汚れるよ?」
紗希はまだ青い手で、そう言ったが、画用紙を見た瞬間に輝いた百合の顔を見て、どこかうれしそうだった。
「すぐじいちゃん呼んでくるね! 信者さんと話しとらんかったらじゃけど」
慌ただしい音を立てて、廊下を走っていく。この生活区間は、実は会堂ともつながっているのだ。階段を上がった後の廊下を、上がっていったときの向きとは逆に直進すれば、山村の牧師控え室に通じるのである。そこから会堂へは扉一枚。
何がそんなに素晴らしいのか判らないまま、麗美はじっと紗希の描いたものを見つめていた。
三分ばかりして、着替えた百合と、上着を脱いだだけの山村が、紗希の部屋へとやって来た。そこでようやく、二人は麗美に気づいた。
「すいません……もう少し遅くなるかと思ってました」
百合が取りなす間にも、山村は目を輝かせて、紗希の「絵」を眺めていた。
「ようやった。ようやった……」
そう言いながら、山村は、服が汚れるのも構わず、紗希をぎゅうっと抱きしめた。紗希はうれしそうに笑っている。その光景は、状況ののみ込めていない麗美の心にも、何か感動のような波を巻き起こした。
「博士、何故、あんなにうれしそうなの?」
「それは後で説明します。とにかく、下に降りて下さい。お茶入れますから」
百合はそう言って、また慌ただしい音を立てて、階下へ下りていった。麗美はよく解らないながらも、本当にうれしそうな二人の表情を見ていると、心が次第に和んでくるのを感じた。それから、百合を追いかけて一階へと下りた。
下りてみると、紐をかけられたパンセが、不機嫌そうにパタンパタンと尻尾をはたかせている。その横で、鼻歌で賛美歌を歌いながら、百合が紅茶を入れていた。
「パンセー、久しぶりー」
傍にしゃがみ込むと、縞猫は耳を伏せ、背中を丸めて尻尾を立てた。フウッと低い声で唸る。
「そんなにあたしが嫌いか?」
当然じゃ、とでも言いたげに、先だけが鈎状に曲げられた尻尾をゆっくりと振る。
「嫌な子……でも、みんなに言わせれば、私が嫌な子なのかもね……」
愚痴とも独り言ともつかないことをぶつぶつ呟くと、パンセは警戒心を抱くのもバカらしくなったのか、見事なくらいの円になって目を閉じた。
「麗美さん、自分のこと、お嫌いですか?」
カップをソーサーの上に置きながら、百合が尋ねた。麗美は即答した。
「好きじゃないわ」
「嫌いでもない?」
「解らない……でもとにかく、好きじゃない……」
「そうですか」
会話が途絶える。カップに紅茶の注ぎ込まれていく、微かな音以外には、他に何も聞こえない……いや、会堂の外で、子どもが賛美歌を歌っている……
人生の大半を、闇の中のようなあの組織で過ごした人たちが集まっているというのに、この村の何と穏やかなことか。
この村の中心。アルバート・加藤牧師の教会。教会を中心に広がる村。
-Passionflower-
<受難の花>
子どもたちの歌う歌に、何人かの大人の声が混ざる。ドナ・ノービス・パーチェム……ドナ・ノービス・パーチェム……主よ、我らに平和を……繰り返し繰り返し……子どもの声が主旋律を、大人の男が主旋律を、大人の女が主旋律を……順番に順番に回っていく……ドナ・ノービス・パーチェム……
百合が、紅茶の入ったカップを、黙って差し出した。麗美は両手を合わせて一礼してから、それに口をつけた。
歌はまだ続いていく。全員が主旋律を歌ったかと思うと、またいきなり合唱に戻り、それぞれのパートが分裂して、主旋律と他の節を歌ったり……飽きることなく繰り返される歌が、だんだん小さく遠ざかっていく。
「普通はクリスマスに歌う歌なんですけどねぇ……」
この間焼いた残りらしいクッキーの皿を差し出しながら、百合が言った。
「あの時期の歌は、特に良い曲が多いから、みんな季節外れと知っていても、暇さえあれば口ずさんでるんですよ」
「そう……」
そのまままた話が切れてしまいそうな気がしたので、麗美は言葉を継いだ。
「百合ちゃんの好きな歌は?」
「『まぶねのなかに』……だと思います。一つだけ挙げるなら……でも、他にもいっぱいありますね、好きな曲」
「良ければ、歌ってくれる?」
「いいですよ」
よく通る声が応接間の空気を震わせる。一番から二番へ、二番から三番へ。
すべてのものを 与えしすえ 死の他なにも 報いられで
十字架の上に あげられつつ 敵を許しし この人を見よ
三番から四番へ。最後の「アーメン」を長く伸ばして、歌が終わる。それを見計らったかのように、二階から下りてくる足音が聞こえた。扉が開き、紗希がひょこりと顔を出す。
「いやあ、遅ぉなってすまんの」
いつの間にか普段着に着替えた山村が、その後から現れた。
「お先に頂いています」
カップを持ち上げてみせる麗美に、彼は気さくな笑みを向ける。
「構わんよ……ようやく赤が薄れてきた……良いことじゃ、良いことじゃ」
「明日は、もっと良くなりたい」
紗希が目を輝かせながら言った。
「そうかそうか」
孫をいたわるように、山村は紗希の頭を撫でた。
読み返して「あれ? 『まぶねのかたえに』じゃなかったんだ?」と思ったのですが、あれの歌詞だと話に沿わないですね。
クラシックはバッハが一番好きです。




