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第116章~第120章

鬱々しい人間が多い中、千早さんのサバサバっぷりが好評だったのを思い出します。

          116


 嫌な夢を見る。いや、見続けている。そんな感触が拭えない。

 運命というものが、必然として在ると言えるのなら、私は生まれた時から、この忌まわしい道を歩くことを定められていたのか。

 もしもそうだと言う人間がいたら、その頭に風穴を開けてやる。

 好きで背負ったわけでもない忌まわしい生に縛られて、私は完全に道を踏み誤った。もう後戻りする時間さえ残されていない。

 後戻りができないから、道を変えてやろうと思った。


<私の勝ちだ>


 そう、私の勝ちだ。私が生き続ける限りは、浩一も生き続ける……あなたが殺さない限り。そして、殺すつもりなどないはず……何故なら浩一は、今でもあなたにとって、最も使える駒だから。

 誰も気づかないうちに組み立てられていた、完璧なシナリオ。

 そう、浩一は、あなたの手のひらの上で踊らされていることを知らない。

 だから教えてやる。

 自分の意志で行動しているつもりでも、それは全て計算されているのだと。

 あなたの血を拒絶しようとして、かえって翻弄されているのは、私も浩一も同じ。ただ違うことは、浩一はそれに気づいていないということ。

 私があなたに従うのは、あなたへの忠誠からではなく、母への義理からだ。

 ああ、バカな話だ。

 母だって、私を愛してはくれなかったというのに。

 たとえ狂信的ではあっても、浩一以上に私を愛した人間などいない。

 彼の顔を焼いたのは、彼に対する憎しみの所為。

 彼を殺さなかったのは、彼に対する愛の所為。

 あなたは両方とも知っていたのだろう。

 だから、私を脅した。

 逆らえば、彼を殺すと。

 ありえないとは分かっていても、万が一という恐れで私は縛られた。

 自分で、自分の手で、彼の顔を焼いておきながら、ずいぶん白々しい話だ。

 確かに私の中には、殺すなら勝手に殺せと、叫ぶ部分もあった。だが、彼を殺させまいとする声のほうが強かった。

 何故?

 あの組織について、ほぼ一切を失った私には、彼に侵食された居場所など、もはやどうでも良くなっていたこともある。

 だが何より一番大きな理由は、私の心が彼に依存していたことだろう。

 彼は全て私に依存していた。私は独立を保っているつもりで、彼に侵食されていたのだ。居場所だけではなく心も。

 それを知っていて……今は誰よりも憎いのに、この手で殺すことのできないあなたは、私を操った。

 悪魔のような男。そんな形容は生易しい。あなたはまさに悪魔だ。



<Be careful. "Archenemy" has been among you.>



 そう、浩一、お前は気づいているだろうがな。


 あの男が死ぬより早く、恐らく私は死んでいるだろう。

 お前が庇ったがために私が殺し損ねた、あの少年が私を殺しに来るから。

 あの少年が私の話を聞いてくれれば、もっといいが、話をする前に、きっとこの世を去ることになるだろう。だからこうやって遺書を書いている。

 これが完成すれば、思い残すことはお前とのことだけになる。

 だがこれは、おそらくどうにもならない問題なのだろう。それが『運命』だと誰かは言うかも知れない。そんな得体の知れない言葉はどうでもいいから、ただ、今、お前に会いたい。伝えたいことが二つあるから。

 一つ。

 今私がしていることは、お前に対する償いだ、ということ。

 また、私が潰し壊してきた、無数の命に対する償いでもあるかもしれない。

 こんなことを私が言ったなど、誰も信じないだろう。信じてもらえるような人間でもない。それでも構わない。事実が見つかれば信じるだろうから。

 そしてもう一つ。

 今でもお前を愛している、ということ。

 許してくれなくてもいいと一応言っておきたいが、お前のことだからきっと許してくれるだろう。

 本当に不思議だ。

 何故自分を育てた『父親』は、あんなにあっさりと殺したくせに、自分の顔を焼いた私には、逆に殺されることを願ったのだ?

 血が繋がっているからか?

 それとも、私が見つめていたのが『お前自身』だからだろうか?



 鏡を見つめれば、自分の姿が映る。

 母に似た、赤茶色の虹彩は、何故か血管が浮き上がっていて、光の加減によっては赤く見える。

 夜の闇のように真っ黒な浩一の虹彩と並べて、かつて狙撃手仲間だった誰かが言っていた。誰だったか、思い出せないが、言葉は憶えている。

「The Bloody Eyes and the Dark Eyes.」

 後ろ暗い血について言われた気がした。もちろん、言った当人は知らなかっただろうが、私は凍る思いだった。

 浩一は平静を装って、こう答えていた。

「赤と黒……じゃあ、江波が兵士で私が僧侶だね」

 私はこう返してやった。

「私が殺し屋。お前は悪魔だ」

 そう言って、人目も構わずに、彼に口づけた。こんなヤジが聞こえてきた。

「魂はもう盗ったのか」

 人前でこんなことをしても誰も驚かなかった。そのぐらい、私たちの関係は知られていたのだ。わざと知らせるつもりはなくても、浩一の私に対する態度がそうしてしまっていた。私以外の人間には殆ど懐かない猫のような彼。そう言えば、私の拾った猫まで彼に似た。

「パンセ……だったか」

 百合は、まだあいつを可愛がってくれているのだろうか。




          117


「紗希! 引っ掻かれとぉのぉたら、近寄りんさんな!」

 紐が届かないギリギリの距離までパンセに接近した紗希に、山村が叫ぶ。

「引っ掻かなかったら可愛いのにね、こいつ……ホント、私みたい」

「われ言うより、前田に似とるか。昔のな」

 そう呟きながら、山村は、ここに連れてこられた時の前田のことを思い出していた。江波の腕にしがみついたまま、警戒感をあらわにした目を、真っ直ぐ自分に向けていた。

(よろしく、か……)

 江波が彼を預ける時に言い残した言葉。まさかその言葉を、彼が……前田が使うようになるとは思ってもみなかった。

 よろしくと彼に託された紗希は、じいっとパンセを見つめている。パンセは耳を伏せ、背中を丸めて尻尾を立て、猫にしては低い声で唸りながら、紗希を威嚇し続けている。

「近づかないでって言ったじゃないですか!」

 おやつの白玉入り抹茶ゼリーを盆に載せて運んできた百合が、ぎょっとして叫び声を上げた。

「ん? だって、ここなら届かないもの」

 くるりと振り返った顔の、真っ黒い大きな目が悪戯っぽく輝く。

「見てる方の心臓に悪いです。離れて下さい……はい、おやつ。甘めに作っておきましたよ」

 そう言いながら、百合はゼリーを三つ、テーブルの上に置いた。濃い濁った緑の中に、白い小さめの塊が、ぽつぽつと浮いたり沈んだりしている。

「ドブの中を再現したみたい……で、ナメクジの死体が沈んでるの」

 横からじっとゼリーを覗き込みながら、紗希が呟いた。

「思ってること言わないで下さい。味は保証しますよ」

 スプーンを並べながら、百合が返す。紗希の暴言はさらに続く。

「うーん。でもドブって言うより寒天培地みたいかな……菌を培養してるの」

「わりゃあ、食う気を失せさす気か!」

 食前の祈りを始めようと、手を組み合わせかけていた山村が怒鳴った。

「あーはいはい。気にしないの。寒天じゃなくてゼラチンだし」

 百合がさくっと割って入り、食前の祈りを始めた。

「主よ、あなたのお与え下さったこのおやつを、『感謝して』いただきます。どうかあなたの娘、香西紗希が、あなたの御前に、真っ直ぐに歩むことが出来ますよう、守り導いて下さい。残り少ない今日の一日も、最後まであなたのことを心にとめて歩むことが出来ますように。アーメン」

 最初、いやに強調された『感謝して』の語に笑いかけた紗希だが、その次の「あなたの娘」の語に、強い違和感を覚えて、笑うどころではなくなった。

(神の娘? ありえないわ……だって私は『暗黒師団』で、人を殺すために生み出され育てられたのに……いえ、まともな人間でさえないのよ?)


 時々自分の様子を見に来ていた白衣の男が、自分の『設計者』だということは知っている。もっとも自分は実験体で、後から生み出されたより『高性能』な子どもたちの方が、その時には重要視されるようになっていたが。

 徹底した訓練。鉄の檻のような規律。自分の同期生はいない。自分は全くの『プロトタイプ』で、他の実験受精卵や、それから生まれた仲間は全て死んでいる。自分は最初期に生まれ、そして生き残った唯一人の『兵士』だ。

 『暗黒師団』の内部の様子は、僅かしか憶えていないが、確かその内部には三通りの人間がいたはずだ。第一のタイプは自分のように『造られた』人間。第二のタイプは江波のような、犯罪者に『育った』人間。そして最後のタイプは、あの白衣の男のように『従っている』人間。

 組織の最上位者は『従っている』人間で、彼らがほぼ全てを管理している。『育った』人間たちは、たいていが何らかの『仕事』でまるで使い捨てのような扱いを受けている。『造られた』人間たちは、厳しい訓練の果てに、どこかに連れて行かれた。

 連れて行かれるはずの『造られた』人間である自分が、この国にまだいるのは、自分の『性能』が後から作られた子供たちに劣っていたからだ。それで、研究の方に回された。する側であり、同時にされる側でもあった。その環境が身体の欠陥に影響したのか、歪めて育てられた精神を助長したのか、あるいはその両方なのかは判らないが、血がなくては二進も三進もいかない身体になった。血に飢える自分に、誰かがカーミラという名をくれた。女吸血鬼だ。だが血を啜るだけでは飽き足りず、ついに人の首を落とすまでになって、名は変えられた。サロメ、と。

 機会があって、ワイルドの『サロメ』を読むことが出来た。その中に出てくるサロメは、自分とは全然似ていなかった。首を落とそうとした相手は、一目惚れをした預言者ヨカナーン(洗礼者ヨハネ)だ。自分が首を落とそうとする相手は、好きになった相手とは違う。組織から与えられた『餌』だ。

 本に縛られたわけではない。

 ただ、手に入らない恋しい相手に対して、首なりとを求めるサロメの気持ちが、何か解るような気はした。

 そして、自分も同じことをしようとしたのだ。




          118


 江波知弘=アドヴァーセリは、『暗黒師団』でも一風変わった存在だった。軽く見られがちな『育った』人間の部類に属するのに、待遇はコードネームが示すとおり、『従っている』人間と殆ど同格だった。

 光の加減によっては、血に染まったように見える、不思議な目の持ち主。

 別に、その目が美味しそうだと思ったわけではない。そこまで趣味は悪くない。ただ何か、他の人々とは違う、不思議な匂いに惹かれたのだ。荒みきった環境の中で、何故か彼は満ち足りた、自己完結した世界を持っていた。

 それが『ルシファー』という愛人のためだというのは、話をしてみて判ったことだ。そんなコードの人間は知らなかったが、きっと別の場所にいるのだろうとぼんやり思った。

 愛という、奇妙だけれども、何か気持ちの良さそうな言葉に惹かれて、それから時々彼と話をするようになった。無論、都合のついた時だけになるから、どうしても回数は制限された。だがそれだけの接触でも、彼の『ルシファー』に対する思い入れを知るには十分だった。

 それを嫉妬と呼んでいいのかどうかは知らない。

 あるいは、単なる子どもっぽい独占欲だったのかも知れない。

 とにかく『アドヴァーセリ』の目を、自分一人に向けさせたくて仕方がなかった。あの不思議な気持ちのいい感覚で、自分をいっぱいにして欲しかった。

 もちろん、そんなことは叶わないと解っていた。

 彼にとって重要なのは『ルシファー』だけで、その他の人間など、どうでも良いのだ。

 解っていたからなお、彼に固執した。

 そして、あの『サロメ』の一節に引かれるように、彼の首を欲した。

 殺してまでも、独占したかったのか。

 今となっては解らない。

 ただ、『アドヴァーセリ』に手をかけようとしたことによって、ただでさえ異端者であった自分は、完全に組織から排除されるべき存在となった。


 記憶をたぐっていた紗希は、追い詰められた日のことを思い出して、ぞっと身体を震わせた。

「どうしたんですか?」

 百合が白玉を口に運ぼうとしていた手を止めて、不思議そうに紗希を見た。

「ちょっと……嫌なことを思い出したのよ」

 山村は渋い顔で紗希を見た。

「思い出さんでえぇ」

 紗希はきっぱりと答えた。

「いいえ……思い出す必要があります。私のためだけじゃなく、貴史のためにも」

「あがぁなぁはもうわれの過去を知っとるよ」

「私が『造られた』人間だということも? おそらく子どもを作れない身体だということも?」

「そこまでは知らんじゃろうが……」

 もぐもぐと口ごもったのをごまかすように、山村は冷め始めた茶を啜った。

「私は、彼に、隠し事をしたくないのです」

「『ダーバヴィル家のテス』みたいになっても知らんぞ」

「え?」

 紗希はきょとんと、回りくどい警告をくれた老人の顔を見た。

「ハーディーの小説の主人公……自分の過去を包み隠さず話したせいで、夫に見捨てられる女だ……まぁ最後には夫は帰ってくるがね……」

「見捨てられたらその時です。待ち続けるだけです。追いかける権利は私にはありませんから」

「げに『テス』じゃのぉ……」

「彼女も待ったんですか?」

「ああ。待ち続けたよ……もっとも最後には……あぁ、これ以上は言えんな」

 ネタばらしをしてしまうことに気づいて、慌てて山村は言葉を止めた。

 死んだのだろうか、と、紗希は考えた。

「捨てられることはないと、思っていますけど」

「まぁな……貴史はそがぁな事をする男じゃないな、確かに」

 そう言って山村は、抹茶ゼリーの最後の一口を口に放り込み、じっくりと味わいながら飲み込んだ。

「あ……あの……もしも許されるなら……」

「何じゃ?」

「私、貴史と……いや、やっぱりいいです……考えてみりゃバカな話ですし」

 言葉も一緒に飲み込むように、紗希はゼラチンの中から発掘した白玉を、ごくんと飲み込んだ。

「結婚式なら、この教会で挙げられるが、役所の方で籍を入れるのは無理じゃろうのぉ。わりゃあ公的には『おらんことになっとる』人間じゃけぇの」

「この『香西紗希』っていう名前は、どこから手に入れたんですか?」

「仲間内で勝手に造ったんじゃ。美夏の方もな……」

「偽造戸籍ですか」

「まぁ、そがぁなところかのぉ。出身不明者保護のために、あらかじめ用意しとぉった分を回したんじゃ」

 まぁ、籍なんか入れんでも、構わんこたぁ構わんがね、と、残りの茶を啜りながら付け足す。

「二人で思うたら、もっぺん来んさい。みんなで祝ぉちゃる」




          119


「イケ?」

 偽造身分証明書を眺めながら、千早が首を傾げている。夜明け前の大阪。

「アイク(Ike)! アイザック・カーペンター!」

 ジャケットのポケットに手を突っ込んだ哲也が、苦笑混じりに怒鳴った。

 バイトの帰り道にこいつに捕まったのが、ある意味運の尽きだったかと、心の中で呟く。

「何人やねんアンタは……アメリカ人に化けたん?」

「目ぇ見て判んない?」

 よく見れば、哲也の目はいつもの黒ではなく、自然な青色になっている。

 判るか!とツッコミを入れてから、千早は何度目になるか判らないため息をついた。

「混血進んどるご時世とはいえ、やっぱり異様やな、その目ェ。顔濃いぃんやから、アラブ系の名前でも良かったんとちゃうん? ほな、黒でもいけたやん」

「だって、英語はしゃべれるけど、アラビア語は無理だもん」

「高校行ってへんのやろ?」

「自分で勉強はしたけどね……いろいろする間に」

 ハァ、と千早は大仰なため息をつく。これで何度目だろう。

「それにしても不思議やなぁ。あんだけ英語ペラペラのくせして、なんで釣り銭の計算間違うねん」

「俺文系人間だもんね。数学は敵だよ。最大の失点源!」

 力説する哲也に、千早は冷たい指摘をくれた。

「釣り銭の計算なんか算数やん」

「細かいことごちゃごちゃ言うんじゃない……で、なんで引け早々呼びに来たわけ? 福浦さんから伝言? ……じゃないよな……そんなら貴史が『家』にいるんだから、そっち行った方がいいもんな……」

「用なかったら来たあかんのか?」

 ジロリと睨みつける姿はなかなか迫力がある。

「そういうわけじゃないけどね……って、用なかったのかよ?」

「あると言えばある。ないと言えばない」

「どっちやねん!」

 思わず、聞き慣れてきたツッコミを飛ばした。千早がおぉ、と声を上げた。

「今のイントネーションえぇな。違和感あらへんかったで」

「どうでもいいから答えろ」

 声を低くして睨みつける。

「ごめん。ぜーぇんぜんこわない」

「けっ。可愛げのねぇ女」

「えぇよ~。誰もウチに可愛さなんか求めとらんもんね~」

「開き直るか普通?」

「まぁ前科持ちやしねぇ、ウチ」

「は?」

 哲也は我が耳を疑った。前科持ち?

 千早の方はあ、しまった、という顔つきで、慌てて手を振った。

「あぁもう、そんなんどーでもえーから!なぁ、デートせぇへん?」

 哲也は再び自分の耳を疑った。

「デート?」

「せや」

「悪いけど彼女持ちだから」

「ここにはおらへんからえぇやん」

「俺の心の中にいる」

 真面目くさった顔でそう言ってやると、千早は、窒息するかと思うほど笑い転げた。

「くっさ! めっちゃくっさい! 何なんそれ! せぇしゅん!」

「どうでもいい。そんな用なら俺は帰る」

 立ち上がりかけた哲也に、千早が小さく声をかける。

「うわ。嫌な男」

 哲也は振り返って言い返した。

「どっちがだ! 俺は浮気なんか出来るほど器用じゃない」

「浮気ちゃうわ」

 妙に凄みのきいた声で、千早が呟く。

「じゃ、何?」

「本気」

 千早は哲也の目を、真っ直ぐに見つめた。

「余計悪い」

 冷たく言う声に弾かれるように、千早は叫んだ。

「せやかて、好きやねんもん!」

 関係ないだろうと、それだけ言えば良かったはずなのに、何故か哲也はぐっと詰まった。何か心に響くものがあった。

「ウチは、あんたが好きやねん」

 繰り返して、千早が言った。目を逸らせなくなっている哲也の唇に、千早は伸び上がるようにして、また自分の唇を押しつけた。

「ウチは本気やからね!」

 咄嗟に唇を拭った哲也を、恨めしげに見つめながら、怒鳴るように訴える。

「あきらめたらんから!」




          120


 何とも言えない複雑な気持ちで、哲也は『家』のドアを開けた。

「ただいまぁ」

「よぉお帰り……って、目ぇ死んでないか?」

 台所に立つ貴史が、ひょいと振り返って哲也を見た。油と薄切りにしたタマネギのついたフライ返しを持っている。炒め物にしては、コンロの火が弱い。

「あー……そうかもしんない」

「ヤバイ事でもあった?」

 いきなり牛乳を、火にかけている鍋に注ぎ込んだので、哲也はぎょっとして手元を覗き込んだ。

「なんだ……グラタンかぁ。びっくりした」

「食いたくないなら無理にとは言わないよ……で、何があったわけ?」

「うーん。組織としては全然そうでもないけど、俺としてはかなりヤバイ事」

 ごにょごにょ言いながら、脱いだジャケットをダイニングの椅子にかける。

「具体的に言え」

「千早にコクられた」

「……」

 しばらく沈黙が続く。ただ響くのはグラタンのもとの煮える音と、冷蔵庫の低く唸る音。それから、電子レンジの暖まる音と、微かな蛍光灯の振動音。

「俺、耳の病気にかかったのかもしれないから、もう一回言ってくれる?」

「高階千早に告白された」

 ため息をついたのは貴史の方だった。

「ドッキリ?」

「いや、どうもマジらしい……あーもう、頭ごっちゃごちゃ」

「だろうな……で、何て返したんだよ」

「無視して帰ろうとしたんだけど、またやられた」

 そう言うと、押しつけられた千早の、柔らかい唇の感触が蘇ってきて、哲也はまた唇を拭った。それで、貴史もどんなことになったのかを察した。

「ははぁ……大胆だよねぇあの子も」

「あきらめないって言われたんだけど、どうしたらいい?」

「俺に訊くなよ」

 あきれ顔に言って、火をさらに弱める。手にしているのはいつの間にかおたまに変わっていて、それで焦げ付かないようにじっくりかき回す。

「俺は美夏が好きなんだよ……だけど、美夏は……」

「美夏ちゃんは?」

「俺のことを好きだって言う時の声、いつもどっか虚ろなんだ。感情が上滑りみたいな感じで、心の芯に訴えてくるものが見つからない」

「で、千早のにはそれがある?」

 黙っていることが肯定を示す証拠だった。

 貴史は深々とため息をついた。

「美夏ちゃんに、真剣に好きだと訴えて欲しい気持ちは解るけど、彼女の過去考えたら、ちょっと難しい相談なんじゃないの? あの子は『愛する』っていう感情を知らないで育てられたんだよ? 君とまともに『おつきあい』できてる事さえ不思議なくらいの環境でね」

「判ってる!」

 あのテープから聞こえてきた、催眠状態の紗希の声が語った言葉を忘れてなどいるわけがない。忘れられるわけがない。

「You know. But you don't understand. ……解ってはいないんだ」

 丁寧な発音で言いながら、貴史は鍋の火を止めた。厚手の器に、すくい上げたグラタンを移す。見計らったかのように、電子レンジの音が鳴った。表示を見ると、予熱二二〇度で十分の設定。移し替えた器を、黒いプレートの真ん中に載せて、そっと中に入れ、スタートボタンを押した。黄色い光が、グラタンに降り注いでいく。

 よっと声を出して立ち上がった貴史は、やっと真っ直ぐに哲也の顔を見た。

「何ですか?」

「いや、微妙に似合ってるよね、そのコンタクト。ホントに外国人みたい」

「千早は異様だって言ってたけどね……」

「だから『微妙に似合ってる』って言ったんだってば……で、本当にどうする気だよ? 千早のこと」

「美夏以外の女には興味はない……」

「ふーん。ふーぅん」

 嫌みったらしく二度繰り返す。

「でも、初めてなんだよ……あんな風に真剣に言われたのって」

「あれ? 意外……モテモテ君だと思ってたのに」

「否定はしないけど、拒絶したらあっさり引き下がるのが多かったんだよ……だから、どーぉせ顔だけが目当てか、と思ってひねくれてた」

 見れば、左目のレンズを外したので、左右が違う色の目になっている。

「それで顔のことを言われると嫌がるわけか……猫みてぇだな、その目」

「そういうこと……猫?」

 左右バラバラの色の目のまま、哲也が首を傾げた。

「いるじゃん。片側が青で、もう片側が焦げ茶色の目の猫って」

「聴覚に異常があることが多いらしいけどね」

「お前の場合、心の聴覚に異常アリ……みたいだな……」

「何で?」

「正直になれよ……本当は千早のことが気になってるんだろ?」

「なってない!」

 むきになって言い返す。

「はいはい……ところでさっさと右目のレンズ外してくれないか?どっちに焦点合わせたらいいか迷うから」

 大人しく右目のレンズを外し、両方とも黒の目に戻る。

(冗談じゃない……どうして美夏以外の女に目を向けるんだよ)

 そう呟く心のどこかで、自分を嘲笑う声が聞こえた。


<片想いみたいな関係に疲れてるんだろ?>

<誰も見てないんだよ? 貴史がしゃべるわけないんだよ?>

<せっかく言ってくれたのに、すげなくしちゃって、良心は咎めないの?>


(バーカ……浮気する方がよっぽど良心に咎めるよ)

<浮気ちゃうわ、本気や!>

 千早の声が、妙に鮮やかに、耳の中に蘇ってきた。



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