第106章~第110章
これでようやく全体の半分です。長い長い。
ちなみに関西の出汁文化の発展には、昆布を運んでくる北前船の存在が大きいのですが、哲也はそこまで習ってないので知りません。
106
夢を見るのは、迷いが多いからだと、昔の賢者は言った。
私に関して言えば、それは当たっている。
いつも迷い迷って、最悪の選択をしてしまう、愚か者の私。
何故あれほど江波に偏った愛を注ぎ続けたのか、今も理解できない。いや、それは当然だろう。私は今も変わっていない。
子どものままだと幸恵に言われた。別に構いはしない。事実その通りだ。私の心は子どものまま、ちっとも成長していない。子どもの部分を残したまま、歪んだ成長を遂げたから。
大人になれた幸恵の方こそ、私には不思議だ。
<彼に会いたい>
聞き入れられない無理な願い。それでも願わずにはいられない。そんな私を幸恵はバカだと言う。別に構わない。彼のいない世界に生きていても、意味はないと思うから。
周りが見えていないとよく言われた。別に周りのことなんてどうでもよかった。ただ江波さえ私を見てくれれば、たとえ世界が破滅したって構わない。彼のためなら、今でも死ねる。幸恵は狂っていると言うことだろう。構わない。
「黒川は、今日あたり戻ってくる、か……」
金城さんを誘って、屋上に出る。少し空気が湿っぽい。雨が近いようだ。
「複雑な顔しとるのぉ」
金城さんが、横合いから声をかけてくる。
「別に、何も考えていない」
ぶっきらぼうに答えてみせる。金城さんは、私が誰のことを考えているのか知っているから。
「苦しい時に、あんたは苦しいゆぅて言わんけぇのぉ」
「別に、苦しくなんかない」
心の奥が痛む。
戸川は必ず江波を殺すことだろう。そう信じて彼を推薦した。江波を殺そうとしているのは私だ。私を殺してくれなかった。そう、私はエゴイスト。私の血だけが繋がった父である、あの男と同じ。
「そんならえぇんじゃが」
そう呟きながら、金城さんはひょいと空を見上げる。つられて、私も空を見上げた。心なしか色が薄い。吹き抜ける風が心地良かった。
私のように、救われることのない魂にも、風は吹いてくれる。日は降り注いでくれる。雨もまた、同じ。
江波が死ぬ時、私も死のう。
それが、せめてもの償い。
そして、あの男に対して出来る、唯一の報復。
自分では死ねない意気地なし、といつも私を嘲笑する、あの男に。
……江波。
私が、自分の出生について、あなたの説明を鵜呑みにしたと思います?
まさか。
自分で調べましたよ。ちゃんと。
だから、全部解っているんです。
そしてだから、納得しているんです。私は救われてはいけない魂だと。
死を待つだけでしかなかった生を、あなたは変えてくれた。光をくれた。
そして、あなたが消えた時に……私が消した時……私の生はまた闇の底へと戻った。
私がいるのは闇の底。
誰も気づいても助けてはくれない。
誰も聞こえても答えてはくれない。私の叫びに。
私は、罪の結晶だから。
「金城さん……」
「何じゃ?」
ひょいと振り返った顔は何気なくて、言いかけた言葉を、私は飲み込んだ。
「何でもない」
ええ、何でもありませんよ。
何でもないことでしょう?
私が死ぬことなんて。
あなたには村に、妻がいて、娘がいて。
幸恵には、西村さんがいて。
私はどこまでも貪欲だから、誰かに独占されていないと不安なんです。
その誰かに選ばれた江波には、やはり悪いことをしたと思っています。
でも、もう彼以外、どうでも良いとさえ思うんです。
私を間違っていると、幸恵は言います。
けれど、何が間違っているのか、私には解らないのです。
自殺だけはいけない、と、いつも言い続けられます。
人の自殺は止めたくせに、自分は死ぬのかと言われるでしょう。
私の生は違うのです。他の誰とも。
私の生は憎むべきものです。
母の胎にいる間に、何故死んでしまわなかったのでしょう?
母はどんな思いで、私を育てたのでしょう?
いっそ殺してくれれば良かった。何も知らずにいられれば良かったのに。
「わたしの生まれた日は、消えうせよ。
男の子をみごもったことを告げた夜も。
その日は闇となれ。
神が上から顧みることなく
光もこれを輝かすな。
暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい……」
「前田!」
金城さんの叱責する声が響く。私は笑いながら言った。
「ヨブ記の、第三章……自らの生を呪う言葉」
107
夕食はむろん『家』でつくる。
どこで買おうが、食料品の値段はほぼ同じ。しかし値段の変わる物もある。足りない分は、明日にでも船場へ行って調達しようと、貴史が提案した。問屋街だから、普通の店で買うより安く手に入るらしい。
「交通費はどうなるんですか?」
冷蔵庫のスイッチを入れてくれていた管理人に感謝しながら、二人は買い物袋をガサガサ開けると、まず冷凍食品を中に放り込んだ。生鮮食品は今日使う分だけしか買っていない。保存食はキャビネットの下に袋ごと押し込んだ。
「車があるだろ」
「で、場所は?」
「駅で言うなら、本町から堺筋本町の間。御堂筋から堺筋にかけて、10号館から1号館まで。総延長軽く六百メートル。それぞれが地下二階から地上四階までの六階建てね」
「ミナミ?」
「よりはちょっと北。キタとミナミの間だね。真ん中ってわけじゃないけど」
空になった買い物袋を折り畳んでいる貴史の横で、哲也は備え付けの鍋の数と種類を数えていた。両取っ手付きの大鍋が一つ、小鍋が二つ、底が深いめのフライパンが一つ。先に住んでいた人物は、これで事足りていたらしい。
「煮物と炒め物……ご飯はレンジでやればいいか。スポンジ買っときゃ良かったな……洗剤も」
「管理人のとこに借りに行くか……」
ごちゃごちゃ言いながら、今しばらくの同居生活が始まった。
「ちょっと醤油足りないかなぁ?」
沸騰した湯を満たした小鍋に、冷凍の里芋を放り込み、ほんだしと昆布だしとみりんと日本酒を適量、醤油は色づけ程度に入れる……はずだった。
小皿がなかったので、おたまに直接口をつけて味をみた哲也の発言に、貴史がぎょっとする。
「どれだけ入れる気だお前は……関東人の味覚というやつはさっぱり解らん。せっかく良い出汁が取れてるのに、どぼどぼ醤油を入れやがって。まろやかな風味が台無しじゃないか」
まろやかという単語が意外だったので、哲也は醤油のボトルをふりながら、クスクス笑った。
「うーん……たぶん関西は貴族文化圏で、関東は庶民文化圏だからじゃないのかな? 関西の文化は中世以前から発達してたけど、関東の文化が本格的に形成されたのは、江戸時代以降でしょ? しかも、その主な担い手は庶民だった」
「それと醤油と何の関係がある?」
唐突に始まった社会科の講義に顔をしかめながら、貴史はピーマンの種の塊をちぎり取り、こぼれた分を水道の水でまとめて洗い流した。
「だからさ、庶民ってことは、一般労働者ってことでしょ? 汗をかいたら塩分の補給は不可欠じゃない。だから醤油を大量に使うようになったんじゃないのかな……と思うんだけど?」
「ふーん……なるほどな」
へたと底の固い部分を切り落とし、千切りにし始める。慣れた手つきだ。
「初期関西文化の担い手は、自分で働く必要のない貴族だったでしょ?」
「そう言われればそうかもな……地歴赤だったからよく解らんけど」
フライパンにサラダ油をひいて、チンジャオロースのもとを炒める。刻んだピーマンを足すと、種を流した時の水が、油から爆ぜてバチバチ飛んだ。
「それでも江戸に入ると、やっぱり庶民の文化になっていったんだけども……まぁ当たらずといえども遠からずだと思うよ。んじゃ、足すよ、醤油」
「大さじ一杯半までな!それ以上は妥協せん」
「ケチくせぇの……はいはい!」
まさか計量さじを使うわけもなく、適当にボトルから注ぎ入れる。
「あぁ。出汁が台無しだ。二杯半分も入れやがった」
「何で判んのさ……うん、こんなもんかな」
もう一度味をみて、哲也は弱火に切り替え、時計を見た。
「食わねぇからな」
「ものは試しだってば……って、東京に何年いたの?」
「五年でーす」
どうやら痛いところを突かれたらしい。はさみでソースの袋を切っていた貴史が、平たい声で返事をした。
「そんなら絶対食べられるでしょーが!」
文系は完璧だったと称するだけあって、きちんと「ら入り言葉」だ。
「慣れないモンは慣れないんだよ!」
叫びながらもきっちりソースを絡め、出来上がったチンジャオロースを皿に移し替える。
「スポンジも洗剤もないから、ティッシュで拭いて水洗いが限界だよ」
ぐつぐつと煮える里芋に、菜箸を突き刺しながら、哲也が言った。火の通り具合を見ているのだ。
「わーかっとるわい……あ、そうそう。明日な、ついでに日本橋の方まで足を伸ばすかも」
「え? 大阪にも日本橋ってあるの?」
「あるわボケ……電気街や。あ、そうそう。位置づけといたしましてはミナミになります……案外早く道頓堀見られそうやな。ところで煮物はまだ?」
箸と皿とコップを並べながら、ひょいと振り返ると、里芋を一つつまみ食いしている哲也を目撃することになった。
「結局食べるんだね」
何先食うとんねん、とこづかれながら、哲也は笑った。
「明日は雨になりそうだね……あのおばちゃん、甲子園行けるのかな?」
食卓に着き、テレビの天気予報を見ながら、哲也は今朝のことを思い出す。
「さあなぁ……行けたらえぇやろけど」
すっかり大阪弁に戻った貴史が、パキリとウーロン茶のボトルを開けた。
108
最初は小降りだったのだが、本部に着く頃にはかなり激しくなっていた。殆ど役に立たない傘に悪態をつきながら、麗美は屋根の下に飛び込んだ。
「西へ向かって来たわけだから、雨雲の塊に突入してったってわけよね……」
寒冷前線が温暖前線に追いついて、閉塞前線になるのはいつかしらと、理系くさい思考を巡らせながら、麗美はレインコートを着ていて正解だったわねと小さく呟いた。
「さて、と……」
くしゃくしゃに丸めたレインコートを、コンビニの袋に放り込んで、麗美はエレベーターに向かって歩き始めた。
紗希は博士に預けておけば大丈夫だろう。気に掛かるのはあの猫だが、貴史にベタベタに懐いていたそうだから、貴史に危害を加えようとしていた紗希に飛びかかったのは、納得できるといえば出来る。
(動物の勘ってヤツは鋭いのねぇ……)
達紀はどうしていたのだろうと、ふっと考えた。
あのコンピューターに現れたメッセージについては、何か判っただろうか?
「私の勝ちだ……か」
いったい誰に対して、何に勝ったというのだろう?
そこまで考えて、麗美は山村から聞いた、南野……自分の父親……に関するまずい情報を、達紀や前田たちに教えるべきかどうか逡巡した。
前田は知っているのだろうか?
自分が腹違いの妹だと。
知らなかったらどうしよう?
そう考えて、麗美は決断した。教えるのは達紀だけにしておこう、と。
エレベーターのドアが開く。そこに立っていた人物を見て、背筋が凍りつきそうになった。
「仮病だったのか?」
南野の冷たい声が、耳の奥にこだまし続ける。
エレベーターの扉が背後で閉まり、ようやっと麗美の思考は平静に戻った。
南野が、五階に、何の用だ?
彼の部屋は、六階のはず。
心臓が打ち鳴らされる早鐘のように、激しく鼓動する。
「達紀」
まさか、ハッキングがばれた?
自分の部屋から、一つ空けて隣の彼の部屋の扉を、勢いよく開いた。
静かに、達紀が振り返るのが見える。
だが同時に、この部屋で見ることは決してないと思っていた人物の顔も、こちらを向いたのだ。
「……美夏?」
「どうしたんだ、麗美?」
静かに、達紀が尋ねる。美夏は椅子に、静かに座ったまま、新たに部屋に入ってきた麗美の顔を、じっと眺めている。
「何も、なかったのよね?」
「他人の彼女に手を出すほど、僕は悪趣味じゃないよ」
見当違いの間抜けな答えが返ってきて、麗美は笑いながら床にくずおれた。
「なぁんだ……私の、勘違いか……」
「言っておくけど、僕は君のものなんだからな」
部屋の奥で、美夏がクスッと笑うのが聞こえた。その右腕に、真新しい包帯が巻かれているのが見える。
「また……切ったの?」
「そのことで話をしていたんだ……記憶が戻って来つつある……あぁ大丈夫。もうあの機械は使わなくていい。僕が保証するよ。それより、君の方こそ何かあったのかい?」
「……」
麗美はチラリと、美夏の方を見やった。
「席を外しましょうか?」
「ん……ごめんね。君にも聞かせるべきだと思ったら、呼びに行くから」
「解りました」
悪戯っぽく笑いながら、美夏は出がけに、「ごゆっくり」と囁いていった。
思わず苦笑した麗美を見ながら、達紀は頭の中で、麗美は麗美だ、と何度も繰り返していた。明日には、きっと、良くない結果が出るのだろう。後悔の念が身を苛むと同時に、それでも彼女をまず自分が認めなければ、いったい誰が認められるのかと、自分を叱咤していた。そう、自分が受け入れなければ。
「で、何があった?」
「南野さんと……エレベーターの所ですれ違ったの」
「それで、ハッキングがばれて、彼が僕を殺しに来たと思ったんだ?」
麗美は頷いた。
「この部屋には影も形も見せちゃいないよ。安心していい……僕がそんなヘマをやると思うか?」
「思わない……けど、不安だった! 自分にとって邪魔者なら、誰だって平気で殺す男よ? コンピューターの記録だけで十分すぎるほどだわ! 目の前でなんて耐えられない!」
いきなり抱きつかれて、達紀はたじろいだ。
「解ったから……で、何故それで美夏に席を外させる必要がある?」
その問いに、麗美は直接は答えなかった。
「『暗黒師団』のバックについている政府が、どこの国のものかは知ってるわよね?」
「ああ……」
相槌を打ちながら、だから美夏を追い出したのかと、達紀は納得した。
「南野は、その国にいたの……かなり長い間……博士の情報よ」
「おい。ちょっと待て……まさか」
両肩を掴んで、達紀は麗美の目を覗き込んだ。
「あり得そうだと思わない? 悪魔の名前なんて、あの人にこそお似合いだわ」
109
「鼻が利くねぇ……連中も」
車のバックミラーを眺めながら、貴史が冷笑した。黒い軽自動車が、さっきからずっとつけてきている。
「この分だと、ねぐらは押さえられたみたいだね。銃器類を持ち出しておいて大正解だったよ」
警察に見つかるとヤバイ類の物は、全てこっそり改造した後部座席の中に、クッション材と一緒に詰め込んである。よほど注意深く観察しない限り、まずばれることはないだろう。まず目がいくのは、その上に積み上げてある紙袋の方に違いない。
袋の中身は、ただの服とか下着とか洗剤とかスポンジとか。いたって普通の日用品ばかりだ。スポンジは近くの百円均一の店で購入。衣類は船場の方で、適当に買った。哲也が物珍しそうにきょろきょろするので、はぐれないようにまた手をつなぐハメになり、しかも追手をまくのだという口実をつけられて、1号館から10号館まで、殆ど全部の店の前を歩かされたため、貴史は微妙にご機嫌斜めである。まず10号館に行く必要があったのだろうか。あそこはセンター街の陸の孤島である。
「観光は仕事が終わってからでいいだろうが」
ぶつぶつと呟きながら、ハンドルを片手で操る。
「明日辺り、和泉ナンバーに付け替えるか……」
「プレート付け替えるのは解るけど、なんで和泉なの?」
「和泉ナンバーは、運転荒っぽいって評判があるから、道を譲ってもらい易いのさ……この辺りにも多い方だから、あんまり目立たないし」
「もう一個持ってきてなかったっけ?」
「ああ……世田谷ナンバーのやつをな。目立つから」
気のない声の返事に、助手席の哲也は寂しそうな顔を作った。
「怒ってる?」
「別に……あぁもう、そんな捨てられた猫みたいな情けねぇ顔すんな!」
「ふふ。俺は捨て猫~~」
そう言いながら貴史の方にしなだれかかっていく。首筋に息が掛かる。
「おいコラ!」
「左の後、黒いバイク、つけてる」
耳元に囁かれる。バックミラーを眺めれば、たしかにその通り。
「『暗黒師団』だからって、わざわざ黒で統一する必要もないと思うんだが」
貴史の呟きに、ひょいとまた離れた哲也がうーんと首を傾げた。
「ごめん。バイクの方は、お仲間みたい」
赤信号で停止すると、件のバイクは真横につけ、窓を開けるようにコンコンと助手席の窓をノックした。
右手に握った拳銃を確認しながら、左手で窓を下ろしていく。
「おはようさん」
ヘルメットを脱いだその顔は、先日会った諜報員、高階千早のものだった。
「何だよ?」
「赤井と福浦の親父から預かってん」
そう言いながら、ほれ、と下げていた鞄から茶色い大きな封筒を取り出し、哲也に向かって差し出した。
「俺らつけられてんだぞ。お前まで目ェつけられたらどうする?」
「あらまぁ。そんなの気にしなーぁい。こーゆーことにしとけばえぇねん」
そう言うなり、千早は自分の唇を、哲也の唇に押しつけた。
信号が青に変わり、貴史は平気でアクセルを踏んだ。
「ばいばーぁい」
あっけらかんとした声が後ろから響いてくる。車窓から流れ込んでくる風を受けて、哲也の思考回路はようやっと正常な活動を再開した。
「あンのアマぁ……」
左手で窓の開閉スイッチを押しながら、右手で何度も唇をこする。
同情したいけれども、同時にいい気味だとも思って、貴史はクックッと笑いを漏らした。
「愛されてるねぇ」
「俺は美夏だけです! ったく……今度会ったら蹴り倒してやる」
「押し倒してやる、の間違いだったりして」
「射撃の的にしますよ……大阪の女の子はあんなのばっかり……とか言ったりしないでしょうね?」
「まっさかァ……あんなのもいる、ってだけさ……で、それ何?」
封筒の中身をチラリと見ると、どうやら大阪で活動している『暗黒師団』のメンバーの情報らしい。
「敵さんの情報です。顔写真と暗号名とその他」
「昨日のおっさんはいるか?」
「今見てますよ……あ、いた……『ジン』ってコードネームらしいですね……アラビアの伝説に出てくる悪霊だったっけ」
「変なことに詳しいよな、お前って」
あきれ混じりの貴史を無視して、哲也はパラパラと紙をめくっていく。
「あ、『カイム』の顔写真だ……どっから手に入れたんだろ? すげぇアップ。ふぅん、前科持ちなんだ。じゃこれ、警察の方の写真だな」
「前科?」
「麻薬絡み四回、窃盗一回、恐喝一回……BSのムショ帰りですとさ」
「BSってーと……」
「犯した罪は比較的軽いけれど、犯罪性が進行している人間が行かされる刑務所のクラス。入ってる連中は暴力団構成員が多いらしいね」
再び赤信号。町中信号だらけだ。
「そーすっと福浦さんの管轄だな……そのアップっての、見せてくれないか」
どうぞ、と手渡された写真の顔を、貴史はしっかり頭に焼きつけた。
白髪交じりの癖ッ毛。血色の悪い肌。そして爬虫類のような、不思議な目。
黄みがかった苔色の虹彩を透かして、写真でも判るほどはっきりと、血管が赤く走っている。
「目ぇ見りゃ一発だな……江波みたいに」
呟きながら、貴史はまたアクセルを踏みつけた。
110
パンセには紐がつけられた。執拗に紗希を引っ掻く機会を狙うのだ。油断も隙もない。百合がもうお手上げだと愚痴をこぼしていた。
「いくら永居さんが好きだからって、永居さんの好きな人を引っ掻いちゃダメでしょうが」
そう言い聞かせてみても効果はなし。
「猫の嫉妬って恐いのね」
紐の届かない距離で眺めながら、紗希が呟いた。
「パンセって、メスなのよね?」
「はい。避妊手術しちゃいましたけどね……仔猫の面倒を見る自信がなかったから……今はちょっと悪いかなって思ってます……紗希さん?」
「じゃあ、もしパンセが人間だったら、私の恋敵なんだ」
一瞬焦点のずれた目に向かって、正気に戻れと言うように叫ぶ。
「猫ですからね!」
「判ってるわ……でも、そっくりね、本当」
どこか寂しそうに、紗希は笑った。
「どこがですか?」
百合は、狭い猫の額にデコピンをかましてやろうとしていた手を下ろして、紗希の方を向いた。
「好きな人に近づいてくる人間を、片っ端から攻撃してやろうとしたり、好きな相手にだけはベタベタに懐いたり……あと……子どもが産めない……のも」
「え?」
「全く産めないわけじゃないらしいけど、私の卵子は、かなりの量が冷凍保存されているらしいの。もといた方の組織にね……卵原細胞の数にも限りはあるから、生理が一回来る毎に、私は自分が生み出せたはずの命を殺してしまったような気分になるのよ……そして、平静な思考が出来なくなる。私の中の殺し屋が、勢力を強めてくるの」
私の中の殺し屋は、血が大好きなの。
だから、殺し屋が勢力を強める期間は、血を摂取したくてたまらなくなる。
人を殺すことは、かろうじて抑えているけれど。
「たしかに、人に比べてすごく貧血になりやすいから、輸血は事実必要なの。けど、あいつは血管内に血を入れるより、口の中に血を入れる方が好きなの。おかげで体が弱ってきてる……本当に少しずつだけれど……」
本当に寂しそうに、紗希は笑った。
「ちゃんと『普通』になれますよ。そんな奴おじいちゃんが消してくれます」
百合の言葉に、紗希は首を振った。
「だって、一回ダメだったじゃない……一時しのぎにしかならないわ」
「やって見なきゃ判らないじゃないですか!」
紗希は、それもそうかもしれないけれどね、と、気のない返事をした。と、ふと思いついたように顔を上げた。
「貴史はどう思うのかしら?」
「何についてですか?」
「私が『普通』になることについて……彼は私のどこが好きなの? 彼を殺そうとした時よ? 彼が好きだと言ってくれたのは……」
「愛される自信がないんですか?」
「ないわよ! だって私は……私の中には、血に飢えた殺し屋がいるのに!」
感情に揺さぶられて、自分の言葉の矛盾に、紗希は気づいていなかった。
百合は紗希の横に腰掛けて、ゆっくりしたテンポで話しかけた。
「その殺し屋を受け入れて、永居さんは好きだって言ってくれたんじゃないんですか? 何も心配する必要はありませんよ。帰ってきた永居さんに、もう一度好きだって言ってみたらどうですか?」
紗希の黒い瞳が不安げに揺れる。
「きっと大丈夫だと思いますよ。だって自分を傷つけてまで、相手を愛せる人って、そうそういないと思いますよ」
「でも……」
反論しかけた紗希の目の前に、百合は人差し指を立てた。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」
そう言って、百合は明るく笑った。
「永居さんはあなたに対して、これを実行してくれていると思いません?」
大きな目を、さらに大きく見開いていた紗希が、ぽつりと言った。
「それは……聖書?」
「コリントの信徒への手紙一、第十三章、四節から七節。パウロの言葉です」
「そうなんだ……」
少しかすれた声で、囁くように言いながら、紗希は微笑んだ。
「ねぇ、大丈夫ですよ」
『何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時』(コヘレトの言葉、第三章、一節から八節)
こうやってちまちま聖書(新共同訳)の引用をしていると、宗教の試験を思い出す。持ち込みOKでも、あの分厚い2段組の本から制限時間内に該当箇所を引き当てるのは、今から考えるとわりと過酷なテストだったかも。




