第101章~第105章
朝のキタで逆ナンされるのは、かなり珍しいのですが。
101
結局十時になるまで、地理を憶えるためだと称して、キタの一帯をうろうろさせられた。二人とも背が高い上に、哲也は容姿がいいので、相当に目立ったらしい。逆ナンパ遭遇回数は合計四回。全部、貴史が睨みをきかせて追い払った。普段穏やかな顔ばかり見ているから、そういう顔をされるとぞっとする。
ミナミに行くのが楽しみになったか? と、意地悪く訊かれ、哲也はため息をつきながら答えた。
「もうキタだけで十分です。何であんな恐い顔で追い払うんですか?」
大きな買い物袋をかかえ直し、先に百貨店の入り口を抜けた貴史を追う。
同じくらいの大きさの、しかしより重い袋を抱えた貴史は、笑いながら振り返った。梅田の駅に繋がる橋の上には、色々な人間が屯しているが、買い物袋を持った人間は、殆どがさっさと動いていく。長身とあいまって、振り返った貴史は、周囲の光景から一瞬浮き上がって見えた。
「君ねぇ、お兄さんに敬語って使った?」
くすくす笑いながら言われる。
「……使いませんでしたけど」
「うっかり敬語でしゃべられたらどーしよっかなーって思って、そんならみんなに『勘違い』をしてもらおうって考えたの。そのスジって」
「知りませんよォ。大阪ってったら、川口組の……」
「言われなくても知ってるって。これでも八年前には福浦さんの下で、清く正しい生活送ってたんだからね」
言い回しがおかしくて、思わず吹き出す。
「普通の兄弟ってことにしときましょうよ」
「そうすると俺はブラコンか……ヘンな感じだな」
「一人っ子だったんですか?」
哲也の問いに、貴史は困ったような顔をした。
「ん……まぁそんな感じかな……弟がいたけど、俺が四つの時に突然死した。乳児突然死症候群だったっけな……でも腑に落ちない点が一つあった」
「何ですか?」
「電話さ」
「電話?」
予想もしなかった言葉に驚いて、哲也は目を見開いた。
「俺の記憶は、ひっきりなしに鳴り続ける電話の音から始まってる……それが弟の死んだ後から、ぴたりと止んだんだ」
そう言って、貴史はどこか虚ろな笑い声をあげた。
「まさか両親も、俺がこんなことを憶えているなんて、思ってもみなかっただろうよ……弟が死んだ後、両親は離婚して、俺は母親に引き取られた……その当時の俺に解ったことといえば、もう父も弟もいない、ということだけだった……遠いどこかへ行ってしまった、って」
そう言いながら、運良く空いていた、ペンキのはげかけた木製ベンチに腰を下ろす。少し間を空けて哲也も座った。目の前を、首を前後に振りながら、我が物顔に歩いていくドバトが、妙にかんに障ったので、ワッと怒鳴ってやる。一メートルくらいバサバサと飛んだかと思うと、またホウホウと鳴きながら、目の前を歩き始めた。バカにされた気がして、思いっきり蹴りつける真似をしてやると、ようやっと四羽ばかり空に飛び上がった。
「ケッ。バーカ」
どっちがバカにされたのか解らないと、呟いてから哲也は考えた。
ふと振り返ると、貴史がおかしそうに笑っている。
「笑わないでよ」
思い切ってタメ口を叩いてみた。頭を軽くはたかれる。貴史の明るい表情は(それでいいんだよ)と言っていた。
「んで……」
青く晴れた空を見上げながら、貴史はまた話の続きを始めた。
「母さんは俺を守ってくれると言った……けど俺は、自分が母さんを守るんだと誓った。だって母さんがもし頼れる人間がいるとしたら、それは自分だけだと思ったからね……実際には実家の両親、つまり俺の祖父母なんかがいたわけだけど……そうやって俺は、愛されて育った……だけど弟の死は、たぶん心の奥深くに染みついたまま、消えることなく残ったんだろう。
警官になって、ようやっと一人立ちしたと思ったら、無性に死んだ弟のことが気になるようになった……それで、当時のこととか、色々調べてみたんだ。ちょっと職権濫用したような記憶もあるな……それで判ったんだよ」
貴史のジェット・ブラックの目は、遠い過去を見つめていた。
「君にはもう見当がついただろ? 父は借金を返すために、弟に保険をかけて、わざと死ぬようにし向けたんだ……いや、ひょっとしたら、本当に何かをしたのかもしれない……そして保険金を受け取って……督促の電話は止んだ」
深い黒い瞳孔を通して、貴史の心の底に澱む闇が、見えたような気がした。
そして、貴史の母親の言葉の真意も理解できた。
「人に対して激しい殺意を覚えたのは、それが初めてだった。本当に、行方をくらました父親を見つけだして、殺してやりたいと思った。自分勝手な理由で自分の息子を殺した……そんな人間に、生きる資格なんかないと思った!」
知らず知らず強まっていた語気を、いったん息をついて落ち着ける。そして小さく、自分を嘲るように笑った。
「……バカだねぇ俺は」
自分も、同じようなことを、したくせに。
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「昼飯は『家』で食う?外で食う?」
立ち上がり、荷物を抱え直しながら、貴史が尋ねた。
「家で食えるわけないだろ。当然外!」
何かが吹っ切れたように、哲也はタメ口で話し始めた。貴史はどこか懐かしい感じがして、少し顔がほころんだ。
「じゃあ荷物はどうすんのさ? 運んで行く気?」
「車に押し込む!」
「無理無理。家の駐車場に送ってもらったんだもん」
「んじゃ、駅のコインロッカー」
「入りきるか?」
「分ければいい話……行こ! 兄さん」
貴史の脳は、何の違和感もなく、兄と呼ぶ声を受け入れた。
哲也が自分を死んだ兄の身代わりにしているように、自分もひょっとしたら哲也を、弟の身代わりにするのかもしれない。本当よりも年下だけれど。
「小銭足りるかなぁ」
緑色の扉をした、縦長のコインロッカーを前にして、貴史は小銭入れの百円玉を数えだした。哲也は気楽な顔で、二つの大きな袋を縦に押し込んでいる。
「足りなきゃ作ればいいだけだって」
「あ、ギリギリ……底の方にもう一個あったわ」
ひょいと席を譲る。貴史は丁寧に、キーの横の穴に硬貨を滑り込ませた。
カタンカタンカタンと、金属が滑り落ちていく音が聞こえてくる。
「さて、何食べる?」
向き直った貴史に、哲也はニンマリ笑って答えた。
「お好み焼きとたこ焼き」
「えーっ?」
「だって昨日、食べさせてくれるって言ったくせに、結局食べさせてくれなかったじゃん」
酔っぱらって、そんな約束などすっかり忘れていたのだ。あ、と口を開いた貴史を、哲也はじぃっと睨みつける。
「昼はお好み焼きで、たこ焼きはおやつに回してくれないか?」
「いいよ」
「んじゃあ、ちょっと歩くけど、潰れてなけりゃいい店知ってるから……って潰れるわけがないと思うんだけどな……」
後半の独り言じみた呟きに、哲也は何を言わんとしているかを察した。
「『基地』なんッスね?」
「実を言うとそう」
これでもかと言わんばかりに入り組んだ道を、貴史はまさに勝手知ったるとばかりな足取りで歩いていく。
今朝方見た印象を一変させる、行き交う人、人、人。梅田新道と、四つ橋線西梅田駅、阪神梅田、谷町線東梅田駅を四辺とした四角形の中は、見下ろしていて面白いほどの人がいる。主要な太い道路が集中しているのはその辺りだけで、あとは地下鉄の上の道路を除き、どちらかというと細い路地が多い。
ビルの建ち並ぶ町の隙間のような辺りに、ぽつぽつと小さな飲食店が見受けられる。貴史が案内してくれたのも、そんな店の一つだった。やや煤けた赤色の暖簾に「お好み焼き」の文字が染め抜かれている。店の外観には、どこか懐かしさを感じさせる品のいい古さが滲んでいた。
ガラガラと引き戸を開ける。
「いらっしゃーい」
紺の浴衣に赤いたすきをかけた女子店員の声が響く。手垢の付いた白っぽい暖簾の向こうが調理場らしい。据え付けのテーブルは真ん中が黒い鉄板になっていて、そこで客が好みの具合に焼くものと見える。
よくは知らないので、とりあえず、スタミナスペシャルとか怪しげに見える名前のものは避けた。メニューを見ながら顔を歪める哲也を貴史が笑う。
「三ばーぁん、豚玉二つ!イカ玉一つ!」
威勢のいい声が、暖簾の向こうで飛ぶ。
「冒険すりゃあいいのに」
薄水色のプラスチックのボウルの中には、細かく切られたキャベツだの白い粉だのが入っている。同時に運ばれてきた別の皿には、薄切りの豚肉が何枚かと、適当な大きさに切られたイカが載っていた。
貴史に指示されて、哲也は注文直後に火をつけられた鉄板の上に、油を薄く刷き、豚肉とイカを適当な間を空けて並べた。
貴史は運ばれてきたボウルの中身に、さらに卵を割り入れて、慣れた手つきでぐちゃぐちゃとかき回し始めた。まんべんなく混ざった頃を見計らい、先に焼かれていた豚肉とイカの上に、円を描くようにしてそれを落としていく。
「とか言いながら、自分もしっかりノーマルなもん頼んでる」
小ぶりのフライ返し様の物を手のひらで玩びながら、減らず口を返す。
「これが好きだからね……イカは半分こにする?」
「三分の一でいい」
そう答えながら、哲也は貴史の動きをじっと見つめていた。焼き加減を見る様子など、ぎこちなさの欠片もない。ふっと目を上げ、手を差し出された。いじくっていたフライ返しを渡すと、さっと器用に、まだ焼けていない片面を下に返して見せる。こんがりと焼けた面が、豚肉を貼り付けて表を向いた。
「なんで中に入れないの?」
ちょっと間抜けに見えるお好み焼きを見て、素朴な疑問を口にする。
「切る時面倒だから。これだと、もう一回ひっくり返したら、力を入れるのが最後だけで済む」
そう言いながら、今度はイカ玉をひっくり返した。
「そうなんだ」
そう答えながら、哲也は何気なさそうに店内の客の顔を観察した。またあのつけていた奴がいないとも限らない。が、見つけたのは別の顔だった。
「あれ? 福浦さんだ」
ひょいと貴史も目線を上げる。昨日会った福浦が、焼き上がったお好み焼きを切り分けていた。それだけなら別に何てことはない。その席の向かい側に、赤メッシュを入れた女子店員が、まるでそれが当然のような顔で座っていた。
「誰だ? あの女」
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哲也の声が聞こえたのか、それとも視線を感知したのか、福浦が振り返る。それにつられるように、女も二人の方を向いた。気の強そうな目をした、若い女だ。健康的に日に焼けた肌が、活動的な性格を偲ばせる。
知り合いだよ、というようなことを伝えているのが、雰囲気で判る。
「ほれ、豚玉一丁上がり」
貴史が哲也の前に、ずいずいと焼き上がったばかりのお好み焼きを押して
いく。箸で切り分ける時、確かに貴史の言葉は当たっていたと思った。肉だけがやたらに切りづらい。だが他は割合ふんわりとしている。
「貴史、あの福浦さんと一緒にいる女、誰?」
手元の皿が小さいので、皿に載る大きさになるよう、四つに分けながら、小声で訊いてみた。
「知らないなぁ……二十いくかどうかだな、あの顔だと……向こうに話をする気があるなら、こっち来るだろうよ……っと、二丁上がり」
そう言いながら、貴史は自分の分の豚玉を、さっさと四つに切り分けた。
後は余熱で十分やな、と、いきなり大阪弁で呟きながら、鉄板の火を切る。
イカ玉を再度ひっくり返し、哲也の分と自分の分に切り分けた。
「あ、美味しい」
先に箸を使い始めていた哲也が、うれしそうに笑った。
「せやろ?」
四つ切りにした一つを、さらにまた四つに切り分けながら、貴史が言った。
「いきなり大阪弁になるって、ヘンな感じ」
「うるさいなぁ……」
二人してクスクス笑いながら、あっという間に平らげた。若さというものの素晴らしさか、単に福浦が遅いのか、ごちそうさまの声はほぼ同時だった。
ひょいひょいと、福浦が手招きをするのが見える。貴史が勘定を済ませにレジへ行き、哲也は一足先に彼と女の方へ歩いていった。
「こんにちは。久しぶり」
福浦は昨日会ったばかりのくせに、妙な挨拶をする。
「こんにちは」
女が、アップダウンの激しい、関西系のイントネーションで挨拶してきた。
「こんにちは」
哲也は比較的平坦な、標準語のイントネーションで挨拶を返した。
「いやぁ。話には聞いとったけど、ホンマえぇ男……」
「顔のことは言わないで下さい」
「何やの? せっかく褒めたってんのに」
座れ、とばかりに奥に詰めながら、女は不満そうな顔をしてみせる。
「努力して手に入れたものじゃありませんから」
促されるまま、女の隣に座る。美夏に対する罪悪感がチリリと胸を刺した。
「その発言で、世の美しさを求める人々を敵に回したな」
福浦がおかしそうに笑う。見れば、貴史がその横に腰掛けるところだった。
「で、何なんですか?」
「いやいや。偶然出会したもんやから。紹介しとこ思て。これから先、ひょっとしたら世話になるかも知れんし……ちぃ、自己紹介せぇ」
「諜報員の、高階千早です」
ちぃと呼ばれた千早は、そう言って気の強そうな目を二人に向けた。
「こいつらは二人とも狙撃手や。わしの隣におるんが永居貴史。八年前まではわしの部下やった。お前の隣におる色男は戸川哲也。お前と同いや」
余計な説明に対する不平は、最後の一言で吹っ飛ばされた。
「「十九ゥ!?」」
哲也と千早の声が、見事にかぶった。
「はー……二十歳越しとる思うとったわ……同い年なぁ……」
頭を掻きながら、千早が呟く。
「こっちもそう思いましたよ」
「ほな、お互い老けとるっちゅうことやね」
けらけらと無邪気に笑われて、哲也は返す言葉が見当たらなかった。
「ま、それはそれとして本題……毎週土曜、京橋であいつが何やっとんのか、よーやっと掴めたっちゅう報告をしとったんよ……直接しゃべるで?」
福浦が頷くと、千早はひょいと小さな地図が印刷された紙を取り出した。右端に京橋駅が見える。
「ここ。明生病院……ここの若い医者と何やら話をして、薬をもらってる……パッと見普通の薬みたいやけど……こないだわざとぶつかってみて、何の薬か調べてみてんよ……そしたら何やったと思う?」
当てられへんで、と目で言いながら、哲也と貴史を交互に見る。
「何?」
「抗ガン剤……CDDPとビンブラスチンとマイトマイシン……たぶん肺ガンやな。それも、非小細胞ガン……CDDPは副作用強いから」
CDDPは、シスプラチンと呼ばれることもある、腎毒性、神経毒性、催吐作用など毒性が強いため、適応となる症例が限られる抗ガン剤だ。
「詳しいね」
哲也が言うと、千早はニンマリと笑った。
「おかんが医者やってね……そういう類の本は腐るほどあってん」
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「しかし、別に『カイム』自身がガンだと言うわけじゃないんだろう?」
福浦の言葉に、千早は大きく頷いた。
「そらそうや。あのおっさんピンピンしとるもん。抗ガン剤なんか処方される身体やないで。まさに健康そのものや」
「そうすると誰が?」
貴史の言葉に、千早は人差し指をすいっと立てて見せた。
「そーすっと、考えられる患者は一人しかおらんやろ。あいつ、別に家族とかおらへんねんから……」
哲也と貴史の視線がかち合った。
「江波?」
「十中八九、あんさんらのターゲットやな」
「うわ。じゃあ俺はドクター・キリコかよ……」
哲也はそうぼやきながら、テーブルに肘をついた。ドクター・キリコとは、漫画界の巨匠、手塚治虫の代表作『ブラック・ジャック』に登場する、末期患者に安楽死を提供する闇の医者だ。主人公のブラック・ジャックは、キリコを殺し屋だとか死神だとか呼ぶ。どうやらこの喩えは全員に通じたらしい。
「安楽死提供? ……まぁウチの口出しすることやない思うけど……組織としてけじめはつけなあかんとは思うよ」
千早はそう言いながら、氷が溶けて出来たコップの水を干した。
「結果として楽に死なすことになるとしても、な……どうせ放っておけば死ぬ言うたかて、上層部は納得せぇへんのやろ……だいたいそれやったら、全部の裏切りモンがいつかは死ぬんや」
「ちぃ、それ以上言うたりな」
福浦が制止する。千早はふーっと息をついた。どいてんか、と言ってから、店の仕事に戻っていく。その背中を見て、今度は福浦がため息をついた。
「すまんな。礼儀もわきまえん奴で」
「いいえ……」
貴史の答える声が遠くの方で響く。哲也の心は二つに割れていた。
放っておいて、自然に死ぬに任せるか?
それとも、この手で殺すか?
自然に死なせることは、兄や友人たちの敵をこの手で取れないということ。
自分の手で殺すということは、江波に安楽死を提供するようなもの。
どうすれば、恨みは晴れる?
いったいどうすれば、最も彼を苦しめられる?
彼が兄や友人たちにしたことを考えれば、あっさり殺してやるのは腹立たしい。出来るものなら散々に苦しめてやりたい。
(腹立たしい……出来るものなら散々に苦しめてやりたい……?)
何かが見えた気がした。江波の感情にひそむ何かが。だが一瞬形が見えたと思ったら、次の瞬間にはいったい何が見えたのかさえ解らなくなった。
(こんちくしょう)
福浦の声が、ぼうっとする耳に流れ込んでくる。
「こりゃ、カイムを捕まえてみた方が良さげやな……」
「そうですね……あ、時間大丈夫なんですか?」
貴史の問いに、彼はだーぁいじょうぶと手を振った。
「すぐそこや……曾根崎におんねんよ」
暇ンなっても遊びにくんなや、と言い残して、彼は店から出ていった。
「さてと」
ポン、と哲也の肩を叩く。
「荷物を出したら、たこ焼き買って帰ろうか」
「うん……」
「浮かない顔すんなよ……直接会って、恨み言の一つも叩きつけてやりな……一つじゃ到底足りないだろうけどね」
店を出ると、傾き始めた太陽の光線が降り注いできた。
「カイム、捕まえる?」
「さぁね? アドヴァーセリの側近だって情報が本当なら、捕まえる価値は結構ありそうに見えるな……って、自分で考えろよ」
振り向いた貴史の顔から、苦笑が消えていく。哲也の目が潤んでいた。
「だっていきなりこんな事言われて、頭の中ぐちゃぐちゃなんだよ」
「いちいち泣いてんじゃない」
「泣いてないってば!」
むきになって反論しながら、しかし哲也は目尻の雫を拭いていた。
「まさかねぇ……江波がガンだとは……」
放っておいてもいずれ死ぬのに、と頭の中で呟いて、貴史はひどく不謹慎な事を言った気がした。慌てて思考をかき回し、そんなことは考えなかったことにする。
(奴には『年貢の納め時』って言えるけどな……)
ちらりと哲也を見やると、眉間にしわを刻んで深く考え込んでいる様子だ。
結局そのまま梅田の駅まで戻って、コインロッカーを開けた。
「ねぇ」
阪急の買い物袋を抱え上げながら、ふっと哲也が声を発した。
「何?」
「江波は何故、兄貴を殺したんだろう?」
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昔とは姿を変え、ほとんど完全な男になって、その人物は自分を見上げた。
逃げていく少年を庇ったために、自分の放った弾は彼の足に当たっていた。
まともに身動きが取れなくなって、死を覚悟したように、彼はずるずると地べたに座り込んだ。
私は彼をただ見下ろしているだけだった。かつて自ら焼いてやった美しい顔は、目以外その面影を残していない。それでも、彼だと解った。
「何故、私を殺さない」
昔とは違う顔。だが昔と同じ目が、私を見上げる。縋りつくように。
声は僅かに変わっていた。本人にすればかなり変わったつもりかもしれないが、私の耳には大差なかった。助けを求めるかのような、独特の響き。
彼は私を見上げる。初めて会った日と同じ、怯えの滲んだ闇色の目。
「憎んでいるのなら、この場で殺してくれ。恨みはしない……どんな殺し方であっても……そうされても、仕方のないことを、私はあなたにしたから」
懇願するような声で、彼は私に死を求めた。
私は、それを、与えてやらなかった。
いつも、ここで目が覚める。
まどろみの中から押し出され、だるい身体を持ち上げて、枕元の時計で時刻を確認する。午前三時。この時刻になると必ず一度目が覚める。
再び眠りに戻りながら、いつも見る夢について、思い巡らしていた。
憐れみの念が湧いてきたとは、今でも思いはしない。
ただ彼を、生ける屍だと感じたのは確か。
まるで私に殺されることが、唯一の希望であるかのような目をしていた。
あいつの希望を打ち砕くつもりで、顔を焼いてやったのに。
それでも、あいつは、私だけが自分の希望であるかのような目をし続けた。
私以外に縋る人間が、本当にいなかったのだろうか?
今はいるかも知れない……いや、彼は頑なだから、きっといないだろう。
何故私なのだ?
父親を殺してやったからか?
だが、とどめを刺したのはお前だ。
思い出すたびにぞっとする、お前の提案した父親殺害の計画。
酷い酷いと言われ続けてきたが、あの十四歳の彼が考え出した殺人計画以上に酷たらしいことを、私はしたことはない。
その時、たしかに彼を、南野圭司の子だと信じた。
あんなことを冷然とやってのけられるのは、それ以外ありえない、と。
そしてあの計画に加担した時、自分も堕ちたと思った。
何故私に縋る? 何故私でなければならない? 理由などないのか?
他の人間には牙をむくくせに、私にはどこまでも従順だった。
可愛いと思っていたし、可愛がっていたつもりだ。
だが彼は、あれだけのことをやっておきながら、純粋だった。純粋過ぎた。
息が詰まりそうなほど純粋な愛情は、強烈な依存と同義だった。
盲目的で執拗で、そして貪欲で飽くことを知らない。
記憶の限り、自分を自分として愛された経験を持たないからか、彼の私への執着は度を越していた。
完璧に近い容姿。教育など殆ど受けていないくせに、一度聞いたことは片っ端から憶えていく頭脳。そして、冷然と任務に臨み、完璧に遂行していく姿。
全てにおいて、彼は私に勝っていた。
私は自分のプライドと、彼を可愛いと思う気持ちの間で苦しんだ。
苦しむうちにも、彼はどんどん私の居場所を浸食していった。
そして、私の中には、彼への憎しみが育っていった。
だが、それでも、彼を愛しいと思い続ける自分がいた。
葛藤に翻弄されて、その時々で矛盾した態度をとるようになった私に、それでも彼は縋った。
<愛して……でも、愛してくれなくてもいい……>
だいたいその頃からだ。そんなことを言うようになったのは。
彼を憎む私は、愛してくれなくてもいい、の言葉を受け入れ、彼を愛する私は、愛してと言うその声を聞いた。
愛してくれなくてもいい。
そんなのは、本心の裏返しだ。本当は完全に私を独占したかったのだろう。
いや、それ以前に、私に独占されたがっていた。
私さえいればそれでいいのだと、父親にとどめを刺した後、彼は言った。
私に抱かれる時、彼は必ずと言っていいほどこう言っていた。
<あなたのためなら、私は死ねます>
軽い気持ちで、その言葉を受け取ってはいけなかったのだ。
私のために全てを投げ出す一途さが、私にとって重荷となった。
憎しみが私を支配し、我を忘れ、気づけば顔に火傷を負って、泣きながら横たわっている彼がいた。それは私を憎む涙ではなく、自分を責める涙だった。
彼の正義は私だったのだと、組織を離れてから知った。
時計が六時を大きく過ぎる頃、再び目を覚ました。
ジンの情報が正しければ、『ブラッディ・エンジェル』の刺客はすぐ近くまで来ていることだろう。私に残された時間はもう僅かだ。遺書はまだ完成していないというのに、なんと忙しいことだろう。
お好み焼き屋の立地は、新御堂筋北側を想定。お初天神から徒歩いくら、の辺りで、商店街から外れた路地裏です。
ちなみに大阪府警用語では、曾根崎警察署のことは「ネソ」と言うのですが、福浦さんは哲也に分かるように「曾根崎」と呼んでます。




