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第96章~第100章

そう言えば、前話の「クリームソーダ」、今から思い返すとミックスジュースにすれば良かったかなと思います。あれが大阪特有のメニューだなんて、子どもの頃は思いもしなかった……。

          96


 ほぼ同じ頃、本部。中央情報処理室。

「首尾はどうだ?」

 澤村達紀は、蒲原の肩越しにディスプレイを覗き込んだ。

「不明です。さっぱり判りません」

 情けない顔で、蒲原は肩をすくめながらため息をついた。肺の中の空気全部を吐き出す気じゃなかろうかと、達紀は思った。

 いきなり現れた「私の勝ちだ」というあの謎のメッセージ。不幸にして時限式のプログラムではなかった。と言うことは、侵入されたと見て間違いない。ところがどこから侵入されたのか見当もつかないのだ。

「いったい何が『勝ち』なんでしょうね?」

 蒲原が力のない声で呟いた。

 達紀は自分の推測を言おうとしたが、思いとどまって口をつぐんだ。

 あのメッセージを送りつけてきたのは江波だという、自分の考えが当たっていたとしても、何を以て『勝ち』だと言っているのかは解らないのだ。

(もし解る人間が居るとすれば……)

 前田だ。だが、尋ねたところで彼は答えないに違いない。彼はそういう人間だ。どんな目に遭わされても、決して自分の信じるところを曲げようとはしない。そう、たとえ顔を焼かれても……


 何故江波を憎まないのか、達紀には理解できなかった。今でも江波を愛していると、尾崎に言っていることを、達紀は知っている。だが理解できない。

 組織を裏切り、自分の顔を焼いた人間を、何故愛せる?

 そして、愛していると言いながら、何故江波を殺せという命令に従った?

 いや、従ってはいないのかもしれない。現に今江波は生きていて、彼を殺すために哲也と貴史は本部を離れ、大阪へ向かったのだから。

 だが、腑に落ちないことがある。

 今でも足を引きずっているくらいなのだから、撃たれた時、前田がまともに歩けたかについては疑問がある。動けなくなったに違いない彼を、何故江波は殺さなかったのだ?

 達紀と江波がこの組織に『仲間』として共にいたのは、わずか三ヶ月。

 だがその三ヶ月だけの記憶からしても、江波が前田を撃ち殺さなかった理由など見つかりそうにはない。一緒にいた期間中、江波が手がけた暗殺はたったの一件だけだ。だが、その時のことを忘れはしないだろう。その報告を受けた幹部会は、謹慎処分の措置を執るよう、上層部に訴えた。いくら「処刑」だとはいえ、あまりにも酷たらしすぎる、と。

 幹部会の自分に対する非難を、江波は顔色一つ変えずに聞いていた。腕組みをして幹部たちを見上げるその目が行っていたのは、敵の実力を量るための、単なる冷たい観察だった。

 あの時、江波は一度、たしかに自分の方を見た。気のせいではないだろう。たしかに目を上げて、自分を見た。その時、あの冷たい目は笑っていた。

 当時の記憶が蘇って、達紀は背筋に走る悪寒を感じた。

 陰影の加減では赤色にさえ見える、血管の透けた煉瓦色の虹彩。

 血に飢えている、と一瞬考えたのを、彼は見抜いたのだろうか?

 ほんの僅かな間だけだが、彼の顔は確かに笑った。


 達紀はため息をついて、自分のデスクの前に座った。椅子の背もたれに背を預け、デスクの上に足を載せる。岡野が来れば説教が降ることは間違いなしだが、この体勢が一番落ち着くのだ。

 ふうっと息をついて、真っ白な天井を見上げる。

 結局、処分は実行されなかった。殺されるべき人間を、どんな手で殺そうが気に懸ける必要などあろうか、と一蹴されたのだ。それを真っ先に主張したのが誰だったのか、達紀は知らない。だが、見当はつく。

(南野、圭司……)

 あの男の冷酷さと来たら、江波など可愛いぐらいだと思えるほどだ。

(あいつの……あの男の血を……麗美が……)

 嘘だと信じたい。麗美の父親が、よりにもよってあの男だなんて。一生知らずにいられれば良かった。何だってあんな情報を見つけてしまったのか。

(そして、聞かれたからとはいえ、答えた僕も馬鹿だよ)

 知らない方が幸せだったのに。けれど、知ったらもう後には引き返せない。

(こんちくしょう!)

 否定の根拠が欲しかった。とにかく否定したかった。たとえあの男の血を引いていても、それでも麗美への感情が変わることはないはずだった。だが、今自分は、麗美の中に流れる血を否定しようとしている。達紀は心の中で、何度も悪態をついた。腹立たしかった。何よりも自分自身が。

(DNAパターンを調べれば……あるいは……)

 だがそれは、希望を決定的に絶つものになるかも知れない。決定的な救いにそれがなるという保証などない。むしろ絶望に近づく可能性の方が高い。

(でも……)

 もしかしたら、という希望の誘惑に、屈するのは時間の問題だった。

 一時間と経たないうちに、達紀は持ち場を離れていた。




          97


「秀二!」

 紗希が本部を出たために仕事が減り、図書室で暇を潰していた広崎秀二は、いきなり呼びかけられて、読んでいた本を机に落とした。やたらに分厚いその題名は『取扱危険物辞典』。見るからに怪しい。

「澤村さん……びっくりするじゃないですか」

 ハロゲン化合物の項目を読みふけっていたらしく、傍らのメモにはCl(塩素)だの、F(フッ素)だの、17族の元素記号が踊っている。

「いや、それについては謝るとして、ちょっと顔かしてくれないか?」

 どこかで聞いた気がする言葉で、達紀は秀二の座る側の机に手をついた。

「何ですか?」

「いいから! ちょっと来いって!」

 そう言うと、本を棚に戻させる暇ももどかしそうに、図書室から秀二を連れ出す。人気のない建物の影まで来て、ようやっと達紀は立ち止まった。

「君は薬学部で、遺伝子について専攻してたんだよね?」

 いきなり自分の経歴を言われて、秀二は少したじろいだ。

「調べたんですか?」

「自分のわがままでね……悪いと思ってる……頼みがあるんだ」

「聞く気はありませんよ」

「僕の考えが当たっていたら、コンピューターに侵入した奴の手がかりになるかもしれないんだ」

「侵入?」

 素っ頓狂な声をあげた秀二に、落ち着いた様子で、ああ、と頷いてみせる。

「まずいんでずっと伏せてたんだけど……いや、岡野の姐さんから、上層部に話はいってるはずだけどね……」

 それから声を落として、前田浩一と黒川麗美の二人が、共に南野圭司を父とする兄妹らしいという情報を手に入れたのだ、と教えた。

 反応は予想通りだった。

「あの人が父親? 嘘でしょうそれ……ありえない」

 あの人に情があるって言うんなら、ハインリッヒ・ヒムラーだって人情家になれますよ、とどぎつい皮肉までくれる。

「たぶん、単なる手駒に過ぎないんだろうと僕も思うよ」

「で、察するところ……南野さんと麗美さんのDNAパターンを調べて欲しいわけですね」

「出来れば前田さんのもね……『スコープ』は使えるんだろう?」

「ええ。もちろん……簡単ですよ、部屋のパスワードさえ解ればね」

 一介の研究員に過ぎない秀二には、一人で『スコープ』の部屋に入る権限は与えられていない。それは達紀も承知の上だ。とにかく、少しでもいいから下の方の地位の人間に頼みたかったのだ。相手の地位が高ければ高いほど、それはすなわち、南野との距離が小さいことを表しているからだ。

「それはこっちで手に入れられる」

 そう伝えると、秀二はくすっと笑った。その笑い方は、心なしか紗希に似ていた。

「やってくれるのか?」

 パッと輝いた達紀の顔を見ながら、秀二ははっきりと頷いた。

「『面白そう』だからやるんですよ。あなたのハッキングと一緒です」

 違う、という言葉を、達紀は飲み込んだ。何故南野のコンピューターに侵入したのかを話すには、紗希と美夏の過去を告げる必要がある。

「それで構わないよ……ありがとう」

「サンプルの方は?」

「それもこっちで手に入る……毛髪でいいのか?」

「毛根さえ着いていれば。重要になるのは核のDNAですからね……ミトコンドリアのDNAは母系遺伝だから、腹違いの兄妹じゃ意味を為しません」

「解った……じゃあ、本当にいいんだな?」

「ついでに、二三、余計なスキャンをするかもしれませんよ?」

 秀二の口は笑っていたが、目は笑っていなかった。達紀は、魂を悪魔に売り渡すような気持ちで、言葉を吐き出した。

「僕は、構わない」


 『スコープ』のある部屋のパスワードは三日ごとに変わる。秀二は二日あればだいたい可能だと言っていた。変更されるのは今日の夕方。その時、それを盗み出し、サンプルと一緒に渡してやれば、それで終わりだ。

 待っているのは、天国か、地獄か。

 ああでも……もう今は、地獄なら地獄でもいい、という気分だった。

 麗美は麗美なのだ。何も変わりはしない。麗美はあの男ではないのだ。何度も何度も、頭の中で繰り返す。自分に暗示をかけるように。

(射撃の的にしてやる、か……)

 あれが口癖になったのは、憶えている限りいつからだろう?




          98


 麗美と初めて出会ったのは、高校の時だ。この組織に入ってからではない。県内屈指の進学校だったそこで、二人は毎回、模試の校内順位で一位と二位を争っていた。試験の成績を勝ち負けで言ってもいいのなら、勝率は麗美の方が高かった。成績の賭で勝つ度に、麗美は高校の近くにあったパーラーのチョコレートアイスクリームをねだった。さぁおごりなさい! と威勢良く引きずっていくくせに、妙に控え目な値段のものしか頼まなかった印象がある。

 成績順でクラスを分けていると言われるだけあって、二人は三年間、ずっと一緒だった。ずっと一緒にいたから、結果としていろいろ知ることになった。

 父親がいないという理由でいじめを受けたと、教えてくれた日のことを、何故自分はぼんやりとしか憶えていないのだろう?

 あぁそういえば、麗美は女子の中で、いつも一人浮いていた。

 誰がどう見ても第一級の美人で、県内屈指の進学校で一二を争う秀才。これだけ条件が揃えば、妬み嫉みを受けるようになるのも納得がいく。顔がいいという理由だけで、掃いて捨てるほどの男から告白されてきた麗美は、どちらかというと男子を軽蔑しがちだった。そして、妬むばかりで努力しようともせずに陰口を叩く人間には、ずっと気丈な冷笑で応酬していた。

 それが仮面だと知ったのは、二年生に上がる少し前のことだった。

<性格が悪いから好きだって言ってくれて、うれしかった>

 その日は、たしか全国模試の結果が返ってきた日だった。二点差で勝利した達紀は、何もおごらなくていいから、どうして自分には無駄口を聞いてくれるのかを教えてくれと言ったのだ。すると、麗美はそんなことを言った。



「嫌味のつもりだったんだけどなァ……」

 学ランの達紀は、ため息をついて、コンクリートの上に寝転がった。

 学校の屋上の鍵をこっそり開けてごろごろするのが、二学期の終わりくらいから、日常の出来事になっていた。その日もそんな一日だった。ただ試験結果が返ってきたというだけの。

「え? うわ、感激して損した」

 セーラー服の麗美は、長いサラサラの黒髪をポニーテールにしている。

「何で感激するのさ?」

「だってさぁ、男って……いや、達紀は違うけど……殆どの男って、私の性格知りもしないで、勝手に妄想膨らませて好きだー! って……ばぁっかかてめぇはって、蹴りつけたことも何回か……」

「あははは……すっげーありそう!」

 腹を抱えながら、コンクリートの床の上をごろごろ転がった。

「笑い事じゃないよ。顔が美しいからって性格まで完全無欠に美しいわけねぇだろバーカ! って」

「自分で言うかね普通。美しいとか」

「自惚れで言ってんじゃなくて、事実そうなんだもん……顔なんて自分の努力に対して関係ないこと褒められても、ぜぇんぜんうれしくない。でも達紀は、私の頭を褒めてくれた」

「だから、褒めたんじゃなくて嫌味のつもりだったんだけど……」

「ああ! ちっくしょう。また損した気分!」

「いや、でも今は尊敬してるから!」

「ふーん……なら帳消しね」

 横目で睨みながら、麗美はぐーっと伸びをした。

「それにしても、美少女のべらんめぇ口調ってのは、結構面白いもんだな」

「スケバン刑事みたい?」

 麗美の言葉に、達紀はふと思いついてこんな返事をした。

「『極道の妻』みたい」

「わりゃあもっぺん言うてみぃ!」

 案の定乗ってきた。何かおかしくて、二人で声を殺しながら笑い続けた。

「サマんなってるよ……女優になったら?」

「やだ」

「なんでさ?」

「私は顔じゃなくて、頭で勝負したい」

「勿体ないなぁ」

 そう言った達紀の目の前に、麗美はピストルの形にした右手を突きつけた。

「今度それ言ったら、射撃の的にしてやるから」



 大学はバラバラだった。達紀の志望する学科のある大学は少なくて、どうしても他の地方に移動せざるをえなかったのだ。

 卒業式の日、麗美は泣いていた。

「あんたみたいな人には、もうきっと絶対会えないもの」

 そう言いながら、必死で涙を堪えようとしていた麗美に、何の根拠もなく、自分はこう言ったのだ。

「きっとまた会えるよ、どこかで」

 その『どこか』が、この妙に胡散臭い組織になるとは、考えだにしなかったのだけれど。

 この組織に入った時には、もう二度と会えないと思ったものだった。それがまさか二年後に、同じキャリア……エリート組として、組織に入ってくるなどとは、夢にも思わなかったのだ。

 その時、つくづく運命ってものは実在するのだと思った。別に組織に麗美のことを推薦した覚えはなかったのだ。

 だが、これは悪い運命かも知れない。

 南野と麗美との関係を知った時から、そんな予感がしてならない。

(女の直感は当たるって言うけど、男の予感ってのはどうなんだろうな?)

 外れて欲しいのは山々なのだが。




          99


 尾崎をごまかして、前田と南野のDNAサンプルを手に入れた。パスワードを盗み出すと、秀二に渡す。

「口外無用だ」

 なるべくきつい口調で言うようにした。慣れない言葉遣いでしゃべる達紀を小馬鹿にするように、秀二の目が悪戯っぽく光った。

「しゃべったら?」

 真っ正面から視線がぶつかる。

「殺す。聞いた人間もだ」

 自分の中にこんな部分があったのかと、心のどこかに感心する人間がいる。達紀はその声を無視した。秀二はまだ、達紀の目を見上げている。

「それが議長でも?」

「議長はもう知ってる」

 もちろん、直接議長に話してなどいない。だが麗美に話せば、麗美が山村に話すことになり、山村が山本議長に教えるということになるだろう。だから、あながち嘘ではない。

 ふっと笑って、彼は肩をすくめた。

「解りましたよ。誰にもしゃべりませんって……」



 持ち場である中央情報処理室に帰ると、美夏が青白い顔をして立っていた。

「どうしたんだい?」

 極力優しい声で尋ねる。美夏は何か言いたそうにしていたが、やがて黙って俯いてしまった。

 この組織は基本的には男所帯で、一つの科に女が三人もいるという時点で、すでに特別視されている技術科である。しかしその内訳が、上級幹部の岡野と麗美と美夏。美夏としては、最も相談しやすい相手である麗美がいない今、何か迂闊なことをしゃべることはできないらしい。

「医務室に行けば?」

 そう提案してみる。尾崎になら、美夏も言いたいことを言えるはずだと考えたのだ。美夏は深く息を吸って、こう答えた。

「もう行きました」

 そう言って、右腕を差し出した。

 そこには、真新しい白い包帯が、間違いなくしっかりと巻かれていた。

 達紀は目を見開いた。また切ったのだ。

「ちょっとおいで」

 そう言うと、部屋から美夏を連れ出し、非常用階段に出た。群青色に染まり始めた空を見上げる美夏の目は、どこかぼうっとしていた。

「切ったんだね?」

「はい……あんまりにも……うるさくて、気持ちが悪かったから……それに」

 そこまで言って、美夏は口ごもった。達紀は続きを促した。

「それに?」

「それに……気味の悪い記憶みたいなのが、頭にこびりついて離れないんです……血管の透けた、赤茶色の目……光の加減で真っ赤に見える……」

 瞬間、達紀の顔は色を失った。

「赤い目!?」

 美夏は縋るような目で、達紀を見上げた。

「誰の目なんですか? ご存じなんですか? 教えて下さい! あれは……」

 そこまで言ってから、ふと答えに行き当たった。

「江波知弘の、目……なんですね?」

 達紀は唇をかみしめた。

 美夏の記憶が、戻ってきている。

 だが奇妙だ。紗希と違って、攻撃性が強まっているようには見えない。

「何故、手首を切るの?」

「だから……あんまりにもうるさかったから……」

「『誰』が?」

「私の中の……哲也を……ころそ、としてる……バカ……」

 一瞬、達紀は目の前が真っ暗になった気がした。

(くそっ!美夏もか!)

「あいつ……そんなこと言うくせに、自分は血ィ見るの嫌いだから……手首を切ってやったら大人しくなるんです……あいつが消えるまで、私、きっと切るの止められません……血を流している間は、あいつは黙っているから」

 かすかに希望が見えた気がした。

「君は哲也をどう思ってる?」

 達紀の問いに、美夏はしっかりとした口調で答えた。

「愛しています」

 その声から、虚ろさは消えていた。

(もう、迷わない)




          100


「それで……お前は、どうする気だ?」

 凍りつくように冷たい声が、東棟の一室に響く。

「言う必要はないでしょう……まずいと思えば、私を殺せばいい……」

 部屋の主の前田は、血だけが繋がった父親の冷酷な瞳を、気丈に見返した。

「そう簡単に殺しはしないよ。お前は浩美の血を引いているのだから」

 白々しい科白に、前田は冷笑した。

「あなたに愛情なんか期待しません……あなたに私が期待するのはただ一つ、私を殺してくれることだけです」

「自殺も出来ないガキが、偉そうに」

 嘲笑されるのはいつものこと。そう、私は自分で死ねない意気地なし。

「……江波が生きている限り、私は死ぬつもりはありませんから」

「なら、あの二人が本部に帰ってきた時、死ぬがいい。死ねないと言うのなら私が殺してやろう」

 真っ暗な部屋の中、外から差し込んでくる微かな月明かりに、二人の輪郭が薄く浮かび上がっている。南野の伸ばした手が、前田の顔の輪郭をゆっくりとなぞっていく。

「惜しいことだ。あいつがお前の顔を焼かず、そして、お前が顔を変えることを望みさえしなければ……」

「母の面影を見ることが出来た、とでも? お生憎様」

「男の性別を選んだのは、私に対する反発か?」

 そっと首に、手のひらを当てられる。前田の表情は少しも変化しなかった。

「それもあるでしょうね……でも、それ以上に、私は江波に縋ることを止めたかった……ええ。世界一の愚か者ですよ、私は……たとえ顔を、性別を変えたって、依存する相手を変えることなど出来はしない……心は同じなんだから」

 くすくすと、彼は自分を嘲り笑った。

「ルシファー」

 南野の低い声が囁きかける。その手のひらは、前田の首を絞め始めていた。

「その名前で……呼ばな、いで下……さ、い」

 手を離すと、げほげほと激しくむせ、ベッドの上に俯せに倒れ込んだ。

「神が万能だというのなら、何故『裏切ると判っている天使』を生み出したのだろうね?」

「解りませんね……私は神どころか、まともな人間でさえないのですから」

 まだ荒い息の中から紡ぎ出される、皮肉に満ちた言葉を、南野は冷たい笑いで受け流す。

「生まれたその時から、いずれ神を裏切ると『定められていた』ルシファーは『救われないと定められて』いたようなものだな……お前のように」

 今は短く切られた黒髪に指を差し入れながら、南野は言った。

「ええ……もし『改心』したとしても、私が『救われる』ことはありえない」

 そして、カルヴァンの教えを否定する気はありませんよ、と、小さく呟く。

「私は救われてはいけない魂なんですから」

 力のない笑いが、彼のあきらめを物語っていた。

 彼には、もはや救いなど、どこにも存在しないのだ。

 死後の世界に二通りがあるのなら、死ねば必ず『悪い方』に行くことは判りきっている。

 生きている今は、ただの執行猶予のようなものだ。それも、拷問のような。

 南野は、何らの抵抗をも示そうとはしないその身体を、興味深げになぞっていく。両手で頬を挟むようにしながら、彼は、ただ血だけが繋がった我が子の顔を見下ろした。

「そう……よく解っている……お前は地獄に堕ちるべく定められた魂だ」

「『全てあなたのせい』だ」

「運命だったと諦めることはできないのかね?」

 残酷な笑みを浮かべながら、父は子の唇に口づけた。あきらめきった表情の前田は、大人しくされるがままになっている。

「フォルテュナの気まぐれだと? 気まぐれに運命を操る女神には、翻弄される人間を哀れむ気などないのでしょうね」

「ふふ……それで、セネカを読んでいるのか」

 セネカは初期帝政ローマきっての暴君となった、ネロの家庭教師で、ストア派の哲学者だった。彼は教え子のネロに自殺を強いられ、この世を去る。泣き叫ぶ妻や友人たちを前にして、彼は静かに理不尽な死を受け入れたという。

「冷静に死ねるとは思いませんよ……死んだも同然の身とは言え、私の身体は確かに生きているし、事実、地獄に堕ちると判っていて、平静になどなれるわけがないのですから」

 されるがままになりながら、前田は呟くように言った。

「ただ言えること。私が『存在するようになった』ということに対して、私は『イノセンス』である」


 望んでこの世に生まれてきたわけじゃない。

 望んでこんな環境に生まれてきたわけじゃない。

 生まれる環境が望めるのなら、絶対に望んだりなどしない。

 こんな救いのない生など。

 私は、この世に生まれてきたことに関しては、無罪(innocence)だ。

 だからルシファーも、生まれてきたと言うことにだけは、罪はないはずだ。



今回の内容は、当時の国語の教科書を参照。

前田さんが喋ってるのは、カルヴァンの「予定説」。世界史Bでテストに出ます。倫理でも出るかもしれません。

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