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第6章~第10章

紗希さんが猟奇的です。小動物殺す描写あります。

          6


「あいつらァ……」

 廊下の曲がり角から、ひしと抱き合う哲也と美夏の姿を認め、歯軋りをしているのは、さきほど美夏に捕まっていた澤村達紀だった。

「ちょっと。キレてる場合じゃないんだけど?」

 横に立っていた、長いストレートの黒髪の美女が、澤村の足をちょいちょいと蹴る。一昨年のキャリア、黒川麗美だ。人形のような、という表現は、まさにこの顔のためにあると言ってもいいほど、完璧に整った顔にスタイル。これだけの美人でありながら、いまだに恋人がいないのは、なんとも形容しがたい性格のせいか。今一緒にいる達紀も「悪友」である。

 蹴られた達紀はため息を吐きながら、麗美の方を振り返る。

「だって、あの二人を退かせずに、どうやって機材を運べってんだよ?」

 ひょいと首を向けた方には、何やら大きな段ボール箱を載せたカートが放置されている。そして段ボール箱は、テープで厳重に封がされていた。

「あのね。退かせりゃいいのよ。遠慮する必要なんかナシ!機材よろしく」

 開いた口のふさがらない達紀を放って、麗美はすたすたと歩き出した。


「お邪魔。美夏ちゃん」

 唐突に声をかけると、哲也が明らかに不機嫌な顔で見上げてきた。

「何ですか、黒川さん」

 美夏の声はどこか眠たげだった。

「これから実験すんだけど、機材運ぶのに邪魔だから退いてくんない?」

 全く悪びれることなく麗美は言った。

「解りました」

 気味悪いほどあっさり肯いて、美夏は哲也を促した。忌々しそうに見上げる哲也に向かって、麗美は艶やかな微笑みを向ける。口惜しそうにぐっと詰まる表情をした哲也が、麗美には面白くて面白くてたまらなかった。

「ごめんね」

 わざと神経を逆撫でするように言う。(あぁ楽しい)

「余計なお世話だ」

 噛みつくように哲也が答えた。遠目には酔っぱらっているように見える。

「あっ、そう。そんな口聞いたら、今度射撃の的にしてやるから」

 凄味のある笑いに、哲也はまた詰まる。麗美が言うと、冗談が冗談に聞こえない。実際にやりかねないと思えてしまう。


 二人が完全に去った頃合いを見計らって、麗美は達紀を呼んだ。

 死角から、がっくりとうなだれた達紀が、カートを押しながら現れる。

「実験ってなぁ……もう夜だってのに」

「いいでしょ。私ならやりかねないって、みんな思うはずよ。それとも、何? 正直に、これからやることを言えって言うの? あの子の前で」

「いや、無理なのは重々承知だけどね……もうちっとマシな言い訳は」

「ありまっせん。とっとと行くよ。もうみんな集まってるはず……前田さんに絞られたくなきゃ、急ぐっきゃないよ」

 幹部の前田浩一は、組織で三本の指に入る堅物だ。特に遅刻には容赦ない。

「そう思うんなら手伝え……って、無理か……」

 そうそう、と肯きながら、麗美は先に立って歩いていく。

 行き先は屋上。

 エレベーターの中で、達紀はぽつりと呟いた。

「複雑だよな」

「何が?」

「救った命が人を殺していくのを見るのは」

「まだ、直接には、ないわよ」

「でもいずれそうなるんじゃないのか?金城さんの話からすると」

「でもあれは、巡回時間から計算で叩き出した数値でしょ」

 そう言う麗美の声は強ばっていた。考えたくもない、という心の声が、明らかににじみ出ている。

「君だって、知ってるくせに……」

 そう言って、達紀は右手を、刃物で何かを切るように動かした。

「黙んなさい」

 人差し指を達紀の胸元に突きつける。

「異常がはっきりと確認されるまでは、表沙汰にするなって、上層部の通達でしょ。下手に動いてとんでもない事態になったら、どう責任取る気?」

「死ぬ……とか」

「ハッ。あんたが死んだって、何の解決にもなりゃしないわよ。責任取るって言うのなら、解決策を与えなさい。それが見つからないなら、今は放っておくしかないでしょう?」

 チン、と、到着を知らせる音がする。

 なま暖かい風が、エレベーターの中に吹き込んできた。

 カートを押し出して外に出ると、背の高い、格闘家のように鍛えられた身体の男が、じろりと二人を睨んだ。ただし、口元は笑っている。金城憲司。特別狙撃手のリーダーの幹部。永居に説教を垂れるのが趣味というあの彼だ。

 金城は親指で、広い屋上の奥の方を示した。ひどく楽しげな表情だ。

 笑みの欠片さえ見せない渋い顔で、二人を睨んでいるのは、巨大なアンテナの側に微動だにせずに立っている人物だった。背は特に高いというわけではないが、全身から発せられる威圧感が、彼を実際以上に大きく見せる。まさに厳格そのもののような双眸は、真っ直ぐに二名の遅刻者に向けられていた。

「五分遅れだ。さっさと始めろ」

 厳しい声に、二人はあたふたと封のテープをはがし始めた。

 彼はそれを、腕を組んだまま身じろぎもせずに見つめている。

 ブラッディ・エンジェル、幹部の前田浩一だ。彼は哲也の言う生き残り組の人間でもある。特別狙撃手時代に、足に銃弾を受けた後遺症で、今でもまだ、時々右足を引きずっている。

「今月の報告はどうするんだ?異常なし、でいいのか?」

 エレベーターが下に行くように仕掛けて、ぶらぶら歩いてきた金城が問う。

 前田はやはり腕を組んだまま、考えるように眉間に皺を寄せた。

「そういうわけにもいくまい……だいぶ綻び始めている……」

「たしかに、だいぶひどくなっているが……」

 金城は警備の制服のポケットから、時計を取り出して時刻を確認した。

「でも、あれでも精一杯でしょう」

 口を挟んだのは、白衣を羽織った、三十路も半ばの女だった。医局長の尾崎幸恵。薬品管理第一課出身の幹部である。

「恐いな。気づかれた時が」

 そう言った金城を、前田が睨んだ。

「他人事のように言うな。自分が道連れにされるかも知れんだろうが」

「いや。道連れにされる人間は……」

「通信回線繋がりました」

 麗美が告げる。場の雰囲気が、一気にピンと張り詰めた。




          7


 逃げよう。

 逃げよう。

 ここから逃げよう。

 逃げ出さなければ。

 私は殺される。

 いつかきっと殺される。

 でも、もし、今、生き延びることが出来たとしても。

 私は何処へ行けばいいの?

 私は何処で生きていけばいいの?

 仮面を被り続けて、この世界にいようか?

 仮面を被っている限り、この世界は私を護ってくれるから。

 あぁ、でも、そんなもの、いつまでも被り続けてなんかいられない。

 仮面を被り続けていたら、それが剥がれる時が恐ろしい。

 そして仮面が剥がれる時は、私の死ぬ時。

 <殺される時>

 あぁ、早く逃げ出さなきゃ。

 苦しくて苦しくてたまらない。

 でも、でも、叫び出すことなんか出来ない。

 叫び出せない口惜しさは、血でしか紛らせないの。

 誰にも理解されなくていい。

 私にさえ、私は解らないのに。

 血が足りない。血が足りない。血が足りない。

 血が欲しい。血が欲しい。温かい血が欲しい。

 <あの人の血が欲しい>

 あぁ、殺したい。あの人を。この手で。

 <殺されたのは私の方だ>

 あぁ、まだ、血が足りない……



 自室に一人ぽつんと座っている、紗希の白衣のポケットの中で、もぞもぞと動くものがある。三課の実験室から盗み出してきたマウスだ。ポケットに手を突っ込み、白い小さなネズミを引っ張り出す。

「ふふ……可愛い……」

 キィキィと鳴く声が、何重もの膜の向こうで聞こえるような気がする。

 両の手のひらの中に包み込み、優しく優しく撫でる。

「可愛い……」

 立ち上がり、頬ずりしながら歩き始める。滑らかな毛並み。

 机の引き出しを開ける。またキィキィと鳴く声。

 引き出しの中から、銀色に光るメスを取り出す。光のない真っ黒な紗希の目は、その刃先をうっとりと眺めた。

 異常を感じたのか、ネズミは必死になってもがき始めた。紗希はぐっと手に力を込める。

「おやすみなさい」

 メスが、ネズミの肉にくい込んだ。鳴き声が止む。落ちかけた首を片手で支えながら、紗希は勢いよく溢れるその血を啜った。メスを置く音が、静まりかえった部屋の空気に、硬く響く。

 ポン、と柔らかい音がして、死骸がゴミ箱に投げ込まれた。

 口元についた血を手の甲でふきながら、紗希はベッドに仰向けに倒れ込む。光のない目に、うっすらと涙がにじんでいた。

「だめ……足りない……もっと……人の血……」

 自分の身体を拘束するように、きつくきつく抱き締める。締め付ける。

「足りない……血が……」

 脳裏に浮かぶのは貴史の顔。

 彼の身体にメスを入れて……そしてその血を……きっと美味しいはず……

(ダメ。そんなことはしちゃダメ)

 本当にそう?

 前はそんなことを考えていたかしら?

(いつよ? いつのことよ?)

 好きな人の身体にメスを入れるのは、あなたにとってごくごく自然な行為。

(いつよ? だからいつ、私がそんなことをしたって!)

 忘れているだけよ。思い出しなさい。

 あんたはここの人間じゃない。

(違う!)

 断言出来るの?

 十七歳以前の記憶がないくせに。

 たった二年少しの記憶しか持っていないくせに。

 思い出しな。

 ここはあんたの生まれた場所じゃない。育った場所でもない。

(うるさい!)

 ほら。夜の闇がやってくる。

 なつかしくないのかい?

(知らない! 夜なんて大ッ嫌いよ!)

 嘘ばっかり。夜は大好きだっただろう? 真っ暗な闇の世界。

(知らない! 知らない!)

 ほらそうやって……

<僕から逃げる>

 見知らぬ男の影が、目の前に見えた。

「イヤアァァァアッ!」

(来ないで!)

 ……この記憶……十六歳の時の……だ。

<変わってないね>

「来ないで!」

<恐い?>

 血が滲んだような赤茶色の虹彩が、真っ直ぐに自分を見据えてくる。

 ガタガタと震えながら、紗希は両手で頭を抱えた。両側頭部を締め付けるかのような、激しい頭痛が襲いかかってくる。

「やめてえぇぇぇぇえッ!」




          8


 午前六時。この時刻になると、スイッチが入ったように目が覚める。哲也はベッドの隣を見た。やっぱり美夏はもう起き出している。

(やっぱ疲れてんのかな……)

 任務中は、微かな物音にさえ反応して目が覚めるのに、隣で寝ていた彼女が起き出すのにさえ気づかなかった。

 薄明かりの中で見ても、この部屋の生気のなさは変わらない。

 整理整頓を通り越したような片付きようは、ゴミゴミした外の世界ばかり動き回っている自分には、ちょっと気持ち悪くさえ思える。

 美夏が自分の部屋を散らかしているのを、哲也は、一度も見たことがない。

 そんな部屋を見るたび、哲也は、美夏が「本当はいない人間」なのではないかと考えてしまう。自分が愛している美夏という女は幻で、そんな人間は本当はどこにもいないんじゃないか、と。

 自分は幻を抱いているのかもしれない、と。

 美夏の身体を抱いている時にさえ、そんな感覚を持つことがある。

 自分の目に見える美夏は……自分の見てきた美夏は、全て上辺だけのような気がしてならない。美夏の心の奥を、覗いたことはない。一度も。

 自分だって、自分の過去を明らかにしているわけではないのだから、お互い様といわれればたしかにその通りだ。

 だが、愛している、と言ってくる時の美夏の声に、奇妙な虚ろさが混じっていると思うのは、本当に気のせいなのだろうか?

 美夏の寝ていたあたりのシーツに触れる。体温の欠片も残っていない。

 胸の奥に、何かが刺さるような感覚。


 川崎美夏という女は、本当にいるのだろうか?

 自分が見ている幻ではないのだろうか?

 いや、ひょっとしたら、今自分がこうしていることさえ、夢かもしれない。

 今まで歩いてきた自分の人生は、全て幻だったのかもしれない。

 全てではなくても……あの八月から……あの八月から、全ては狂って……

 あの時、あの事件さえなかったなら、自分はきっと、こんな世界に足を踏み入れることなく、まっとうに生きていただろうに。

 夏が近づくたび憂鬱になる。

 目の前に浮かんでくるのは、為す術もなく殺されていった友人たちの体。

 三年前の八月……十六歳の夏……自分の体に、血の臭いが染みついた日。

 吐き気がするほど鮮やかな記憶。

 あの日から、人生が全て変わった。

 故郷も家族も全て捨てた。

 そう、自分は一回死んだ。死んで生き返った。

 彼にその価値があったのだろうか。


 脳裏に甦った男の影を振り払い、哲也は自分に言い聞かせるように強い声で言った。

「疲れてるんだよ」

「んじゃ、寝とけば?」

 ぎょっとして振り返ると、濡れた髪を白いタオルで拭いている美夏の姿が目に飛び込んできた。

 寝ていた時ならともかく、考え事をしていたとはいえ、起きていたのに、人が入ってきたことにも気づかなかった。

(クソッ。やっぱ感覚錆びてやがる……本部じゃ緊張感なんかねぇもんな)

 刺の混じった声で返す。

「ああ、そうするよ。感覚が鈍りまくってるからな」

「何イライラしてるの?」

「るっさい!」

 怒鳴ってから後悔し、慌てて美夏を見た。動きが凍結している。

「ゴメン……なんか普通じゃなくて……お前の気配に気づけなかったからさ」

「仕方ないよ。私、特別だもん」

「え?」

 美夏の目をじっと見つめる。生気が欠片もない。青く血管の透ける肌。

「おい美夏!」

 立ち上がり、その両肩を震える手で掴んだ。掴もうとしたら、すり抜けてしまうかもしれない。そんな奇妙な恐怖のせいで、まるで触ったら火傷するかもしれないものに触れるような動きになる。

「あなた、だぁれ?」

 生気の欠片もない虚ろな瞳は、底なしの闇のように感じられる。

 脊椎が氷になってしまったような気がして、哲也は手を離して後ずさった。

 瞬間、美夏の目に光が戻る。

「なぁんちゃって。冗談だってば。何本気にしてるの?」

 氷が一気に溶解する。安堵と同時に、何かぞっとするような寒気が、胸の奥から込み上げてきた。

「悪い冗談だよ。全く、映画祭で主演女優賞が取れるくらいの演技だ」

「あら。主演じゃないわ。助演よ」

 美夏はまた髪の毛を拭き始めながら、飄々と言った。

「んじゃ、主演は誰だよ? 黒川麗美か?」

「いいえ。香西紗希よ」

 予想もしていなかった答えだったからか、服を着る哲也の動きが固まった。

「どうして?」

「そんな気がするの……私の中から、そう言う声が聞こえてくるのよ」

 どこかふわふわと、地に足のつかないような声だった。が、次の瞬間には、またいつものはっきりした声に戻って、こう問うた。

「今日の予定は?」

「十時から一時間、地下の射撃場で射撃の練習。昼飯の後は、適当に図書館にでも行ってる。お前は?」

「九時から会議……つっても、発言権無いけどね……新規の依頼の割り振りの決定が主要議題の」

 ガックリと、哲也の頭がまた下がった。

 幹部候補生には、幹部会議の傍聴の権利がある。いや、義務があると言うべきだろうか。ただし上層部……上級幹部会議の傍聴は出来ない。だいたい上級幹部会は、幹部にさえ発言権はない。代表者の二名を除いて、だが。

 聞き返すんじゃなかった、という思いが、じんわりと胸の奥に沁みてくる。

 人様のベッドにごろんと転がって、哲也は話題を逸らすように言った。

「世の中には、殺してくれと依頼されるほど恨みを買っている人間って、結構いるもんなんだなぁ」

「そうね……そして、その依頼を受けるこんな組織があったりする」

「そんな組織で人殺しをしている俺がいる」

 声に暗さが混じったのに、気づかれたらしい。

 美夏が音もなく、ベッドに寝転がる哲也の方までやって来た。猫かと問いたくなるほど、見事に足音が聞こえない。

 すっと、薄赤い唇が額に下りてくる。

 手をあげて、唇が重なるように、美夏の頭を動かす。


「今日は、部屋に帰る?」

 美夏の問いに、哲也は肩をすくめた。

「仕事が割り振られたらね……」




          9


 美夏の左側に座っているのが香西紗希。その隣が黒川麗美。あと、哲也曰くの「生き残り組」の幹部候補生が四人、その向こうに座っている。キャリアの幹部候補生は他にもう一人いるが、体調を崩したとかで欠席している。

 その幹部の卵たちの前に、この組織の中核を構成する面々が、ずらりと並んでいた。前田浩一、金城憲司、尾崎幸恵……なんと澤村達紀の姿もある。彼は五年前のキャリア。現在幹部会の最年少だ。

 幹部会議長の西村が、指示棒を長く伸ばし、さながら講義のごとく、解説を始める。ネクタイを締めていれば、助教授あたりで通りそうな風貌なのだが、暗い色のシャツだけでノーネクタイ。西村だけではなく、そんなものを締めている人間は一人もいない。この組織では、服装を気にするのは前線組と、相場が決まっているのだ。

 美夏は、机の下でこっそり携帯メールを打った。宛先は麗美。



<何か、いつも前置き長いようなのは気のせいですか?>

<気のせいじゃないよ。短かったことなんか一度もない。あーうぜぇ(笑)>

<いいんですかぁ? そんなこと言って>

<課題サボってるちみに言われたかないね(ニヤリ)>

<うげ(汗)>

<ところでさ、最近多いと思わぬ? 依頼の件数。特に仇討ち系>

<多いですよね……つっても、まだこれで四回目なんですけども>

<あたしが入った年は、こんなに入ってこなかったよ。依頼も会議もね>

<そりゃ、依頼がなけりゃ割り振り会議のしようがないですよ>

<ハハハ……ってーか達紀の話だと、仇討ち系統の依頼が増加し始めたのってここ三年くらいのことなんだと>

<麗美さんの入った年じゃないですか>

<うん。そうだよ。でも、こんなに多くはなかったな>

<へーえ……>

<ところでさ、また達紀の話で悪いんだけど、何か午後に緊急集会あるとか>

<え、全体集会?>

<いや、まず上級幹部会(我ら関係ナシ)があって、山本議長から何かお話が

あるとか>

<場合によっちゃ、全体になりますか?>

<さーあ? でも一体何だろね?>

<まさか、「あの男」の所在が判ったとか?>

<あ? 江波? かもね。技術屋のウチらにゃ関係ないけど>

<指名はやっぱトクソで?>

<たぶんね。ゼンソは関係ないっしょ。君の彼氏とかはもう論外>

<………………#>

<ぎゃあごめん。悪気はないのよ(いやあるかも)>

<あるんですか!>

<いや、かもよ、かも。鴨>

<今度射撃の的にしてやりますからね!>

<人の十八番を取るなァ!>

<あ、やば。前田さん睨んでる。GBSYNT>

<GBSYNT……こんなの使うのウチらだけかも(笑)>

<じゃ、グッバイ・シーユーネクストタイム。これでどうですか?>

<すぐ横にいるのに。変な感じ。まー後でね>



 ふっと画面から目を離すと、横の紗希と一瞬視線がかち合った。ニヤリ、という微笑みが、気のせいか腹黒そうに思われる。いや気のせいであれ。

 手元のメモに、紗希はさらさらとシャープペンシルを走らせた。

<ケータイ私語、金城さんにチクってあげる>

 やっぱり腹黒い笑いだった。

 シャープペンシルをひったくり、その下に返事を書く。左利きなので、身体の向きを変える必要はない。

<それだけはごカンベン>

<代わりに一つおねだりしてもいい?>

 紗希の目が、何か異常な色に輝いたように見えた。

<何ですか?>

 トン、トンと、しばらく考え込むように、同一点にペンを打ちつける。

<輸血用血液の管理のパ   >

 書いている途中で、ペンをひったくった。

<おことわりします>

 チッと、舌打ちする音が微かに聞こえてきた。

(管理室のパスワード? たしかに盗めるけど……とんでもない!)

 チラリと見やると、紗希は不機嫌そうに、前方で進められている会議の模様を見つめている。

(何なのこの人?)

 携帯電話の着信音らしい音が、話し声の間を突き抜けて、美夏の耳に届く。

「澤村君。会議中は切っておくように」

 西村の注意に、達紀は気まずそうに頭をかいた。その二つ後ろ、一つ左の席に座っていた金城が、クックッと肩を震わせたのが判った。

 ペシ、と、額を叩く音が横で聞こえた。

 振り向くと、麗美が右手で顔の上半分を覆っているのが目に入る。

 口元がこう動いていた。

(あのバカ)

 チラリと前田の視線が後ろに向けられる。美夏はぎょっとして身体を強ばらせた。紗希は相変わらず不機嫌な顔で、指示棒の行方を追っている。

 前田が前に向き直った時、美夏は心の底からほっとした。

 あの厳しい目で睨まれると、何故か全身がガタガタ震えてくるのだ。

(何ででしょうね?)

 世の中で一番判らないのは、自分自身のことだ。理屈じゃない事実。

(おっかしいなぁ……後で医務室行こうっと)

 見ると、ちょうど尾崎が、隣の西村に話しかけているところだった。西村は別の人間と交替して、自分の席に着いている。薬品管理第三課の鷹野が、質問のために挙手していた。紗希の上司である。暗号のような英数字の羅列が聞こえてきた。薬の名前だろうか。横の紗希を見ると、ニヤリと口元を吊り上げている。どうやら彼女の開発した薬らしい。

(ったく……キャリアには変人多いってもっぱらの噂だけど……この人は変を通り越して異常だわ……)

<人のこと言えるのかよ?>

 突然、頭の中で声が聞こえた。

(何……今の声?)

 足下から、言いようのない寒気が湧き上がってきた。二の腕をさすると、鳥肌が立っているのが判った。

(風邪? それとも、疲れてるのかな?)

 そう考えた瞬間、脳の奥底から、気味の悪い笑いが聞こえてきた。

 耐え難い悪寒に全身が覆われ、美夏はガタンと音を立てて、机の上に突っ伏した。どうにか力を入れ、顔を上げると、紗希のただでさえ大きな目が、真ん丸に見開かれたのが、靄のかかった向こうに見えた。

 そのまま、意識は途切れた。




          10


「全く。倒れるほどしんどいなら、欠席すれば良かったんです」

 医務室のベッドでうなだれている美夏に、説教の雨を降らせているのは尾崎だ。その横には、麗美から連絡を受けた哲也が、青い顔で立っている。

「あなたも、彼女のことをもう少しいたわってあげなさい」

「はい……」

 さすがの哲也も、尾崎には頭が上がらない。どんなに苛立っていても、哲也が絶対に噛みつかない人間は、幹部クラスではこの尾崎と前田、そして金城の三人だけである。

「本当に。会議出席は、候補生ではまだ絶対の義務ではないんですよ。それをこんな状態で……いいですか。今度はきっちり体調を管理して出席なさい」

「はい……」

 俯いたまま答える美夏の顔は、半端ではなく青白い。

「じゃ、後は休んでなさい。私は会議に戻ります……一時間後に戻ってきますからね」

「お手数かけます」

 ガラガラと重い音がして、木の引き戸が閉まる。

 痛いほど重い沈黙が下りた医務室で、まず最初に響いた音は、哲也のため息だった。

「まさか、俺のせいとか?」

 美夏を寝かせるのを手伝いながら、哲也がすまなそうな顔で問うた。

「違うわ……何か……急に気持ち悪くなって……」

「……あのぅ」

「いや。そうじゃないのは確かだから」

 美夏が首を振ると、ふーっと、安堵の息が、哲也の口から漏れた。

「ただね……何か、ちょっと嫌な予感がするのよ……頭の中がおかしいような……そんな変な感じ……」

 ぎょっとして、哲也は美夏の顔を覗き込んだ。

「一応まともなんだけどね……なんて言うか……声が聞こえるっていうか」

「ヤクとかやったことは?」

 ぶっきらぼうな問いかけ方に、美夏は少し眉間に皺を寄せた。

「ない……と思う」

「自分のことだろ」

「そう……なんだけどね……」

 力無く笑う表情が、本当に彼女が幻の女であるように見せる。

「おいおいおい!」

 そんな考えを打ち払いたくて、哲也は大きめの声を出した。

「私の本当の年齢はね……一つ……」

 とろんとした目で天井を見上げ、美夏は言った。哲也の顔が引きつる。

「……冗談よせよ」

「私ね……記憶喪失なの……一年前、交通事故にあって……だから、昔のこと何にも憶えてないの。何処で何をしていたのか、本当はどういう名前なのか、そんなこと全部……」

 哲也の胸を、凍りついた鉄の爪がえぐる。

<川崎美夏は幻の女>

<本当はそんな女は、何処にも存在していない>

 無意識のうちに、ぐっと奥歯をきつく噛んでいた。

 美夏の言葉は続く。

「偶然ね、入院していた病院で、この組織の人と知り合って……それで、何故かコンピューター関係の知識がすごくあったから、それならいっそのこと来ないか、って誘われて……それで入ったの」

「すげぇ唐突だな」

 何か言葉を挟まないと、押し潰されそうな気分だった。

 美夏が小さく笑った。

「そうだよね……自分でもそう思う。でもね、何か……温かかったんだ。心が安らぐっていうのかなぁ……」

「警察に言わせりゃ、ここも犯罪組織だってのに?」

「ん……でもね、何かそう思った」

「話し方がお子ちゃま化してないか?」

「うるさいなぁ、もう……それでね、頭の中で声が聞こえるってことは、ひょっとしたら記憶が戻ってきたのかもしれないな、って思、って……」

 話ながら、美夏は両の掌で顔を覆った。声が震えている。

「美夏?」

 泣いている。

 哲也は胸に何かが刺さるような感覚を無視して、美夏の手に触れた。

「美夏……なぁ……」

 嗚咽がはっきりと聞こえてきた。哲也は椅子を引っ張って、美夏のすぐ枕元に腰掛けた。

「私は一体何者なの? 事故からずっとずっと、それを問い続けているわ。記憶が戻ったら、それが判るのかもしれない……ずっと戻って欲しいと思ってた。でも、今は戻したくないの……戻って欲しくないの」

 涙でくしゃくしゃになった顔が、手の下から現れた。

「記憶が戻ったら、哲也のこと、忘れてしまうかもしれないから……」

「なぁ」

 思いついて、哲也は言ってみた。

「愛してる、って、言ってくれないか?」

「え?」

「愛してる、って」

 自分で繰り返すと、何だか気恥ずかしくて、赤面してしまう。

 美夏はニコッと笑って、要求に応えた。

「愛してる」

 うれしいはずなのに、哲也の胸の奥に、何かが刺さるような感触があった。

(何なんだ……この妙な違和感は……)

 目の前の美夏の表情に、言葉に、偽りはないと思いたい。

 それなのに、何故か気持ちの悪い感覚が拭い去れない。

 言葉の響きが虚ろなのか、美夏の存在そのものが虚ろなのか。

 そんな気持ち悪さから逃れたくて、哲也は美夏の唇に口づけ、貪るようにきつく吸った。深く、深く。

 触れていないと、今すぐにでも消えてしまいそうな気がしてならない。

(幻じゃない……美夏は、ここにいるんだ……)

 そう言い聞かせていないと、不安で自分が壊れてしまいそうな気がする。

(……美夏が幻である前に、俺が幻なんじゃないんだろうか……)

 ふっと、そんな考えが湧き上がってきた。






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