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第91章~第95章

梅田の旭屋書店、なくなっちゃいましたねぇ……丸善ジュンク堂が増えたので、本探しには困らなくなったのですが。

なお、執筆当時の梅田の百貨店は、阪急と阪神と大丸だけです。三越伊勢丹はまだ入ってないです。

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 夜中の馬鹿騒ぎは悪夢のように、夜明けの街は清々しい。薄青い空には何か神々しささえ感じられる。コンクリートとアスファルトに埋もれた街と空とが織りなす対照は、人間の愚かしさを嘲笑っているようでもあった。

 二人は早々と着替えると、朝食もとらずに掃除機の轟音から逃走した。

「さーてと……これから毎朝あの掃除機にうなされたくはないからな。どっか適当な家を見つけないとな」

 大きな深呼吸を一つして、貴史はてくてくと歩き始める。元居た町のようだから、地理にはやはり詳しいのだろう。何も言わずに、哲也はその後について歩き始めた。

 小さな、言っては悪いが、薄汚れた店だの家だのが並び、黒く煤けた建物とタイルを貼り替えられたばかりらしい歩道が、やはり対照を織りなしている。シャッターが降りっぱなしになって、長い間上げられていないかのように、赤錆が点々と滲み出している建物の数は、一つや二つではない。二車線の道路のこちら側にも向こう側にも、同じような光景がずっと続いていく。くすんだ赤と黄色のタイルで飾られた歩道と、白い真新しいコンクリートの中に立つ洒落たデザインの街灯だけが不自然に浮き上がり、他の全ては重苦しく、朝の光の中に沈んでいる。

 目を上げると、所々にぽつぽつと高層住宅があった。固まっていないのを不思議に思っていると、日照権の問題があるのだと、貴史が教えてくれた。

 殆どの家が二、三階建てで、通りに面した小さなビルだと四階か五階ある。

 何か音がして視線を前に戻すと、しみのついたエプロンを掛けた痩せ気味のおばさんが、喫茶店のシャッターを上げていた。扉に掛かっている札は、まだ『準備中』だ。しかしそれでもずいぶん早い。六時を過ぎたばかりなのだ。

「どこへ行くんですか?」

 哲也の問いに、貴史は、ついてきてみれば解るさ、としか言わなかった。

 角を曲がり、細い路地に入ると、いかにも「繁盛してません」といった風情の小さな不動産屋の前で止まる。元は鮮やかな緑色だったと思しきビニールの庇は、雨に打たれて色褪せ、黒い筋を幾本も描かれている。しみだの錆だのがついた、元はクリーム色だったらしいシャッターには、日野不動産、の文字がどうにか読み取れた。

「じいさんだから、起きてるとは思うけど……」

 貴史はそう呟きながら、風雨にさらされてザラザラになったインターホンのボタンを、続けて二回押した。

「はい?」

 しばらく間があって、明らかに起き抜けのふやけた声が返ってきた。

「おっちゃん? 永居やけど」

「いくらわしが年寄りや言うたかて、早すぎじゃ!」

「ごめん。事情があって……入れてくれへん?」

「ははぁ……掃除機やろ? ええよ。入り口からでも裏口からでも出口からでも勝手に入り」

 出口から入るのかよ! と、哲也は心の中で突っ込みを入れた。

(それにしても、相当有名みたいだな……赤井さんの掃除機の音は……)

 早く来い、と言われて、哲也は貴史の後を追い、裏へと回った。

「俺ら専用出入り口ね」

 そう言いながら、貴史は勝手口の中に滑り込んだ。たしかに「勝手に入」っている。

「おはようさん」

 前頭部がきれいに禿げ上がった、ばかに目つきの鋭い老人が、ニンマリ笑いながら出迎えてくれた。いかにも起き抜けらしく、格好は寝間着のままだ。

「ねぐらの相談か?」

「鋭いね」

 切り出そうとしたことを先に言われて、貴史は苦笑した。

「まだまだ耄碌はせぇへんよ……んで、どこがえぇねん?」

「阿倍野」

「阿倍野ォ!?」

 素っ頓狂な声を上げられて、哲也は一瞬後ずさりした。

「ないん? 環状線付近ならどこでもえーわ。出来れば東の方がええけど」

「お前なぁ、なんぼ繋がっとるちゅうたかて、近い方行きぃや……ここ何区か判っとるんやろ?」

「旭区」

 いけしゃあしゃあとした顔で貴史が答える。

「まだボケてはおらんようやな」

「当ったり前」

「都島区の南の方に、すぐ手配できる所があるけど、そこでええか?」

「都島区って言うと……」

「ここ(旭区)の南西、東淀川区の南、北区の西、中央区の北、城東区の東」

 位置を思い出そうとする哲也に、日野老人がはきはきと答えてくれた。

「ついでに言うなら、一部は環状線の中。南東の隅っこに京橋の駅」

 ニヤッと笑いながら、貴史が付け加えた。

「京橋ィ!?」

 知っている駅名だったので、哲也は思わず声に出して叫んでいた。

 毎週土曜日に『暗黒師団』の『カイム』とかいう男が現れると、先日福浦が言っていた駅だ。




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「まぁ南言うても環状線の外や……ほれ、ここ。条件からして、早い者勝ちになるに決まっとるから、こっちから先に連絡入れといたるわ」

 日野はトントンと地図の一点を指しながら言った。

「そこの管理人はメンバーなんですか?」

 哲也が尋ねる。日野は頷いた。

「諜報員や。けど住人はせやないで、もちろん」

「解りました」

 貴史が答える。地図を畳み始めた日野は、思い出したように顔を上げた。

「ところでなぁ、永居……ちぃと気ィつけなあかんことを言い忘れとったわ」

「何ですか?」

「そのねぐら、かなりヤバイ所にあるから」

「何が?」

「駅を降りたらキャッチセールスの山、ポン引きの兄ちゃんと怪しい姉ちゃんの海から抜けたら、道路の片側風俗街で反対側がホテル街。次に来るのは飲食店街やけど、道を左に折れたらポルノ映画館。まぁそっち方向には行かんで、ずーっと道を突っ切って行きゃあ着くんやけどな」

「ハァ!?」

「お前はえぇやろけど、お前の連れにはキツイかもな……よぉ絡まれそうな顔しとるから」

 また顔か、とため息をつく哲也を後目に、貴史は明るく笑っている。

「だーぁいじょーぶ。こいつ、彼女居るもん」

「ほう。そいつぁ頼もしい」

 その笑いが妙に皮肉っぽく見えて、哲也はぷいとそっぽを向いた。

「ほな、達者でな」

 貴史曰くの「俺ら専用出入り口」から抜け出すと、空はすっかり明るくなって、町が動き始めているのが解った。

「さーぁてと……朝飯食うか」

「どこで?」

「行きがけに見っけた茶店とかどう?」

「永居さんのお好きに」

 美味しい店とか不味い店とか、全然知らない町なのに解るわけがない。そういうつもりで言ったのだが、何故か貴史は不満そうな顔で振り返った。

「俺、何かしましたか?」

 そう尋ねると、貴史はくいと哲也のあごを掴んだ。

「そういつまでも他人行儀な呼び方しないでくれる? これからしばらく、俺ら家族になるんだから。貴史でいいよ」

 手を離すと、ほら、と言われる。意味が飲み込めなくて、黙ったままでいると、貴史って呼んでみな、と言われた。

「……貴史」

 言ったそばから恥ずかしくなって、顔が赤くなる。

「そう。貴史」

 楽しそうに笑いながら、貴史は哲也の頭を叩いた。

「弟が出来たみたいだ」

 そう言う貴史の後について歩きながら、哲也も小さく笑っていた。

(兄さんが、生き返ったみたいだ)

 口にはとても出せなかったけれど、たしかにそう思っていた。

 家族。家族。

 何度もその言葉を、頭の中で繰り返してみる。

 自然に、笑みがこぼれてきた。

「あ。やった。開いてる」

 貴史の声がなぜか懐かしいもののように聞こえる。

 先ほど通り過ぎた喫茶店の扉には、たしかに、『営業中』というプレートが掛かっていた。

 扉を押すと、チリンチリンと頭上のベルが鳴った。開いたばかりだからか、まだやや薄暗い店内には、カウンターの中に立つおばさん以外には、人は見当たらなかった。

「おはようございます」

 貴史がにこやかに挨拶をする。

「おはようさん……えぇ天気やね」

「ホンマに。せやけど、明日からは崩れるみたいですね」

 傍らのスポーツ新聞を取り上げながら、貴史は天気予報欄にチラリと目を走らせた。日付を見る。たしかに間違いなく今日のものだ。

「嫌やわぁ。甲子園に行こ思てるのに。雨女なんかなぁ」

 おばさんはため息をついて、注文を尋ねた。

「モーニングセット二つ。両方コーヒーで……まさかサンドウィッチ、からし抜きとかじゃないだろうね?」

 貴史が悪戯っぽく尋ねる。哲也も笑いながら、まさか、と答えた。

「あんたら仲ええなぁ。兄弟?」

 カウンターの中から、おばさんが陽気に訊いてくる。湯を沸かす煙の向こう側に、阪神タイガースのメガホンが見えた。

「ええ」

 貴史の言葉は、哲也の胸に、言いようのない痛みのようなものを与えた。




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 モーニングセットを食べている間中も、暇を持て余しているらしいおばさんに、絶え間なくしゃべりかけられた。主な話題は阪神のこととか、景気のこととか、阪神の最近調子のいい選手のこととか、旦那がだらしないとか、阪神の調子が下降線をたどっているようだとか、ようするに大半が阪神タイガースについてだった。

「本当に大阪って、阪神ファンが多いんですね」

 コーヒーのお代わりをねだりながら、哲也が言った。

「そりゃ、今でこそ本拠地は兵庫県やけど、昔は大阪タイガースって言うたんやから。六甲おろしの『オウオウ』っていうフレーズも、ホンマは『大阪』の韻を踏んでるんやよ」

 得意そうに教えてくれながら、おばさんはカップに、コーヒーをなみなみと注いでくれた。

「追加料金はまけといたるわ」

「え、そんな。悪いですよ」

「ええのええの。細かいことは気にせんで」

 おばさんがあっけらかんと笑っていると、ようやっと次の客が入ってきた。

「いらっしゃあい。調子どう?」

「ぜーんぜんあかんわ。昨日の阪神とおんなし」

 入ってきたスーツのおじさんは、この店の常連客らしく、おばさんと簡単に会話を始めた。主な話題は、やっぱり阪神のこと。四番が不振だの、エースの調子が悪いだの、キャッチャーがまた故障しただの、あんまり明るいネタとは言えないのに、何故か話している二人の顔は輝いている。

「人間って不思議ですね」

 哲也が呟くと、貴史は面白そうに笑いながら、なんで、と訊いてきた。

「暗い話題のはずなのに、楽しそうなんだもの」

「そうだね……けど、本当に二人とも好きだから、自然にああなるんじゃないのかな」

「そんなもんですか?」

「哲也は野球見てなかったの?」

「ええ。だって、やったこともないし。ルールも知らないし」

 それが聞こえたらしく、おばさんとおじさんが同時にしゃしゃり出てきた。

「ノーバンで捕られたらアウト。えぇ球見逃すか、くそボールを振るんが三回あったらアウト。これが三回たまったら、スリーアウトで攻守交代や」

 これが全てだと言わんばかりに、おばさんが熱弁をふるってくれる。

「あ、はい、解りましたから」

 もっと詳しいことをしゃべり出しそうな雰囲気のおじさんに、両手を挙げて降参する哲也を見て、貴史はやっぱりクスクス笑っている。

「せやけどあんたら、兄弟にしたら他人行儀やねぇ」

 不思議そうに首を傾げていたおばさんが、ぼそりと呟いた。

「両親が離婚したせいで、兄とは滅多に会えなくて」

 哲也がちょっと寂しそうな笑みを浮かべる。おばさんはすっかりだまされたようだった。おじさんも同じらしい。

「離婚かぁ……せやなぁ。子どもおらんかったら勝手にせぇって感じやけど、引き離される子どもはたまらんわなぁ」

 おじさんが、何故かしみじみと呟いた。と、おばさんがパンと手を打った。

「よーし。ほな何かおごったるわ。久々の兄弟再会やろ?」

「え……いや、そんな……」

 遠慮するふうの哲也の背中を、おじさんがばんばんと叩いた。

「気にしぃな。あ、やけどあんまり高いモンねだるんはよしや? あんな口叩いとるけど、財布苦しいんやから」

「じゃかまし。こないだのツケにしとった焼きそば代どうなってん?」

 そう言うおばさんの顔は笑っている。

「ああ、払う払う……いくら?」

「消費税込み六百三十円」

 おじさんは財布から千円札を一枚抜き出して言った。

「釣りはいらんでぇ」

「今日の代金合わしたら、二十円たらへんねんけど?」

「あぁもう……ほら」

 小銭入れから十円玉を二枚抜き、ひょいと投げる。

「おおきに」

 そう答えると、二人そろって明るく笑った。つられるように、貴史と哲也も小さく笑った。

 おじさんが出て行くと、おばさんは、さて、と呟きながら、二人の方へ向き直った。

「何おごって欲しい?」

 間髪入れずに貴史が答えた。

「クリームソーダ二つ」

「よっしゃ」




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 クリームソーダ二つ、消費税込み千百五十五円を本当におごってもらって、二人は店を後にした。コーヒーはもともとお代わり自由だったらしい。まるで有料みたいに言ったのは何故ですかと問うた哲也は、その方が後でタダやって判った時、えぇ気分やろ? と、当然のように返されて言葉に詰まった。

「気はいいけど、何だか豪快というか……」

 苦笑しながら歩く哲也を見ながら、貴史は堪えきれずに吹き出した。

「何がおかしいんですか?」

「いや……なんか……こっち来ると共通語のイントネーションがおかしくて」

「何ですかそれ」

「悪ィ悪ィ……でも大阪で共通語使ってると、結構目立つんだぞ」

「そうですか?」

 理解できないのか、哲也は小首を傾げた。

「そう」

「じゃ、大阪弁覚えた方がいいんでしょうか?」

「いや、それはよせ。西の人間でなきゃ、絶対に不自然なイントネーションになる。気持ち悪いし、共通語より目立つ。わざとらしい大阪弁ほど、聞いてて寒いものはないって、俺は確信するね」

「んじゃ、これで通しますよ」

 肩をすくめてみせる哲也は、嫌味なくらい様になっている。様になりすぎてどこか物寂しげな町の様子から浮いている。貴史はまた吹き出した。不満げな顔で、哲也が見上げてきたので、彼は目をそらした。

「しっかし他人行儀はやめろって言ったはずなんだけどな……」

「だって、馴れ馴れしいし、照れくさいし……」

 もごもごと口ごもる哲也の頭を、貴史は軽くはたいた。

「『兄弟』だろーが。何言ってんだよ」

 兄弟、の語にアクセントを置く。その声の中に、哲也は警戒感を見出した。感覚を尖らせて、まばらな人通りの中に、反応を探す。

「つけられてますか?」

 真側にいる貴史にさえ、聞き取れるか聞き取れないかというくらいの、低い小さな声で尋ねる。貴史も同様の声で返す。

「さっきのおっさんだ……茶店にいた」

「何でつけてんですか?」

「自分で考えな……俺らをつけるっつったら、二通りの人間しかいねぇだろ」

 『ブラッディ・エンジェル』の諜報員か、別の組織の人間か。

「はめます?」

「今日は泳がしておこう」

 低く囁いていた声が、今度はいきなり大きく変わる。

「さーてと、買い物行くかァ」

「へっ?」

 唐突に話題を切り替えられて、思わず間抜けな声を出す。

「千林大宮から谷町線で梅田まで、片道230円が二人分……あのおばさんに感謝しないとな。お陰で電車代が浮いた」

 貴史は独り言を重ねながら、何やら思案している風である。

「どこに運ぶんですか?」

「日野のじいさんが紹介してくれたとこ」

「今日すぐ入れんですか?」

「いや。これから確認とるんだけどね」

 がくっと頭を垂れた哲也の肩を何故かポンポンと叩いて、貴史は側にあった公衆電話ボックスに入っていった。ベンチが見当たらないので、哲也は貴史の入った電話ボックスの壁にもたれかかった。途切れ途切れに聞こえてくる言葉から、会話の内容を推測する。

 どうやら、日野老人は件の物件の管理者と既に話をつけたらしい。人が住みつかないように、いわく付きの部屋ということにしてあるが、実際には幽霊の目撃例などないので安心しろと言うことだ。家具や日常生活に必要なたいていの道具は揃っている。とりあえず衣類と食料などの「消耗品」を購入すれば、それで十分事足りるらしい。

 貴史は礼を言って受話器を置くと、目にもとまらぬ速さで二つ目の番号を叩いた。今度の会話は、声が小さくて、ほとんど聞き取れなかった。ガラスに耳をくっつけようかとも思ったが、そんなところを見られては怪しい人物間違いなしなので、なんとか踏みとどまった。

 出てきた貴史の顔を、少し恨みがましげな目で見上げてやった。

「何しゃべってたんですかぁ?」

 声が何か甘ったれた調子になったが、出た言葉は口の中には帰らない。貴史は困ったように頭を掻きながら、低い声で囁いた。

「つけてるヤツの報告」

 それから今度は、こっちが本当の答えのように大きな声で言った。

「彼女の容態のこと」

「え?」

「入院したんだってさ、紗希」

 一瞬カムフラージュの冗談かとも思ったが、貴史の目は真剣だった。

「『先生』のところに、治療を受けに出たって、赤井さんが」

 小声で付け足され、哲也はその意味を呑み込んだ。

 ついに『洗脳装置』の効力が薄れてきたか。また同じ装置にかけられて……そして戻ってきた紗希は、貴史のことを憶えているのだろうか? もしも憶えていなかったとして、そして美夏へのあの装置の効力が薄れてきたら?

 考えるだけでぞっとする。

(冗談じゃない……何故美夏が……俺を……)

 無理矢理思考を停止した。縋るような思いで、しかし顔には出さずに、貴史の腕を掴んだ。

「行こ。貴史」




          95


 電車に乗る時、貴史はぶつけないように、そっと頭を下げた。百九十センチもあると、日常生活にもいくらか支障が出るものらしい。

 目が回りそうなほど複雑な路線図を、哲也は何とはなしに見上げていた。

「梅田って、五つあるんだ……」

「三つだろ? 阪急線と阪神線と大阪市営線で」

「西梅田と東梅田があるでしょ?」

「それも入れるんかい」

 苦笑しながら貴史が突っ込みをくれた。前夜に会った福浦の影響か、大阪のイントネーションになっている。

「谷町線は東梅田だね」

「そっから梅田まで歩きな」

「近いの?」

 打ち解けた調子で話す哲也が、本当の弟のように思えた。

「貴史?」

 思わずぼうっとして、返事が遅れた。慌てて取り繕ったら、仕返しのようにクスクス笑われた。

何笑わろとんねん」

「だって、今まで散々笑われたから、お返し」

 やっぱりか、と心の内で呟きながら、さっきの問いの答えを返す。

「近いってったら近いけど、遠いってったら遠いな……地下街ずーっと歩いてくんやけど、同じ駅名やったらホンマしばく、ってぐらい」

「じゃ、遠いんだ」

「歩く分にはな。まさに人混みやから気ィつけや。迷ったらおしまいやぞ」

「うん」

 明るく返事をしているが……さてどうなることやら、と貴史は内心ため息をついた。思いついたように、哲也がふっと貴史を見上げた。

「ねぇ、道頓堀見たいんだけど」

「道頓堀はミナミ。俺らが行くのはキタ。観光は後回し。まずは引っ越し」

 ピンと人差し指で、額に一撃をくれてやった。

「キタとミナミって具体的にどこの辺りのことなの?」

 弾かれた額をさすりながら、説明を求める。

「キタが梅田周辺。堂島川のちょい北。肥後橋駅、淀屋橋駅あたりがだいたい南端。北端は諸々の梅田駅。結構オフィスビルが多いかな」

「あ、それでスーツが多いんだ」

 別に谷町線でなくとも、通勤の時間帯なのだからスーツは多くて当たり前のような気がしたが、あえて口には出さないでおいた。

「ミナミは道頓堀川の一帯。難波駅と日本橋駅をおよその南にして、北は……心斎橋駅あたりかな……あ、そうそう。道頓堀の戎橋は、通称ひっかけ橋って言って、ナンパが多いんで有名」

「誰がしますか! 彼女いるのに!」

 むきになって言い返す哲也がおかしくて、貴史は笑い声を押し殺すのに必死だった。

「何笑ってンですか! 次着きますよ!」

 『中崎町』と書かれたプレートが、窓の外を流れていった。

「大丈夫。たしかまだ三分あるはずだから」

 そう言って笑い続ける貴史に、哲也は深くため息をついた。

(そういう問題じゃないんだけど……)

 電車の速度が落ちてくる。

「ほら、降りるぞ」

 いつの間にか真顔に戻っていた貴史が、先に立って、電車から降りた。

 割に小さな改札を通り、白タイルを貼られた無機質な通路を、流れに乗って人混みの中へ出て行く。はぐれないように、哲也は無意識のうちに、貴史の手を握っていた。

「阪急百貨店に行くか……でもまだちょっと早いかな……」

 人の流れから抜け出して、貴史はやっと手を握られていたことに気がついたらしい。

「さすがにちょっと、これはね……」

 苦笑しながら、離してくれないか、と言われる。肩をすくめて、ぱっと離すと、急に手のひらが冷えたような感じがした。

「何して時間潰す?」

「本屋行きたい……かな」

 ちょっと考えてから答えると、貴史は大げさな身振りを交えて、残念でしたと宣言してくれた。

「旭屋書店の営業開始は十時だよ。阪急百貨店と一緒」

「まだ一時間半近くあるじゃないですか!」

 どうしてこんなに早く移動させたんだよ、とぼやく哲也の肩を叩きながら、貴史は耳元に囁いた。

「さっさとまいてやりたかったからさ……もうつけられてないよ」



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