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第86章~第90章

今回の教養は生物系(多分)

          86


(哲也、今、どうしてる?)

 美夏は自分の部屋の窓から、真っ暗な空を見上げていた。血の滲んだような赤茶色の虹彩の映像は、頭にこびりついたまま離れてくれない。

(哲也……私、どうかしてしまいそう……)

 紗希の不吉な予言が、頭の中に響き続けている。

<戸川君が死ぬからよ>

 人を好きになってはいけない……何故、本能みたいに、こんなことを考えてしまうのか、自分でも解らない。ただその考えに反発している人間が、自分の中にいる……反発? 反発とは、少し違うような気もする。

「愛してる」

 いつか、哲也に求められた言葉を、小さく呟いてみた。

 違う……どこか虚ろだ。

 自分の中に、哲也を拒絶しようとする人間がいるからだ。

 哲也を拒絶しようとする人間が、表に立とうとしたら、手首を切ってやる。そいつは血が嫌いだから、それを見るとすぐに引っ込んでくれる。そうし続けないと、いつか激しく哲也を拒絶してしまいそうな気がする。

 そんなことはさせない……ようやっと、支えてくれる人を見つけたのに。

 ようやっと?

 どうして解るの?そんなこと……昔のことなんか、憶えてないはずなのに。

(哲也、助けて……バラバラになりそう……)

 人を不安にさせた張本人は、尾崎の命令で本部から離れている。命令というと堅苦しいが、単に何かの治療だという話だ。何か病気に罹っているような雰囲気はなかったが、医者の尾崎が言うのだからそうなのだろう。

 人の不安を煽るだけ煽っておいて、自分は病院に治療を受けに消えた。

 何となく頭に来る。

 しかし誰に当たるわけにもいかない。

 哲也がいれば……いや、哲也がいれば事態は悪化するだけだろう。

 そもそも、紗希の不吉な予言を、彼に教えなければならぬという法はない。

 たとえ知っても、どうしようもないのだ。

(何故、死ぬのよ? 私が……殺す、とでも?)

 ありえない。

 ありえない。

 断言したっていい。断言できる。

 そんなことは絶対にしない。

(私は、紗希さんとは違う)

 遺体損壊常習犯の、あんな人とは。


 ……どこからそんな話を聞いてきたんだっけ?

 哲也はそんな事を言っていたかしら?

 ……言ってなかったわね。

 じゃあどこから聞いてきたのかしら?

 ……わからない。

 事故以前の記憶だけじゃなくて、その後の記憶もポンポン飛んでいるような気がする。

 記憶障害には、心因性のものと、外因性のものとがあるんだっけ? 私の場合はどっちかしら? 本当に脳に何かが起こっているのでなければ、いつか記憶は返ってくる……はず、よね?

 戻ってきているの?

 あの赤い目の映像……いったい何時の記憶?

 あの目の持ち主……誰?

 実際に見たはずよ……あんなに生々しく憶えてるなんて……なら誰?

 赤い目……血が滲んだみたいに、一部血管の透けて見える煉瓦色の目……

 目……

 目?

 何か……何か、思い出せそう……

 目……

 真っ黒な、冷たい目……暖かさの欠片も感じられない、凍りつくような目。

 前田さんの目?

 そう。あの人の目を見ると、何時も私は凍りついてしまう。

 でも違う……あの人は、本当は優しい……医務室で尾崎さんと話している時の目は、いつもの冷たい目と全然違う。

 私の知っている、冷たい黒い目じゃない……あの目は笑っていたことなんか一度もなかった。少なくとも、優しい笑いなんか浮かべた事はなかった。

 そうだ……これは何時か見た誰かの目だ。

 誰の目?

 この組織にいる……ような気がするのは、気のせい?

 誰の目?

 真っ黒で冷たい……情の欠片も何もない目。

 ……南野上級幹部?

 そうだ。

 あの人の目にそっくりだ。

 でもどうして?

 事故に遭ったのは、組織に入る前の事だったのに。

 どうして、それ以前の記憶らしいものの中に、南野さんがいるの?

 組織に入ってからの記憶?

 じゃあどうして、あの目の持ち主が、笑った事など一度もなかったと断言できるの?

 たしかに南野さんが笑っているところなんて、見た事なんかない。

 けど、真っ正面から顔を合わせた事なんてないはず……上級幹部会議の傍聴の権利は、候補生にはまだないんだから……やっぱりおかしい……殆ど見た事もない人の事、そんなに断言できる?

 あの目の持ち主は誰?

 ……いえ、その前に。

 何故そんなに冷たい人の目に、私は見つめられていたの?




          87


 暗くなり始めた村に、静かに車が入ってきた。村の中心に建つ教会は、暗い中でも、その十字架を厳かに輝かせている。

「それで、あの人に会うんだ……」

 助手席に座っていた紗希が、小さく呟いた。

「永居君を、殺したくないんでしょ?」

 運転席でハンドルを握る麗美が、道々何度も繰り返した言葉を、また繰り返した。まるで暗示をかけるように。

 黙ったまま、紗希は頷いた。

「永居君を殺したら、生きていけないんでしょ?」

「解ってる……でも私が殺さなくても、いつか彼、死ぬもの……」

 頼っていた人間が、いきなり消えていなくなる。

 もしも貴史が消えたら、その喪失感を克服するなど、自分には到底出来ない事のように思われた。

「だからって、あなたが彼を殺すべきだという事にはならないわよ」


 違うの。

 ねぇ。

 彼を殺して、私も死ぬの。

 二人で地獄に行くの。

 天国に行けるほど、だって私、いい人じゃないもの。人殺しだもの。

 貴史も人殺しだから……ねぇ……一緒に地獄に行けるでしょ?

 それとも、貴史は罪を償った?

 ……嫌だ……一緒に行こうよ……独りは、もう、嫌。


「紗希?」

 音も立てずに、紗希は泣いていた。ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。


 嫌だ。

 貴史。

 傍にいて。

 独りは、もう、嫌。

 一緒にいて。

 寂しい。

 苦しいよ。

 恐いよ。

 恐くて、恐くて、たまらない。

 あいつが……あいつが……

 どうせ、麗美さんも……あいつの……

 だって、同じ目をしてる……切れ長で冷たい闇色の目。


 車が教会横の医院の駐車場で停止した。元からしてなどいなかったかのように、紗希はするりとシートベルトを外し、車外に飛び出した。

「紗希!」

 わずかに遅れて車外に出た麗美が、慌てて叫ぶ。

「嫌だ!」

 理性の光が消え失せた目で、紗希は走り出した。

「戻りなさい!」

「嫌ぁッ!」

 我が侭な子どものような声で、紗希は振り返って叫んだ。

「戻りなさい!」

 銃は向けたくなかった。そんなことをしても、紗希が言う事を聞くはずなどないのも、十分に解っていた。だから叫んだ。

「戻りなさい! 紗希!」

 そう叫んだ麗美の横を、白と焦げ茶色の影が走っていった。

「パンセ……」

 訳が解らないまま、麗美はその猫の名前を呟いていた。

 パンセは、まるで狩りをするように、後足を使って高く跳び上がると、尻尾で器用にバランスを取りながら、綺麗な放物線を描いて紗希に飛びかかった。

 アスファルトの上に倒れる。

 予想外の事態に呆然としていた紗希は、自分の身体に食い込む猫の爪がもたらした痛みで我に返った。

「パンセッ!」

 飼い主である百合の悲鳴が空気を切り裂く。

 パンセは、ありったけの憎しみを込めるように、紗希の身体に爪を食い込ませていた。何とか引きはがそうと思って近づいてきた百合は、あまりの事態に色を失っている。

「百合ちゃん! 早く猫を!」

 麗美に急かされて、百合は暴れ回るパンセを、どうにかこうにか紗希の身体から引きはがした。

「紗希。行くよ」

 有無を言わさぬ調子で言って、麗美は紗希の手首を掴んだ。

 そういう目が南野にそっくりだと、紗希は心の内で呟いた。




          88


「ふーむ……何が原因で引っ掻いたんじゃろうのぉ?」

 消毒をしながら、山村はまじまじと紗希の顔を見つめた。上半身を裸にされているだけでも恥ずかしいのに、その上顔を凝視されたので、紗希は顔を真っ赤にして俯いた。山村はわざとらしく咳払いをして、視線を逸らせた。

 教会に繋がった医院の中。パンセは猫用の籠の中に閉じこめられたが、それでもまだ暴れている。百合は籠の外から宥め賺そうと必死だ。

「私も来るたびに引っ掻かれた口だけど……ここまで派手にやられた事はないわね、さすがに」

 麗美は頭をがりがりと掻いた。さっきまでポニーテールにしていたので、髪にその型がついたままだが、本人は全く意に介していない。

「それにしてもまぁ妙じゃのぉ……昨日永居と戸川が来たんじゃが、戸川もやられとったよ。ほいじゃが永居はベタベタに懐かれとった」

「そんな顔してますものね」

 ちょっととぼけて言って見せた麗美に、山村は一瞬表情を緩めた。

「あがぁなぁは江波にひらわれた猫じゃけぇ、それが理由かとも思うたが」

「ありえませんよ」

「ほいじゃが前田も戸川も、江波暗殺に関わっとるじゃろう?」

「じゃあ私はどうしてなんですか?」

 そう問う声は、既に答えを知っている者の声だった。山村はそれに気づいたが、知らぬふりを決め込んだ。

「さぁね? ……よーし。もう服を着てもいいぞ」

 そう言って脱脂綿をとめるテープを切ると、紗希はまた赤くなった。

「向こう向いていてもらえます?」

 そう伝えながら、紗希はブラインドを下ろした窓の方を指さした。

「あいよ」

 紗希の提案を快諾すると、山村はくるりと回転椅子を回す。

 紗希はいそいそと、元通りに服を着た。いや、元通りというと語弊がある。元着ていた服は、パンセに引っ掻かれて破られ、血が滲んでしまった。今着ている服は百合のものだ。

 紗希と百合では百合の方がいくらか背が高いが、ほとんどピッタリのサイズだったのは幸いだった。

「麗美さんなら、服ありませんでしたよ。父のくらいしかね」

 百合はそう言いながら、紗希に今着ている服を渡したのだ。十代の少女が着るにしては、妙に落ち着いた、飾りの少ない長袖のブラウス……不思議に古い匂いがしたのは、気のせいではなかった。

 ええんか、と、山村の問う声が、あの時小さく聞こえてきた。

 ええんよ、と、百合が明るく答える声も。

 形見に縋らんでも、別に大丈夫よ、もう、と付け加える声も。

 きっと紗希に渡したブラウスは、六年前に他界した、彼女の母のものだったのだろう。

 麗美はそんなことを考えながら、ぼうっと横にある机を見つめていた。

 山村と紗希のやりとりが、ヴェールの向こうから聞こえてくる。

「時間のかかる治療じゃけ、今日はゆっくり休みんさい。風呂にでも入って」

「そうするとこれ、剥がさなきゃならなくなりますよ?」

「……別に構わんよ。風呂から上がった後で、百合あたりにでもまた消毒してもらいんさい」

「はい。じゃあそうします」

「間取りは憶えとるか?」

「……思い出しました」

「ほうか」

 百合が先に立って、紗希を案内していった。

 医院に残ったのは、山村と麗美の二人。

「さてと……」

 急に厳しくなった視線に戸惑いながら、麗美は山村の目を見返した。

「どこまで知った?」

「何をですか?」

「前田と、お前と」

 嘘は絶対に通じない。麗美はそう直感した。そして正直に話しても、この人なら理解してくれるに違いない、とも。

「腹違いの兄妹で……父親は、南野圭司……前田さんの、昔の名前も」

「おおかた、澤村が盗ってきたんじゃろ?」

「はい」

「あがぁなぁは……なんでそうぼろぼろしゃべりょぉるかのぉ……」

「私ですか? 達紀ですか?」

「達紀じゃ……バレなんだらシメられんでも済むんに」

 麗美に合わせて、山村も達紀を下の名前で呼んだ。違和感はなかった。

「でも達紀は、二人を助けるために……私の事が見つかったのは、ほんの偶然からで……」

「伏せときゃあ、余計な悩みも増えんで済んだたぁ思わんか?」

 麗美はそれに答えなかった。

「先生は、どこまでご存じなんですか?」

 ちょっと困ったように、山村は顔をしかめた。

「詳しいことはわしも知らんが……ただ、南野の過去について、まずい情報を一つ持っとる……例の某国にいたことがあるらしい」

「まさか」

 『暗黒師団』の背後にいるのは?

 山村は、じっと麗美の目を見つめた。

「さぁね? 推測に過ぎんよ……実際南野は、組織によぉ尽くしてくれたし……これだけの理由で処刑に踏み切るのは早計じゃろう」

 しばらく沈黙が続いた。

 ふっと、麗美は尋ねてみた。

「『兄』の、昔の写真とか、ありますか?」




          89


 麗美の言葉に、山村は少し首を傾げた。何が目的でそんな言葉を発したのか見当がつけられなかったのだろう。

「いえ、単に、似てたのかなぁと思って……私、どっちかって言うと母に似てますから……どのくらい似てたのかなぁと、ちょっと気になって……」

 しどろもどろになりながら言うと、山村はふっと笑った。

 それから、机の上の、百合の写真が入った写真立てを取り上げた。

「嫌がりよるけぇ、裏向きに入れとるんじゃ。捨てて欲しいらしいが……」

 パチンと裏側の板を外すと、三枚の写真が落ちてきた。一枚は百合のもの。後の二枚には、見慣れた人間の昔の姿が写っていた。

 まず差し出された写真に写っていたのは、長く艶やかな黒髪の少女。麗美に似ているが、どこか違う。目の暗さだ。光の欠片もない。そのせいで、闇色の虹彩が突き刺すように向けられているのが、はっきりと解った。

「似とるっちゃあ、似とるかのぉ」

「でも、私より、綺麗です」

 薄いピンク色の、長いワンピース。それと対照的に、少女の肌は青白い。今すぐにでも倒れてしまいそうなほどだ。だがそれを差し引いても、その美しさはずば抜けていた。全てのパーツが完璧な形状を保ち、そのどれ一つとして、最上の場所に配置されていないものはない。笑みの欠片さえ浮かんでいないのが、かえって雰囲気を神秘的なものにしていた。

「われがそがぁなことを言うたぁ、考えもせんかったぞ」

 山村がからかうと、麗美は真顔で呟いた。

「私より綺麗な人なんて、見るの初めてです」

 やっぱりこいつはこいつか、とでも言いたげな調子で、山村はガクッと項垂れた。麗美は瞬きもせずに、写真を見つめている。

「でもどうして、女装を?」

「あがぁなぁの前の名前を知っとって、それを尋ねるか?」

「いえ……ある程度の生い立ちなら……でも……この写真、ここに来てからのものでしょう?」

「いくら自分は男じゃと言いきかせとぉってもな、ずっと強制されとった姿を変えるにゃあ、それなりの期間が要るもんなんじゃ」

 六つ以降、スカート以外はいた事はなかったらしいしの、と付け加える。

 それから、二枚目の写真が差し出された。

 二枚目の写真に写っていたのは、明るい顔で笑う青年だった。その隣には、組織を裏切る前の江波が、静かな笑みをたたえて立っている。青年の顔立ちは当然ながら、先ほどの写真の少女と同じで、違うのは彼が笑っているという事だけだ。だがその笑み一つで、印象はガラリと変わっていた。

 神秘的だが陰鬱でもあった先ほどとは打って変わり、こちらの顔は、華やかながら、同時にどこか親しみやすそうな雰囲気が溢れている。

「こがぁな顔を見せる相手は、江波だけじゃったがの」

 麗美の考えを察してか、山村はぼそりと付け加えた。

「尾崎さんには?」

「ここまで明るうは笑わんかったよ……今は笑いさえせんがね」

「そうですか……」

 じっと写真の中の二人を見つめる。兄に甘える似ていない弟のようだった。不思議な事に、自然と「弟」というフレーズが出てきた。さっきはどう見ても女にしか見えなかったのに。

 じっと、写真の中の顔を見つめる。たしかに自分に似ているところもある。だが美しさの点では敵わないと、心のどこかで思った。

 自分の美貌は、所詮女としての美しさに過ぎない。

 この半分しか血の繋がらない兄は、性別などバカバカしくなるような美しさの持ち主だった。中性的などという表現は当てはならない。それは単にどちらにも見える、という意味でしかないからだ。写真に写っているのは「美」だ。男でもなく女でもなく、人間の「美」を体現している人間。性別という区別を超越した、一つの存在。

 だからだろうか? 江波が彼を愛したのは。

 それにしても、つくづくおぞましいことだと思った。この顔に……いや、顔だけではなく身体にも……メスを入れた人間は、何か、感覚が麻痺しているんじゃないかと思うほどだ。美と聖が同義に等しい麗美の感覚において、それは神聖を冒涜する事以外の何ものでもない。

 ふっと、三年前、組織に入った時に、達紀の言っていた言葉を思い出す。

(ミロのヴィーナスってのはな、両腕が欠けてるから美しいんだ。完全な美というやつは、どこかに欠陥があるものさ。だからよりいっそう美しい)

 その後、だからお前さんのその性格も、美しさを引き立てる欠陥だと思ってあきらめるさ、と付け足していたが……ああ、こうも言っていた。

(完璧ってのは堅苦しいもんさ。これでもしもお前さんの性格が良かったら、俺はコンビなんか組もうとは思わなかっただろうよ)

 達紀は恋人ではない。だが単なる友人でもない。適切な語が見当たらないがとにかく自分にとってとても重要な人間だ。

 前田にとっての江波は、自分にとっての達紀以上に重要な存在だったはず。だが江波は、前田を傷つけて去っていった。あの美しい顔に、焼けたナイフを押しつけるという、考えるだにおぞましい行為を実行して。

 前田に、欠陥はあったのだろうか?

 ふと、そんなことを考えてみた。




          90


 朝六時。赤井の親父の宣言通り、騒音公害と提訴されても仕方がないほどの轟音を伴って、掃除機が稼働を開始した。絶対に寝続けられると宣言した哲也も、予想を遙かに上回る音に、あっけなく叩き起こされた。横を見れば、貴史は平気で眠り続けている。

「どういう耳してんだよこの人は……」

 まさか耳栓して寝ているんじゃ、と、思わず両耳をチェックしてしまった。しかしやっぱりそんなものなどしていない。

 自分だけ起こされたのも腹が立つ。昨日の晩、上に引っ張り上げてやったのだから、少々の事をしても何も言われまい。そう腹を据えて、哲也は手始めに貴史の顔をぺちぺちと叩いてみた。反応無し。

「生きてますかー?」

 ふざけて訊いてみると、寝ぼけきった返事が返ってきた。

「生きてるよーぉ」

 ンならとっとと起きんかい、という言葉を呑み込み、哲也はニヤリと口元をつり上げた。

 強引に布団を引っぺがす。散々抵抗したが、起きている者勝ち。

「おっはよーぉございまーぁす」

 薄目を開けた貴史に、ニヤニヤ笑いながら挨拶する。

「なんか……すっげぇ音がする……」

「赤井さんが掃除機かけてる音です」

 その哲也の言葉で、いっぺんに目が覚めたらしい。

「まぁだ買い替えてなかったのか!?」

「そうみたいですね」

 ここに泊まる人間が、苦情を述べるとしたらこの掃除機の音だけだよ、と、貴史は苦い顔で教えてくれた。

「ところでお前、なんで裸なんだ?」

 下着ははいてます、と目で訴える哲也に、貴史はあぁスマンスマン、と右手を挙げた。

「いや。服の跡つくじゃないですか。割とぴっちりした服着てきたし。寝る時苦しくなったりとかしたら嫌だなぁと思って」

「意外に大胆だね」

 苦笑しながら、貴史はふっと、ベルトが外されている事に気づいた。

「そーですか? 何でもないと思いますけど……あ、ベルトなら永居さんの鞄の中ですよ。誰もスりゃしませんって」

「裏、見たね?」

 ベルトの裏に縫い込まれ嵌め込まれした、秘密道具の数々のことだ。

「はい」

「ま、君だからいいけど……別に殺し屋ったって、四六時中銃を持ち歩いてるかというと、そうじゃないんだよな。好みによりけりだけど、俺はこっちのが実を言うと得意だし……銃も下手なつもりはないけどね」

「あの筒の中、何入ってるんですか?」

 細長い奇妙な筒がいくつか、器用に嵌め込まれていたのを思い出し、問う。

「右二つの白いのに針。その左の緑のに麻酔薬……紗希特製の強烈なヤツさ。それから一番左の赤い筒二つには、毒が入ってる。こっちも紗希製。よく見てみな……右側の赤い筒には、下の方に線が一本。左のには二本入ってるだろ? 二本線は新薬だ。つっても俺にとってで、もう既に一回使われたらしいけど」

 よく見ると、確かに赤い筒には、下の方に白い細い線が走っていた。

「スパイみたいですね」

 昨日聞いた気がする単語を口にすると、貴史はからからと笑った。

「よく知ってるじゃないか」

 そう言いながら、上着のポケットからシャープペンシルを抜き取って、ひょいと投げてよこした。キャッチして、ぎょっと目を見開く。

「重い……」

 まさか、という目で貴史を見ると、そうだよ、とばかりに頷かれた。

「拳銃だよ。単発式で、音はものすげぇんだけど、背に腹は替えられないってシチュエーションで使う事もあるだろうか、と……単なるこけおどしにしかならないだろうけどね」

「CIAみたい」

「残念ながら、これの原型は二次大戦中、欧州で市販されてました」

「嘘」

 哲也は思わず口に出して言った。日本では、銃が市販されるという事さえ、遠い世界の話だ。

「本当。あ、でも、KGBとSOEならあるよ。毒薬注入と、催涙ガス噴射の万年筆……役に立ちそうにないけどね。古いものだし。俺のじゃないし」

「誰のですか?」

「赤井さんのだよ……諜報員時代にね。もっとも、こんなもの持ち歩いてて、その正体がばれた暁には、どんな目に遭わされるかたまったものじゃないんだけど……ふふふ。日本人は警戒心が弱いから」

「万年筆の毒って、組織の薬ですか?」

「まさか。言っただろ? KGBの使ってたのと同一タイプだって。リシンさ」

「必須アミノ酸?」

「あのな……"lysine"じゃなくて"ricin"だ」

「聞いた事ありませんけど……」

「まぁ、一般人はまず知らないだろうな。でも、情報関係者なら一発でピンとくる毒さ……KGBは実際、暗殺に使ってる……トウゴマの種子に含まれる糖タンパク質の一種で、猛毒だよ。もっとも、もがき苦しむながら死ぬ事になるらしいけど……排出されたら、検出は不可能。解毒剤もない」

「完璧じゃないですか……排出されるってのが引っかかりますけど」

「いや、それ以外に一つ落とし穴があるんだよ」

「何ですか?」

「排出されたら、たしかにリシンそのものの検出は不可能さ。しかし、人間の身体には免疫機能というヤツがあってね……リシンそのものは排出されても、身体の中に、リシンに対抗する抗体が残る。その量を通常の人間の身体の中にある抗体の量と比較すれば、一発でばれるのさ。いない敵を攻撃するために、軍備を拡張する間抜けな国はないからね」

 そう言う貴史の笑みが、妙に皮肉っぽく見えたのは、気のせいだろうか。



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