第71章~第75章
前田さんのヤンデレな過去についての独白。こんな内容なのは、由貴○織里さんを読みまくっていた頃だったからだろーか。
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中央情報処理室に戻ると、蒲原の周囲に人だかりが出来ているのが見えた。
「何の騒ぎだ?」
退いて退いて、と手を振って、集まっている人間を追い払うと、達紀はディスプレイの前で硬直している蒲原の横に立った。
「何だよこれ?」
真っ黒なスクリーンには、たった一行の文字が光っていた。
<私の勝ちだ>
「ゲームでもやったのか?」
なるべく深刻そうに聞こえないように、問いかける。
「まさか!」
必死になって否定する蒲原の肩に、達紀は手を置いた。
「わーかってるよ……しかしそうすると」
ぐるりと部屋全体を見渡し、視界に入るコンピューターの一つ一つを睨む。
「いったい、誰だ? 情報処理関係者以外、ここのコンピューターを使えるのは議長と上級幹部会の人間だけだ……僕の記憶にある限りでは、それ以外の人間でここに入ってきたのは、麗美くらいだ……今日に限らず、ね」
「私じゃないわよ」
腕を組んで睨みつけてくる美女に、ひらひらと手を振る。
「解ってる。君はこんな真似なんかする人間じゃない。『勝った』んならまずカラスが空から墜落するほどの高笑いが響くはずだ」
クスクスと、そこここで押し殺したような笑いが漏れた。
「人を何だと思ってンのよ……」
達紀は一度ニヤッと口元をつり上げたが、また厳しい表情に戻って言った。
「時限式のプログラムで、今までずっと眠っていたってんならともかく、そうじゃないとすると、ヤバイな」
妙に済ました顔になり、達紀は右手で自分の首を絞める真似をした。
「ハッキング……? 無理でしょう? ここのシステムは、外部と殆ど完全に遮断されているんですよ?」
別のスタッフが青い顔をしていった。
「どうかな? 穴は塞いだつもりだけど、考えてみりゃ、僕は全くの外からでもこの中に入る自信がある……僕が入れるんなら、少なくとも僕以上の腕を持つ人間なら、中に入れるってことだろう?」
事実、何度かの外出の折に、達紀はここに侵入することに成功している。
無論、帰ってからその穴は塞いでいるが。
見つけていない穴が、まだあるのかもしれない。
「ま、今のところは……これが時限式で、内部の誰かさんが悪戯で仕掛けた物だって事を願うね。とりあえず、調べてみるけど……そのメッセージの根っこの調査、君に頼むよ」
蒲原の肩を叩いて、達紀は自分のデスクに戻った。
「笑い事じゃないと思うんだけど?」
麗美が傍で囁いた。
「そうだな……」
クリック音や、キーボードを叩く音が、パチパチと響いてくる。
「僕が組織に入った年に、江波が裏切った……」
「それが?」
「顔を付き合わせていたのは三ヶ月だけだったけど……確か彼は、こっちにも詳しかったような記憶がある……」
データベースに繋げ、何かを探し始める。
「何を調べてるの?」
「過去七年間に、この部屋に入ってきた人間」
「え?」
「すぐに調べられるのは、七年前までが限界だ……」
それ以前のデータは、後回し後回しにされて、まだ移行中なんだよ、と付け加える。
「君みたいなパターンで、『裏切り者』がここに入ってきた可能性があるかもしれないと思ってね……狙撃手出身者がここに来ることは滅多にない。探すのは結構簡単だろう」
キーを操作し、絞り込みをかけていく。
「出た」
出てきた名前は四つ。
その名前を見た麗美が、どこか引きつった笑いを浮かべながら言った。
「うわ……疑わしい人ばーっかり」
南野圭司、湯浅克彦、江波知弘……前田浩一
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「でも、江波はともかく、どうして前田さんまでがここを?」
そう尋ねる麗美に、さぁ?とだけ答えると、達紀は前田がここを訪れた日の利用者を調べてみた。
「お見事」
その麗美の言葉につられるように、達紀も思わず苦笑した。
前田がこの部屋を訪れた日付は、江波の利用日とぴたり一致していた。
「ここまで来ると、追っかけというかストーカーというか……」
「……疎ましかったには違いないだろうね。顔を焼くことはないと思うけど」
さらに突っ込んだデータを探しながら、達紀が呟く。
「あれ?じゃあ、整形前のあの人の顔、見たことあるんだ?」
「何度かね……でも一度見れば、すぐに憶えられる顔だったよ……滅多にないほどの美人だったし……目が君に似てたな……まぁ、それは今も一緒か」
達紀の言葉に、麗美は曖昧に笑い返した。と、ふと思いついて言った。
「あ、ねぇ……『ミハラヒロミ』で、何か情報あるか調べてくれる?」
「この仕事に関係あるの?」
ため息混じりに、横合いからのぞき込む悪友を見やる。
「あるかもよ……漢字は判ってるでしょ?」
「ああ」
カタカタとキーを叩く。
<三原浩美>
「該当情報は……どーやら聖域にあるらしいな」
上級幹部以上の地位でないと、入れないエリアだ。
「入れる?」
「入れるけど……何で今更この名前を? 湯浅さんのベースには、僕が見つけた以上の情報はなかったよ?」
「私の父親のは?」
その言葉を聞いた達紀が、ぎょっと硬直するのが判った。
「同じ事だと思うけど、後回しにさせてもらえるかな? 岡野の姐さんが来る前に、片をつけたいんだ」
岡野美佐。技術科総括補上級幹部。上層部の紅一点だ。
「つくならね……はいはい、待ってます!」
「待つぐらいなら、失敗した実験のやり直しして来いよ」
「ひどい。せっかく忘れてたのに!」
「忘れるなよ」
どこかで同じようなネタを聞いたことがあったっけ……と思いながら、達紀はまたさっき途中まで探していた情報に戻った。
「ほら、帰った帰った。何年か後、容疑者にリストアップされても知らんぞ」
あっかんべー、をしてから、麗美は資料と一緒に部屋を出ていった。
呆れ混じりのため息をついて、達紀はコンピューターに向かい直った。
三原浩美は、前田浩一の母親だ。母親であると同時に、同一人物でもある。
浩一が五歳の時に、母親の浩美は死んだ。浩美の死を受けいれられなかった浩一の父親は、浩一を浩美として育て始めた。彼はそれから、三原浩一ではなく、三原浩美として生きることになったのだ。江波が現れるまで。
前田というのは、母親の旧姓だ。
自分でとどめを刺すほど憎んでいた父親の姓など、名乗りたくなかったのだろう。
六月が来ると……雨の日になると、前田は遠い目ばかりする。遠い目をして空の向こうばかり見つめる。
十六年前の六月に、彼は江波と出会った。
その時、浩美は浩一に戻った。
いつしか重いため息をついていたことに気づいて、達紀は胸の辺りを押さえた。知らなくても良かった……いや、知らない方が幸せであったことを知ってしまった時は、たまらなく胸が気持ち悪くなる。
特に、知ったところで何一つ出来ないことが解った時……自分の無力感に打ちのめされる時は、吐き気がして仕方ない。
「勝手だよな」
それを、誰に対して言ったのか、達紀は自分でも理解していなかった。ただその言葉を言わずにはいられなかった。
「ホント、勝手だ」
大きな時計草の薄青い花が、スーッとディスプレイに浮かび上がってきた。
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本部東棟七階。前田浩一の部屋。
一人にしてもらいたいと思うのに、一人だと寂しいと思うのは、何故なのだろうか?
私が未成熟な子どもだからだと、幸恵、君なら言うかも知れない。
猫みたいに身勝手だから、とも言われそうな気がする。
いつもいつも、追い詰められて、最悪の選択をしてきた気がする。
追い詰められるのが嫌で、逃げ続けて、それが今のこの様なのだから、いい加減に学習しても良さそうなものなのに、どうして出来ないのだろう。
傷つくことが恐いから?
そうかもしれない。
私の送ってきた人生の内容を知ったら、十人が十人とも、きっとこう言うことだろう。
(そんな人生を送ってきて、何故あなたは正気を保てるのですか?)
正気なんて、あやふやなものだ。
私は、自分自身が正気なのかどうか解らない。
幸恵は、ただ傷つくのを恐れて、自分の中に逃げ込んでいるだけだと考えている。つまり私には正気が残っていると考えている。
麗美は、私のことを、完全に狂っていると思っている。
金城さんと、澤村は、何も別に考えようとはしていないように見える。
……見える、だけかもしれない。いや、おそらくそうなのだろう。
相変わらず、男の考えていることには疎い。
男のつもりで生きてきたし、だからこそ男の名前に戻った。
だが、父とのあの歪んだ生活は、私の精神世界を完全に分断してしまった。もう二度と元には戻れないほどに。元に戻れるという希望の、その光を自分の手で潰した、私は馬鹿者でもあるけれど。
今は消し去られた、火傷の痕のあった頬に触れてみれば、つかの間の幸せと言う名の、苦い記憶が蘇ってくる。
あの顔と共に、全ての感情を葬り去ったつもりだった。
だが、たとえ姿を変えても、私の心は変わらなかった。
当たり前と言われれば、たしかに当たり前の話だ。だが私は、手術によって何か区切りをつけることが出来ると思っていた。
無論、引きずり続けていても、実害はなかったように思われる。だが、毒にも薬にもならない駒は、さっさと捨てられる運命にある。
死を選べない戸川を、私は責められない。
私だって、自分が生きたいから、周囲を破壊し、敵を殺してきた。
きっとみんながそうなのだろう。少なくともここにいる人間たちならば。
ずるずると生き続けてきた。
この右足にくい込んだ、ちっぽけな銃弾の欠片さえ、私は未だに捨てられずにいる。そんなものに縋るしかないほど、私は壊れている。
江波に出会う前に、私はすでに壊れていたのだろうが。
そう、私は壊れた。
母が死んだ時。
それはあまりに唐突で、実感の湧かないものであったけれども。穴の空いたような奇妙な感覚は、虚無感という名の圧迫だったのだろう。
女になった時。
父は母の死を受けいれられなかったが故に、母に似ていた私を、母と見なすことによって現実から目を背けた。
父に妻と扱われた時。
あの時、たしかに私の中に、母が生き返った。
そして、江波に出会った。
その時、私の中では、私自身である「浩一」と、生き返った母であろう「浩美」の二人が激しく対立していた。
私は江波を受けいれ、それ故に「浩美」は激しく私を非難した。
その反発が、さらに私を江波にのめり込ませた。
そして、私は実行したのだ。
父と、私の中に生き返った母の、二人ともを殺すための、この上なく残酷で冷血で、そして陰湿な計画を。
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江波を愛している。過去形にするつもりはない。顔を焼かれ、右足に銃弾を撃ち込まれた今でも、彼を愛している。男としてではなく、むしろ女として。いや、それ以上に、人間として。
彼は私にとっての救世主であり、世界であり、師であり、愛する人であり、そして今は敵だ。
私は彼に対して、盲目的で歪んだ愛を傾けた。今なら、馬鹿だったと素直に認めることができる。
だが私は、耐えることを知らなかった。いや、耐えることに疲れていた。
私は、無邪気に笑いながら、彼の居場所を執拗に浸食していった。私自身を全て彼に捧げたのだから、彼もまたそう在ると考えていた。彼の心情を思いやることなどなかった。自分が全てだった。
私の世界の中には、私と父と、私の中に生き返った母しかいなかった。私の世界に存在していた私以外の存在を、全て抹消したその時、何故か新たな人間は私の世界に入っては来なかった。
今でこそ、分けて考えられるようになったが、あの当時の私は、江波を自分自身の一部のように捉えていたのだろう。自分の感情は江波の感情だと。
他者の感情に配慮する能力に、私は欠けていたのだ。
私が人間関係において、唯一ずば抜けていた能力とは、他でもない。相手を徹底的に破滅させる術を、感覚で把握出来るという能力だった。それだけが、私の対人関係における能力で、大きく他を引き離していた唯一のものだった。
最悪の才能だ。
それが、誰を起源とする才能なのか、今は知っている。
この能力は遺伝するものなのだろうか?
人を破滅させることに長けているというこの性質は。
私は、江波によって生き返ることが出来たのに、彼の全てを奪ったのだ。
最悪の人間だ。
だから、私は甘んじて、あの男に付けられた名を受けいれる。
自分の中に流れる、あの男の血を認める。
何を正気と言い、何を狂気と呼ぶのか、私には解らない。
ただ、こう在る私が思っていること。
できれば狂ってしまいたい。何もかも忘れて、徹底的に壊れてしまいたい。そうして本当の抜け殻になって、死んでしまえればいい。
存在することさえも罪だと言われた私は、償いをしたいのならば死ななければならないのだろう。
ただ、今は、片づけなければならない問題がある。
生きていけばひたすらに破滅を呼び込むだけの私だが、ひょっとしたら、人を生かすことが出来るかも知れない……というケースが見えている。
それさえ幻なのかも知れない。
しかし幻だとはっきり認識できるまでは、縋っていたい。
幸恵の指示のせいで、厄介事が一つ増えた。澤村の腕なら、湯浅さんたちの持っている情報を盗むことは可能だろう。そして、そこで得た情報を、彼は必ず麗美に渡すことだろう。十年以上、私が隠してきたものを。
私の中に流れる忌まわしい血。
それが麗美の中にも流れている。
そのことを知った澤村は、どう行動するのだろう?
私と麗美が、南野圭司の血をひく、腹違いの兄妹だと言うことを知ったら、彼はいったいどう行動するのだろうか?
そう、見物だ。
この上なくおぞましいけれども。
自分以外には誰もいない部屋の中で、前田は乾いた笑い声を上げた。
私など、死んでしまえば良かったのだ。
そうすれば、今、紗希と美夏の二人は苦しむことなどなかっただろう。
そうすれば、江波は破滅の道を歩まずに済んだだろう。
全て、私のせいだ。
時計が時を刻む。
『熾天使の時計』は既に錆び付いている。
『人間の時計』などあるわけがない。私は人間ではないのだから。
『堕天使の時計』?
多分それが、一番近いのだろう。
江波なら、『悪魔の時計』と呼ぶかもしれない。
同じようなものか。
堕天使だろうと悪魔だろうと、無邪気に笑いながら、彼を破滅させたものこそが、私であるのだから。
破滅をもたらす闇の使い。
そう、私は、目だけは実の父親に似た。麗美も。
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「そうやって、いつも無邪気に笑いながら、俺の後を追いかけてくる。最初は可愛かったよ……けど、今は憎い……俺の後を追いかけるだけじゃ飽き足らずに、俺の居場所も何もかも、全部根こそぎ奪っていくんだから」
笑いながら、江波は言った。
私は、何を言われているのか解らなくて、彼に縋った。
いつものように、優しく抱いてほしかった。いつものようにとは言っても、その頃既に、彼は私に対し、冷淡な態度をとり始めていたが、それでも私は尚彼を信じていた。いや、彼を理解できていると思い込んでいた。思い込むことによって、事実から目を背けようとしていた。母を失ったときの父のように。
彼の目は冷たいままだった。私の本当の父の目のように。ただ口元だけが、気味悪いほど穏やかに笑っていた。私はそれに賭けようとした。絶対に負けると解っている賭けだったが、それでも。
抱いてほしいのか、と、彼は問うた。私はただ頷いた。
(熱の中に身を投じている間は、何もかも忘れてしまえるから)
私にとって、彼と関係を持つことは、喩えて言うなら麻薬を打つようなものだったのだろう。実際に、薬をやったことはないけれども。
年を追うごとに女性的特徴の強くなっていた私の身体は、外での任務に差し支えがないように、ある程度のメスは入れられていた。だが、完全に男の身体になっていたわけではなかった。私が希望したから。
完全に女の立場で、彼と関係を持つことができるように。
無論、ちゃんと表向きの理由はあったけれど。
明かりは消すな。そう言われたのは初めてだった。点いていようがいまいが彼は気になどしなかった。暗視能力が高い方だったからだろうか。あえて明かりを消すなと言われたことに、私は少なからぬ違和感を覚えた。頭の中で、激しく警鐘が鳴っていた。すべて強引に無視した。
彼を、ではなく、彼を理解していると思っている自分を信じ込もうとした。
シャッと、マッチを擦る音が聞こえた。
おそらく、以前に外に出たときに買ったものだろう。捻じられて螺旋になった赤い蝋燭に、彼が火を灯しているのが目に入った。
明かりは点いているよ? そう言ったが、彼は振り向こうともしなかった。
ただ口元を、気味悪いくらいに吊り上げていた。
その手の中に光る物を見た時、私は全身がすくんで動けなくなった。
刃物も銃も、嫌になるほど見てきた。動けなくなるほどの恐怖を感じたことなど、一度もなかった。だが、その日だけは違った。
嫌だ、やめて、と、言おうとした。
だが、かすれた声しか出せなかった。
いつもそうだ。本当に訴えたいことは叫べない、役立たずの私の口。
目の前で行われている全てが、スローモーションのように感じられた。
ナイフを火で炙っている彼の姿も、それを頬に押し当てられた時の感触も、何もかも全て鮮やかに覚えている。
私の頬に火傷を、私の身体に疲れと痛みを、私の魂に致命的な傷を残して、彼はその日、組織を去った。彼は、裏切り者の……逃れようのない刑を受けるべき者のリストに入れられた。入れられたが最後、生き延びることはできないリストに。
上層部は江波に対する措置を決定する一方、私に対し、火傷の痕を消す手術を受けるように命令してきた。
私は拒否した。
自分の犯した過ちに対する、これは彼からの忠告なのだと考えていたから。
しかし、頬にそんな目立つ痕があっては、前線で活動するときに顔を憶えられてしまう。そう言われて、私は仕方なく同意した。
無論、本部を出し、今博士のいるあのトケイソウの村に私を送るという手もあるにはあった。だがもし江波の処刑を実行することになれば、私以外に彼を殺せる人間はいないと、上層部は判断したのだ。
バカなのはいったい誰だろう?
江波を束縛しつづけ、最後には破滅に追いやった私か?
どんな仕打ちを受けたところで、私の彼への気持ちが変わることなどなかったということを見抜けなかった、上層部の人間たちか?
一番簡単でいいかげんな答えしか、私は見出せない。
みんなバカだった。




