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第1章~第5章

2章目から解剖シーンです。

          1


 苦しい。苦しくて苦しくてたまらない。

 私の胸の奥に小さな私がいて、闇の底で泣き叫んでいる。

 誰でも良いから私を助けて。

 私の声を聞いて。

 私を見て。

 でも、その声は届かない。

 何故なら、私がいるのは闇の底。

 誰も私がそこにいるのを知らないから。

 わかっているの。

 判っているの。

 解っているの。

 でも、叫ばずにはいられない。苦しくてたまらない。

 胸の奥の闇の底で、小さな私が叫び、闇の底のような現実の中で、私もまた叫んでいる。

 誰でも良いから私を助けて。

 ああ、でも、声に出しては叫べない。

 弱みを見せたら、私は壊れてしまうから。




          2


「死後経過時間は?」

 女の声が、夕空の山間で聞こえる。

「約六時間です。ご要望通り『冷蔵庫』できましたけどね……」

 男の声が、問いかけに答える。

「そう。ありがとう。じゃあ、戻っていいわ」

「はい」

 生気のない、白い鉄筋コンクリートの、一見病院のような建物。その影からトラックの音が低く聞こえ、後には白い布をかけられた、死体を載せた担架が一台。そして、小柄な女が一人。

 短く刈られた真っ黒な髪。黒目がちの大きな目。肌も日に焼けたように浅黒いので、羽織っている白衣の白さがいっそう際だっている。

 女は無造作な手つきで白い布をめくり、死体の顔を確認した。布を元通りにし、さて行きますかと呟くと、些か乱暴に担架を押し始めた。

 どこからともなく、同じく白衣を羽織った男が現れた。

「紗希さん。後は僕が運びますから」

 男はそう言って、代わりに担架を押し始める。紗希と呼ばれた女は、素直に担架から離れた。そして周囲に軽く視線を走らせると、小さく耳打ちした。

「よろしくお願い。じゃ、私は解剖室の方で準備しておくから」

 彼女は男を残して、さっさと歩き出した。トラックが止まっていた辺りは裏口で、ぐるっと回ると正面玄関の方に出られる。段差の小さな、幅広のコンクリートの階段が、二重のガラス扉の方へと伸びている。

 建物の上どころか、玄関にも、いや、どこにも、病院名らしきものは見当たらない。ガラスの奥には、たしかに受付のようなカウンターが見えるのだが。

 この奇異な建物に、歩いていく紗希の白衣姿は、よく似合った。

 自動ドアを通り抜け、接触式の自動ドアを通り抜け、カウンターの前を横切る。その中に座っていた男が二人、紗希に向かって頭を下げた。


 その二人の後ろに、左手に剣を、右手に天秤を持った、天使のブロンズ像が据えられている。大きさは両腕で抱え込めるほど。奇妙なことに、その翼の数は、一般的な一対二枚ではなく、三対六枚。その上、妖怪のように身体のあちこちに目がついている。率直に言わせてもらうなら不気味だ。

 この天使はセラフィム、日本語に直すと熾天使、と呼ばれ、神学では上級の天使に分類されている。ブロンズ像では判らないが、この六枚の羽は鮮やかな赤色だ。もっとも、本来は天秤は持っていない。天秤と剣を持っているのは、正義の女神ジャスティスだ。だから、この像はセラフィムとジャスティスを足

した、なんとも名付けようのない像というわけである。

 しかし、学問的に名付けようがなくても、勝手な名前ならいくらでもつけられる。例えば受付の二人は、この天使をメアリ様と呼んでいる。「目」がたくさん「ある」から「メアリ」と、凍えるほど寒いダジャレだ。

 むろん、本当はそんな呼び名ではない。そしてそれどころか、このブロンズ像の呼び名こそが、この建物に出入りする人間たちの……この組織の名前なのだ。ひねりの程度で言えば「メアリ」の方がまだましだが、あえて告げよう。

『ブラッディ・エンジェル』

 直訳するなら血まみれの天使。見事にひねりも何もない。

 だが、ひねりも何もないはずのこのシンプルな名前が、この組織には一番似合っていた。人の血で、真っ赤に染まった羽をもつ天使。


<我らは弱者の正義を以て、抑圧する強者を滅ぼす>


 組織に加わる時に唱える、誓いの言葉の一節。それをぽつりと呟いて、紗希は階段に、そして地下に向かって歩き続けた。


(正義なんて、あやふやなものよ)



 寿命の近づいた蛍光灯が、パチン、パチン、と、点いたり消えたりを繰り返している。その下のプラスチックプレートの回数表示は「1/B1」。紗希は灯りの点いていない薄暗い廊下を、顔色一つ変えずに突っ切っていった。解剖室は地下一階の、廊下の突き当たりだ。

 白衣を脱ぎ捨て、慣れた手つきで薄緑の「作業着」に着替える。ゴム長靴に履き替えるのは、使用する用具の洗浄のためなどで、殆ど絶え間なく水を流すことになるからだ。当然、床は水浸しになる。しかも、流しっぱなしにする上に、この水道の蛇口は普通の物より広い。よって、流れ落ちてくる水の量も、通常よりずっと多くなるわけだ。

 その、床を水浸しにする作業を始めて間もなく、死体を載せた担架が運び込まれてきた。押している男の額には汗が浮かんでいる。

「ありがと、秀ちゃん」

 短く言う間も、紗希の目は自分の手からは離れない。

 何やら複雑な面持ちで肯いてから、彼、広崎秀二は、死体を慣れた手つきで「作業台」の上に移した。

 死体は中年の男。別に腹がせり出しているわけではない。むしろ逆で、鍛えられた硬い身体だ。身体のあちこちに傷痕が見える。大きな傷痕は、再生した皮膚の部分だけがツルツルになっていて、特によく目立つ。死んでなお伸びたのか、それとも死んだ時にすでに伸びていたのか、無精髭がやけに目につく。男の顔は、額と頬に、歪んだ皺が寄っていた。

 秀二も、紗希と同じ「作業着」に着替える。担架の下から、カルテ代わりのメモを引っ張り出すと、彼は紗希、と呼びかけた。水音のせいか、彼女は振り向かない。彼はあきらめて首を振り、部屋の隅の隅へと担架を押していった。本当なら外に出したいところだが、そうもいかない。この解剖は、「上」から許可をもらっていないのだ。

「じゃ、そろそろ始めましょうか」

 手袋をはめ、マスクをつけながら、紗希は秀二に呼びかけた。


 紗希はメスを手に取り、顎の下に突き立てると、顔色一つ変えずに、真一文字に肉を裂いていった。カッターで肋骨を折り外す。骨のカゴに守られていた心臓が、はっきりと全容を見せた。

「見事ね」

 そう言うと、秀二は黙ったまま肯いた。

 約三百グラム。大人の握り拳よりも、やや大きなだけのこの肉塊が、人間の命を握っているというのは、何だか奇妙な感じだった。

 この男が心筋梗塞で死んだのは一目で判った。壊死した細胞の集まっている部分は、他の部位よりも濃い赤褐色になる。しかし、その色の濃い範囲が、やたらに広い。

「よく効くんですね。紗希さんの薬」

 壊死した細胞を、まじまじと眺めながら、秀二が呟いた。

「見とれてる場合じゃないわよ。全部調べなきゃ」

 そう言うと、紗希は切り離した心臓を秀二に手渡した。条件反射的に秤の上に載せ、目盛りを読みながら、彼は問い返した。

「全部って?」

「平滑筋もよ。影響は心筋だけに出るわけじゃないんだからね……あと、骨格筋の方にも何か症状が出てるかもしれない……」

「はいはい、判りましたよ……」

 いい加減に答えると、紗希の手の動きが止まった。

「あんたが死んだら私が解剖してあげるわ」

 ニヤリと笑って、紗希は十数センチ上にある、秀二の目を見つめた。

「おおっいに遠慮させて頂き申し上げ存じ上げ候でございます」

「何語よそれ。意味が通じてないじゃない……はい次」

「はーい」


 「作業」が終了したのは一時間を少し過ぎた頃だった。組織標本を作ったらまた蜂の巣の式とにらめっこの時間が来る。そう考えると、とんでもない話なのだが、紗希にはこの解剖の時間が一番気楽だった。もちろん、自分の作った薬がきちんと効いていた時の話だ。予想だにしなかった死因であった時など、頭に来て仕方がない。

 そういうとき、彼女が禁止事項に走るのは、この薬品管理第三課の人間なら誰でも知っている。いや、二課や一課、四課……それどころか部外者でさえ、知っている人間は知っている。


「鋸貸して」

 紗希は、大したことでもないような口調で、そう言った。途端に秀二の顔がさぁっと青ざめた。

「ちょっと、今回はちゃんと効いていたじゃありませんか」

「どうでもいいから貸しなさい」

 強い口調で言うが、秀二もガンとして聞かない。

「だめですってば。ただでさえ禁止されてるんですよ。ましてや今回のは上の許可さえもらってない違法解剖なのに……」

 紗希の腕がひょいと伸びた。次の瞬間には鋸は彼女の手の中だった。

「前線の連中は脳ぶち抜いても良いのに、どうして私が鋸で首落とすのは禁止されなきゃいけないの? 脳を調べる時に頭蓋を切るのもOKなのに」

「それは上に言ってください。僕は止めましたからね」

 腕を組んで、秀二はそっぽを向いた。

「言えないの知っててよく言うわね……」

 そう呆れたように呟いた紗希の耳に、微かな足音が響いてきた。

 紗希も秀二も、同時に凍りつく。

 慌てて、音源の一つである水道を止めたが、時既に遅し。

 扉が開いて、濃紺の警備の制服を着た、背の高い男が入ってきた。

「またか」



          3


 入ってきた男は、大きな深いため息を吐き、紗希を見やった。百九十センチはありそうながっしりした身体の上には、ちょっと拍子抜けするほど、人の良さそうな顔が載っている。

「永居さーぁん。見逃してーぇ」

 鋸を置いて、両手を合わせ、紗希が作ったような可愛い声でお願いをする。

「首落とさずに死体を霊安室に行かせてやるんなら、見逃してやる」

 そう言うと、永居貴史は、秀二に向かって、意味ありげな視線を送った。秀二は困ったように肩をすくめた。

 さすがの紗希も諦めたようで、首を振りながら、最初かぶせてあった白い布を取りに歩いていった。

「香西紗希、厳重警告」

 秀二の傍に立った貴史が、厳しい声で言った。紗希の動きが、よりいっそうしょぼくれたものになる。

「永居さん。僕もですか?」

 秀二が心配そうに貴史を見上げた。見上げてから、開いた口がふさがらなくなった。

 貴史はおかしくて吹き出しそうになるのを、懸命にこらえていたのだ。

「まさか。単なるお灸だよ。握りつぶすのに厳重警告の記録なんかつけたら、主任に締め上げられるの俺になるじゃん」

 警備主任の金城が、貴史に説教をするのが趣味という、手に負えない人物であるのは、秀二も先刻承知である。

 もっとも、手に負えないと言っても階級は向こうの方がよっぽど上だ。この建物を警備しているのは、特別狙撃手と呼ばれる組織きっての腕利き連中。貴史もそうだ。貴史は階級上は、研究員の秀二と同列になる。だがそれを束ねる金城は二つ上の幹部。口を出すことさえできない相手である。

 いかにも寂しそうな顔で、紗希はとぼとぼと秀二の方に歩いてきた。ポンとその方に手を置くと、後よろしく、と言って、水浸しの床にへたり込んだ。

 ため息をついて首を振ると、秀二は死体を担架に戻して、解剖室から出た。

 後に残された貴史は、しゃがみこんで、紗希の頭を撫でた。

「そんなに切りたいのか?」

 そう尋ねられて、紗希は貴史の目を見上げた。黙ったまま立ち上がり、「作業着」を脱ぎ、一言も発することなく後片づけを始める。

 貴史は首をすくめ、監視するようにじっとそれを見つめた。

 いつもと一緒だ。何もかも。

 紗希の作業は機械的で、それを見る自分はぼんやりしていて。

 作業が終わる頃、例のごとく額に汗を浮かべて、広崎が帰ってくる。


「お疲れさん」

 その一言はいつも、三人がまたバラバラに動き始める合図。

 証拠を完全に近く隠滅して、解剖室を後にする。

 が、今日は違った。

 秀二は、いつも通りに自分の部屋へと帰っていった。

 だが、警備に戻ろうとした貴史の腕を、紗希は掴んで離さなかった。

 戸惑う貴史に、紗希はしがみついた。

 それから、言葉を吐きだした。

「切りたいんじゃないわ」

 それが、自分の発した問いへの答えだと気づくまでに、少々時間を要した。

 驚いたように見下ろしてくる貴史に、紗希は笑った。

「壊したいのよ。めっちゃくちゃに」

 そう言う表情は、泣き笑いのような……そして、どこか自らを嘲るような笑いの表情だった。

「物騒だな」

「殺し屋に言われたくないわ」

「ゴミ処理人と言ってくれ」

「ゴミをゴミだと決めるのは誰よ?」

 貴史はますます困惑したような表情で、紗希を見つめた。

「私、解らないのよ。もう頭がおかしくなりそうなの。どうしようもないほどおかしくなりそう。何かを壊していないと、自分が壊れそうで恐いのよ」

「だから、死体の首を落とすのか」

 見下ろす貴史の目が、厳しさを増す。

「それだけじゃないと思うけど……でも、それもあると思う……何かを壊さずにはいられないの……断言してもいい……このままじゃ、いつか誰か、生きている人間を殺してしまうわ。でも本当はそんなことしたくない。それなのに、どうしても自分が抑えられないのよ!」

 ため息の音は聞こえなかった。

 貴史はしがみついている紗希の腕を外すと、膝をかがめ、背を曲げて、その顔を正面から見た。僅かに目を細めた、微かに優しさが感じ取れる表情。

 紗希の両目から、みるみるうちに涙が溢れ出てきた。

 泣いているのを見られたくないのか、紗希は両手で顔を覆った。

 知らず知らず、貴史はその両肩に手を置き、いつの間にか、彼女を抱き締めていた。自分の胸に縋りつくようにして泣く紗希が、貴史には、脆い硝子細工のように思えた。


 ひとしきり泣いてから、紗希は決まり悪そうに貴史から離れた。その濃紺の制服には、紗希の涙の跡がはっきり残っている。

「金城さんにばれちゃうね……」

「いーよ。別に」

「ごめんなさい……」

 しおらしく俯いている紗希は、背が小さいせいもあってか、本当に可愛らしい。その可愛らしさにほだされて、ついつい対応が甘くなる。今までいったい何回、これで違法解剖を見逃すことになったかなど、数える気も失せる。しかしそれでも憎めない。

「いいってば。汗も涙も塩水だろ。変わんねぇって。だいたい、主任ときたら俺が『普通に』仕事こなしてても、折あらば隙あらば……なんだもん」

「愛されてるのね」

 紗希がぼそっと呟くと、貴史は目眩に襲われたようなリアクションをした。

「やめてくれーぇ……想像しただけでも吐き気が……」

「『何を』想像してるの?」

「イヤ別に……あー、じゃあ俺、戻るわ」

 貴史は手を振って、そのままあたふたと歩き出した。

 不審そうに首を傾げていた紗希も、やがて考えるのを諦め、歩き出した。




          4


 食堂は人で混み合っている。殆ど男ばかりで、女は片手で充分数えられる。

 その数少ない女の一人が、一人の男相手に、さっきから、何やら小難しい話を振り回している。紗希ではない。紗希よりもずっと背が高い。モデルになれるほどだ。そして細い。ややのっぺりした感じの面立ちだが、パーツの配置は文句なし。茶味がかった長い髪は、後ろで無造作にくくられている。

「だーかーらーぁ。箱の中は見えないから、蓋を開けるまではどっちとも断言出来ないでしょ? だから猫は生きているような死んでいるような……」

「もういい~」

 隣の男は、すでに理解するという作業を放擲している。身長は、女のそれにプラス十五センチ。百八十五、六といったところ。髪の先の方だけが、傷んでいるのか染めているのか、明るい茶色になっているのが妙に目立つ。端正な顔をした「いい男」なのだが、頭を抱え、白旗を揚げている今は、ちょっと格好

良いとは言い難い。

「よくない。説明を求められた限りは、徹底して説明しないと気が済まないのよ、私は。って、聞いてるの?」

 女は水差しを取り、自分のコップになみなみと注ぐ。ぐっとそれを干すさまなど、まるで選挙の演説者。

「勘弁してくれよぉ」

「逃げないでよ」

「理解出来ないものの説明を求めた僕が悪う御座いました。平にご容赦を」

 そう言われると、女の方も諦めるしかない。不満の残る顔だが、彼女は渋々説明を打ち切ることを告げた。長い安堵のため息が響く。

「美夏ちゃん、厳しいよ」

 食器を片づけに行く途中らしき男が声をかける。

「だって、澤村さん、哲也全然解ってくれないんですよ。説明しろって言っておいて、解らなかったら逃げ出すなんて」

 哲也に理解してもらえなかったのがよっぽど悔しかったのか、美夏は今度は先輩である澤村達紀に向かって、矢のようにしゃべり出した。

「解らないんなら降参するしかないだろうが」

 達紀はやんわりと受け流す。美夏にはそれがやはり不満らしい。

「でも!説明しろと要求した限りは、要求した人間にはその説明を最後の最後まで聞く義務が発生するはずで、だから……」

「はーいはい。解ってるよ。でもあれはちょっと、哲也君の頭には難しいよ」

「ううっ。澤村さんまで僕をバカ扱いするんですね」

 嘘くさい泣き真似をしながら、哲也がぐれる。

「だって、実際私より頭悪いでしょ」

 平然とした顔で、美夏は爆弾を放り込んだ。

「美夏~ァッ。率直なのは君のいいところだけど、いくら俺でも傷つくよ!」

「嘘を言ったら罪になのは解るけど、真実を言っても罪になるの? んじゃ、私は何をしゃべったらいいの?」

「かーっ! 全く! ああ言えばこう言うんだから!」

 哲也は頭を激しくかきながら、コップの水を飲み干した。

「はい、痴話喧嘩はそこまで! 美夏ちゃん、彼は技術屋じゃないんだから、あんまり難しい話はしちゃだめだよ。君がとことんまで話さなきゃ気が済まないのは知ってるけど、たまにはギブアップしてもいいと思うよ」

「そりゃそうかもしれませんけど……」

 まだ納得のいかない顔だ。

「屁理屈こねてる暇があったら、早急に報告書提出しなさい」

 ぴっと人差し指を鼻先に突きつけられ、美夏は「げ」の形に口を開けたまま天を仰いだ。

「ああっ。せっかく忘れていたのにぃっ!」

「こらこらこらっ。君にはキャリアのプライドってものはないのか」

「そんなの関係ないもん。頼んでキャリアにしてもらったわけじゃないし」

 ぷいっとそっぽを向くが、紗希に比べると愛らしさは半減する。身長のせいなのか、それとも表情のせいなのか。

 再び哲也がガックリと肩を落とした。

「美ー夏ーァ……それはノンキャリの俺への嫌味かァ?」

「あ、ごめ。そんなつもりはなかったんだけど」

 慌てて口元を抑える。が、出た言葉が口の中に戻るはずもない。

 哲也は芝居がかった大仰な身振りで、達紀に話しかける。

「ああ澤村さん。俺何でこんな嫌味女に惚れちゃったんでしょう?」

「知るか」

 吹き出しながらそう言って、彼は歩いていってしまった。

 美夏がため息を吐いているのを見て、哲也はその頭を軽くはたいた。

「ため息吐きてぇのはこっちだ」

「だぁってぇ」

「別にさ。お前がキャリだろうがノンキャリだろうが、俺はべっつに構わないんだけどもさ……でもな、階級意識させられるのはキツイわけよ。解る? 俺はいっちばん下っ端。同い年で、同じ年に組織に入ったのに、お前は幹部候補生スタート。俺よか三階級も上。そんな現実から逃げたいこともあるわけ」


 組織は見事なピラミッド構成。哲也は一番下の所謂「前線組」。一般狙撃手あるいはそのまま前線狙撃手と呼ばれるクラスで、ひどい事態になると捨て駒にされることさえある階級の人間だ。実際に殺人の任務に就き、自分の手を汚し、自分のやったことをその目で最後まで見届ける。

 だが美夏は違う。美夏は一般狙撃手や、その上の支部連絡員などを、一切経験していない。支部連絡員の上、本部連絡員やそれと同列の研究員も。無論、永居のような特別狙撃手など、経験しているはずもない。

 美夏のスタート点はその上だ。幹部候補。年に一人だけ、ここからスタートする人間がいる。この特別枠の人間が、キャリアと呼ばれるエリートだ。ここ三年女が連続しているが、美夏はその最後。つまり、一番の新入り。去年はなんと、あの香西紗希である。

 追記するならば、組織に新しい人間が入ってくるのは九月の終わり。十月の第一週には、新しい顔がだいたい揃う。今は五月の初めだ。新入りたちがほぼ完全に仕事に慣れた時期である。


「複雑ね」

 ぼそっと呟くと、哲也はテーブルに肘をついて頭を抱えた。

「その一言で済ますな。あぁやっぱりバカだよ俺は」

「そんなこと言われても、私何したらいいのか解らない……」

「別にお前にゃ関係ない。どうせ幹部まで行っても、しばらくはストップしてるだろーし。その間に俺が昇進すればいい話」

「わっけ解んない。じゃあなんでそんなに悩むのよ?」

 解決策を見出しているのに、何故こんなに頭を抱えているのだろう?

 理解出来ないでいる美夏を、哲也は鋭い、突き刺すような目で見つめた。

「生きてたらの話になるからだよ」




          5


<生きてたらの話になるからだよ>


 美夏はしばらく、哲也の言葉が呑み込めなかった。

 だが、その意味が徐々に自分の中に浸透して行くにつれて、言いようのない寒気が背筋を這い上ってくるのを感じた。

 不安と恐怖で目を見開いた美夏に、哲也は冷たく言った。

「俺たち前線組は、場合によっちゃ捨て駒にされる。もちろん、組織を支えているのは俺たちだから、そう簡単には捨てられやしない。だけど、本当に差し迫った事態になったら……」

 考えたくない、とでも言うように、哲也は目を閉じた。

「組織を存続させるために、命を捨てなきゃならないのも俺たちだ……もちろん、みんなそれを解ってて任務に就いてるけど……そう、俺もな」

 美夏は何も言わなかった。ただ口をきつく閉じて、哲也の顔を見ていた。

「今のお前と同列の地位に昇進できるまで、生き残ってるヤツは、そんなに多くない……たしかに、上級幹部まで昇進した人もいるよ。議長はよく知らないけど……でも、俺がそうやって生き残れるかどうかは……」

「もういい」

 目の縁に涙をにじませて、美夏は言った。

「そんなこと、想像するのさえ嫌よ」

 そう言うと、何故か哲也は、微かに笑った。

「俺と一緒だ」

 きょとんとしている美夏を放って、哲也はパンと手を打ち合わせた。

「ごちそうさまでした。お先」

 そう言って、ひょいと右手を挙げると、哲也はそのまま立ち上がった。

「え? ちょっと!」

 すっかり冷めた味噌汁の残りを大急ぎでかっ込み、美夏もその後を追う。

 食器を返却して食堂の外に出ると、哲也は奥の方の廊下の壁にもたれ掛かっていた。安堵のため息を漏らし、美夏もその方向へ歩いていく。

 哲也の右の壁にもたれると、美夏は彼の顔を見上げ、そして問うた。

「ねぇ、どういうことなの?」

「何が」

 すっとぼけた顔で、哲也は美夏の目を見下ろす。

「俺も一緒、って」

「まんまの意味だよ。俺もお前が死ぬとこなんざ想像したくもねぇってこと。ま、本部にいる限りは安心だろ。裏切り者でも出ない限りな」

 最後の声だけが、奇妙に低くなる。

 やっと微笑んだ美夏の表情が、再び硬直した。

「……見つかったの?」

 五年前に組織から抜け出した男。生存する唯一の「裏切り者」だ。二人ともその男の顔は、写真でさえ知らない。その人物が組織を裏切ったのは、二人が組織に入る前のことだし、二人に閲覧可能なデータは全て抹消されているからだ。「標的」の情報は、幹部のさらに上の階級の上級幹部と、組織の代表である議長によって構成される上層部に全て保管されている。

 「裏切り者」は「標的」と同じ。

 哲也は首を振った。

「いや。まだだ。見つかったところで、誰に割り振られるかは上が決めることだけどな……でも、出来れば当たりたくない相手だ。出身、狙撃手だっていうし。まともにやり合って勝てる自信は、俺にはないよ。だから、たぶん選ばれるのは、特別狙撃手の誰かだろうな……」

「何だか、複雑な気持ちだわ」

「どうして?」

「任務を回してもらえなかったら、昇進のチャンスはない。でも、任務を回されるってことは、危険が増えるってことだもの。喜ぶべきなのか解らないわ」

 美夏の言葉に、哲也は堪えきれなくなったように笑い出した。

 呆気にとられる美夏を後目に、哲也は涙をこぼすほど笑っている。

「ちょっと、何がそんなにおかしいのよ?」

 問いかける声には、どうして笑っているのか理解出来ないことへの悔しさと苛立ちがにじんでいる。

 哲也はぴたっと、笑うのを止めた。

 壁から背中を離し、美夏の顔を正面から見下ろす。

 その口元が、微かにつり上がった。

「死ぬのが恐くて、殺し屋なんかやってられるか」

 そう言う哲也の目は、美夏が今までに見たことのないほど、気味の悪い、恐ろしい目だった。

「むざむざ殺されに行くヤツはバカだ。俺はそんなのになる気はない……絶対に生きて……生き残ってやる」

 そこまで言って、ようやっと、哲也の目は、美夏の普段見知っているいつもの目に戻った。

「美夏、君と、完全に対等になってみせる」

 安堵とおかしさで、今度は美夏が笑い出した。

「おいおい。人の告白を」

 ムスッとした哲也に向かって、美夏は手を短く振った。

「だって、いーっつもお前って言ってるのに、いきなり君なんて言われたら、違和感ありすぎて……」

「本来なら『美夏さん、あなたと』になるんだろうけどな……」

 哲也が腕を組みながら言い、美夏はさらに大きな声で笑い出した。

「ありえなーい。哲也が私のことあなたって呼ぶなんて、太陽が西から昇るくらいありえなーい!」

「悪ぅござんしたね。目上の人間に対して敬語を使わないヤローで」

 ふざけ半分に言うと、哲也もなんだかおかしくなって、一緒に笑い出した。

 一頻り笑ったところで、足を滑らせ、廊下に腰を下ろす。

 先に口を開いたのは哲也だった。

「俺は死ぬつもりはないよ。死にたくもない。でも、死ぬのが恐くっちゃ、何にも出来ない……でも」

「でも?」

「最近、死ぬのが妙に恐い……」

「まさか、私のせいとか言うんじゃないでしょうね?」

 一瞬の空白があった。

 哲也は少し目を細めて、美夏を見つめた。

「そのまさかだ。いや、責めてるんじゃない。お前がいるから、俺は生きていくのが楽しいんだ。でも、真似するわけじゃないけど、複雑な気分だよ。そうやって生に執着したら、絶対に死が恐くなる……でもそれじゃ、俺はここでは生きていけない……バランスの取れる点を探さなきゃいけないんだ。でもまだ

見つからない」

 美夏はわずかに体を動かし、哲也にもたれ掛かるような体勢になった。

「大丈夫……どんな相手でも……たとえ『彼』でも、生きて帰るから」

 細い身体を抱き締めながら、哲也はその耳元に囁いた。




高校3年生の時にざっくり書いた、粗い出来の作品です。黒歴史記念的にそのまま掲載しております。

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