9.(続)どうやらこの恋は重症のようです。
恋をすると、ヘタレになるんだって。各言う自分も、そのひとりに含まれるわけで。
当初の目的地であったまごころ屋に着いたのは、20時を回った頃だった。当然、店内は真っ暗で扉の鍵はもちろん開いていた……ん?開いてる?
無用心だなあ、と考えてつつ、控えめな鈴の音といっしょに、ゆっくりと扉を開けた。
「……無防備だなあ」
室内の様子を確認するなり、ため息がもれた。真っ先に目にはいったのは、黒い人影。近付いていくほどに、そのシルエットがはっきりと分かっていく。壁にだらんと背中を預けて、長椅子に座ってすやすやと眠っている女の子ひとり。言わずもがな、白雪だった。
「おーい、白雪ー。起きろー」
軽く肩を揺さ振るが、全く起きる気配がない。まさかの爆睡である。よっぽど疲れていたんだろうか、モップを律儀に両腕で抱きしめたまま寝息を立てている。よっこいしょ、と白雪に向かい合うかたちでしゃがみこんで、まじまじとイタズラし放題な白雪の寝顔を観察してみる。試しに、頬っぺたをつまんでみた。うん、やわらかい。次に、鼻もつまんでみる。しかし、反応は鈍かった。
「つまんねー」
月の光がぼんやりと、白雪の表情を照らす。眉毛、目、鼻、口、顎。確かめるようにじっくりと白雪の顔を眺めていく。これだけ、穴が開きそうなほど見ているというのに、やはり起きる気配はない。不意に、こてん、と白雪が首を右に傾けた。白い首筋が露になり、うっかり釘付けになる。
「あー……、腹減った」
ぐう、と腹の虫が鳴る。もう一度、ゆっくりと視線を白雪の首筋へと向けた。ぐらぐらと理性が揺れる音。いやだって、あれはだめだろう。噛んでくれ、食べてくれ、って言わんばかりに無抵抗で尚且つ、無防備。今の腹ペコ状態の俺には、最高にうまそうなご馳走に見えるんだから仕方ない。
「…跡、つけちゃったらごめんね白雪」
そうして、静かに呼吸する首筋に噛み付く寸前。
真後ろから、僅かに風を切るような音を察知して、後ろ手でキャッチする俺。この感触は、多分竹刀だ。こんなことをする犯人が誰なのかすぐに分かって、あーあ、と苦笑い。まぁ、でも…なんとなく、ここで邪魔が入るような気はしていたので、動揺はあまりしていない。しかし惜しかった。あと1センチだったのに。
「…5秒以内にお姉ちゃんのそばから離れろ。じゃないと、次こそあんたの息の根をとめる」
密かに落胆する俺の背後から、物騒な台詞が低い声で淡々と呟かれる。相変わらず、随分嫌われているようだ。背中にギリギリと感じる威嚇攻撃に観念して、いまだにぐっすりと眠る白雪から身体を離した。それから、くるりと振り返って、さっきから俺に威嚇し続けている“お姉ちゃん子”にむかって、ニッコリと微笑んでみせた。
「こんばんは、苺ちゃん」
「軽々しくあたしの名前読んでんじゃねーよっ、キショいんだよ!」
「はいはい、よしよし、エライエラーイ、苺ちゃんは今日も元気だねー」
「さ、わ、ん、なあっ!」
竹刀をやんわりと奪いとって、軽く頭を撫でるといつものように手を払い除けられて、距離をとられた。その様はまるで、猫のよう。悔しそうに俺を睨んでくるのは、白雪の妹の苺ちゃんだ。ちなみに、自他共に認めるお姉ちゃん子。この子には初対面のころから、白雪のことが好きだってことを見抜かれていた。それ以来、すっかり警戒されてしまってなかなか仲良くなれていない。それはそれで楽しくていいけれど。
妹でさえも、すぐに気付くぐらい分かりやすいらしい俺の気持ち。なんで当の本人はいっこうに気付く気配がないのだろう。
「……なんでだと思う、苺ちゃん?」
「はあ?なにがよ?あんたの悩みなんて心底どうでもいいんですけどっ」
「そっか、残念だな。というわけで苺ちゃん、これから、R指定入るんでお子様…げふんごふん、中学生には刺激が強すぎると思うから、退散してね?」
「ふざっけんな!何が、というわけで、だよ!お姉ちゃんになにする気だよ、このニセ王子!」
「…ナニする気だと思う?ちょっと試しに言ってみてよ苺ちゃん。当たったら俺、苺ちゃんのお姉ちゃんで実践するから。あ、見ちゃだめだよ、ちゃんと目隠ししてて?」
「ぜ、絶対言わないもん!ばか!ヘンタイ!ヒワイ!」
苺ちゃんが真っ赤になって、地団駄する。今にも爪で引っ掻かれそうな形相で睨んできたので、満面の笑みで対抗する。こんなことばっかりしてからかうから、なかなか心を開いてくれないんだろうなあ。面白いから、いいけど。
「ああーっ!ちょ、ちょっ、苺ちゃん!ストップストップ!」
薄暗かった店内が、パッと急に明るくなった。眩しくて目を細めていると、奥の厨房から、アルバイトの浜が慌てた様子で苺ちゃんに駆け寄ってきた。野上さんの邪魔しちゃだめじゃん、とか言いながら、暴れる苺ちゃんを俺から引き剥がす。…こいつ、さては覗き見してたな。
「はなして浜くん!こいつだけは、あたしが仕留めなくちゃいけないの!」
「野上さん、お久しぶりです!ささっ、どうぞ俺たちに構わずヨバイの続きはじめちゃってください!録画の準備はバッチリなんで!」
「……浜、うざい」
「えええっ!何でっすか!ひでえっ!俺はただ純粋に野上さんと杏さんの恋の架け橋になりたいだけなのに!」
「…んん、なに…うるさいなあ…もう…」
かすれた声が後ろから聞こえた。…やっと、起きた。ぎゃんぎゃん騒ぐ浜を放置して、まだ眠たそうにあくびをしている白雪のところまで、歩いていく。ひょいと屈んで顔を覗けば、まだ半分夢の中にいるようなとろんとした瞳をごしごしと擦っていた。白雪が持ったままだったモップが邪魔で、力の抜けきっているその手から取り上げて、壁に立て掛けておく。
「おはよう、白雪」
「……おはよう」
「すっごい爆睡してたな。疲れてんの?」
「……」
「白雪?おーい?目、覚めてるー?」
「んー」
声掛けの反応は、とても鈍い。目の前で手のひらを振ってみても、ぼんやりとしている。こいつ、案外寝起き悪いのな。面白半分で、寝坊助の頬っぺたをそんなに強くない力でびよんと引っ張ってみる。唸るような声を出して、白雪がわずかに顔を顰めた。
「白雪ー、つまんないから早く起きろ〜〜」
「……?、…野上?」
「おっ?」
ペチペチと頬っぺたを何回か叩いていると、ぼんやりとした目の中にやっと俺の姿が映し出された。そのまま、じいっと見つめられる。あれ、まだ寝呆けてんのか?
「野上?」
「うん」
「…夢?」
「いや、現実」
「…そっか。夢かと思った」
「なになに?俺の夢でも見てたの〜?やだ〜白雪のスケベ〜〜」
ここぞとばかりに、白雪の頭をもしゃもしゃと撫でる。普段なら、すぐに「こら!」とか「そんなわけないでしょ!」と言った風なことばが返ってくるのに、今日は何も言わずに俺にされるがままだ。……なんだこのレアキャラ。
珍しい白雪の行動にびっくりしていたら、白雪の口元がふんわりと緩やかになっていくのに気が付いた。あー、なんだやっぱこいつまた寝呆けてるだけじゃんか。意味もなく笑うなんて、いつもの白雪ならありえない。
「白雪?」
「びっくりした」
「?、なにが」
「今日は、なんだかずっと野上のことばっか考えてたような気がしたから、夢にまで野上が出てきたのかと思った…」
「……」
「変なの…そんなわけないのにね…」
「……」
白雪がむにゃむにゃと呟いていった言葉が、じわじわと俺の中に浸透していく。……だからまじでなんなの、この無自覚にあざとい生き物。辛抱出来なくなって、たまらずに自分の顔を両手で覆った。ふへへ、と白雪が能天気に笑う。…ふへへ、じゃねーよ。俺は笑えないよ。……不意打ちとかほんとに勘弁してください、白雪サン。
「あーーもうーー…」
なんかもう、全部吹っ飛んでしまった。イライラもモヤモヤもムラムラとした欲望とか、どうでもよくなってしまった。とっくの昔に奪われていたはずの心臓が、さっきの一撃のせいで、また奪われた気がする。つーか、鷲掴みにされた。ぎゅってなって、グワッってなって、トドメにはキュンって、なにかがど真ん中に刺さった。…くそ、俺のHP返せよ。
「……キュンて、なんだよキュンて。キモい俺…乙女か俺…」
「野上さん、蹲ってどうしたんですか!?腹でも痛いんすか!?介抱しますか!?」
「うぜえ浜、こっち来んな浜、あと声がでけえロリコン」「ひでえっ!でも、野上さんのSっ気がいつも通りで安心しました!いいですよ、もっと罵ってください!それで野上さんが元気になるならいくらでも!」
「……浜くん、気持ち悪い」
騒がしい店内に、時間を知らせる時計の音が鳴り響いた。「ハッ!!今、何時!?」と、ようやくきちんと目覚めた白雪が勢いよく立ち上がった。そして、目の前で間抜けにしゃがみこんで蹲っている俺の存在にもようやく気付いた白雪の、能天気な声が聞こえてくる。
「あれ?野上?なんで、あんたここにいるの?…なんで、座り込んでんの?どうしたの」
「腹が減って一歩も動けないだけです。しばらく放っておいてください」
「は?なんで敬語?」
「………こっの、鈍感」
「え?なに、聞こえない」
「なんでもないです白雪サン」
「いや、だからなんで敬語よ?」
照れ隠しにいつもの意地悪さえ言えやしなくて、真っ赤な耳や顔を隠すのに必死な情けないニセモノ王子の俺ですが、悔しいことに腹が立つことに、今日もきみの声が聞けたことが、こんなにも嬉しいと思ってしまうのです。単純だな、って笑ってくれよ神様。それか、どこかの鈍い誰かさんに、俺に“恋されてる”って自覚させてくれよ神様。
20時30分。そんな金曜日の夜。
だからつまり、どう足掻いたって、きみのことが好きなんだよってこと。