忘れようとした初恋の相手ですが、私の縁談書に名前があるのは間違いではありませんか?
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窓枠を縁取るようにへばりついていた雪が、午後の淡い日差しを浴びて、ゆっくりとその輪郭を曖昧に溶かしていく。
冷たい空気が澱むハルトマン子爵家の古い書庫には、年月を経た紙とインクが発する、微かに甘く埃っぽい特有の香りが満ちていた。
私は膝の上に広げた古い詩集に視線を落としたまま、静かに、そしてひそやかに長く息を吐き出す。
文字の羅列をなぞるふりをしながら、私の心は開かれたページの上ではなく、もっと遠く、取り留めのない過去の記憶の底をたゆたっていた。
私、テレーゼ・フォン・ハルトマンの脳裏に、前世という不確かな記憶が鮮明に蘇ったのは、十二歳の冬のことだ。
三日三晩、ひきつけを起こすほどの重い熱病にうなされた夜。薄暗い天蓋ベッドの中で目覚めた時、私の中にはもう一つの人生が、確かな重みを持って横たわっていた。
二十八歳で短い生涯を終えた、平凡な書店員としての記憶。
インクと真新しい紙の匂いに包まれた、静かで薄暗い店舗の片隅。
そこで私は、物語を愛し、平穏を愛し、そして何よりも自分の人生に波風が立つことを極端に恐れていた。
誰かの激しい感情に巻き込まれるくらいなら、ただの傍観者でいたい。傷つかない安全な場所から、誰かが紡いだ美しい結末だけをそっと眺めていたい。
そんなふうにして、恋愛や冒険をすべて後回しにし続けた、臆病で目立たない女性の人生だった。
鏡に映るハルトマン子爵令嬢としての今の私も、前世と同じようにどこにでもいるような、華やぎとは無縁の容姿をしている。
ゆるく波打つ亜麻色の髪に、くすんだ灰青色の瞳。
他人の些細な感情の揺れや、その場の空気の変化には、嫌になるくらいすぐに気づく。
だというのに、自分自身の本心と向き合うことからは、いつも器用に逃げてばかりいるのだ。
「あの頃も私は、好きだという言葉を飲み込んでいたわね」
誰にも聞こえないほどの小さな独白が、埃の舞う冷たい空気に溶けて消えた。
この世界に生まれ変わってからも、私は誰かを特別に想うことを意図的に避けて生きてきた。
期待して裏切られ、惨めな思いをして打ちのめされるくらいなら、最初から何も望まない方がいい。
私のような地味で目立たない小国の娘が、絵物語にあるような激しい熱情を抱くなんて、そもそも不釣り合いで滑稽なことなのだ。
そうやって自分の心に幾重にも頑丈な鍵をかけて、地方ののどかな農業領地でひっそりと、ただ息を潜めるように日々を重ねてきた。
けれど、ただ一度だけ。
その強固な鍵が内側から弾け飛びそうになった夜がある。
思い返すのは、今から三年前。私が十七歳の冬の終わりに迎えた、王都での初めての公式舞踏会のことだ。
視界を白く焼き尽くすような、華麗なシャンデリアのまばゆい光。
磨き上げられた大理石の床を滑る、豪奢な絹のドレスの絶え間ない衣擦れ。
鼓膜を絶え間なく揺らす、優雅だが重圧感のあるオーケストラの調べ。
田舎の静かな領地で育った私にとって、王都の社交界という場所はあまりにも眩しく、そして息が詰まるような別世界だった。
幾重にも重なる香水の匂いに目眩を覚えながら、私は広間の壁際で、少しでも柱の影に同化するように身を潜めていた。
ただ早く、この途方もなく居心地の悪い時間が終わってくれればいい。
そう願って、きつく締め上げられたコルセットの下で浅い呼吸を繰り返していた、その時だった。
ふと顔を上げた私の視線の先に、彼がいた。
夜の闇をそのまま切り取って紡いだような、艶やかな漆黒の髪。
そして、真っ直ぐに前を見据える、深い琥珀色の瞳。
周囲でどれほど華やかな喧騒が渦巻いていようとも、そこだけが切り離されているかのように静謐だった。
完璧で、冷ややかで、誰にも気安く触れさせないような近寄りがたい空気を纏う青年。
ルートヴィヒ・フォン・シュタインベルク公爵令息。
遠く離れた広間の反対側。私語すら届かない、決して交わるはずのない距離だった。
それなのに、不意に、彼のその琥珀色の瞳がこちらを向いた気がしたのだ。
視線が重なったのは、ほんのまばたきほどの、一瞬のこと。
きっと私の思い上がりか、シャンデリアの光がもたらした残酷な悪戯だったのだろう。
けれど、その瞬間、私の胸のずっと奥のほうで、今まで感じたことのないほど高く、鋭い音が鳴った。
心臓が大きく跳ね上がり、呼吸の仕方を忘れたように胸が激しく締め付けられる。
周りの音楽も、人々のざわめきも、すべてが遠のいていく。
ただ、彼のその深い瞳だけが、私の網膜に焼き付いて離れない。
これが恋というものなのだと、前世の記憶を含めた私のすべてが、理屈を飛び越えて理解してしまった。
だが、私に許された魔法のような時間は、ただそれだけだった。
彼は帝国でも有数の権力と歴史を持つ、大公爵家の跡取りだ。
対する私は、一介の、それも辺境の地方子爵令嬢に過ぎない。
天と地ほどの身分差があり、住む世界が根本から違うのだ。
おとぎ話のような奇跡など、現実の私に起こるはずがない。
その夜、身も心も疲れ果てて壁際から控室へと戻った私の耳に、側付きの女官たちのひそひそとした囁き声が飛び込んできた。
「シュタインベルク公爵令息に、どうやら婚約者候補が現れたようですよ」
「まあ。あのように美しく優秀な方なら、お相手はさぞかし高位の、美しい令嬢なのでしょうね」
その無邪気な言葉を聞いた瞬間、私は自分の血が、指先からすっと音を立てて冷えていくのを感じた。
熱を持ったばかりの心臓に、鋭い氷の刃を突き立てられたような感覚。
「やはり、そうよね」
私は誰にも気づかれないように静かに微笑んで、見えないようにドレスのふんわりとした裾を、指が白くなるほど強く握りしめた。
帰路の馬車の中、冷たい石畳を叩く車輪の規則的な音を聞きながら、私は芽生えかけたばかりの熱い感情を、両手で無理やり冷たい水底へと沈め続けた。
揺れる窓硝子には、すっかり諦めきったような自分の顔が、薄っすらと亡霊のように反射していたのを覚えている。
こうして私は、生まれて初めての恋をたった数時間で燃やし尽くし、形のない灰にして深く封印した。
あの恐ろしいほど美しい琥珀色の瞳も、彼の名前も。
私の人生には決して関わることのないものとして、永遠に忘れようと心に決めたのだった。
◇ ◇ ◇
あの夜から三年が経った、冬の終わりのこと。
凍てつくような冷たい風が、まだ領地に吹き荒れていた日。
父から書斎に呼ばれた私は、重厚なマホガニーの執務机越しに、一通の分厚い封筒を差し出された。
二十歳を迎えた私に縁談が持ち込まれること自体は、決して珍しい話ではない。
私はいつものように、波風を立てない従順な娘の顔を貼り付け、ひたすら機械的な動作で中に入っていた書類を開いた。
蝋封を割り、上質な紙のすべらかな手触りを指先に感じながら、そこに記された釣書の文字を淡々と目でなぞる。
相手の年齢、家柄、領地の規模。
無機質な情報が通り過ぎていく中で。
ある一行で、私の視線は完全に凍りついた。
ルートヴィヒ・フォン・シュタインベルク。
息が止まった。
全身の血の気が一気に引いていき、指先が芯から冷え切っていくのがわかる。
見間違いではない。
何度瞬きをしても、私の動揺を嘲笑うかのように、はっきりと、永遠に忘れようとしたあの名前が記されている。
あり得ない、と私の内側に棲む臆病な私が悲鳴を上げた。
公爵家の、それも次期当主である彼が、一介の地方子爵令嬢に縁談を申し込んでくるはずがない。
名前が同じだけの、遠縁の別の方に違いない。
どうかそうであってくれと、すがるように祈るような気持ちだった。
激しい動揺と、視界がぐらぐらと揺れるほどの戸惑いを父に悟られないよう、私は震えそうになる指先をドレスの襞に深く隠した。
そして、ゆっくりと静かに顔を上げる。
「……謹んで、お受けいたします」
逃げるようにそう答えた私の声は、ひきつるように掠れていた。
自分の心の奥底に微かに芽生えそうになった、甘く、恐ろしい期待。
それを、どうしようもない恐怖で乱暴に塗り潰すようにして。
◇ ◇ ◇
王都の石畳にはまだ所々に薄氷が張り付き、肌を刺すような身を切る風が、建物の隙間を縫うように吹き抜けていた。
縁談の書類を受け取ってから数日後。王都の中心部にある、王族も贔屓にしているという格式高い茶館へと私は足を運んでいた。
案内された二階の奥、周囲の喧騒から完全に切り離された個室。
その重厚な艶を放つ木の扉の前に立ち、私はすっかり血の気を失い、芯から冷え切った両手をぎゅっと胸の前で握りしめる。
同姓同名の、別人であってほしい。
もし彼本人であったなら、私がこの三年間、必死に自分に言い聞かせて築き上げてきた分厚い心の壁が、呆気なく音を立てて崩れ去ってしまうから。
祈るような気持ちで、ゆっくりと、震える息を吸い込んだ。
案内役の店員の手によって、扉が静かに開かれた。
一歩、ふかふかとした絨毯の上に足を踏み入れた瞬間。
窓際から差し込む、冬の淡い日差しの落ちる席で、ひとりの青年がゆっくりと立ち上がる。
夜をそのまま切り取って紡いだような、艶やかな漆黒の髪。
私を真っ直ぐに射抜く、深く、静謐な琥珀色の瞳。
別人であってほしいという私のささやかな祈りは、音を立てて無残に砕け散った。
三年前の舞踏会の夜、遠く離れた広間の壁際からただ見つめることしかできなかった彼が、今、手の届く距離に立っている。
「お初にお目に掛かります。ルートヴィヒ・フォン・シュタインベルクです」
低く、どこまでも落ち着いた声が鼓膜を震わせた。
その響きだけで、泣き出してしまいたくなるほどの衝撃が、鈍く胸を叩く。
私は目眩がしそうになるのを必死に堪え、完璧な令嬢としての、隙のない微笑みを震える唇に貼り付けた。
「テレーゼ・フォン・ハルトマンと申します。本日はこのようなお時間をいただき、光栄に存じます」
心の底から絞り出した挨拶は、自分でも驚くほど平坦で、感情の抜け落ちたものだった。
向かい合って席に着き、店員がうやうやしくカップにお茶を注ぐ。
立ち上る上品な紅茶の香りと、微かな陶器の触れ合う音だけが、不自然なほど静かな空間を満たしていく。
私たちは、当たり障りのない会話を交わした。
今年の冬の寒さについて。王都の最近の流行について。
彼は噂に違わず、言葉数が少なく、表情の乏しい空気を纏っていた。
やはりこれは、公爵家が何らかの政治的な理由で持ち込んできた、単なる形式的な縁談なのだ。
私という個人に興味があるわけではないのだから、決して勘違いをしてはいけない。
そう自分に強く言い聞かせると、せり上がっていた呼吸が少しだけ楽になった。
しかし、ふいに会話が途切れ、個室に再びひりつくような静寂が降りようとしたその時。
彼が、カップの縁を指先でなぞりながら、静かに口を開いた。
「ハルトマン領の庭では、そろそろ、雪割草が小さな顔を出す頃でしょうか」
ソーサーから紅茶のカップを持とうとした私の手が、空中でぴたりと止まった。
雪割草は、私の故郷である辺境の領地で、雪解けの時期に泥の中でひっそりと咲く素朴な花だ。
社交界の立派な温室で愛でられるような華やかさはなく、彼のような高位の貴族が知っているはずのない名前だった。
まるで、私の生まれ育った遠い場所を、隅々まで知っているかのように。
どうして、と無防備に問いかけそうになる唇を、私は微かな血の味がするほど強く噛み締めた。
ただの知識として、お見合いの前に領地の特産や植生を調べていただけかもしれない。
勘違いをしてはいけない。ここで勝手な期待を持てば、あとで惨めな思いをして打ちのめされるのは私自身だ。
「……ええ。雪解けの泥の中で、ひっそりと咲く花ですから。公爵家の見事なお庭にあるような花とは違いますわ」
私はあえて、自分と彼との間にある決して越えられない身分の壁を強調するように、冷ややかに微笑んでみせた。
その瞬間、彼の琥珀色の瞳が微かに揺れた。まるで、見えない痛みを堪えるように。
けれど、私はそれに気づかないふりをして、ゆっくりと紅茶の入ったカップに口をつけた。
香りの良いはずのその上質なお茶は、なぜか酷く渋く、喉の奥を刺すように感じられた。
◇ ◇ ◇
お見合いの翌日、領地からの幼馴染である男爵令嬢、エーファ・ランゲが私を訪ねてきた。
赤みがかった茶色の髪を揺らし、いつも活発な彼女にしては珍しく、その日のエーファはどこか思い詰めたような顔をしていた。
私たちが幼い頃、領地の森で迷子になった時も、彼女は決して泣き言を言わず私を励ましてくれた。
そんな強気な彼女が、今は客間のソファで向かい合いながら、出されたお茶にも口をつけず、膝の上で手をきつく組んでいる。
そして、慎重に言葉を選ぶようにして口を開いた。
「ルートヴィヒ様の婚約が破談になったのは、相手方の公爵家が断ったわけじゃないのよ」
思いがけない言葉に、私は戸惑いを隠せなかった。
三年前に彼が有力な令嬢と婚約を結んだという噂は聞いていた。
それが白紙に戻ったからこそ、こうして私のような者のもとへ縁談の順番が回ってきたのだろうと、冷ややかな頭で整理していたはずだった。
「相手方ではなく、彼自身が辞退したらしいの。なぜかは私にもわからないけれど」
エーファの真剣な眼差しに、私の胸の奥に小さな、けれど厄介な疑問が芽生える。
しかし、私はすぐにその芽を冷たい理性で乱暴に摘み取った。
それがどうしたというのだろう。彼が自ら婚約を破棄した理由など、私には関係のないことだ。
公爵家には公爵家の複雑な事情がある。私への縁談は、単なる数合わせか、あるいは政治的な隠れ蓑に過ぎないはずだ。
自分にそう言い聞かせると、せり上がっていた鼓動が少しだけ落ち着きを取り戻す。
けれど、エーファの口元が微かに震え、まだ何か重大なことを言いたそうに揺れていることには気づいていた。
私はあえてそれに触れず、無理に作った引きつった笑顔で、話題を春の流行りのドレスへと変えてしまった。
◇ ◇ ◇
それから一週間後、ハルトマン家の屋敷にルートヴィヒ様からの直筆の手紙が届いた。
手が震えないように気をつけながら上質な封筒を開けると、飾り気のない、しかし力強い筆致で短い文面が記されていた。
『もし許されるなら、もう一度お話しする機会をいただけますか』
私は自室の机に向かい、すぐに辞退の返事を書こうとして、羽ペンを手に取った。
ご縁がなかったということで終わらせるのが、一番傷つかずに済む方法だ。
これ以上踏み込めば、三年間かけて築き上げた諦めの城が、跡形もなく崩れてしまう。
しかし、真っ白な便箋を前にしたまま、私の手はどうしても動かなかった。
ペン先から落ちたインクが、紙に黒い染みを作っていく。
頭では断るべきだとわかっているのに、心がどうしてもそれを許さなかった。
一時間が過ぎ、窓の外の景色が夕暮れの朱色に染まっても、私は一文字も書くことができなかった。
翌朝、再び私を訪ねてきたエーファにその手紙を見せると、彼女は私の背中を強く押した。
「逃げちゃ駄目よ、テレーゼ」
彼女のその言葉に急かされるようにして、私は震える手で承諾の返事を書き上げた。
一歩、彼に近づいてしまった。
それが前進なのか、それとも決定的な傷に向かうための予感なのか、私にはわからない。
ただ、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
◇ ◇ ◇
二回目の会合は、首都の郊外にある小さな温室を貸し切って行われた。
ガラス張りの天井からは柔らかな春の光が降り注ぎ、周囲の庭では雪解けが始まっている。
色とりどりの花が咲き誇る温室の真ん中には、むせ返るような甘い花の香りと、湿気を帯びた土の匂いが立ち込めていた。
その空間で、私たちは再び向かい合った。
ルートヴィヒ様は、何かを探すように私を見つめ、不器用に言葉を紡ごうとしていた。
しかし私は、彼の言葉が少しでも私の心の内側に触れそうになるたび、巧みに微笑んで話題をすり替えた。
今年の雪解けの早さについて。王都の劇場の演目について。
決して、自分自身の感情には触れさせないように、分厚い言葉の壁を築き続けた。
やがて、彼がふと伏し目がちに口を開いた。
「あの夜の舞踏会が、あなたにとってどんな夜でしたか」
三年前の、あの夜。
私の鼓動が跳ね、息が詰まった。
なぜ、彼がその夜のことを聞くのかわからない。
彼にとって私は、壁際で息を潜めていた無数の令嬢の一人に過ぎなかったはずなのに。
動揺を悟られないよう、私は一瞬だけ沈黙し、ドレスの布地をきつく握りしめた。
そして、完璧な令嬢の仮面を被って答えた。
「特別な思い出というほどではございませんわ。ただ、とても華やかで、私には不釣り合いな場所だったと記憶しております」
淀みなく紡がれた私の嘘を聞いて、彼の琥珀色の瞳が微かに見開かれ、そしてふっと悲しげに伏せられた。
その時の私は、自分の心を護ることに必死で、自分の上手すぎる嘘がどれほど彼を傷つけているかに気づいていなかった。
彼が言葉を失った理由を、退屈な令嬢に対する失望なのだと勘違いしていた。
すれ違いが積み重なるひりひりとした沈黙の中、ぽつり、ぽつりと、温室のガラス屋根を叩く音が響き始めた。
見上げると、いつの間にか空は厚い雲に覆われ、春の雨が降り出していた。
冷たい雨粒がガラスを滑り落ちる様は、まるで泣くことを許されない私の涙のようだった。
◇ ◇ ◇
数日後に開かれた、春の訪れを祝う小規模な夜会の帰り道。
火照った頬を撫でる冷たい夜風の心地よさに、私は馬車を待つ石畳の回廊でふと足を止めた。
吐く息の白さにまだ冬の名残を感じていたその時。
太い大理石の柱の陰から、他の令嬢たちのひそやかな噂話が、風に乗って微かに漏れ聞こえてきた。
「シュタインベルク公爵令息、本当にハルトマン子爵家の令嬢を選ぶつもりらしいわよ」
「なぜあの方が? もっと相応しい身分の方などいくらでもいらっしゃるのに。まさか本気ではないでしょう。何かの間違いよ」
困惑と、ほんの少しの冷ややかな響きが入り交じった声。
それは、私自身がこの三年間、ずっと自分自身に投げかけてきた痛烈な疑念そのものだった。
信じたい。あの温室で見せた、彼の不器用で切実なまなざしを。
私に向かって言葉を探してくれたあの不器用な優しさを、信じたい。
けれど、信じることが恐ろしい。
前世の記憶でも、今世でも、私は何かを期待してはひどく打ちのめされることを恐れ、安全な場所から一歩も出ずに生きてきた。
また同じ間違いをして、今度こそ立ち直れないような決定的な傷を負おうとしているのではないか。
臆病な自制心が冷たく警告の鐘を鳴らし、私の足を石畳にすくませる。
その夜、逃げるように屋敷へ帰還した私は、薄暗い書庫に籠もり、いつかのように古い詩集を開いた。
ランプの灯りが揺れ、年月を経た紙の甘い匂いに包まれて活字の羅列をいくら見つめても、頭に浮かぶのは私を真っ直ぐに射抜いた琥珀色の瞳ばかりだ。
三年前に分厚い蓋をして、暗い水底に沈めたはずの切ない感情が、もうどうしようもないほどに溢れ出そうとしている。
私の初恋は、とうの昔に冷たい灰になったはずだった。
それなのに、ずっと心の奥底で燻っていた小さな熱が、今になって私を内側から激しく焼き焦がそうとしている。
その事実を、もう誤魔化すことはできなかった。
自室のベッドに潜り込んでも、微熱のような火照りが全身を巡り、浅い眠りと覚醒を何度も繰り返した。
◇ ◇ ◇
翌朝。
まだ朝日が昇りきったばかりの早い時間に屋敷を訪ねてきたエーファの顔を見て、私は思わず息を呑んだ。
いつも太陽のように朗らかな彼女が、今にも泣き崩れそうな、ひどく切羽詰まった表情で私の部屋に入ってきたからだ。
「……三年間、ずっと黙っていてごめんなさい」
震える声で唐突に紡がれた謝罪の意味がわからず、私は立ち尽くした。
エーファは真っ直ぐに私に歩み寄り、両手をきつく握りしめる。
すがるように合わせた彼女の瞳は、うっすらと涙で滲んでいた。
私を握る彼女の指先は、ひんやりと冷たかった。
「あの日、テレーゼのデビューの夜。私、見ていたの。ルートヴィヒ様が、広間の端からずっと、他の誰でもないテレーゼのことだけを目で追っていたのを」
心臓が、大きく、痛いほどに跳ねた。
「視線が合ったのは、気のせいなんかじゃなかったのよ。そしてその翌日、彼が有力な候補との婚約話を自ら白紙に戻されたの」
エーファの言葉は、私が必死に積み上げてきた常識という名の冷たい城壁を、根底から激しく揺さぶっていく。
「後になって、公爵家の家令がこぼしているのを偶然耳にしたわ。令息は、深く想う方がいるとおっしゃっている。名はまだ明かせないけれど、必ず自らの手で探し出すと……」
エーファの声が、嗚咽に震える。
「そう言って、彼はずっと、一途にあなたを探していたのよ」
ポロポロと涙をこぼすエーファの声が、どこか遠くで響いているように感じられた。
呼吸の仕方を忘れたように、胸が苦しい。
音もなく、私を守っていた強固な自己否定の壁が、足元から崩れ落ちていく。
彼と住む世界が違うのだと、勝手なすれ違いを生み出していたのは、他の誰でもない私の方だったのだ。
あの夜から三年間、彼が存在していなかったのではない。
私が、彼を見ないように、絶対に見つからないように、自分の心ごと必死に暗闇へ隠れ続けていただけだった。
庭を分厚く覆っていた雪がすっかり解け、柔らかな春の風が吹き抜けるようになった午後のこと。
私はただ一人、馬車を仕立ててシュタインベルク公爵家を訪ねた。
通されたのは、春の日差しがたっぷりと注ぎ込む、静かで豪奢な応接室だった。
私はそこで、静かに立ち尽くす彼と向かい合った。
いつもならすぐに視線を逸らし、見えない壁を作って逃げ道を探す私が、この時ばかりは真っ直ぐに前を向いていた。
何の言い訳もせずに、彼の深い琥珀色の瞳を見つめ返す。
胸の奥から数え切れないほどの感情が込み上げてきて、喉が熱く焼けるように痛む。
言いたいことが溢れているのに、震える唇からは言葉の形を持たない、か細い吐息だけが零れ落ちた。
ルートヴィヒ様もまた、微かに唇を震わせながら、私を見つめ返している。
お互いの微かな呼吸の音だけが聞こえるような、永遠にも似たひりひりとした沈黙が続いた。
三十秒。あるいはもっと長く。
それは、三年間という途方もない時間を埋めるための、切なくも必要な空白だった。
不意に、先に口を開いたのはルートヴィヒ様だった。
「私は三年前の夜、あなたを見ました。一度だけ、視線が合いました」
低く、けれど確かに切実な熱を帯びた声が響く。
私の視界が、急に不規則に滲み始めた。
溢れそうになる涙を堪えきれなくなる前に、彼は静かに、けれど胸を引き絞るような痛みを伴う響きを持って言葉を続ける。
「あなたが私を諦めた顔をした瞬間を、ずっと覚えています。だから、もう一度だけ会いたかった。今度こそ、あなたに言葉が届くように」
その言葉が耳に届いた瞬間。
三年間必死にせき止めていた涙が、ぽろぽろと頬を伝い落ちた。
私が傷つくことを極端に恐れて彼を拒絶し、勝手に恋を終わらせたあの夜。
彼は私と同じように、私との間に引かれた見えない拒絶の壁を感じていたのだ。
どう手を伸ばせばいいのか分からずに、ずっとたった一人で傷ついていたのだ。
彼の不器用な一途さに、たまらなく胸が締め付けられる。
大人気なく声を上げて泣いてしまったことを少し恥ずかしく思いながら、私は震える指先でそっと涙を拭った。
そして、今度こそ逃げずに、私の本当の心からの言葉を口にした。
「私も、あの夜のことを覚えていました。ずっと」
涙に濡れた私のひどく掠れた声を聞いて、ルートヴィヒ様は静かに笑った。
社交界の誰も見たことのないような、不器用で、少し照れたような微笑み。
凍てつく冬を終わらせる、春の陽だまりのようにあたたかい笑顔だった。
その笑顔を見た瞬間、私の胸の奥を重く満たしていた長年の恐怖と自己否定の塊が、春の光に溶ける雪のように、跡形もなく消え去っていくのを感じた。
その日のうちに縁談書への正式な承諾を交わし、私は家路についた。
帰りの馬車の窓枠に寄りかかり、柔らかな風が吹き抜ける春の並木道をぼんやりと眺める。
傷つくことから逃げるために、あらかじめ期待を捨てることで守ってきたはずの心。
けれどそれは、ただ心を凍らせて、暗い場所に閉じ込めていただけだった。
今この瞬間、諦めることをやめて、自ら手を伸ばすことを選んだことで、私の心はようやく息を吹き返し、本当の居場所に戻ってくることができたのだ。
窓から差し込むうららかな春の光に、私はそっと目を細める。
三年遅れた春が、今年は少し、眩しかった。




