第88話《現夢》
暗い森の冷気が遠のき、音が消えた。
落ちていく感覚だけが残る。
光も痛みも、ふっと途切れた。
◆
電子音が鳴った。
「……起きるか」
狭い寝室。
薄いカーテン越しに朝の光が差し込む。
布団から起き上がると、肩と腰が重い。
鏡に映るのは、見慣れた四十の男の顔だった。
涼木拓哉。
どこにでもいる、くたびれた会社員。
「おはよう」
台所から母の声。
「味噌汁できてるよ」
「うん、すぐ行く」
父は新聞を半分に折り、テレビの音量を下げた。
「今日は雨になるらしいぞ」
「またか……」
母の後ろで、制服姿の少女が顔を出す。
「おはよう、お兄ちゃん」
妹の涼木真白。十六歳の高校生。
俺と年齢が離れてるのは両親がまだ学生の頃にデキ婚した為だ。
かなり経ってから妹と弟が生まれたのだ。
ずっと一人っ子だったから嬉しかったな。
「……お前、もう起きてたのか」
「テスト期間だもん。朝から地獄よ」
苦笑していると、今度は小さな足音。
ランドセルを抱えた弟、涼木悠真が台所に転がり込む。
「ママ!パン焼けた!」
「はいはい、落とさないでね」
湯気、味噌の匂い、テレビの音。
ちなみに味噌汁にパンはうちでは普通だ。
いつも通りの朝。
なのに胸の奥がざわついた。
(……会社、行くんだっけ)
スーツに腕を通す。
ネクタイを締める指が少し震えた。
玄関で革靴を履こうとして、ふと止まる。
芝の匂い。
白い光。
赤い瞳の少女が、こちらを睨んでいた――。
(誰だ……?)
汗がにじむ。
ポケットの中を探ると、社員証の裏に付箋が貼られていた。
《報連相 朝礼後すぐ》
《願い リセット時刻:0:00》
(……願い?)
玄関のドアノブに手をかけた瞬間、耳の奥で声がした。
『現在時刻、七時二十八分。出勤推奨時刻まで、二十二分です』
冷たい、抑揚のない声。
でも、どこか懐かしい。
「……誰だ?」
『呼称はあなたが決めました。忘れないでください―――ミラ。あなたの計画と記録、そして、明るい未来を補助します』
心臓が跳ねた。
母が笑っている。
父が新聞をめくる音。
妹のペンの走る音。
弟がパンをかじる音。
全部、いつも通り。
なのに、世界の輪郭だけが揺れている。
「ミラ……俺はどこへ行くんだ?」
『あなたは、行きます。あなたを待つ皆の場所へ』
今度の声は、ほんの少しだけ柔らかかった。
玄関の外が白く光る。
(俺は……)
視界がにじむ。
父と母の背中。
妹のむくれ顔。
弟の寝癖。
全部が遠ざかる。
「行ってきます」
つぶやいた声が、やけに静かに響いた。
光がすべてを飲み込む。
◆
誰かが呼んだ。
「ナユ!」
胸の中に、名前が落ちた。
布の感触。
湿った土のにおい。
焚き火の煙。
「……ん、なのです……」
まぶたが重い。
開けると、夜明け前の薄い空。
顔をのぞき込む影が揺れる。
「目を覚まされた……よかった」
「心配かけるなっての」
遠くで咳をする音。
冷たい声が、耳の奥でささやいた。
『状態、安定。脈拍、正常域。……おかえりなさい、ナユ』
(ただいまなのです、ミラ)
胸の奥に、朝の味噌汁の匂いがよぎった。
消えていく思い出に手を振り、ゆっくり息を吸う。
「大丈夫。もう、行けるのです」
「今日の記録:森で倒れて、夢を見たのです。前の世界の家族と朝ごはん。味噌汁の匂いまで覚えているのです。目を覚ましたら、焚き火と土の匂い。ミラが“おかえり”って言ってくれました。少し不思議だったけど、今はもう大丈夫。みんな無事だから、それでいいのです。……日報完了」




