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第88話《現夢》

 暗い森の冷気が遠のき、音が消えた。


 落ちていく感覚だけが残る。


 光も痛みも、ふっと途切れた。



 電子音が鳴った。


「……起きるか」


 狭い寝室。


 薄いカーテン越しに朝の光が差し込む。


 布団から起き上がると、肩と腰が重い。


 鏡に映るのは、見慣れた四十の男の顔だった。


 涼木拓哉。


 どこにでもいる、くたびれた会社員。


「おはよう」


 台所から母の声。


「味噌汁できてるよ」


「うん、すぐ行く」


 父は新聞を半分に折り、テレビの音量を下げた。


「今日は雨になるらしいぞ」


「またか……」


 母の後ろで、制服姿の少女が顔を出す。


「おはよう、お兄ちゃん」


 妹の涼木真白。十六歳の高校生。

 俺と年齢が離れてるのは両親がまだ学生の頃にデキ婚した為だ。

 かなり経ってから妹と弟が生まれたのだ。

 ずっと一人っ子だったから嬉しかったな。


「……お前、もう起きてたのか」


「テスト期間だもん。朝から地獄よ」


 苦笑していると、今度は小さな足音。


 ランドセルを抱えた弟、涼木悠真が台所に転がり込む。


「ママ!パン焼けた!」


「はいはい、落とさないでね」


 湯気、味噌の匂い、テレビの音。


 ちなみに味噌汁にパンはうちでは普通だ。


 いつも通りの朝。


 なのに胸の奥がざわついた。


(……会社、行くんだっけ)


 スーツに腕を通す。


 ネクタイを締める指が少し震えた。


 玄関で革靴を履こうとして、ふと止まる。


 芝の匂い。


 白い光。


 赤い瞳の少女が、こちらを睨んでいた――。


(誰だ……?)


 汗がにじむ。


 ポケットの中を探ると、社員証の裏に付箋が貼られていた。


《報連相 朝礼後すぐ》


《願い リセット時刻:0:00》


(……願い?)


 玄関のドアノブに手をかけた瞬間、耳の奥で声がした。


『現在時刻、七時二十八分。出勤推奨時刻まで、二十二分です』


 冷たい、抑揚のない声。


 でも、どこか懐かしい。


「……誰だ?」


『呼称はあなたが決めました。忘れないでください―――ミラ。あなたの計画と記録、そして、明るい未来を補助します』


 心臓が跳ねた。


 母が笑っている。


 父が新聞をめくる音。


 妹のペンの走る音。


 弟がパンをかじる音。


 全部、いつも通り。


 なのに、世界の輪郭だけが揺れている。


「ミラ……俺はどこへ行くんだ?」


『あなたは、行きます。あなたを待つ皆の場所へ』


 今度の声は、ほんの少しだけ柔らかかった。


 玄関の外が白く光る。


(俺は……)


 視界がにじむ。


 父と母の背中。


 妹のむくれ顔。


 弟の寝癖。


 全部が遠ざかる。


「行ってきます」


 つぶやいた声が、やけに静かに響いた。


 光がすべてを飲み込む。



 誰かが呼んだ。


「ナユ!」


 胸の中に、名前が落ちた。


 布の感触。


 湿った土のにおい。


 焚き火の煙。


「……ん、なのです……」


 まぶたが重い。


 開けると、夜明け前の薄い空。


 顔をのぞき込む影が揺れる。


「目を覚まされた……よかった」


「心配かけるなっての」


 遠くで咳をする音。


 冷たい声が、耳の奥でささやいた。


『状態、安定。脈拍、正常域。……おかえりなさい、ナユ』


(ただいまなのです、ミラ)


 胸の奥に、朝の味噌汁の匂いがよぎった。


 消えていく思い出に手を振り、ゆっくり息を吸う。


「大丈夫。もう、行けるのです」


「今日の記録:森で倒れて、夢を見たのです。前の世界の家族と朝ごはん。味噌汁の匂いまで覚えているのです。目を覚ましたら、焚き火と土の匂い。ミラが“おかえり”って言ってくれました。少し不思議だったけど、今はもう大丈夫。みんな無事だから、それでいいのです。……日報完了」

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― 新着の感想 ―
いつも、楽しく読ませて貰ってます(^^) 読みやすく楽しいので、これからも頑張って下さい。
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