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第86話《腐霧》

 風が止まった。

 森が息を潜め、夜が沈黙する。


 月光の下、霧が蠢いていた。

 紫黒に濁ったそれは、まるで生き物のように地を這い、木々を侵し、命の匂いを喰らっていく。


「……あれが、本体……?」


 リカリーネが低く呟いた瞬間、霧の奥から声が響く。


「名を名乗ろう。腐敗霧のサバリネ――魔王陛下の命を受け、この地を蝕む者だ」


 その名を聞いた瞬間、空気が一変した。

 重く、冷たい圧。息を吸うだけで肺が焼ける。


「っ……なに、この、空気……苦しい……!」


 リカリーネが膝をつき、喉を押さえる。

 バルドランが結界を張ろうとするも、腐食が早すぎる。

 魔力の壁が溶け、腕の皮膚が黒く染まっていく。


「全員、後退を――ぐっ!」


 その声さえ、霧に飲み込まれた。

 セバスチャンのマントが翻り、ナユを庇うように前に立つ。


「お嬢様、息を止めてください。この瘴気……ただの毒ではありません」


「ミラ、分析を!」


『闇の上位属性――腐敗系統。生体組織の魔力構造を分解、吸収……致死まで残り百八十秒』


 冷静な声。

 だがナユの指が震える。

 リカリーネの頬が痩せ、バルドランの膝が地に落ちる。

 たった数分で、皆の命が奪われようとしていた。


「そんなの……嫌なのです!」


 光が弾けた。

 ナユの足元に展開された陣が六重に重なり、森を照らす。


「全員を守るのです――《プロテクト・サークル・ヘキサ》!!」


 眩い光の壁が爆ぜ、腐敗霧が一瞬後退する。

 その中で、ナユの両手がさらに輝いた。


「《レイ・ヒール》常時発動!みんな、絶対に死なせないのです!」


 光が仲間と自身を包み、黒ずんだ皮膚が再び血色を取り戻す。

 セバスチャンが息を吐き、バルドランが微かに目を開けた。


「ナユ……なんという魔力出力じゃ……」


『驚嘆。出力限界を三〇〇%超過。魔力総量、勇者級を上回ります』


 ミラの無機質な声が震える。

 その中で、サバリネが低く笑った。


「その光……魔王様の理すら侵すというのか。人間の身で、それほどの“純光”を放てるとは……興味深い」


 その言葉が、ナユの心に火をつけた。


「魔王?……そんなの、知らないのです。でも、今ここで倒すのです!」


 息を吸い込む。

 全身の魔力が奔流となり、身体の奥で音を立てた。


「《ブースト》……十二重、発動!!」


 光が爆ぜ、ナユの髪が逆立つ。

 身体強化魔法が何層にも重なり、筋肉が軋む。

 骨が鳴り、血管が光を通して輝いた。


『出力異常。身体損傷率、七〇%を超過します』


「問題ないのです!行くのです――!」


 ナユの右腕に光の刃が宿る。

 彼女が叫ぶ。


「《レイ・エッジ》!」


 霧を裂くように、鋭い閃光が走る。

 腐敗の煙が切り裂かれ、サバリネの外套が弾け飛ぶ。


「ほう……!」


 初めて、魔族の瞳に驚愕が宿った。

 次の瞬間、再び光の刃が飛ぶ。


「《レイ・エッジ》! 《レイ・エッジ》!! 《レイ・エッジ》ッ!!!」


 連続で放たれる光が、夜の森を昼のように照らした。

 霧が後退し、腐敗が焼かれ、空気が戻り始める。


 サバリネが腕を上げ、防御を取る。

 その布地が裂け、皮膚が焦げる。


「面白い……実に面白い……」


 サバリネの顔に、ねじれた笑みが浮かぶ。


「だが――それでは、届かぬぞ」


 その瞬間、霧の奥から更なる闇がうねった。

 空気が揺れ、ナユの膝がわずかに沈む。


 光と闇がせめぎ合う。


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