第85話《兆霧》
夜半。
焚き火がぱちりと音を立て、火の粉が闇に溶けていった。
森を包む霧は、昼間よりも濃く、湿り気を帯びている。
「……おかしいのです」
ナユの小さな声に、バルドランが顔を上げる。
彼女の瞳には淡い光が宿っていた。
「《魔力感知》――展開」
青白い光がナユの周囲に広がる。
その視界には、木々の間を漂う魔力の粒が映っていた。
だが、その流れが――おかしい。
「フォグウルフ達の気配が……動いてないのです」
「動かん?」
バルドランが低く唸る。
焚き火の光が彼の杖に反射した。
「まるで、何かを待っているように……」
その時、ミラの冷たい声が脳内に響く。
『周囲の魔力濃度、通常値の百二十パーセント。異常波形を検出。警戒を推奨』
「ミラ……何か、いるのですか?」
「……解析不能。霧が干渉しています」
森の奥から、低い風が吹いた。
葉が擦れ、何かが這うような音がする。
「ナユ、離れるぞ」
バルドランが前に出る。
その横で、リカリーネが杖を握りしめた。
「ナユ、方向を――!」
「右の樹の奥、三十メートルなのです!」
「了解……詠唱開始!」
リカリーネの唇が動く。
魔法陣が足元に展開し、炎の紋が描かれていく。
「紅炎よ、矢となりて闇を裂け――《フレアアロー》!」
炎の矢が放たれ、霧の向こうを照らした。
眩い閃光が夜を裂き、森の奥を照らし出す。
そこに――“いた”。
人の形をしている。
だが、輪郭が揺らぎ、霧そのものが身体を構成しているかのようだった。
赤く光る双眸だけが、こちらを見ていた。
「ひ、人型……?」
「……だが、魔力の質が違う。これは、ただの魔獣ではない」
セバスチャンが静かに呟く。
その声に、かすかな緊張が滲んだ。
霧がうねり、風が逆巻いた。
焚き火が一瞬で吹き消える。
――そして、声が響いた。
「……よくも、この地に足を踏み入れたな」
空気が震え、森全体が軋む。
見えない圧が、ナユ達の肌を刺す。
「ミラ……っ!」
『警告。敵性反応、上昇中。危険度、測定不能』
ナユは息を呑み、拳を握った。
胸の奥で、何かがざわつく。
――これは、ただの夜では終わらない。
霧の奥で、何かが確かに、笑った。




